月組東京公演『グランドホテル/カルーセル輪舞曲』観劇3回目 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

 

 

ザ・ミュージカル 『グランドホテル』
GRAND HOTEL, THE MUSICAL
Book by LUTHER DAVIS  Music and Lyrics by ROBERT WRIGHT AND GEORGE FORREST
Based on VICKI BAUM's GRAND HOTEL
By arrangement with TURNER BROADCASTING CO.
Owner of the motion picture "GRAND HOTEL"
Additional music and lyrics by MAURY YESTON
Original Direction and Choreography/Production Supervision TOMMY TUNE
脚本/ルーサー・ディヴィス  作曲・作詞/ロバート・ライト、ジョージ・フォレスト
追加作曲・作詞/モーリー・イェストン
オリジナル演出・振付、特別監修/トミー・チューン
演出/岡田 敬二、生田 大和
翻訳/小田島 雄志
“GRAND HOTEL, THE MUSICAL is presented through special arrangement with Music Theatre International (MTI).
All authorized performance materials are also supplied by MTI.
421 West 54th Street, New York, NY 10019 USA Phone: 212-541-4684 Fax: 212-397-4684 www.MTIShows.com”

1928年のベルリンを舞台に、高級ホテルを訪れた人々が一日半のうちに繰り広げる様々な人生模様を描いたミュージカル『グランドホテル』。1989年トミー・チューン氏演出・振付によりブロードウェイで幕を開けたこの作品は、圧倒的な評価を得てトニー賞を5部門で受賞、その後ロンドンやベルリンでも上演されました。宝塚歌劇では1993年、涼風真世を中心とした月組がトミー・チューン氏を演出・振付に迎え、宝塚バージョンとして上演し、大好評を博しました。
長年の功績を称えられ、2015年の第69回トニー賞において特別功労賞を受賞したトミー・チューン氏を特別監修に迎え、2017年の幕開け、月組トップスター・珠城りょうの宝塚大劇場お披露目公演として、『グランドホテル』が宝塚歌劇の舞台に蘇ります。

モン・パリ誕生90周年
レヴューロマン
『カルーセル輪舞曲(ロンド)』
作・演出/稲葉 太地

日本初のレヴュー『モン・パリ』誕生から90周年を記念して、優美な華やかさの中に迫力あるダンス場面を織り交ぜて繰り広げるレヴューロマン。地球全体を軸にして回る回転木馬(カルーセル)に命が宿り、まるで輪舞曲(ロンド)を踊るように世界中どこまでも果てしなく駆け出して行く様をイメージ。日本を出発しパリに着くまでを描いた『モン・パリ』に対し、パリから出発して宝塚を目指す世界巡りの形式で、バラエティ豊かな数々の場面をお届け致します。珠城りょうを中心とした、フレッシュでパワフルな新生月組の魅力満載のレヴュー作品です

 

 
 
以上公式サイトより
 
 
 
 
 
 
月組東京公演『グランドホテル/カルーセル輪舞曲』観劇三回目。3月24日金曜日13時半開演。

 

 

ひとつの公演を3回も見るなんてどれくらいぶりかなあ。花組では蘭寿とむがトップだったころは、これがふつうだった。あのころは華形さんが花組生だったし、カノンまでは壮一帆もいた。望海風斗もいて、下級生では芹香斗亜やマイティとかが頭角をあらわしはじめ、もう辞めちゃったけど大河凛とかもいたし、好きなひとばっかりだった。だいたい蘭寿とむが、僕が知っているかぎりでは歴代ナンバー1にかっこいいひとで・・・。などということをいっていてもしかたないが、とにかく、もちろん華形さんがいたからというのが理由ではあるのだが、当時はふつうに3回くらいは見ていたものである。それがいつしか減ってしまって・・・。個人的にはいまは雪組がいちばん好きだけど、それも最近は1回が標準になってる。けっきょくのところ、僕個人は1回くらいでいいという感覚なのかもしれない。お金と時間の問題もあるけど。

 

 

何度か書いたが、グランドホテルはもともとのつくりからして非常に多奏的なものなので、3回見れたことは僕らには非常に大きかった。最初に見たのが初日なので、そこから演じられているほうが熟達していったということももちろんあるとはおもうが、それと同時的に、こちらのほうでも視野が広がっていって、いままで目の届いていなかったようなところまで見えるようになっていったのである。そして、グランドホテルはそれに応えるミュージカルである。もともとお芝居というのはそういうものだといえばそうだろうし、とりわけ下級生の成長を見届けることを義務とするような宝塚ファンからすれば、脇でセリフもなしに新聞読んだりしてる気になるタカラジェンヌがどういう芝居をしているか注視するのは、べつにふつうのことだ。しかしそういうこととは別に、グランドホテルではその構造じたいに、「解釈の余地」がつねに残されている。ほとんどの登場人物の来歴は明かされず、端的にいってよくわからないひとたちばかりであり、それでもっておはなしが進行していくので、見る側にかんしていえば物語のダイナミズムに身を任せつつも、行動原理とか因果関係とかにかんしては想像力を働かせるほかないのだし、演じるほうもそれは同様で、どうしてこういうセリフ、こういうふるまいをこのひとはとるのかということを論理的に考えるひとほど、解釈を深めなければならなくなる。見るほうは、表面的な情報としての脚本と、役者が深めた解釈によってやがて自律しはじめるじっさいの表出とのあいだで立体的になるイメージを受け取り、グランドホテルに流れる(みなさんが吸っている)空気を吸うことになる。そしてこれが、文字通り舞台上のすべての箇所で行われているのだ。見れば見るほどおもしろい、そんな、スターウォーズみたいな深みのあるお芝居なのだ。

華形さんのお茶会ではじめて知ったことだが、今回のお芝居では舞台上にマス目のようなものがあらわれているようである。要するに床に描かれているということのようなので、2階席からだとよく見えるのかな。今回僕はこれを目撃することはできなかったのだが、進行方向を照らすような光の道みたいなものもどうやらあるらしい。DVDが出たら確認したいのだけど、なんか出なそうな雰囲気なんだよな・・・。輸入ものだとそういうことはよくあるが、でもいかにも出なそうなガイズ&ドールズが少し時間をあけて発売されたので、今回もその流れを期待している。というかほんとに出して欲しい。たまきちのお披露目じゃないですか。

 

 

舞台上のセットは基本的に動かない。そういうのをなんというのだったか、華形さんはナントカと呼んでいたような気がするのだが、ふつうのお芝居みたいに、たとえば城内のセットのなかで将軍と家臣がなんか作戦会議みたいなことをして、いったん幕がおり、家臣役のスターが銀橋わたりながらうたい、幕があがると場面が屋外の戦場に変わっていてたたかいがはじまる、とかそういう感じの移動がない。物語がグランドホテル内に限定されたものである、という印象をより強めるためだろう。といってもずっとひとつの部屋、あるいはひとつのフロアが場面として固定されているわけではないので、さまざまな工夫がされていて、そういうことも3回目にしてはじめて理解できたようなことだった。華形さんによれば、ずっとぶらさがっている三つのシャンデリア、あれも、微妙に高さが変わって場面転換を指示する印象操作の手助けになっているようである。未確認だが、1回ロビーのような奥行きを感じさせるべき箇所では若干高めになっているとか、そういうことだろう。それから、これはグランドホテルに限らないよくある演出ではあるが、たとえば上手側でプライジングがフラムシェンのダンスを見ているときに、下手側ではダンスフロアで踊り狂ったオットーとフェリックスがお金のやりとりをしていたりとか、そういうのもある。さすがにセリフはかぶらないが、下手でふつうに重要なやりとりをしているいっぽう、上手ではフラムシェンに笑えない危機が迫りつつある、というようなわけで、こういうところも一度の観劇では見切れない。厳密にいうと3回でも足りない。DVD出したところでそのあたりがどれくらい再現されるかわからないが(グランドホテルのグランドホテル的なそうした表現は、舞台でしかかたちにすることができない)、そういう意味でもなんとしても出してもらいたい。

こうしたことのうちもっとも感動的なのは、電話交換手の受付の女の子たちや、グルーシンスカヤの観客などの位置関係の変化による視点の移動である。まず最初の場面では、上手側の前面に、こちらを向いてミニスカートの女の子たちが足を組んで電話を受けている。中央には回転扉があり、ホテルに入ってきたものたちは、舞台の奥から、観客席側に向けて歩いてくることになる。これを物理的に受け取ると、女の子たちは回転扉に背を向けて仕事をしているふうになるが、これは別にそういうことではない。わたしたちは、回転扉も、女の子のきれいな足も、同時に受け取ることになる。一枚の写真のように平面的に理解するのではなく、これらぜんたいをフロントとして、ホテルとその外部の境目のようなものとして見ることになる。そしてはなしが進むと、女の子たちは、おそらくマス目をたどるのだろう、非常に訓練された動きで、きびきびと、椅子をもって、舞台の対角線上、つまり下手奥に移動し、今度は客席に背を向けて仕事を再開する。これも未確認だが、このときにおそらく証明も変わっているのではないか。女の子が短いスカートで足を組んでいるのは、“たまたま”ではなく、おそらく視覚的な演出である。ホテルの入口として印象的なそれが失せ、くるりと背を向けることで、場面はホテルの奥に切り替わってしまうのである。

 

 

どうしてこういうことをするのか、マス目などを用いて、脇の役者が機械的になりかねない動きを強いてまで、セットの移動なしにこだわるのかというと、やはりホテルというものが一種の異界だからである。外部を感じさせつつも、そこの雰囲気を逃さないために、場面の重さや空気の濃度を一定に保つ必要があるのだ。グランドホテルには、さまざまな事情を抱えたひとたちがやってくる。こうしたひとたちが一時的に休息して、態勢をたてなおす、そしてそのなかで浅く交流する、そうした場所が、グランドホテルなのだ。芝居がはじまったばかりのホテルは、異界は異界でも、どちらかというと死のにおいがわずかに感じられる種類のものにおもわれる。それは不治の病に罹ったオットーのイメージがあるせいかもしれないが、いずれにしても、ひとことでいえば、なにもかも保留になっているようなひとたちが集中している場所なのである。主役のフェリックスからして、莫大な借金を抱えながら、高い宿泊料を半年以上も滞納して、ここに暮らしているが、これは問題の先延ばしでしかない。宇月さん演じる「運転手」は、フェリックスをいろいろとそそのかす物語の原動でもあるが、最悪の場合には殺してしまうかもしれない気配をもっているところをみても、やはりこのホテルには生と死のはざまの中間的雰囲気がある。

現実世界で追い詰められ、あるいは思いつめ、逃れるように、一時しのぎの休息をとるように、またなにか解決策を求めるようにして、人々はグランドホテルに集まる。その意味でここは異界なのだが、同時に、そうなることによってしか表出しないものもある。何度も書いたように、人間、というか他者にかんする「解釈の余地」である。フェリックスに返済を求める運転手や、どういう事情だかプライジング社長を問い詰めている株主たち、フラムシェンのおなかのなかにいる子ども(という現象がもたらすもろもろ)、オットーに迫る死期、グルーシンスカヤの不調、こうした現実は、解釈するまでもない無感動な事実である。外示されていること以外なにも意味しない、量的なものなのだ。現実世界では、人間はそのようにしてとらえられる。プライジング社長を、実は子煩悩な恐妻家で、本質的には素朴な人間であるととらえる株主はいない。しかし、こうした十人十色の客の集まりそれじたいが、彼らの個性を際立たせる。ホテルという、ある種中立的で無表情な空間が、彼らを個々の人間として浮かび上がらせる。ホテルに滞在するものは、基本的には一時的にしかそこにとどまらない、いずれ去るものたちだ。それが、機能的に彼らを何者であるか漂白してしまう。端的にわからなくさせる。その結果として、わたしたち観客は、ホテルでたまたま彼らと遭遇した別の客として、現実世界が外示する無表情な情報ぬきに、解釈の余地を感じることになる。人生を生きるうち、好むと好まざるとにかかわらず背負うことになるさまざまな「意味」、これが、ホテルという空間では、一時的にではあれ、解除されることになるのである。これがグランドホテルのおもしろさなのであり、場面がホテルに固定されることの理由であると考えられる。

 

 

こうした人生の「意味」にがんじがらめに拘束されてにっちもさっちもいかなくなったまま、死を迎えようとしているのがオットーという人物で、彼はもちものをすべて金にかえ、文字通り全財産をにぎりしめて、ヨーロッパいちのこの高級ホテルにやってきて「人生」を探そうとする。夏美ように諭されるように、人生とは「物体」ではないのだから、探して見つかるものでもない。しかし彼がこのホテルを選んだのは正しかったのだろう。どうあれ、彼が現実世界にいたままでは、フェリックスはもちろん、フラムシェンの知り合うこともなかったのだろうから。オットーじたいはさすがに主演で行われたこともあるくらいだから、非常に深い役柄で、まだ見切れていない感じがある。美弥るりかはたいへんな好演で、なんでも涼風真世のファンで、初演の本作も大好きだったそうだから、思いいれも強いようだ。オットーはフラムシェンに羽根のように軽いといわれるのだが、そのセリフのままの体型だし、大きな目がきらきらと周囲を見て廻る様子も、病気でしょぼしょぼしながらもグランドホテルの異界感に興奮している様子を伝えている。今回からがっつり2番手あつかいになっていて、個人的にもとてもうれしい。

 

 

全盛期をすぎたバレリーナとしてのグルーシンスカヤだが、彼女はいま何度目かの引退興行の最中だという。しかし、なんといったか、生きる喜びとか、そこへの情熱とかが感じられないせいで、ダンスに魂をこめることができず、それが不調に拍車をかけて、客足が鈍ってしまっている状態だ。そのほかの原因として、戦争で多くの若者が失われてしまったということもあるようで、これはどうも、フェリックスの回想など含めても、「解釈の余地」的な意味合いで、「語られないが重要な背景」のひとつと考えたほうがよさそうである。ともあれ、ここで重要なことは、グルーシンスカヤが不調なことでも、舞台に立ちたがらないことでもない。何回も引退興行をしているということである。もちろんそこには、人間関係のしがらみとか、契約とか、要するに現実世界の「意味」が彼女を拘束している、ということもあるのだろうが、ここではもっと素直に彼女の無意識を読み取りたい。かつてはあったかもしれない生への情熱、それともぜんぜんないまま、若さだけを原動力にしていたのか、それはよくわからないが、ともかく、年齢を重ねて、腰のあたりに違和感を覚え始め、そろそろ引退を考えるころになって、げんに彼女の意識じたいはもう舞台に立ちたくないというところまできているのに、まだなにかあると、なにかつかめていない生の特別な面があると、そういう予感が識閾下で働いているから、彼女は引退しないのである。彼女はグランドホテルでフェリックスと出会い、情熱をよみがえらせ、生きる喜びを見つけてキャンセルしかけていたウィーンでの公演に挑戦することを決める。いったい、フェリックスとグルーシンスカヤのあいだにどういう感情が起こったのか、わたしたちはじぶんの記憶を用いて推測するほかないのだが、フェリックスはグルーシンスカヤの内に現実世界の「意味」、すなわち全盛期を過ぎた世界的バレリーナとしての相貌ではない、彼女じしんの物語を見たのである。その物語には、どのような社会的意味も付与されてはいない。ただ、積み立てられて、そこにあるだけであり、誰かが解釈してくれるのを待っているだけの、傍目には空白でしかない。それを読み取れるものはおそらく限られている。それが、彼女が予感的に引退を引き伸ばして無意識に待っていたものだったのである。おもえばそれはフェリックスもそうなのだ。彼の場合は、現実世界の羈束から逃避しているという面があったわけだが、それでも、なんのために結論を先延ばしにし、中間的な異界にとどまろうとするのか、よくわからないといえばよくわからない。彼は金がないのにグルーシンスカヤがそれをなんとかしようとするのを拒否するくらいのプライドの持ち主なのである。ひょっとすると、フェリックスも、意識していないところで、なにかを予感していたのではないか。彼の場合は、じぶんのなかの、誰にも意味を付与されていない物語を解釈してくれる人物ではなく、じぶんにしか解釈できない人物を待っていたのである。

 

 

本作の妖しい雰囲気を保証する人物として、このグルーシンスカヤの付き人的な女性であるラファエラがいる。男役が演じているぶん、ある意味グルーシンスカヤの用心棒のような立ち位置であると同時に、女性的な感性のままグルーシンスカヤを思い続ける、非常に魅力的な人物だ。彼女がまるでグランドホテルのもともとの住人であるかのような異界感をまとっているのは、文字通り彼女が異界の人間だからである。タカラヅカカフェで朝美絢もいっていたが、時代も時代だし、彼女のように男女という区別にあまり意味を見出さないタイプの人間は、異端だったはずだ。社会的な「意味」からはずれたところにいて、なおかつ、グルーシンスカヤの「意味」の内側にある物語を読み取ってきた人間なのだ。グルーシンスカヤにかんしてはということだが、彼女はずっとグランドホテル的なポジションのまま生きてきたのである。

 

 

役替わりでフラムシェンを演じた海乃美月は、新人公演のヒロイン経験云々というより、1789では準ヒロインのオランプなんかも担当されていて、たいへん役に恵まれているかただ。すごく聡明ということはないが、優しくて、若い女の子らしくくねくねやわらかくダンスがうまくて、とにかく元気いっぱい、しかしどこか語られぬ物語を感じさせる、そういう、見た目よりたいへんな役だとおもうが、非常に愛らしく演じられていた。

 

 

とりあえずいまいいたいことは、DVDを出してくださいということです。くどいようだが、グランドホテルがグランドホテルたる由来のようなものは、立体的な舞台でしかかたちにならないものだ。だから、DVDというのはちょっとちがうと、そういうかんがえかたもあっていいだろう。しかしそれでもまた見たい。それに最近は別アングルとかの特典もよくついてくるじゃないですか・・・。そういうので舞台感をカバーしたやつをとても期待しています。

 

 

いまプログラムで確認したら、ちょうど今日(というか昨日)が千秋楽だったみたい。月組のみなさん、たいへんすばらしいお芝居をありがとうございました。次回も楽しみにしてます。華形さんもお疲れさまでした!