■『夜を乗り越える』又吉直樹 小学館よしもと新書
![]() | 夜を乗り越える(小学館よしもと新書) 886円 Amazon |
「芸人で、芥川賞作家の又吉直樹が、少年期からこれまで読んできた数々の小説を通して、「なぜ本を読むのか」「文学の何がおもしろいのか」「人間とは何か」を考える。また、大ベストセラーとなった芥川賞受賞作『火花』の創作秘話を初公開するとともに、自らの著作についてそれぞれの想いを明かしていく。「負のキャラクター」を演じ続けていた少年が、文学に出会い、助けられ、いかに様々な夜を乗り越え生きてきたかを顧みる、著者初の新書」Amazon商品説明より
『火花』で芥川賞を獲得したピース・又吉直樹による「なぜ本を読むのか」本だ!
火花を発表される前から読書家としては有名で、帯文や解説なんかも書かれていたとはおもうが、まとまったものを読むのはこれがはじめてである。つまり、火花はまだ読んでいません。読みたい気持ちはあるけど、ほかにまだ読まなきゃならないものがたくさんありすぎて・・・。というのは表面上の言い訳で、芥川賞を獲ってしまった「火花」を読むということにはこわさもあり、僕のばあいは読んだら必ず書評を書くし、ふつうの受賞作とは比べ物にならないくらい多くのひとが読んだそれをきちんと読み込めるのかという恐怖もあって、後回しにしていた感じだ。だから、文庫化したら読もうかなぁというようなつもりでいたところ、読書家としての又吉直樹が本について書いた、いかにもとっつきやすい本書が発売されたので、手にとってみた。
いくつか解説も読んだことがあるけど、このひとの読書はほんもので、ポーズでもなんでもなく、僕なんか比較にならないくらいたくさんの本を、深く、時間をかけて、くりかえし読まれている。量的な面でもそうだけど、好みのぶぶんにかんしても、見事にかぶっていないのである。
じぶんを救ってくれた文学というものへの感謝もあるのか、あるいはたんにそれが有効なものなのであるということを訴えかけたいということなのか、文学、というか「本を読む」ということにかんしての、業界への協力的姿勢はたいへんなもので、帯文、POPなどに記されたコメント、また解説など、特に書店で働いているとそのことをひしひしと感じる。芸人が小説を書いて、芥川賞をとりました、という、それがもたらすさまざまな祝いや呪いのことば、それはとりあえず意識しないものとして片付けつつ、事実として、芸能人である又吉直樹が、純文学作品として小説を書き、話題になったということがあるわけである。たくさんの、ふだんは本を読まないひとたちが書店を訪れたはずだし、もしかしたらこれを機会にそれが習慣となっていったかもしれない。そういうひとたちの背中を押すような一冊なのだ。なにかこのことを考えていて、現在のヒップホップ業界にも通じるものがあるなあ、などとも感じた。ひとむかし前のヒップホップの世界では、ディスソングといえば「セルアウト」といって、売り上げだけを目的としたような大衆向けの音楽が攻撃の的となったものである。そのマインドじたいは、ヒップホップ的感性として、いまもあるし、否定すべきものではないと個人的にはおもう。Kダブシャインや般若のディスり曲が業界の良心として様式を守っていたぶぶんは、たしかにあったとおもうのだ。しかし、これはR‐指定というラッパーのいっていたことだが、そういう野暮なことはとりあえずおいておいて、なんならみんなで協力して、いまはとにかく売れようよと、そういう意識が、業界全体で高まっているのである。
文学の世界でも似たようなことはいえて、文壇的良心が業界を閉鎖的にしている可能性はあり、これまで全然本なんか読んだことのない中学生が、ちょっと国語の教科書で読んだ芥川龍之介に感動して、業界に踏み入ってみたが、そこにうずまく批評的言語は難解なものばかりであり、じぶんの読みがまるで浅いものであるかのようにおもわれ、やがて書店からも足が遠のいてしまう、なんていうことはよくあるとおもうのである。文壇が文壇的良心を維持しようとするのもプロ意識ではある。しかし、そうすることによって、たとえば本のような媒体自体の存続が危ぶまれているとしたらどうだろう。文壇は、文壇の抱える信念にしたがって、消えゆくものと心中すべきなのだろうか。こうした状況を踏まえたうえで、新しい表情の「プロ意識」が生まれてくる。それは、ひとことでいえば、とにかく読んでもらおう、とにかく聴いてもらおうということなのである。
又吉直樹は芸人でもあり、たくさん悔しいおもいや苦しいおもいもしている。そうしたうえで、芸人としての目線から、表現をしていくという職業について一定の目線がある。それが翻って、説得力のある「プロ意識」となっている。だから、芥川賞をとったじぶんという媒体をつかって、業界に協力していこうという「プロ意識」が、本書を書かせる動機(と目的)のひとつではあるが、それを覆いつくすほど感じられるのが、例の強烈な太宰愛である。厳密にいえば太宰愛というより読書愛だが、細部に限っていえば、それは太宰に向けられたものだ。じぶんはこうやって太宰を知り、救われ、人生を乗り切ってきた、あなたにとってそれは太宰じゃないかもしれないけど、だから、おもしろい本というのはいっぱいあるから、とにかく本を読んでください、というかできたら太宰を読んでくださいと、それだけを語っているのである。しかし、それだけでは伝わるものも伝わらない。本書では、筆者の真面目な性格がよく出ているところだが、紹介している作品について、肝心なところの引用ができるだけ避けられている。いわゆる意味でのネタバレを回避しているわけではない。文章をひとつだけ抜書きしても、なにも意味はないからである。通して小説を読んできて、その先にあるから、そうした文章が突き刺さってくると。同じことが、随筆とはいえ、本書にもあてはまるだろう。太宰愛をただ語っても、たぶん伝わらない。じぶんがどうやって、どういうタイミングで太宰と出会い、どう読んだか、それをつぶさに書いていこうと、そう試みたのが本書なのだ。
こういうひとであるから、じぶんがどれだけ賢いかをアピールしようとするような文章ではないし、知識自慢をするのでもなく、非常に平易な、それでいて熱い、読者に適当な敬意の払われた文体である。が、最初のうちはなにかへんな感じがしていた。しばらく読んで、随所に関西弁がツッコミ気味に混ざるのを見るうち、ああこれは口語体なんだなと、当たり前なんだけど気がついた。対象の作品を読み返して引用したりしないといけないから実際はそうもいかないのだが、これはたぶん、論文を書くようなスタイルではなく、じぶんで語ったものを録音して、文字に起こすようにして書かれたのではないかと、そう考えたのである。僕はテレビをほとんど見ないので、失礼ながらお笑い芸人としての仕事を拝見したことはあまりないのだが、なんとなくぼやっとあたまのなかにいる又吉直樹の語り口調(見たことがまったくないわけではないので、再現できないこともない、とおもう)で本書を語らせると、実にしっくりくるのである。ああ、ここは、又吉があの感じで淡々としゃべったら「どっ」となるところだろうな、とか。そうすることで、文章は熱を帯び、ほかならぬ又吉直樹が書いているのだということが読者に伝わることとなる。が、それと同時に、なにかたくらみめいたものも感じないではなかった。具体的にいうと、接続詞とか、あとは英語でいう関係代名詞みたいな、文章と文章をわたすブレス記号みたいなものが、極端に抑えられているように感じたのである。思いついたことが、ひとつの文章で完結しつつ、ですます調で並んでいるという印象だろうか。こうあたまのなかで考えてみて、これはねじめ正一が「長嶋少年」でやっていたことだとおもいついた。おもえばあの本の解説も又吉直樹だった。くわしくはリンク先を読んでもらうとして、雑にいうと、「長嶋少年」では、小学生の思考を詩人(小説家)が整理して作品にする、という方法がとられていた。小学生が文章を書いても、あんなふうにはならない。にもかかわらず、それを読んだわたしたちはそれが小学生の文体だと錯覚してしまう。それは、詩人が小学生の思考法で小説を書いているからなのだと。
なにしろ肝心の「火花」を読んでいないし、ふだんの又吉直樹の文体は知らないので、こんなことをいってもあまり意味はないのかもしれないが、そう考えると、これは筆者がみずから選んでそうしている文体なのではないかともおもえるのである。あるいは、自然とそうなってしまった、ともいえるかもしれない。どういうことかというと、本書の目的は、読者に「太宰読んでみたい」とおもわせることなのである。批評家が、批評的スタイルで作品を読み解き、その作品がどれだけすごいかを表明するのは、それはそれで誠実な仕事である。僕もそのつもりでブログを組み立てている。しかし、ふだん批評なんか読まないひとは、そんなものを読んでもちんぷんかんぷんかもしれないし、なんでそんなややこしい読み方をするのかとなってしまい、そんなものが文学なのだとしたら別にいいやと、逆に足を遠ざけてしまう可能性さえある。
ではどうすればいいのかというと、ちょうど発売されたばかりの、施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』の3巻でやっていたネタで、本を読み終わったひと、あるいは映画を見終わったひとが、その直後、それがどれだけおもしろかったかを友人に向けて夢中になって語る、あの方法なのである。バーナード嬢では、主人公が読み終えた『羆嵐』という小説について、友人に向けて支離滅裂ながら熱のこもったレビューをし、それがじっさいおもしろそうで、それを見ていた別の子が、今度ビブリオバトルに出ないかと持ち出し、ためしにやってみるが、なんかこじんまりしてしまってうまくいかない。「どんなに優れたレビューよりも友達が楽しそうに喋ってる姿を見るほうがずっと強く『読みたい』と思わせられる」と、そのようにみんなは気がつくのである。又吉直樹が狙った(あるいは結果として自然とそうなった)のはそういうことではないだろうか。それは、後半に中二病について言及したあたりでくわしいが、過去のじぶんの感性を大切にするということだ。太宰にはじめて出会って感動したときの気持ちをよみがえらせ(あるいはかってによみがえり)、そのときのピュアで子どもじみて揺るがしがたい気持ちの様子が、文章にのりうつっているのである。
タイトル『夜を乗り越える』の「夜」というのは、具体的には太宰治がみずから命を絶った「夜」を意味している。心中の動機については諸説あるが、もしその夜を乗り切っていたら、また太宰は新しい小説を書いていただろうし、なんならこのひとの十八番である「新しい小説が書けない」という小説を書けばよい。しかしそれもこれも、その夜を乗り切らないことには、起こり得ないことだ。小説はその助けになる。じぶんのことが書いてあると「共感」し、またじぶんの知らない感性をそこに発見することで、こたえを決め付けることはないと、僕もなんでも小説を読むたびに感じている。「火花」で読書というものに興味をもたれたかたはぜひ本書を手にとって読んでほしいです。
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