今週の刃牙道/第157話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第157話/侠客立ち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内海警視総監からの依頼を義侠心からうけ、さらに烈の死を聞かされて個人的な感情にも突き動かされることになり、迷いなく武蔵退治に出陣することになった花山薫。今回はまるまる一話、彼を彼たらしめている背中の入れ墨である侠客立ちの物語の復習だ。これまでも何度か語られてきた物語だが、改めていまの絵で説明されています。

 

 

 

1616年2月、武蔵野でのはなしだという。当地の豪農「花山家」をひとりの旅の博徒が訪れる。長い間宿のないまま歩き回っていたのか、ずいぶん疲れている様子で、からだもひどく汚れている。花山家は長旅を労ってこの博徒を厚遇した。

その夜、十数名の盗賊が花山家を襲った。リーダー格の片目の男は以前の描写にも登場していた記憶がある。博徒がいたのはたまたまだとおもうが、いずれにせよ、花山家のお金や持ち物を狙った強盗である。丸太で扉を破り、一家5名を皆殺し。しかしひとりだけ無傷で生還したものがいる。花山家のただひとりのあととり、まだ小さな「弥吉」である。その夜偶然居合わせた博徒は、ひとりでは勝てない、この状況を突破できないと考え、子供だけでも救おうと、寺の鐘のなかに弥吉を隠して背負ったのである。ここでは「盗賊の前へ立ちふさがった」とされているが、それはちがうだろう。子供を隠しても、立ちふさがってじぶんが斬られ、死んでしまっては意味がない。結果はそうならなかったが、そうなる確信があったともおもわれない。鐘は刀や矢の攻撃から子供を守る。じぶんは多少喰らっても問題ないから、子供を守った状態で逃げ出そうと考えたのではないか。

むしろ立ちはだかったのは盗賊たちのほうだろう。博徒は重い鐘を支えているので両手がふさがっている。攻撃どころか防御行動もできない。ただ立っているだけである。それを、盗賊たちは幾太刀も切りまくる。やがて博徒は立ったまま死亡。「絶命して尚、我身を楯に立ち尽くす」。とるものはとったのだろうし、盗賊としてもこの侠客っぷりは賞賛せずにいられず、そのままに現場をあとにしたという。

ここからはいままで描かれたことのないところだ。成人した弥吉は、記憶にはないのだろう、伝え聞いているその身の上から、博徒稼業に身を転じ、物語のなかの住人であるその「旅の博徒」の威容を背中に彫ることになった。以来その彫り物のデザインは花山家の家長の背中に受け継がれていくことになり、やがて「侠客立ち」というタイトルまで冠せられることになる。

 

 

この作品に「待った」をかけたのが十六代目家長の花山薫だった。切り刻まれていない侠客立ちなど、侠客立ちではないと。そして、父親のカタキでもある富沢会に、花山はその足で殴りこむ。そして素手で、たった10分で彼らを壊滅させてしまった。とはいえ相手は武装集団であり、花山も重傷を負う。それこそが、わざわざこのタイミングで敵討ちを果たした花山の目的だった。四方八方から刀で襲いかかるヤクザたちの攻撃で、からだのすべてのぶぶんに傷を負ったわけだが、むろん背中の侠客たちもずたずたに切れている。このとき花山は14歳と2ヶ月。真なる「侠客立ち」が完成したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非常に印象的な物語で、バキの通読者であれば誰もがくっきり記憶しているであろうエピソードだが、バキも長寿漫画なので、意外とグラップラー時代は読んでないというひとも多いのかもしれない。僕も最初に読んだのは第2部の死刑囚篇だった。いまの絵で見れるというのもうれしいはなしだし、これから展開されるであろうたたかいの意味を深めるためにも、必要な挿話なのだろう。

 

 

はなしが進んでいないのでなにか考えをすすめようにも材料がないが、侠客立ちが花山の花山らしさみたいなものを担保しているとして、この物語の本質はどのへんにあるだろう。この「旅の博徒」を通して、ふつうに読んで「かっこええ~」となるのは、やはり死んでも立っている、そして弥吉を守り続けているというところだろう。弱きものである弥吉を救い、この場では圧倒的強者だった盗賊に対抗する、という意味ではたんに、いわゆる意味での義侠心みたいなものが感じられるわけだが、それを上回るものとして、死んでも倒れないということがあって、それこそが花山のファイトスタイルに直結している。いま便宜的に「スタイル」と書いたが、この呼び方は、微妙に本質を言い当てていない感じがある。というのは、死を超越して守り続ける姿には、意識を越えたものが感じられるのであって、そこのところに、盗賊も読者も感服しているにちがいないからである。弱者を守るのも、強者をくじくのも、信念とかポリシーみたいなものに駆動されて、意識的に行うものだろう。そうしようとして、ひとはそうするのだ。しかしそういう捉え方をすると、そうではないありかたもそのときその場所に潜在しており、彼は選択をすることによって、弱者を守ったのだ、という読めなくもないということになる。なんであっても、それがなんらかの意図のもとに行為されているのであれば、そういう見方は否定できないだろう。しかし、死んでも、花山の場合は気絶しても、立ち続け、守り続ける、あるいはたたかい続けるという姿には、そういう意識はもはや感じられない。まるで行為そのものが自律し、人物として動いているかのように、絶対的に迫ってくる。これがおそらく、それを見たものが、敵でさえも感服してしまう理由である。ここには、合理性も、打算も、美学や思想さえもはやない。「旅の博徒」や「花山薫」のような、それを具現化する媒体としての人物さえ、ここでは漂白され、ただ行為だけが実物のもののようにそこに立つ。旅の博徒は死んで個人であることをやめると同時に、弥吉を守る動作そのものになって立ち尽くしたのだ。

じっさい、花山のファイトスタイルは合理的とはいいがたい。ほとんど滅私といってもいい。しかしそれだけに、行為の質量は誰より大きい。生物の自己保存的な本能に基づいたものとしての武術や格闘技、あるいは闘争本能、こういう文脈にいながら、花山じしんは、まったくじぶんを守ろうとはしない。しかし、そのことによって、旅の博徒でいえば弱者を守ろうとする姿勢、花山でいえば攻撃を受けきってただ拳をふりまわすスタイル、こういうものが、非常に高い純度で顕現することになる。花山が相手の攻撃を受けきるのは、柴千春によれば、負い目のなさが勝ち目を呼ぶからだ。しかし、こう考えるとそこにもうひとつ、わたしというものを相手の攻撃によって破壊しているという可能性も出てくる。自己保存の本能からは考えられないガードなしの姿勢を貫くことにより、「私」は縮小し、弱者の守護や拳での攻撃にかんして、その行為の純度は非常に高まることになる。もはやそこには目的さえない。ただ営みだけが、誰のものでもないものとしてあらわれることになる。花山の計算できない強さというのは、ひょっとするとそんなところにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

↓刃牙道 17巻 6月8日発売予定。