今週の闇金ウシジマくん/第433話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第433話/ウシジマくん⑲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10週連続売り上げトップのお祝いの席からちょっと離れたところで、偶然竹本優希と遭遇した丑嶋。竹本は自社ブランドの宣伝のために出版社を接待しているところだった。なにかしゃべりたいことがあるのか、竹本が誘い、ふたりは海に向かうのだった。

 

 

竹本の会社にはなにか問題があるらしい。売り上げはいい。たんに扱っているものの質がいいとか、竹本がデザインしてるのかどうかわからないが、それの価値が高いとか、そういうこととは別に、雑誌とのタイアップなどの宣伝がうまくいって、世の常として、有名なものがそのためにまた有名になり、売れているものがそれを理由にまた売れる原則にしたがって、とんとん拍子で成長していったのだ。

問題なのは専務のよっちゃんである。むちゃくちゃする男のようで、イベントで現金をばらまいたり、女の子と豪遊したり、会社の金をばんばん使っていく感じらしい。よっちゃんは地元の先輩だという。ということは丑嶋たちの先輩でもあるはずだ。しかし丑嶋は知らないようなので、高校の先輩かもしれない。丑嶋は、いかにも彼らしく、先輩でも社長の竹本がガツンといったほうがいいとアドバイスする。しかしそれがしにくい事情がある。先輩であるという以上に、よっちゃんはアイデアマンで人脈も広く、会社に欠かせない人間のようなのだ。ブランドが売れた理由のひとつに、ショップ店員にキャバクラ嬢をつかったことがあるという。会話上手で華のある彼女たちに女子高生たちは憧れ、そこから取材も多く受けるようになり、売り上げも上がっていったと。そのアイデアがよっちゃんのものなのだ。人脈の広さも、よっちゃんがそうやって遊び歩いた成果だ。しかしそれだけ派手に遊びまわってると、スキャンダル目当ての記者や、あるいは恐喝のタネを探す悪い連中なんかにも目をつけられるようになる。竹本は敏感にそのことを感じ取り、買い取った会員制のバーでしばらくは遊ばせていたようだ。しかしそれでもトラブルは回避できなかった。悪い連中が身内のセクシー女優を、どうやってか不明だが店に仕込み、よっちゃんをはめたのである。で、しっかりおくすりも写っている見事な写メが一枚撮られてしまう。このキメセク画像を1億で買い取れと、輩から脅されているのだ。ネガさえ回収してしまえばとりあえずは安心、というようなものではないし、1億払ったら次も当然あるだろう。かといって警察に相談したらクスリの件でよっちゃんが逮捕される。よっちゃんは、毒をもって毒を制すということで、地元のヤクザに相談しようとも考えているが、愛沢がそうなっていったように、そんなことをしてもただ恐喝の主が変わるだけだ。丑嶋もそういうし、竹本もそう考えている。つまり、だからどうしたらいいかわからない、というところのようだ。よっちゃんを脅しているのは田中と名乗っているが、明らかに偽名である。よっちゃんは竹本と地元が同じわけだから、よっちゃんが相談しようとしているヤクザも丑嶋たちと同じ地元だ。丑嶋は、戌亥がいま探偵事務所に入っているから調べてもらおうかという。竹本と戌亥が話している描写はこれまでなかったとおもうが、いちおう、竹本も名前は知っているらしい。戌亥は加納や柄崎、竹本よりも前から付き合いのある丑嶋の親友だ。でも、あとで検証するが、たぶん会ったことはないだろう。描かれていない短い会話で、戌亥という親友の存在を話したことがあるとか、そんなことかもしれない。

また、明らかなことではあったが、戌亥が探偵事務所の人間だということも今回初めて言及された。初めて・・・だよな?アウトロー専門の情報屋として活動しているとしても、そういう看板を出すわけにもいかないのだし、そうなると表向きどういう仕事になっているか考えたとき、探偵しかないのだ。

丑嶋は取り立てがあるので竹本と別れる。キャバクラのお祝いを抜けだしてふたりで(車で?)海にいって朝をむかえているとおもうので、丑嶋はたぶん寝てないとおもうのだが、ふつうに今日の仕事を開始するらしい。向かうのは10年後の現在も関係のある菊地千代の家だ。電話に出ないので丑嶋はかってに家に入る。なかには菊地千代の子供、辰也と文香がいる。辰也の顔はなんだかウシジマくんの絵じゃないみたいだ。あの辰也がそのまんま小さくなったようなおかしみを含みつつも、肝心なところの欠落したようなのっぺりとした表情だ。床には死んだ鳩が転がっていて、辰也は血のついた包丁を握っている。顔にも血がついている。

丑嶋になにしてるのかと訊かれて、姉の文香が応える。洗濯機の脇に鳩が巣をつくってうんこばっかりするので、汚い汚いと、母親やおじさんがイライラするからと。いつだったかに丑嶋たちが取り立てをしていたのは父親ではなかったらしい。しかし、たしかあの男も菊地姓で呼ばれていたはずである。なにか複雑なものがあるようだ。

文香の決然とした言い方を見ると、どうもこのことは彼女たちじしんの意志で行われたことのようである。幼すぎる辰也は表情も空洞で、ほとんどなにも読み取れないが、そうする必要があると、文香は判断したのだ。彼女たちに実害があるのか、あるいは母親に男から害が及ぶのか、そのあたりは不明だが、わざわざ母親がいないときにこれが決行されるというのはなかなか謎である。

 

 

母親たちはどこにいったのかと丑嶋は訊ねるが、ふたりは知らない。なので丑嶋は駅前のパチンコ屋でものぞいてみることにする。ここで、よくみると、文香がなにかを「ガリ ガリ」としている。何回読んでもこれがなんの音かわからない。口元に手をやっているので、指を強く噛む癖でもあるのかともおもったが、それにしては微妙に手が前のほうにある。ひょっとすると丑嶋がなにか駄菓子でも与えたのかもしれない。

 

 

丑嶋は戌亥と合流、さっそく竹本の件の結果が届いている。丑嶋が読んだとおりということなので、そのように戌亥には伝えてあったらしい、よっちゃんを脅迫しているのは獅子谷兄弟で、そのよっちゃんが相談しようとしている地元のヤクザは熊倉なのだった。たしかに、よっちゃんがはめられた手口は獅子谷兄が語っていたものそのままなのだ。丑嶋は引き続き獅子谷を調べてくれないかという。丑嶋によれば、獅子谷兄の言動がおかしいようだ。シシックに内偵が入って一斉摘発されるといううわさがあり、そのせいでいっそう凶暴化していると。内偵の件も含めて、そのあたりどうなのか調べ、自衛の意味もこめてなにか弱みでも探すつもりなのかもしれない。

その凶暴化獅子谷の被害をうけた海老名である。右耳を失ったぶぶんが痛々しい。ばい菌が入ってしばらく膿んでしまい、いまもうずくそうだ。アッパーをくらって舌をかんだ鯖野はらりるれろの「ろ」がいえなくなってしまった。本人はいえていると主張しているが、どうしても「お」になってしまう。

海老名は銀行への使いに柄崎を出すが、なんとなく感じが悪い。鯖野もそれに気づく。海老名がいうには、丑嶋がきてからずっとそんな調子のようだ。いまも似たようなものだが、キャバクラで自慢話しまくりなので、強盗にねらってくださいといってるようなものだという。

そのはなしと関係があるのか、鯖野と海老名は「今月末にやる」という。

 

 

 

 

 

 

 

 

「各店舗の売り上げが本部に集まる。

そいつを根こそぎ強盗する。

 

丑嶋を犯人に仕立てあげて獅子谷兄弟に殺させる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふむふむ、なるほど。そういう作戦でくるわけね。獅子谷社長の暴力には我慢ならない。丑嶋も新入りのクセにむかつく。獅子谷社長を暴力や金で上回ることはできないが、金を奪うことはできるかもしれない。丑嶋をその犯人にしてしまえば、じぶんたちの身の安全が図れるうえに丑嶋を殺すこともできると。耳を切られたりしたことは決定的ではあったのだろうけど、まあいままでずっとたまってきたものがここにきて爆発しかけているという感じなんだろうな。もともと海老名たちだってそこそこの悪党なんだろうし、そのことにためらいもないのだろう。

 

 

 

竹本を脅しているのは獅子谷だった。アパレル業界ということで、ハブサンの影を感じずにはいられなかったが、こういう事情ならしかたないだろう。ま、まだ再登場がないと決まったわけではないし、ここまで大物になったブランドをスルーというのも、あの界隈をじぶんの街であると宣言したハブサンらしくない感じもする。案外今回の件にはまったくかかわらず、獅子谷退場のあとちょっと顔を出す感じになるかもしれない。

前回の獅子谷と竹本がそれぞれ語った儲けのシステムには、なにかたんじゅんな動物性のようなものが感じられた。システムはひとの欲望によって動いているが、それがきわめて原始的な反射のようなものに突き動かされているので、細部をとると非常にばからしく、無意味に見えるのである。よっちゃんは金使いがあらく、おそらく勘定ができないタイプの人間っぽいが、アイデアマンで、人間的魅力、カリスマ性には優れているのではないかと想像できる。そのよっちゃんのアイデアのひとつが、店員にキャバ嬢を配したことである。会話上手と美人であることは彼女たちには仕事なので、その点で女子高生たちのこころをつかんだのだ。しかしこれはこれで奇妙なはなしにもおもえる。ショップ店員にも会話上手と美貌は要求されたはずである。要求されるから、それに圧倒的に優れたキャバ嬢配置が成功したわけである。しかし、だとするなら、ものの道理として、もともとのショップ店員もその上達に努めたはずである。げんに、キャバ嬢でなくてもショップ店員というのはみんな明るく華があってかわいい子ばかりのはずだ。だからこの件が成功したのは、というかよっちゃんの慧眼は、それが実物のキャバクラ嬢である、ということに尽きるのである。キャバクラ嬢ばりの華とコミュ力をもった店員、ではダメなのである。夜の雰囲気、そしてそこにプロ意識をもって取り組む雰囲気、こういうものが、ブランドに価値をもたらしたのである。

竹本の言い方は微妙だが、おそらくこのスタッフはみんな、じしんがキャバクラ嬢であることを隠していない、ばかりかすすんで表明しているのではないかと考えられる。竹本は彼女たちを「人気嬢」と呼ぶ。つまり、キャバクラの世界で成功した女の子たちなのだ。ポイントはおそらくここで、夜の仕事であることそれじたいが女子高生にもたらすなにかスリリングなものに加えて、彼女たちはその世界で成功している。その世界とは、金と肉欲がうずまき、それをぎりぎりのところで賢く制御する世界だ。彼女たちがショップであらわにするファッションやメイクは、直接、そのまま、そうした動物的なものを制御した技術であり、ブランドである。ただ店員が美しく華がある、という場合には、もしそれにあこがれて、そういう女性になりたいと考えてあたまのなかでモデルにしようと考えたとしても、それをさせるのはそのひとの価値観であり美意識である。しかしキャバクラ嬢の場合はそうではない。もちろんそれを感じ取るのは個人の美意識にほかならないが、その美を裏付けるのは彼女たちが人気嬢であるという事実と、それがもたらす迫力なのだ。ショップ店員が広告であるという点にかんして振り切ったのがよっちゃんのアイデアなのである。こういう意味では、キャバクラ嬢が表象するのは動物的なものの制御なので、一種の賢さとか女性のしたたかさを、消費者は感じ取っている可能性がある。動物的反射につけこんだシステムに惑わされない、個々人の強度を引き出そうとする意志が感じられるのだ。けれども、よっちゃんのアイデアはそれさえも動物的反射としてシステムに組み込んでしまうものである。広告には啓蒙的側面もある。広告に描き出されることがわたしたちの美意識や価値観を画定し、そこに向かわせるよう仕向けるのだ。スマホのある生活がいかに素晴らしいかを徹底的に、刷り込むように発信しつづける手の込んだCM群を見ているとつくづく、現代人の価値観というのは消費社会のメディアが「創出」しているのだなあと感じてしまうが、ここで起きていることも同じだ。キャバクラ嬢がもたらす夜の女の魅力も、動物的なものを制御する立ち姿そのまま、広告となって、動物的にわたしたちの価値観に含まれていくのである。

 

 

前回獅子谷が語っていたそのままの手口でよっちゃんははめられたわけだが、しかしこの写真はどういうことだろう。おくすりでラリってるのか、札束ばらまいてるときと同じうっとりとした表情のよっちゃんがじぶんで足をV字に保ち、肛門的なところにセクシー女優が顔をうずめている感じだが、しかし誰がこの写真を撮ったのか。こんな角度で盗撮をするには監視カメラ的な位置にならないといけないが、そんなところに設置するだろうか。たまたまよっちゃんがドアホで、前後不覚になるくらい酔ってくれたりしてくれたらいいが、もしそうならなかったときすぐにバレてしまうようなところにカメラはつけないだろう。となると、もうわけがわからなくなってしまってるところにふつうに獅子谷が乗り込んで、ポーズやなんかも指示してやらせた感じなのだろうか。

 

 

探偵事務所所属ということが明言された戌亥だが、竹本は戌亥を知っているようである。丑嶋は柄崎、加納、竹本のいる中学に中二のとき転入してきた。戌亥はどうもその前からの知り合いらしい。で、丑嶋はおそらく転入したその日に柄崎たちにボコられている。その後、ウサギ小屋で竹本とあったとき、顔の傷を見て丑嶋は竹本がリンチに参加しなかったために柄崎たちに殴られたらしいことを知る。だから、丑嶋はリンチ以来初めて竹本に会ったことになる。そのまま別れた足で丑嶋は柄崎に相談されて、鰐戸兄弟をぶちのめしにいく。そのときまた竹本と会って、うーたんを預けることになる。こう見ると、丑嶋が竹本と長く会話できた可能性があるのは2度しかない。まずは、柄崎が因縁をつけて丑嶋をボコったのが転入初日ではないという可能性である。これはありうる。というのは、ウサギ小屋にいる竹本を丑嶋はいきなり名前で呼びかけているので、数度は話したことがあるのではないかと見られるのだ。次はうーたんを預けたときで、これは2度にわけて描かれているので、それなりに長く会話していたようなのだ。しかしそれでも、やはり竹本に戌亥を紹介するチャンスはなさそうだ。転入してからしばらくは柄崎も手を出さず、丑嶋と竹本がそれなりに仲良くなるということはありそうだが、幼馴染を紹介するというのは相当である。たぶん、このどちらかのタイミングで、丑嶋はじぶんの親友について話したのではないだろうか。

 

 

 

今回描写が深まったのはもうひとつ、菊地家である。いつものようにそのときのスピリッツが手元にないのであやしい記憶に頼るしかないが、菊地家にいた男は菊地という名前だったはずである。とすると、ふつうに考えて菊地千代と男は夫婦のはずだ。愛沢みたいな例もあるので一概にはいえないが、少なくとも、たんなる居候の彼氏とかではないはずである。しかし辰也たちは男をおじさんと呼ぶ。となると、常識的に考えて、この男は千代の夫ではあるが、彼らの父親ではないのであり、つまり再婚であろうとおもわれるのである。だが、現在の菊地千代は別の男といる。暮らしているのかなんなのかはよくわからないが、少なくともいまの男はいないようである。もし「菊地」が、10年前のこの回想時の彼の姓だとしたら、それを彼がいなくなったあとも名乗り続けているのは奇妙だ。そうなりうる状況はいくらでも想定できる。まずは、僕の記憶ちがいで、10年前の菊地と、現在の男が同一人物という可能性である。だが、すでに発売されている39巻には現在の男が登場しているが、そのセリフはいかにもゲストのものである。仮にも10年いっしょに暮らしてきたような男のセリフではない。ふたりが別人だとすると、たとえば、まだ離婚が成立していない状況で新しい男と暮らしている、というふうなこともおもいつく。あるいは、愛沢と一緒で、姓を変えなければならないなんらかの事情があって、嫁の姓にしているのかもしれない。愛沢によれば、そうすることでまた消費者金融の審査が通るというのである。これは、今後の描写を見なければわからないが、いずれにしても辰也たちにとって非常にうれしい同居人という感じではなさそうだ。そういう家庭環境をもともと知っているのか、それとも文香のいいかたを踏まえただけなのか、丑嶋のしゃべりかたはどちらかというと子供たち目線だ。

 

 

文香によれば、鳩の糞が臭いということで、母親と同居人の男はイライラしているという。不思議なのは、なぜそのイライラしている当人たちが行動に出なかったのかということだ。千代はともかく、ウシジマ界の住人っぽい男なら、そういうことをあっさりしそうな気もする。しかししていない。そして、たぶん、文香の決然としたいいかたを見る限り、「片付けておけ」という感じでそれを子供たちに指示したという感じもしない。あくまで文香の意志で鳩は殺されたように見えるのだ。通常の感性では、鳩くらいの大きさになるとよほど切迫していても殺せるものではない。かわいそうだし、それ以前に生き物の命を奪う行為じたいに耐えられない。しかし文香はそれを行う。なぜなら、ここで彼女が除去したのは「鳩」ではなく、「(母親たちに生じる)イライラ」だからである。鳩は原因であり、イライラは結果だ。だから、鳩を除けば、イライラも除かれる。彼女たちの日常がどのようなものかは想像が難しいが、どうやらそのイライラは、一刻もはやく取り除かなければならないという種類のものだったらしい。だからこそ文香は行動に出た。まだ情報は少ないが、まだなにが道徳心が備わっていないような子供では、本来してはならないことを母親のために笑顔でやってのけてしまうということはあるかもしれない。現在の文香は、おそらく思春期をあの家で過ごすうちに、耐えられずに出て行ってしまったが、このときはまだ小さいので、母親をたより、愛する気持ちも強かったのだろうか。しかし、その決然とした表情には、自衛の意味も含まれているように感じる。いずれにしても、まだ小さな彼女は原因と結果を等価ととらえてしまう。この場合、鳩には生命があるのでためらうべきところ、「鳩」とは「母のイライラ」の形象でしかないので、本来その記号が含んでいるコノテーションをいっさい理解しないまま、除いてしまう。これを、ふたりが母親たちのいないときに行っているというのも気になる。なにしろ彼らの日常が描かれていないので、想像を出ることはないのだが、たとえば文香たちは母親たちのいるところではほとんど発言を許されていないとか、そういう可能性もないではない。しかし、今回の描写に限っていうと、これは「プレゼント」なのではないか、というふうにおもわれる。家出もできない、まだ小さな文香からすれば、まだ母親は、それがどれだけダメな母親でも、ほぼ「全世界」である。それを「イライラ」が揺さぶる。そしてそれは、弟も含めたじぶんたちにたぶん実害もある。したがって除かなければならない。そして、それを実行したのはほかならぬじぶんたちである、ということもポイントである。母親のためにそういうことを実行する子供たちは、むろん母への愛と、また母からの愛のためにそれを行う。小さな子供の依存心が愛と等しい状況で、文香が母の興味をみずから得なくてはならないとしたとき、「イライラ」を除く行為を母を喜ばせる行為としてとった、という可能性は、捨てきれないのである。この仮定のなかでは、文香はあえて母親のいないところでそれを行うことで、母親をびっくりさせ、喜ばせることができる(と文香は考える)のである。