『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』沼野充義 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』沼野充義 講談社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チェーホフとは何者だったのか?19世紀末ロシアで人間の本質を見つめ続けた冷徹なリアリストは、なぜ時空を超えた現代的な作家として愛されるのか?子供、ユダヤ人、オカルト、革命、女たち…。ロシア文学の第一人者が、世紀末を彩るモチーフをまじえ、最新研究をふまえて描く!」Amazon内容説明より

 

 

 

 

 

 

 

 

このあいだのトルストイのはなしにもかかわってくるが、チェーホフは僕が唯一追っている(ある程度読み進めている)ロシアの作家だ。その理由としては、作品の手軽さがある。ドストエフスキーやトルストイの代表作となるとどれも大著も大著、片手間に読むようなしろものではなく(チェーホフが片手間に読めるということではないが)、手に取るにあたってはそれなりの覚悟が必要だが、チェーホフには長編らしい長編はほぼないし、文庫1冊分の作品があるかとおもえば戯曲だったりするので、すぐ読めちゃうのだ。

しかしこの手軽さはじつはチェーホフの作品の質にもつながっているものかもしれず、チェーホフじしん、実は大衆向けのユーモア小説、ロシア語で「ユモレスカ」を書きまくることで生計を立てていた。チェーホフの圧倒的な才能に気づいていたもののなかには、そんなことで才能をむだにするんじゃないと忠告をするものもあったようだが、とにかく、たとえば「チェホンテ」というようなペンネームで、チェーホフはユモレスカを年間120本くらいのペースで書きまくっていたという。出発点がそういうところなので、作風にもやはり関係はあるのではないか。本書でも検証されているが、病気(結核)の進行が明らかでありながらも、それに気がつかないふりでもするかのようにして仕事に没頭し、自己韜晦というか、作品と作家を断絶させ、無関係のものとし、作品からはほとんど作家の素顔が見えてこないというような状況を作り出していたのも、この「ペンネーム」と「ユモレスカ」という作風である、というのは浦雅春の受け売りである。

 

 

本書は沼野充義によるチェーホフの研究書で、いわゆる評論とか批評とかいった、作品の読解をする本ではない。沼野充義といえば、文芸誌に目を通すようなひとなら誰でも名前を知っているような批評家で、ロシア周辺の文学や、あと村上春樹にもくわしい印象があるが、じっさいなんのひとなのかというとよくわからない。本書のプロフィールによると専門はロシア・ポーランド文学ということだが、まあそんなことは読者としてはどうでもよいことかもしれない。批評家独自の見解に深入りしないという点では、批評として物足りないものもあるが(ときどき著者の創見とおもわれる解釈が挿入されるが、深く追及はされない)、そのぶん平易で、そもそも、本書が描こうとしたものはむしろロシアであり、チェーホフやその作品をめぐる歴史や背景などを洗っていく過程で、こういうものを見ていこうとする主旨なのだ。フランスやイギリスのこともよく知っているとは言い難いが、よく考えてみると僕はロシアについてなにも知らない。その意味で非常に勉強になったし、よりいっそう、わけのわからないひとだという認識が強化されたという点でチェーホフの魅力を再確認することにもなった。

 

 

チェーホフ関連の本で僕が大切に考えているのは、最初に読んだ講談社文芸文庫の「たいくつな話」、浦雅春の「チェーホフ」、短編集「馬のような名字」といったあたりなのだが、おそろしいことに、大量の本に埋もれてこのどれも発見することができない。たぶん、何年か前に評論を書いて投稿したときにチェーホフのことも織り込んだので、そのときにまとめて読み返して、まとめてどこかに隠れているものとおもわれる。そんなわけで、誰がどんなことをいっていたかとか、これはだれの見解か、といったようなことがあいまいなまま記憶のなかで混ざり合っている状況なので、細かいところを思い返して記すことはできない。なので、知ったかぶりはせず、本書を読んで考えたことをそのまま書いてみよう。

 

 

チェーホフの女性関係やほとんど語られてこなかった政治への関心など、非常に興味深い項目が満載で、チェーホフが好きなひとはすらすら読んでしまうとおもうし、「届かない手紙」など、チェーホフにかんする定番の批評も網羅的に学ぶことができる。そのなかでいちばんおもしろかったのは、本書でいうところの有名な「喜劇問題」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

「チェーホフ晩年のいわゆる四大戯曲、『かもめ』『ワーニャおじさん』『三人姉妹』『桜の園』は――誰もが劇作家としての彼の頂点と認める作品群だが――どれも挫折、自殺、絶望、殺人(未遂)、失意、没落といったモチーフに満ち、普通に考えたらその内容は楽しいというよりは、むしろ悲しいものであることは明らかなのだが、チェーホフはこれらの作品を「喜劇」と考えていた」255頁

 

 

 

 

 

 

 

 

チェーホフにかんして僕は基本的に小説ばかり読んできて、戯曲は拾い読みの段階だが、とにかくそういういかにも魅力的な謎がある。作家がそれを悲劇ととらえようと喜劇ととらえようと作品の性質が変化するわけではない、という意味ではどうでもよいことかもしれないが、たとえばこれをじっさいお芝居にしようとしたとき、当代随一の演出家とかが仕掛けても、けっきょく悲劇になる。それについてチェーホフはじっさい不満をあらわにしていたというのである。これはよほど難問のようで、さまざまな演劇関係者や批評家があたまをひねってきたが、定説というのは特にないようだ。この点にかんして、僕は「馬のような名字」の書評である程度こたえを出したのだが、これは、本書で書かれているヴェラ・ゴットリープというひとの見解とほぼ同じである。実は「届かない手紙」というモチーフもこの件とは無関係ではなく、これは、ひとことでいえば「おもいは伝わらない」というある種の諦念なのだ。「ひととひととはわかりあえない」という、闇金ウシジマくんなどでもおなじみの、現代文学や漫画ではおなじみの視点なのである。たとえば、その「馬のような名字」に入っていた(らしい)「創立記念日」という短編には、会話の成り立たないメルチュートキナというおばあさんが登場する。おばあさんはおばあさんで、主観的には地獄を抱えているが、傍目にはわけのわからないことをまくしたてるおかしな老婆でしかない。わたしたちがもし、このおばあさんの境遇に同情して、その申し立てを理解しようと努めたなら、それは悲劇となる。しかしそれは、演劇的作法を経由した、ある意味恵まれた理解であり、おそらくチェーホフのリアリティはそこにはない。この作家が戯曲に大きくちからを注いだこととも無関係ではないとおもうが、セリフはただ物体として乱立し、ぶつかりあい、それじたいとして鳴り響くのである。そうしたとき、個々に地獄を抱えるものたちのかみあわないやりとりはスラップスティックな喜劇となる。チェーホフの理解はおそらくこういうことだったのである。戯曲は、その時点では、即物的なセリフの羅列でしかない。しかしそれが現実のお芝居になると、演出家や役者などの感情移入が働き、捨象されていた事物固有の性質はある意味では歪んで立ち上がることになり、物語が自律しはじめる。戯曲は芝居の前段階ではなく、ひょっとするとチェーホフにおいては、そのじてんですでに完成されたものだったのかもしれない。

 

 

その他、これも有名な「サハリン問題」についてもさまざまな文献を引用して描出されているが、今後もチェーホフの本を読んでいく予定があるので、今回はここまでにしておこう。作品だけでなく、手紙や、関係者の些細な短文にまで言及して、網羅的にはなしを広げていく労力とテクニックはまさしく専門家にしかかけないものであって、すばらしいのはそれでいて情報の羅列のようなものにはなっていないことだ。沼野充義の文章は、文芸誌や、なにかの解説とかでよく見かけるけど、いつもおもしろいイメージがあるし、一流の文筆家という感じがする。できたら次はこのひとの解釈に満ちた本格的な批評を読んでみたい。