『女のいない男たち』村上春樹 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『女のいない男たち』村上春樹 文春文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」他全6篇。最高度に結晶化しためくるめく短篇集」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

エッセイとかその手のやつは出るたびに読んできたが、すごく久しぶりに村上春樹の小説を読んだ。短編集だけど。

村上春樹の小説にかんしては、『海辺のカフカ』あたりからその状況ははじまっていたのかもしれないが、とりあえず社会現象レベルでバカ売れした『1Q84』と『多崎つくる』以外の小説はすべて読んでいる。全集にしか収録されていない短編まで、図書館などを使ってということだが、ほとんど隈なく読んでいる。だから、いちおう村上春樹ファンといっていいとはおもうのだが、肝心の(と社会的にはおもわれるかもしれない)『1Q84』とかを読んでいないのは、じぶんでもよくわからない。これらは実は買ってあるものだ。床に積んである未読本のタワーのどこかにまぎれているのである。だけど読んでない。

よくわからないといいつつ、理由ははっきりしているのかもしれないともおもう。というのは、要するに、僕は村上春樹が好きだから、しっかり読みたいわけである。その上、ブログをはじめてからは、読んだものについては必ず書評を書くようにしていて、それは10年近く実行されている。とすれば、『1Q84』を読んだ僕はそれを書くことになるにちがいない。しかし、全国の読書家のほとんどが読んだといっても過言ではないこの本について、僕はどれだけのことを書けるのか、好きであるはずの村上春樹についての浅い理解が露呈してしまうのではないか、そして自分自身認めたくないその事実に直面することになるのではないか、などなど、非常にたくさんのことが気にかかるのである。くだらないといえばくだらないが、それに加えて『1Q84』なんかはやたら長いということもある。そういう感情がごっちゃになって、結果「まあ今度でいいか」となっているのではないかと自己分析している。

 

本書は短編集なので、その意味でいえば手に取りやすかったし、あんまり難しいことをちまちま考えなくてもよいぶぶんもあって(それはどちらでもかまわないわけだが)、さらっと読むことができた。ほんらいの読書はこういうさらっとした、斜め読みさえ含んだ、食べ物を消化するような読み方が資本になっていくものなので、ほんとうは、毎回書評を書くというような読み方は、どちらかというと不自然なのではないかとも感じている。でもこれは、僕が自分自身の訓練としてはじめたことなので、しかたないともいえる。というわけで、ファンであるぶん、村上春樹の本にはどうしても構えてしまうが、そこはあきらめて、なるべく短く、さくっと記事を済ませるよう努めたい。

 

村上春樹はじっさいかなり几帳面な性格でもあり、大長編をほとんど定期的といってもいいペースで発表しつつ、あいまにまとまった息抜き的短編小説を書くということをくりかえしている。本書は『1Q84』や『多崎つくる』のあとの休息期間ということになるだろうか。最近作でなくても、『羊をめぐる冒険』以降の長編は非常に緻密な構成で編まれたハードな作品が多く、近頃は社会情勢に反応した発言も多くなってきているので、これほど内向的というか、ナイーブというか、個人的な小説が、まだ書けるのだということにまず驚いてしまった。世界的な大作家になりはしたけど、村上春樹は村上春樹で、あくまで個人の人間から文学を出発させるという点で、変化はないのである。

 

短編集としては、『回転木馬のデッドヒート』からはじまり、『神の子どもたちはみな踊る』とか『東京奇譚集』もそうだったかもしれない(うろ覚え)、作中で作者らしき人物がある人物の奇妙な、また個人的なはなしを聴いて、それを文章にするというスタンスを定着させているようである。もちろん例外はあるが、中心となる長編小説が語り手である「僕」の物語であることが多いのに比べて、「僕」がはなしを聞いたり、あるいは作中の人物として「僕」は登場しないが三人称的に語られたりという形式が多いようにおもわれるのである(『アフターダーク』あたりから一人称からの脱却を図っている感じがあり、聞くところによると『1Q84』では完全に三人称で書いているようである)

本書ではみな、なんらかの事情で「女」を失うことになった男たちのその後の顛末を描いている。これじたいが実に村上春樹らしい比喩的な状況であり、若いころの作品についてはさかんにいわれていた「喪失感」の表現にぴったりしたものにおもえる。が、もう村上春樹はそこにはいないようでもある。

 

 

どれも非常に深い作品ばかりだが、特徴としては、どの主人公、つまり語られる人物も、家福(かふく)や渡会(とかい)や木樽(きたる)など、変わった名前であるということがあるだろう。これらの名前になんらかの暗号が隠されている可能性もある。加藤典洋ならなにかあっと驚くような法則を見つけるかもしれない。しかしここではその探索はしない(できない)。このことについては、村上春樹のいままでの作品と比べてみたほうがよいかもしれない。たいていのばあい、村上春樹の作品では名前が重要ではない。重要な場合もあるし、それじたいが文学的韜晦である可能性もあるが、ある人物の名前が、読み終えてから振り返って探さないとわからない、ということは、まあよくあることである。名前がわかっていても、カタカナだったり、あだ名みたいなものだったり、その人物の実存に直結するようなものではなく、ひととひとの関係性における呼称に過ぎないものとして、名前が扱われているようなところがあったのである。そうしたことを踏まえてみると、これらの特徴的な名前はいかにも思わせぶりである。これらは、語られる物語が、その人物固有のものであることを強調しているようにおもえるのである。

そうした一連の「女のいない男たち」を描いた最後に、単行本書き下ろしで、総括的に、もっとも抽象的で短い表題作が収録されている。これは語り手「僕」じしんにおける女を失う経験であり、物語の動性よりも、その事象がもたらすことがらについての感想のような、短いが難解で、そしていかにも重要そうなものになっている。そして、村上春樹には珍しく、「一角獣」という、あきらかにペニスを比喩である事物について、その意味を問うというぶぶんがみられるのである。メタファーをメタファーのまま放置して浮かせるのではなく、主人公が「一角獣」をある状況で選んだその意味を、要はそういうことなのだろうと、主人公じしんに推測させているのである。想像だが、おそらく、作家として「女のいない男たち」という状況についての直観がまずあり、いくつかのすばらしい短編が誕生した。そしてそのあとに、それはなにをあらわしているのかという問いがようやく立ち上がったのである。「女のいない男たち」がなにを示すかが最初にあってから、物語が立ち上がったわけではないのだ。

 

 

そうしたわけで、最後にその抽象的な、物語といっていいのか、短い一篇が挿話されることで、文字通り本書は一冊の作品として総括される。「女のいない男たち」というのは、ある特定の男たちに訪れた特定の状況なのではなく、ある意味では普遍的な状況であり、男たちは普遍的に女を失っているのである。しかし、かといってその各自における「女を失う物語」は、どれも似通っていない。それぞれが、それぞれのしかたで、女を失う。それが、例の特殊な名前の設定にあらわれているのではないかと考えられるのである。

「女のいない」という状況がどういうものか、ひとくくりにするのは難しいわけだが、最後のその短編においては、14歳のとき、生物の授業で、消しゴムを忘れた語り手がエムという女の子に貸してくれないかと頼んだら、もっていた消しゴムをふたつに割って渡してくれた、という状況に集約されているようにおもわれる。この「14歳」のエピソードも、エムという女性との関係の、本来あるべき出会い、という、複雑なしかたで仮定された状況であって、じっさいに語り手がエムとそういうやりとりをしたことがあるわけではない。なぜこんな遠回りな比喩をする必要があるのかというと、語り手がそれ以降その消しゴムを持ち歩くという状況がなければならないからである。うまくいえないのだが、彼は、エムと出会う以前から、エムについてかつえている。エムという存在を知る前から、エムについての欠落が、そこにはあったのである。エムというものが、失われる女というものについての仮説みたいなものだ。「女のいない男たち」は、ある時点から普遍的なものと感じられるようになるが、じっさいにはそうではない。ある女性を深く愛し、それを失わなければ、「女のいない男たち」は生じない。それはまちがいない。けれども、おそらくは、「男」というものが、実は最初から潜在的に「女のいない」存在なのではないだろうか。

 

 

 

本書タイトルに影響を与えたヘミングウェイの「Men Without Women」は、高見浩の訳では「男だけの世界」ということになっているようである。もし本書の英語タイトルが同様のものだとしたら、そこに「喪失」のニュアンスはどれくらい含まれるだろう。とりあえず、まえがきによればヘミングウェイのほうはせいぜい「女抜きの男たち」というところのようで、失うという響きはなさそうである。直感的な感想になるが、おそらく、ここで重視されているのは失うことそのものではないのではないだろうか。じっさい、男たちの孤独や傷をそこに見出すことはできても、あの『ノルウェイの森』のような繊細な「喪失感」は、それほど強くはない。それよりも、そのことによって男たちがどのような反応をして、どのようなふるまいをとるのか、そういうことのほうに目線があるようにおもわれるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説なのだから、エムの消しゴムの件について、それを仮説であるとする必要はないはずである。じっさいにエムとのそういう思い出があり、彼女を失い、消しゴムのかけらが彼自身におけるエムのためにとってあった場所を表象していると、そういうふうになっていればよいはなしである。しかしそうならず、わざわざこれがまわりくどい(というかほとんど“わかりにくい”)仮定のはなしになっているのは、大人になってから出会ったエムという象徴的な人物との関係性が、過去の記憶を遡って改竄させるほどの必然性を「男たち」に感じさせたからではないかとおもわれるのである。しかもその必然性は、たぶんエムにかんして満ち足りているときには知覚することができない。「男たち」は、エムを失って、二度と手に入らないと悟ったときにはじめて、じぶんの内側にエムのためにとっておいた場所があったことを知るのである。それが、仮定の次元で消しゴムを半分分け与えてもらう、という、体験の改竄につながっていく。そうとしかおもえない、つまり、エムと出会う前から、エムの場所がとってあったのだとしかおもえない、そう考えたとき、「男」は「女のいない男たち」という複数形に回収される。最初から「男」は“つがい”をもたない一角獣である。が、そのことに気がつけるのは女を失ったあとなのだ。だから、忘れた消しゴムを、じぶんのものを割ってまで「女」から渡してもらうという経験が、仮定されなければならなかったのである。

 

 

「蛍」という短編はのちに膨らんで「ノルウェイの森」になったが、本書では「木野」なんかは、長編に膨らむ余地があるように感じた。このじてんではまだ緻密な構成というほどではないし、即興的なぶぶんもかなりあるようである。男が女を欠落しているというのがどういうことかというのは、ひょっとするとこのあと、長編のかたちになって語られることになるかもしれない。というかそれは期待している。