今週の刃牙道/第151話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第151話/恐慌

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本気を出した国家権力が送り出したのはSTATという特殊部隊だった。どこかの公演で発見された武蔵は、ヘリに2機のライトに照らし出され、12台ほどの装甲車に包囲された・・・とおもえたが、じっさいには囲んでおらず、12台並んで武蔵に迫りつつあっただけである。

武蔵の脱力ダッシュがバキのゴキブリダッシュと似たものであるとすれば、それはゴキブリによく似ているはずだ。ゴキブリの動きの特徴は、バキによれば、加速なしでいっきにトップスピードを出せるということだ。このことはじっさい、わたしたちが台所や風呂場で彼らを発見したときの感覚に合致している。彼らは、静止している状態と動いている状態のあいだに傾斜的な変化がない。物陰に隠れていることもあれば、すでに視界に入っている可能性もあるが、基本的にはこの「静止している状態」はまだ発見されていない段階と考えることができる。そして、わたしたちが彼らを発見するときというのは、彼らがトップスピードで動いているときなのだ。彼らは決して“徐々に”認識されるということがない。いきなり、驚かせようとしているかのように、突如として意識のうえに登場するのである。(静止している状態でもその圧倒的存在感によって彼らがわたしたちに位置を知らせてくることはあるが、「発見」にかんしてはいまは問題ではなく、あんまり克明に描写するのもアレなので、とりあえずそういうことにしておこう)

これがおそらくヘリのライトから武蔵を逃れさせた。なぜ警察がこんな夜間を戦いの時間に選んだのか不明だが、ライトをかわしてしまえば、武蔵の位置がわからなくなる可能性も高くなる。突然動き、突然停止する“彼ら”のありえない移動に翻弄され、殺虫剤を探してあたふたしているうちに見失ってしまった、なんていう経験は誰にもあるだろう。同じことがヘリにも起こったのだ。

そうして装甲車の列のなかに武蔵が侵入してしまったあとで、隊員たちは降車して武蔵を探し始めた。武蔵にかんしては、とりあえず武器は刀なのであり、自分たちは銃をもっているのだから、まずなによりその頑丈な車からおりないことは、身を守るうえで重要だったはずである。ということは、それをないがしろにしてでも降りなければならないと、彼らは考えたことになる。可能性としては、銃と人数をたよりにしているので、接近戦でも有利に立てるはずだというおごりがあったということと、逃げられては戦えないという反射的なものがあっただろう。彼らは武蔵を逮捕、あるいは殺そうとしてやってきている。その対象が見失われた。どこいった探せと、そういう流れである。

 

 

武蔵は見つからない。漫画だと人々の顔は見えているが、これはもしかするとけっこう暗いのかもしれない。映画とかでよくみる暗視ゴーグルみたいなのをつけている様子もない。もっとも、これだけごちゃごちゃひとがいる状況では、ちょっと気をつかえば見つからずにすむかもしれない。隊長の島本は、愚かにも武蔵をおそれていないのか、それとも隊員たちを鼓舞する目的もあって強気を装っているのか、隊員を一喝する。しかしその背後に、まるで気配を感じさせずに武蔵が立っていたのである。

 

 

「それ・・・誰です・・・?」という隊員の指差しを受けて、島本はなにもかも悟ったようだ。誰ですもなにも、隊員でなかったら武蔵にちがいないのであり、誰かわからないとしたら隊員ではないのだから、論理的に考えて武蔵ということになるわけだが、単独の殺人犯を100人がかりで捕らえる、あるいは殺すという前代未聞の任務からくる昂揚感と、おそらくそれをうそでも鼓舞する島本が背後をとられているという、「ひょっとしたらこういう事態になるかもしれない」と隊員たちが想定したかもしれない最悪の状況みたいなものが現実になっていることの恐怖感が、隊員にそのようなことをいわせているのだ。

島本は振り向いた瞬間斬られるじぶんの姿が想像できてしまっている。だからこわい、が、STATとしての矜持みたいなものが振り向かせてしまった。無造作に立っている武蔵は、見つけたら撃ちまくる、という、先ほど島本がいっていたことをいう。武蔵的にはその言葉で、ここにいる連中の殺意が証明されたみたいなところだろう。手加減の必要なし、といったところなのだ。そうして刀が振り下ろされる。袈裟斬りというやつだろうか。左の肩から右の太ももあたりまで刀が通り抜ける。目の前にいた隊員は島本の血をヘルメットごしに浴びている。

彼以外にも、まわりにいたものたちはようやく武蔵の存在に気づいたようだ。彼が銃を構えようとするところを、武蔵の刀が今度は水平に走る。両腕が銃をもったまま落ちてしまう。

彼の悲痛な声もあり、武蔵の周辺数メートルくらいにいるものたちはほぼ全員そのことに気がついたようだ。5号車後方という位置も周知される。だが、島本を失ったためか、判断がまちまちで、「包囲しろ」と「囲むな」という、まったく反対の声が同時にあがったりしている。なかには「誰が斬られた」という人間的な声もある。

武蔵はすぐに装甲車のあいだに姿を消す。装甲車はおそらくヘッドライトをつけているだろうから、前方が戦場であったら、こうまでうまく姿を消すことはできなかったはずだ。しかしいま彼らはおそらくドライバー以外全員が車の列のうしろにいる。武蔵が列のすきまに入れば、彼らはそこに殺到する。そうすると、車の上に飛び乗るなり、すばやくしたにもぐるなりして、武蔵が現れる列の位置を変えてしまえば、彼らはまた背後をとられることになる。いま彼らがすべきなのは、死角をなくすことだ。すべての列に複数の監視をつけ、一刻もはやくヘリに付近を照射させることである。しかし、すでに起こりつつあるパニックの芽はそんな冷静な判断をさせない。もちろんこのどれもが、武蔵のコントロール下で、意図的に操作されたものだ。

何人かで武蔵の消えたあたり探している、そこから少し離れたところで、またひとり斬られる。彼もあわてて銃を構えるが、また銃ごと真っ二つだ。この動きをよく見ると、彼は左側の肩ごしに武蔵を発見し、体を半回転させて武蔵に向き直っているのだが、斬られているときには銃口がすでに武蔵の方向を通過している。つまり、彼は向き直る際に、銃口を武蔵に向けるようには動いていない。こう、自然体というか、銃を両手で胸に抱えたような状態を武蔵側に向けるようにして、からだの向きを変えただけなのである。こんなところからも銃アレルギーというか、訓練されてはいてもぽんぽん射撃はできない、日本人の心性が出ているかもしれない。

現場には「撃て」と「撃つな」の声も混ざりはじめる。この段階では、まだ武蔵の姿が周囲のものにしかはっきり認識されていないということもあるかもしれない。彼らであっても、銃撃は取り返しのつかない行為として訓練されている。絶対にここは発砲のタイミングだと、そういう確信がもてない限り、武蔵がひとを斬るほど無造作に発砲はできないのだ。これをカバーするのが、大塚や岩間や島本といった、現場のリーダーである。彼らが指揮をとり、現場のものに命令をくだすことで、隊員たちの行動の次数はひとつさがる。上官の命令という大義が一枚あいだに入ることにより、武蔵を撃ち殺すことにかんして心理的にそのような動機付けをすることができるのである。

 

 

暗闇と混乱のなか、武蔵が複雑に動き回る。そのことによって、隊員たちは武蔵を囲むことができた。しかしそうではない。囲んだ、けど、で、どうすると、こうなっている。武蔵の向こうには仲間がいる。当たればいいけれど、もしかわされたら、その弾は仲間にあたってしまうかもしれない。撃てないのだ。ひとりはこれを、囲んだのでなく、囲まされているのだと看破している。

などともたもたしているうちに全員が即死か、あるいは再起不能にされる。その現場にたどりついたものたちがみるのは苦しむ仲間だけであり、また武蔵の姿は見当たらない。それを認識したころ、今度は反対側で悲鳴があがる。そのくりかえしだ。残った隊員たちは、ただのいちども発砲していないいまの段階ですでに全滅を予感しているのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

予想以上に武蔵が殺人マシーンと化している。大塚を切っちゃって、もう後戻りできないとかいっていたころがすでに懐かしい。

銃を撃つ側が相手を囲んじゃって撃てない、というのはよく見る展開だ。武蔵はもう彼らの銃アレルギーというか、じぶんや戦国時代のもののふたちが剣をふるったようには、なぜかこの時代の兵士たちは武器を行使してこないということには気づいているだろう。おもえばそれも社会契約にかかわるもので、武蔵がいまたたかっている国家がもたらす価値観なわけだが、ともかく、そういうことや、銃の操作性や威力なども含めて、囲んだ状態になればより発砲へのハードルは高くなるだろうということは、武蔵ほどの経験と洞察力があればすぐわかるだろう。また、戦略的に彼らがサムライたちに比べればはるかに稚拙であるということもここには含まれているだろう。もっとはっきりいえば、膠着状態に際したときにあらわになる応用力みたいなものがまったくないのである。武蔵は彼らの位置をうまくコントロールしたが、彼らからすれば、すばやく動き回る武蔵をようやく包囲できたという感覚がある。ここから起こりうる展開としては2通り考えられる。つまり、相手が観念するかしないかである。ふつう、こんな状態になったら、逃げ場がないので、相手は降参してしまう。これを包丁とかもった通り魔みたいなものだとしたら想像しやすいだろうか。包囲するという方法じたいは、相手を倒すとか殺すとかいうことのためより、降参させる意味合いでつかうことがおそらく多いのではないか。

しかしそれでも相手が降参しない場合もある。正気を失っている通り魔であったら、事態を理解できず、ひとりにかかっていくかもしれない。これを回避するためには、相手をつねに包囲の中心におけばよい。相手との距離を保ちつつ、必要があるならば距離をつめ、相手を中心にした半径を縮めて、銃口があたまにつくくらいになれば、もう決まりだ。つまり、包囲という方法は、それを達成することじたいに意味があるのだ。

彼らとしては、くどいようだが訓練されてはいても、「なるべく撃ちたくない」ということがある。そして、包囲することによって、それはだいたいの場合満たされる。そうすれば、相手は、降参するか、降参しなくても警察がもっとも近い距離まで接近することで制圧させられるか、どちらかになるからである。そこに加えて相手は宮本武蔵であり、接近したものはことごとく斬られているという状況もある。彼らとしてはようやく「包囲」の状態に持ち込んだと、そういう感覚があるにちがいない。それがおそらく、この均衡を崩すことへのためらいも呼んでいる。足のあたりを向かって撃つ、あるいはもう味方のことなんて無視してめくらめっぽう狂ったように撃ちまくる、といったような行動に彼らが出れないのは、包囲がすでに達成だからなのだ。ようやくできたそれを、彼らはなるべく崩したくない。万が一逃がしてしまって、次にまた同じように包囲できるとは限らないからだ。感覚としては、そう・・・仲良くなった異性の友人がいて、ふたりで何度か出かけるくらいには親密になり、直感的には向こうの感情も感じられるのだけど、いまのいい関係の崩壊をおそれて最後の一言がいえずにいるような感じだろうか・・・。

 

 

武蔵はおそらくそうした現場のものたちの心理を手に取るように理解している。銃が手軽になることで戦国時代と風景は変わってしまったが、構成しているものがちがっているだけで、人間じたいにはそう変化はない。とりわけ武蔵は五輪書という理論書を書き上げているくらいの人物であるのだ。理論というのは、個別の相を捨象した普遍的な状況を説明するものをいう。五輪書を読んだのははるか昔なので内容のことは覚えていないが、まあそういうふうにいってもいいだろう。武蔵としては、それを現代の状況にあわせて応用するだけでよいのだ。