第102話/似(かぶ)る
寝ているところを張り手とイメージ刀で起こされ、ピクルが武蔵に襲いかかった。直感的に、どの人間がそれを行い、そしてじぶんはどうすべきかを理解したようだ。
大きく開いたくちに武蔵の手刀がねじこまれる。これは奥義である無刀なのか、たんに刀がないから手をつかっているだけなのか、よくわからないが、いちおうダメージはあるようだ。ピクルはくちを抑えて苦しみ、目が血走っている。
武蔵はピクルをじぶんに劣らぬ獣だと評する。起きるなり襲いかかる理性の薄さと、噛みつき攻撃のことをさしているのだろうか。武蔵はじぶんのことも獣と認識しているようである。
接近しつつあるピクルを、武蔵が迎え撃つ。最初の段階では、刀をふりかぶるときのあの、人差し指だけで保持しているような状態でいるものが、接近したピクルを攻撃するときは手刀になっている。要するになにを行ったのかということがよくわからない。ただ、描写の印象としては、これまでのイメージ刀と同様、画面が暗くなって、なにかこう、衝撃のようなものがピクルのからだから出ているのが見える。とおもいきや、攻撃後の武蔵はじっさいに手刀をつくっており、攻撃しつつ移動したのか、攻撃前とふたりの位置は入れ替わっている。
ピクルはその攻撃で体中を斬られてしまった。といっても、これがなにを意味するのかは、やはりよくわからない。武蔵の剣は甲冑ごと造作もなく両断するほど強力なものである。しかしピクルはそううまくいかない。肉の弾力が、ものがちがう。筋肉の下にある内蔵や骨に、剣が達しないのだという。深手を与えたつもりだったが、すでに痣を残すのみだと。ふうむ。この痣は、“実際の”痣なのだろうか。「もはや痣を残すのみ」という言い方は、ふつうしない。あざというのはふつう、衝撃の結果そのものであり、段階のことではない。としたら、これはイメージ攻撃の一種ではあるのかもしれない。ただ、たんに目線で、イメージを交感することでやりあうこれまでのものとは異なって、実際に武蔵が動いて、手をつかって、イメージを与えているのである。
いっぽうピクルは、じぶんの生きていた白亜紀のことを思い出していた。長大な樹木のてっぺんにある葉を食べるような、じぶんの100倍以上の相手とたたかってきた困難な日々にあって、ピクルにも苦手な、というか嫌な相手がいた。何十トンとあるような恐竜に比べたらいかにも軽い、ピクルと同じくらいの大きさの恐竜である。しかしすばやく、ピクルの攻撃はなかなかあたらない。そして、厄介なのが爪であった。特に後ろ足についている長い爪は、人間の指のように自在に動いてピクルのからだを切り裂いてしまう。諸説あっても、やはり最強の恐竜といえば、ピクルにとってもTレックスだったかもしれない。しかしTレックスはときに死肉をあさることもあった。しかしこの恐竜はちがう。つねにいきのいい、じぶんより大きい恐竜ばかり狙って挑みかかっていたのである。ピクルはその恐竜、デイノイクスのことを思い出し、武蔵とイメージを重ねていたのだった。
つづく。
読みつつ、ヴェロキラプトルのはなしをしているのかとおもったら、聞いたことのない名前が出てきた。調べてみるとたしかに近縁種、あるいは同一種であるということだ。大きさなど異なっている説もあるが、ジュラシックパークなんかが撮られたころは同一種という説が強かったみたい。
ジュラシックパークに登場したヴェロキラプトルとデイノニクスでは、ちがうとも同じとも言い切れないわけだが、しかしピクルの感想を見る限りでは、これはあの映画に出てきたラプトルとほぼ同じと考えてもじっさいまちがいないだろう。ちがいは、集団で相手に襲いかかるという描写がないということだろうか。映画では、各自の知能や戦闘能力に加えて、ボス格のようなものがおり、よりすぐった自身を含む3匹のみを残し、あとはぜんぶ殺してしまった。そして、その3匹はほとんどチームといっていいような攻撃を仕掛けてくるのである。ピクルの知っているデイノニクスがそうした戦法をとっていたかどうかはわからないが、しかし、見たところ、ピクルが武蔵を通してデイノニクスを感じたその原因のところには、映画におけるラプトル同様の狡猾さがあるようである。たしかに、爪は強力だろう。しかし、たんに破壊力だけみれば、Tレックスの顎をしのぐとはとてもおもえない。そういう問題ではないのだ。正面からぶつかって、正面から返ってくる相手ならよい。しかしラプトル(デイノニクス)はそうではなかった。いやらしく、ずるく立ち回り、ここぞというときであの鋭い爪をくりだしてくる。そういう相手だったのだ。
武蔵の攻撃がなんだったのかはけっきょく謎である。ただ、うえで少し見たように、直観的には、イメージ刀の要領でじっさいに手刀をあてがって攻撃をした、というところではないかと考えられる。ピクルは、コミュニケーションにおいて言語をもちいない。彼が他者をそれとして認識し、なんらかの価値を見出すのは、たたかって食すときだけである。生身の接触のみをたよりに、相手のなんたるかを認識するのがピクルのやりかたなのだ。だから、あれだけ世話になりながら、光成やペインについてピクルがどういう感想をもっているかはよくわからないままだ。というか、ピクルは彼らについてなんの感想も抱きようがないのだ。
仮にそうだとして、もし武蔵が、ピクルの起きているときに純粋なイメージ刀をくりだしていたらどうなっていただろう。ピクルは寝ていながら、武蔵のアプローチを感じ取った。おそらく、武蔵の殺意のようなもの、そしてその鋭さに身体のセンサーのようなものが反応し、たいていのことでは目を覚まさないピクルを覚醒させたのである。それは、なんというかかたまりのようなもので、ピクルはあるいは、武蔵のイメージ刀が首に向けられたものだとは気づいていなかったのではないか。じっさい、ピクルは首を斬られて目を覚ましながら、特に首のあたりを気にしているような様子はなかった。それというのは、おそらく彼が生身の接触のみを手掛かりに闘争を、つまりコミュニケーションをとっているからなのである。彼が武蔵のイメージ刀を、武蔵が想定するほど細やかに理解できない可能性はじゅうぶん有り得るとおもわれるのである。今回のように、相手のなかに類似した恐竜のライバルを見出す、という表現はこれまでもたくさん出てきた。たんにピクルが現代にきてから闘争しかしていないということもあるが、それらもまたすべて闘争の記憶であり、わたしたちが前後の状況やその記憶における事物の濃淡や凹凸を言語で理解するように、ピクルは闘争の起伏を記憶し、彼の知性における要素としているのである。じっさいのところ、イメージ刀を詳らかに受け取るためには、技を受ける側にもそれなりの読解力が必要だろう。一般人といってもいい警官がこれを受けていたこともあったが、以前書いたように、僕みたいな色帯の素人でも、稽古をくりかえしていくうち、相手の肩の動きなどにからだが勝手に反応して、次にやってくる上段廻し蹴りをさばけるようにもなるのである。武蔵レベルの達人になると、視線や表情にそうした兆しを宿すことも可能なのだろう。そうとしか考えられない。しかし、生身の接触を手掛かりに他者を認識するピクルは、そもそも「イメージ」などということを理解できるだろうか。わたしたちにも同様のことは普段から起こっている。言語体系というのは、丸山圭三郎の比喩を借りれば、砂浜のうえに落とした大きな網である。網目でわけられたそれぞれの四角形が言葉であって、その広さのことをソシュールは価値と呼んだ。まず、世界という連続体があり、それを、言語の網目で区切っていく。創世記ではアダムが森羅万象のもろもろに命名していくが、そうではなく、となりあったよく似た事物との差異によって、その内容は決められていく。おもにネットスラングなど、ある種の人物を小ばかにした表現で顕著なのだが、たとえば「DQN」とか「意識高い系」とかいう言葉をはじめて聞いたときには、正直いって一種の感動を覚えたものである。いままで、たとえば人括りに「ヤンキー」と呼んでいたような種類のひとたちをさらに細分化、あるいは新しい要素を含んで、そうとしか表現しようがないものを言い当てていたわけである。
ピクルからしてみればまず武蔵のような動きじたいが新鮮なものであるだろうし、その細部を飲み込むことはかなり難しいだろう。それが、バキが象形拳をしたように、ピクルの経験に訴えかけ、「これ知ってる」と、語彙を引き出すようなものであればまだよいが、そうではないのだ。加えて、武蔵のイメージ刀は、ピクルからしてみれば、わたしたちにとって「それを指す語がない」という状況のはずだ。言語体系はその言語が使用される地域の経験を概念化したものである。日本語では「兄」と「弟」は異なる意味であるが、英語ではあわせて「brother」なのである。なんらかの背景があって、日本では(漢字圏では)兄弟が年上か年下かが重視されるが、英語圏ではそうではない。少なくともそれほどではない。生身の接触をしてはじめて言語的に認識のできるピクルからすれば、接触しない攻撃は、発声も記述もされていない言語に等しいにちがいないのである。
そうしたことを武蔵が理解したとはおもえないが、獣と呼んでいることだし、すばらしく文明的な存在であるとはさすがに考えてはいないだろうから、武蔵はピクルにふさわしい行動をとってくれたといえる。つまり、イメージ刀をくりだしながら、それと同様の動きを手刀でたどっていったのである。これなら、ピクルも理解できるかもしれない。ピクルは武蔵の殺意の波動それじたいは受信できる。その細部を、武蔵は刀を使わずに実演してくれているわけである。
そうした武蔵を見て、ピクルはデイノニクスを思い浮かべた。速さにだろうか、刃にだろうか、わからないが、たしかに武蔵は、勇次郎やTレックスのような量的な強さではない。斬られたのに切れてないという点にも、ピクルはじきに気がつくかもしれない。そのいやらしさと、知性の高さがもたらす、次になにがくるかわからない不気味さ、こうしたところが、デイノニクスを思い起こさせるのかもしれない。
- 刃牙道 10 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥価格不明
- Amazon.co.jp
- 刃牙道(9)(少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥463
- Amazon.co.jp
- 言葉とは何か (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
- ¥972
- Amazon.co.jp