第131話/命の両断
槍を囮にした蹴りで武蔵のダウンを奪い、とどめをさそうとした本部なのだが、武蔵には動きを制限するダメージというものがなかなかあらわれない。ドアがはずれてすべてのガラスが粉砕するような事故にあっても、エンジンなどが無事であれば車はふつうに動くのと同じく、脳震盪を起こしても、武蔵は反撃できるのである。
武蔵の刀は本部の腹を通ったが、着込んでいた鎖帷子が、刀の刃としての効果を弱めた。しかし、防弾チョッキをきていても強力な銃弾が打ち込まれれば骨折してしまうのと同じく、それでも衝撃は伝わる。本部はそれで深刻なダメージを受けてしまうのであった。
今回は回想シーンからはじまる。武蔵が前の人生で晩年を過ごした熊本城の城主、細川忠利という人物が、武蔵になにかをやらせようとしている。武蔵の前に立ったのは新作だという兜をかぶった太めの男だ。男も、武蔵を前に緊張しているし、別に敵意らしきものは感じられない。ただ、見た目よりなにか含むものはありそうである。
細川忠利は現代の光成と大差ない趣味のようで、関の刀匠に打たせた極上の鋼鉄製の兜を、武蔵に斬ってもらいたいのである。兜の強度を試して確認しようとしているのではなく、武蔵のすごさを再確認したいというほどのことのようである。つまり、忠利的には、兜の強度は相当信頼のおけるものだということだ。じっさい、置いた兜を木刀や真剣で叩いても、かんたんにハネ返されてしまうのである。
忠利は、これを割れるかと訊ねる。武蔵は兜を観察し、さすがは関の刀匠、一刀両断とはいかないだろうと応える。それを聴いて、兜をかぶっている男がちょっと笑う。たんに安心しただけだろうか、なにか嫌な雰囲気もないではない。
ただ、と武蔵は続ける。命の両断なら、難しくはないと。さっそく武蔵がかまえはじめたので、兜の男は焦って「お手柔らかに」という。ふつうの反応だとおもう。しかし武蔵はそれを聞きとがめ、戦場でそういうつもりなのかと言い放つとともに、真上から刀をふりおろす。男はひどい状態になる。顔がからだにめりこむほどの衝撃で兜ごとあたまを割られ、おそらく即死しているのである。
武蔵は、「峰打ちで事足りたか」と感想をもらす。いっしゅん、峰打ちをしたということかとおもったが、ふりおろしているときの絵を見ると、ふつうに刃のほうで切っているようである。要は、兜を割るだけなら、刃をつかわず峰打ちでじゅうぶんだった、という感想のようだ。
防具ごとひとを斬る、みたいな描写は、前もあったような気がするが、その防具がそうとうな名品であっても、武蔵には同じことである。くさりかたびらは切れなかったが、それは斬るまでそのことに気づかなかったからかもしれない。武蔵は腹を滑らすように刀を放ったのである。
そんな斬撃が本部の左手を切る。本部も具足を装着しているが、手首から先がだらんと垂れ下がる。出血は見られない。くさりかたびらと同じ要領で、すさまじい衝撃で骨が砕けたか、あるいは具足がなかに血をためるような状態になっているか、不明である。いずれにせよもう左手は使えない。
ガイアは「ムリだ」という。ツルハシで防弾チョッキをぶっ叩けば、チョッキを貫かなくても、そのものは死んでしまうだろう。相手は宮本武蔵なのである。それをもらえば、防具をつけていても確実にやられてしまうと。いや、そんなこと本部もわかってるでしょ。防具はあくまで「一応」であり、本部だってそれを信頼しきって、回避行動を怠っているわけではないのだ。
残った右手で本部はふところから鋲的なものを取り出し、投げようとする。本部もまだ武器はもっているとおもうが、刀の間合いぶん、武蔵の距離であり、本部は投げなければ攻撃できないのかもしれない。しかし、振りかぶると同時に武蔵が本部の両足を斬る。足にも具足は装備されている。が、これもまた、出血はないが、不自然な方向にすねあたりから折れて、本部は地面に落ちてしまう。切れてるのかどうかはやはりわからないが、これでもう立つこともできない。続けて刀が本部の右側の鎖骨を打つ。勇次郎が天内に打ち込んだ手刀くらいふかぶかと刀が食い込んでいる。
立ち上がったバキが勝負ありを叫ぶ。試合をとめろと。しかし、本部はまだなにかあるような雰囲気だ。大ダメージであるにはちがいない。もうろくに動けもしないだろう。けれども、いま試合を止めたら、みんなを守護れないと、内心で小さくつぶやくのであった。
つづく。
烈の前例があるから、本部がこのまま死んでも不思議はないのだが、それでもやっぱりショッキングな展開だな。なんというか、本部って武蔵が出てこなければ脇で驚いていたり解説したりする役回りだったわけで・・・。
本部は、いま試合をやめたら守護れないと考えている。彼の考える守護がどの段階のものか、つまり、バキたちの盾になるか、ジャックのようにバキたちを倒して武蔵への歩みをとめさせるか、あるいは武蔵じしんを打ち倒すか、どのことをいっているのか不明だが、いまのこのたたかいは武蔵を倒すこと=守護という主旨で行われているので、つまりまだ倒す気でいることになる。もう両手足は動かないはずだ。このあと本部になにができるというのか?考えられることとしてはすぐに自爆ということが浮かんでくる。本部の目的は武蔵に勝利することではなく、これを打ち倒すことである。だから、相討ちでも、武蔵を動けなくすることができれば、目的は達成される。そして、それができるのは自分だけであるということだったから、本部は生きていても死んでいても、それを証明することになるのである。
また、このたたかいにはいくつか不自然な展開があった。たとえば、奪った刀を返したことであり、そしてそれをまた奪おうとしたことであり、また最初に刀を奪ったとき、煙幕玉をふたつも投げたことである。毒を用いる柳を圧倒した本部であり、げんに今回、タバコと酒には毒がもられていた。ああした煙のなかになにか遅効性の毒が含まれていないとは言い切れないのである。
武蔵にはひとを斬りたい欲求が強くあった。今回の回想シーンだが、あれはいったいなんなのだろう。ふつうに読むと、武蔵の異常性が際立つ感じもする。もしあの兜をかぶっていた男が細川家の侍とかだとしたら、不幸としかいいようがない。たんに兜の強度で武蔵を試すだけなら、ひとにかぶせる必要はないのであり、何度か試したというすえもの切りをさせれば済むはなしである。歴史にはくわしくないので考察のしようがないが、そもそもこの男は、下手人とかではなく、ふつうの善良な侍なのだろうかということもあるし、細川と武蔵の関係は良好だったのだろうかとか、細川家のほかの面々は武蔵のことをどうおもっていたのだろうかとか、ググったくらいではわからず、なんともいえない。そもそも、くりかえすように、細川が兜を人間にかぶらせた意味が不明なのである。
細川としては、兜の強度にはかなり自信がある。まさか武蔵がそれを叩き割ってしまうとは、想像していなかったのかもしれない。だとすれば、それをつけていれば、なかの者は安全だ。死ぬことがないのなら、とりあえずそれをつけた状態でどれほどの衝撃になるのかも確認したい。くさりかたびらからの流れもある、武蔵の攻撃は防具を通り抜けて人間に到達するものである。細川はそれを確認したかったのではないか。
では武蔵としてはどうだろう。武蔵は57歳のときに細川家の客分となったそうだから、これは1640年以降のことで、関ヶ原が1600年、幕府が開かれたのが1603年であるから、江戸時代もけっこうすすんでいる。年長者というのは若者をバカにするものである。戦国の世を知っている武蔵が、その伝統を引き継ぐ江戸時代における侍のありようを見てなにをおもっていたのか、そのへんがポイントかもしれない。武蔵的には、江戸の侍はずいぶんふぬけたものだったのではないか。そこへ、兜の男のお手柔らかに発言である。そもそも、そんな試し切りみたいなことじたいが、武蔵にはアホらしい。光成が独歩にそれをやってもらいたがり、独歩がそれに応じるのは、そこにはいちおう敬意とか賞賛のまなざしがあるからだ。けれども、細川はおそらくそうではない。たんに「もっとも刀を力強く振れる知人」くらいの意味合いで、武蔵を呼びつけたのではないか。そうなれば、武蔵も最初からイライラしていたはずである。そこへきて、まるで死ぬ覚悟もない侍が兜をつけて斬られ待ちしているわけである。そうとらえれば、この惨劇もそれほど人道に背いた、少なくとも武士の思考に背いたものではないのかもしれないとおもえてくる。
武蔵の技術は江戸時代であってもすでに見誤るものが出ているくらい人間離れしたものであった。ガイアが「相手は刀を手にした暴漢ではない」と指摘するのは、細川家での一件を物語的に踏まえたものだ。防具ごと斬るか、防具を伝達して衝撃が伝わるか、結果はどちらでもよろしい、兜なんかで、具足なんかで防げる攻撃ではないのだと、そういっているのである。
しかし、くりかえすように本部はべつに武蔵の攻撃力を見誤った結果、こうなっているわけではない。本部だって具足なんか通用しないことは理解していただろう。しかしだからといって普段着で挑むわけにはいかない。やれることは全部やらなくてはいけない。げんに、本部はくさりかたびらを着ていたおかげで、ダメージを受けはしたものの、腹を斬られて内臓が出てくるというような状態は回避できたのである。
本部が武蔵を見誤るはずはない。両者は、互いに正当な評価をくだすことのできる唯一の存在なのである。いままでいいところのなかった本部は、武蔵が登場したことで、その価値を知るものはじぶんしかいない、対応できるものはほかにいないということで立ち上がり、げんにこうして善戦している。それは武蔵も同様である。武蔵のすごさ、強さを計ることのできるものさしが、現世にはない。現代の格闘技術の水準を戦国時代に持ち込んでも、そのすごさを誰も理解できないにちがいないのは、文脈がないからである。武器を禁止し、ルールを設けることで技術的に高度に発達した素手の格闘技を戦国時代に持ち込んでも、真にその価値を発揮することはできない。刀を、鉄砲を持ち出せば済むことだと、誰もが考えるからである。極真空手では顔面への手技を禁止しており、それはいまもむかしも議論の的となっているが、それが、下突きや下段蹴りなどの技術を発達させたことは誰も否定できない。顔面パンチのあるルールで、相手の足を蹴り折ろうなんていう発想は出てくるはずがないのだ。しかしそれを、顔面殴打が基本であるキックボクシングなどの文脈に持ち込んでも、正当な評価は期待できないだろう。推測することはできる。しかしそのためにはたしかな眼識が不可欠であり、それであってさえも、それによく似たものさしを持ち出しているだけのことであって、それにふさわしいものさしが別に用意されることはないのである。
それを、本部だけが保持する。本部だけが、武蔵の刀の一振りを、強烈な、また鋭利な打撃の量的拡張ではなく、それ固有の価値を含んだものとして評することができる。このたたかいがどういう結末をむかえるかは予想できないが、たぶんそのときには、本部の守護道は完成しているにちがいないし、武蔵は完全に宮本武蔵としての価値を満たすことになるだろう。
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