今週の刃牙道/第150話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第150話/峻烈

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光成の屋敷に要人専用車輌がやってくる。前回、内海警視総監から武蔵の件を聞いて、ようやく、刃牙道冒頭で作られていたクローンが宮本武蔵だったことを思い出した阿部総理である。あのときは、また光成がわけわからんことしてる、いってもきかないし放っておこう、くらいの感じだったのかもしれないが、たぶん総理としてはまだクローンということがそれほど現実的には認識されていなかったのだ。たしか、阿部総理はすでに成人の体型になっている武蔵も見ていたはずだ。だから、もうやめることはできない、みたいなはなしになっていた。しかし、とはいっても、それが歴史上の宮本武蔵そのものであるということにはならない。現にいまの武蔵は徳川寒子の降霊という裏ワザをつかったものだ。じっさいに武蔵のクローンをつくっても、剣技の才能を秘めたふつうの赤ちゃんが生れるだけのはずである。だから、そういう意味では、光成の「わがまま」として阿部総理がこれを見逃すことはありえた。バレたらまずいけど、逆にいえばバレなきゃいいだろう、くらいの感じ。しかしそれがそうもいえなくなってきた、ということだろう。

 

 

正座して怒っているふうの阿部に、光成はなんとかならないかとエラそうにいう。今度ばかりは「おいた」が過ぎていると、そんなふうに総理は形容する。やはり光成のあつかいってそういう感じなのか・・・。お金持ちのお坊っちゃんがやらかしてきたことをいままでもみけしてきた親衛隊の発言みたいだ。じっさい、この「お金持ち」というのを国家そのものだとしたら、総理と光成の関係はそんなものなんだろう。たぶん光成のもってるものって国家並なんだろうし。

まず阿部は武蔵がホンモノであることからはじめる。クローンであると。日々進化するクローン技術にかんして、クローン人間の作成だけはどこでもタブーになっている。人道、倫理観、人権擁護、あらゆる点で、認められない。こんなことがバレたら日本は世界から孤立してしまうと。まあ、それはそうなんだけど、でも阿部総理は、それをいま知ったわけではない。そこからはなしを始めるというのは少し卑怯な気もする。もしクローン作製じたいが最大の問題で、すべての原因であるなら、それを知っていながら見逃した阿部も同罪のはずだ。「今度ばかりは見逃せない」という今回の言説が、あのときにも出ていなければおかしいのである。

もちろんそれだけではない。武蔵が警官を2人も殺してしまったという事実があるから、阿部も動くことになった。クローンからはなしを始めるのはただの話術でしかない。このあたりについてはあとで考えよう。

光成も独歩たちと同様の見立てであり、屍累々だという。国家が本気をだして、なりふり構わず殺しにいけば、武蔵のほうでもそれなりに対応しなくてはならなくなる。結果どうなるかはわからない、だが、もし最終的に武蔵を捕まえるなり殺すなりできるのだとしても、それまでに大勢が死ぬだろうと、そういうはなしである。阿部は話し合いすらリスクが伴う相手であるために、実弾の使用を許可したといっているが、相手が強化されればされるほど、武蔵は手加減できなくなる。そういう意味でもよけい死屍累々だと、そんなふうに光成は応えるのだった。

 

 

 

どこか広い公園みたいなところにいた武蔵のもとへ、物量で攻める気満々の警官軍団がやってくる。武蔵ははじめて見るヘリを見上げている。そうか、凧というものが戦国・江戸時代にもあったか・・・。でもさすがにあんなにでかくて重そうで、しかもひとが乗っているらしいものが飛んでいることには、内心驚いているらしい。しかし別にだからどうということもない。やることは変わらない。

複数の装甲車が見えているが、これは別に武蔵を包囲しているわけではなく、そこへ押し寄せているという感じみたい。ちょっとずつ前進して武蔵との距離をつめている。ヘリのライトは武蔵をとらえているので、全員場所を確認しているはずだ。武蔵もこれらを「相手取って不足なし」と、本気でむかえる気のようである。

 

 

武蔵が急に動き出す。例の脱力ダッシュだろうか。急に動き出したためか、ヘリのライトがそれを追えずにいるようである。弾丸のように走る武蔵が6号車と7号車のあいだをぬけて背後に回りこむ。ものものしい雰囲気なので、てっきりこの装甲車の列がいくつも並んでいるのかとおもったけど、そういうわけではないみたい。

そこで隊員たちが降車する。場所を確認できている状態のときに降車したかったところだが、ヘリも含めて見失ってしまったので、近くにいるうちに急いで降りて見つけなければ、というような考えだろう。どうも警察側にもダメージゼロで勝とうという気はないみたいだ・・・。

武蔵は忽然と姿を消してしまう。STATの隊長である島本頼至が降りてきて、隊員たちに状況を訊ねる。さっきから指示を出していたのはこの男だろうか。

どの車からも大勢の隊員が降りてきているのだろうし、うまく位置を変えて見つからないように隠れている、というのは考えにくい。とすると、車の上か下かしかない。島本もそれを指摘する。しかし、指示をされた隊員は、なにか別のものに驚愕している。島本のうしろ、ほとんどくっつくくらいの距離に、武蔵はいた。おそらく3人目の犠牲者となったであろう島本の血液が、目の前の隊員の顔にふりかかるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

いきなり隊長が殺されてしまったようである。といっても、あんな短いやりとりで島本が隊長であることを見抜くのは難しいので、これはたまたまかもしれない。たぶん武蔵は、車に接近してすぐ、その上か下に隠れたはずである。ヘリからの照射を考えると、下に隠れた可能性が高い。その状態で、なにやら偉そうな人物が出てきたのをたまたま目にした。そこでこのうしろに密着し、タイミングを見て攻撃を開始したと、そんなところだろう。

 

 

しかし、前回は圧倒的に優勢にみえた警察側だが、こうなってしまうともう

だいぶ武蔵に有利になってしまう。前回まで警察が有利だったのは、距離をとって、つまり刀の届かない距離にいながら完全に包囲し、しかもそれでいて彼らには銃という相手を倒す武器があるという点だった。はっきりいってしまえば、あのときにヘリにいた狙撃手とかが、モノもいわず、指示も待たず発砲していたら、武蔵でもどうしようもなかった。バキ理論でいえば正確に小脳を射抜かなければ、武蔵は実弾のダメージなどものともせず今回の状況に持ち込んだかもしれないが、ということはその可能性もあったことになる。

しかし、お役所仕事というか、これまでの警官とのたたかいで武蔵には自明のことだったのかもしれないが、彼らはそういうショートカットな行動には出ない。大塚や岩間の身内だったりして個人的にうらんでおり、身を捨てて命令を無視するようなイレギュラーな存在が偶然的にまぎれこんでいない限り、彼らがランダムな動きをすることはない。

前回までの時点で警察の有利だった点は、距離と人数である。まず距離にかんしては、相手の攻撃を防ぎながらこちらは攻撃できる、という最高のものだった。まず武蔵はこれを解消しなくてはならない。装甲車には、映画とかでよく見る超でかいガトリングガンみたいなやつはついていないのだろうか。武蔵としては、彼らが降りてくる前に、つまり銃撃の態勢が整う前にこの距離をどうにかしなければならなかった。というわけでいきなり走り出す。これにかんしてはヘリ対策ということもある。車の下に隠れ、そのあとは警官たちのなかにまぎれてしまえば、動き続けるかぎり狙撃することはかなり難しくなる。また、いまみたいに集団のまんなかに武蔵があらわれるという状況になってしまえば、大勢の一斉射撃みたいなこともまずできない。そう考えると、このままでは人数が多いことが有利であるどころか、むしろ彼らの選択肢を制限してしまうことにもなるのである。

武蔵最大の難関はたぶんヘリのライトだったろう。これが武蔵を捉え続けていたら、車の陰に隠れたり、島本を襲撃したりということもまずできなかった。これを可能にしたのは、やはり脱力ダッシュだろう。たぶん走る速さでいったら、それほど人外ということもないのかもしれない。しかし、バキが修得したゴキブリダッシュは、いきなりトップスピードを出せるというところに最大の特徴があり、これは脱力によって行われる。とすれば、武蔵のダッシュもこれに類似しているはずである。ちょっとずつ加速の行われる動きであれば、わたしたちはそれを見失うことはない。F1の車がいくら速くたって、速すぎて見失うということはないだろう。しかしそれよりはずっと遅いゴキブリを、わたしたちは見失う。「静止している状態」と「動いている状態」がアナログに連続していないからである。ちょっとずつ加速するものであるなら、徐々に目がそれに対応することで、それを追うことができる。しかしこの動きにかんしては、「いつ動くのか」という点に左右されてしまう。こちらの意識がその点にかんして掌握されてしまうのである。

武蔵は狙ってやってはいないとおもうが、ゴキブリのことを考えればわかるように、脱力ダッシュは見逃しやすい動きなのだ。そして、このライトから逃れてさえしまえば、暗闇でもあることだし、もう武蔵にとってはかんたんなことだったのだろう。しかしなぜこんな夜間に・・・。

 

 

今回阿部総理は光成にクローンの件を詰める運びとなった。しかしこれは少しおかしい。阿部総理は光成がクローンを作っていたことを知っている。もしクローン作製がタブーであり、倫理的にも世界的な評価という視点からもやってはいけないのだとしたら、あの時点で阿部は今回のような怒り方をしなければならなかったはずだ。しかしそうはなっていない。まず前回考えたように、武蔵を英雄にしてはならないということがある。阿部総理が有能か無能かはわからないが、いちおう政治家なので、因果関係の予測とか、その精度とかよりは、もう少し射程の広い視野に常人よりは優れているはずである。そのセンスで、たぶん瞬間的に嫌な未来が見えたのだ。それを整理するとたぶん次のようなシナリオになる。武蔵は警官を殺した。国家にたてついた反逆者である。これが一つ目の危惧である。これには、国家は適切な対応をしなければならない。しかしそれと同時に、これ以上ことが大きくなると、武蔵の存在は世界に注目されることになる。そうすると、やがて武蔵がクローンだとバレる。これが二つ目の危惧である。英雄云々はその先だ。クローンがタブーであることとはまた別の問題として、もうすでに武蔵は誕生してしまっている。とすれば、クローンを作成した側が責められることはあっても、むしろ武蔵には同情の声が寄せられる可能性が高い。だって、誕生したことじたいにかんして武蔵にはなにも責任がないのだから。そうすると、そんな武蔵は「反逆者」であることは難しくなる。むしろ、タブーを実行にうつしてしまうような機関や国家に対する「革命家」になってしまう可能性さえある。ルソーによれば戦争とは相手国の社会契約を書き換える行為である。その意味で、クローン武蔵の戦争は世界レベルの社会で賛同を得てしまう可能性が出てくる。独立戦争などではなく、「そんな社会はぶっ壊してしまえ」という世論を背景にした、そのままの戦争になってしまうのである。これが危惧その3である。武蔵のかつての動機は富と名誉だったが、暴力がよしとされない社会で、剣豪である武蔵が誰よりも評価されるということはかなり難しい。これをなすためには、社会の価値観そのものを書き換えなければならない。武蔵が社会の犠牲者のようなものとしてピックアップされ、英雄化がすすめば、はるかに遠いことにおもえたこの未来もにわかに現実味を帯び始めてしまうのであり、しかもこれは武蔵の動機とも合致しているわけである。

まとめるとこうなる。

 

 

危惧その① 反逆者・武蔵。

危惧その② すでに実行されてしまっているクローン作製というタブー。

危惧その③ 武蔵の英雄化。そして価値観の変容。

 

 

こういうことが、阿部総理にはおそらく瞬間的に見えたはずである。それが政治家というものだ。

そうしたうえで阿部総理がとるべき行動は、「はなしが大きくなる前に武蔵を殺す」以外ない。世界が注目してしまう前に闇に葬るのである。その意味でも、阿部総理は光成にはなしをつける必要があった。しかし、今回のはなしの立て方を見ると、どうも阿部総理はその先も見ているような感じがある。つまり、じっさいのところすでにはなしはかなり大きくなっている。いま武蔵を止めても止めなくても、世界はいずれクローンのことに気づいてしまうかもしれない。そうなれば、阿部総理は、すでに起きている事件に対してどれだけ適切な行動をとっていたかが検証されることになる。そのときの世論では、おそらく武蔵は時代の犠牲者になっている。悲劇の主人公なのである。しかし、同時に、警官殺しは重罪だ。これを両立させるためには、まずクローンの作成にかんしてはじぶんは反対であり、げんにその意志を光成に伝えていた、が事態の悪化は止められず、やむを得ず強硬手段に出たと、こういう身振りなのである。武蔵をただ「警官殺し」の罪人としてだけ処分しようとすると、反感を買う可能性がある。なぜなら、そもそも武蔵は光成の、世論的には国家の生んだものなのであり、そうやって生んでおきながら暴れ出したからといって殺すのでは、武蔵がかわいそうではないか、というふうに考えられるからである。阿部総理がもっと早い段階でクローンについて知っていたという事実はもう変えられない。だとするなら、一刻もはやくそれには反対であるという意志表示をして、その行動に新しい意味づけを施すほかない。それさえしたおけば、あのときは反対できなかったとか、まだ事態の重大さを認識できなかったとか、言い逃れの可能性も出てくる。だから阿部総理は“まず”クローンの件からはなしをはじめなければならない。光成からすると、いや、あなたずいぶん前から知ってましたよね、というところなわけだが、もうそれは総理としてはどうでもいい。クローンを認めるわけにはいかない、しかしあなたはやってしまった、残念だがわたしたちはそれを殺して止めなければならない・・・そういう順序で行動しているのだというわかりやすい指標を、武蔵英雄化の後起こるであろう検証作業のために用意しているのである。

 

 

クローンが社会的にタブーとされることにかんしては素人考えでもいくつかの理由が思いつく、今後の考察の役に立つかもしれないし、いちおう検証しておこう。まず問題なのはその生にかんして責任者が存在してしまうという事態である。むろん、誰にも両親というものがあるわけだが、子どもは努力しても宿らないこともあるし、努力しなくても、あるいは回避しようとしても宿ることもある。その意味で生命は授かりもので、宗教的にはそうした回避行動自体を忌避することもあるだろう。ところがクローンにかんしては、製造したものの意志がクローンの誕生を左右する。武蔵は光成が作ろうと決めたから生まれたのであり、作らないと決めたのであれば生まれていなかった。さすがにふつうの生にかんしても、作らないと決めたものが生まれることはないが、しかし人生とはなにがあるかわからない。そして、この「子どもは授かりもの」という思想が、子どもの人格を尊重することにもなる。親が、子どもを生んだという点だけで子どもに対して優位に立とうとするとき、それはみずからを子どもの製造者として認識していることを示している。じぶんが意図しなければお前は生まれてこなかったのだと、そのような理屈を立てない限り、この優越感は生じてこない。つまり、この理屈においては、生命の誕生は制御されたものである。授かりものの思想はこれを回避することができる。むろん、子どもは子どもで、親に対して「産んでもらった」という引け目を感じるかもしれないが、それはまた別の問題である。この「製造責任者」の存在は、クローンが自立しようと引きこもろうと、「授かりもの」の思想が時間をかけて解消していく親の立ち位置を永遠に持続させることになる。

さらに自己同一性の問題もある。生の唯一無二性の問題といってもいい。わたしたちの生はすべて死が縁取ることで固有のものとなっている。わたしにとって固有のものは、すべてわたしの限られた時間のなかで積み立てられてきたものだ。時間が限られているので、そこで可能なことや積み立てられることも有限であり、だから生はひとつひとつ異なったものになる。もし仮に人間に生殖機能がなく、全員が不老不死だとしたら、おそらく無限の時間のなかで全人類は同一人物になってしまうだろう。自己同一性とは、ある場所、ある時間におけるじぶんという人間と、別のある場所、ある時間におけるじぶんが同一人物であると確信できるという、認識の過程のことだ。睡眠などで意識を失って存在の連続性が絶たれても、前日のじぶんといま目を覚ましたじぶんが同一人物であることにたいてい疑いはない。それは、いま認識されていること、身体感覚や記憶、目にうつる周囲の風景が、それに疑いをはさませないからだ。そこには社会からみた自分という客観も含まれる。これらはじぶんというものの立ち位置からしか見ることのできない全体の感覚であり、とりかえのきかないものである。その無二性が、じぶんがほかのどこにもいないひとりの人間であり、それが昨晩から引き続き持続して存在していると、そのように確信することで、自己同一性は確立する。しかしクローンはこれを否定してしまう可能性がある。まず、クローンの技術は、神の配剤として、人間には見ることのできない解釈のブラックボックスみたいなものを経由して出てくる生というものを、遺伝子によって一元的に把握するところから始まる。もしクローンをじっさいにつくっても、一卵性の双子が別人であるのと同じく、まったく同じ人物が出てくるということはおそらくない。しかし問題はそこではなく、同一人物をつくろうとしてクローンを作るという、その作業自体のほうである。最終的には、人間どうしの差異というのは遺伝子の配列の違いでしかなく、記憶とか経験というものはあくまで二次的なものであると、そういう考えに立脚してクローンが作られた場合、わたしたちの無二性は失われる。わたしがわたしであることの価値が失われるのである。わたしがこれからなすかもしれない事柄はクローンが実現可能なのであり、だとすればわたしは少なくともその事柄をすすんでやる必要はない。人間が生に活力を宿すのは、じぶんにしかできないことがそこにあるからである。こういうことは一流のスポーツマンとかがいいそうなことではあるが、そんなに大袈裟なことではなく、わたしの居場所から世界を見ることは他人にはできない、というくらいの意味だ。いまあなたが属している人間関係は、それじたいであなたの無二性を保証している。その居場所にあなた以外の人間が組み込まれれば、仮によく似ていたとしても、それはもうあなたが属していたときの人間関係では、厳密にはなくなってしまう。しかし、あなたとまったく同じクローンであれば、それも可能だ。クローン技術は人間の生への意欲を損なう可能性を秘めているのである。とはいえ、この技術じたいは、人体の再生とかにも使えるだろうし、進歩じたいを咎めるべきではないのだろう。しかし同時にそういう技術が存在しているということじたいが呼ぶ不安もある。だからこそ、世界が共有する認識としてそれは法律以前のタブーなのである。