スクエニがハイスコアガールを自主回収 | すっぴんマスター

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「ハイスコアガール」自主回収、連載は継続 ‐コミックナタリー

なんとも残念な事件である。

僕は見ていないが、テレビでも報じられたようなので、みなさんもよくご存知のことだろう。

こういう記事を書くと、事件の最新情報とかと並んで検索画面に表示されかねないので、ちょっと書くのがためらわれるのだが(こういうはなしは日を追うごとに情報が更新されていくので)、しかし個人的にはかなりショックだったので、書かずにいられない。細かなことはググってもらうとして、ひとことでいえば、作中登場するSNKというゲームメーカーの作品、キャラクターやゲームのプレイ画面(たぶんウシジマくんの背景みたいな取り込み)について、版元のスクウェアエニックスが許可をとっていなかったというおはなしである。SNKは最近はゲームを出していないようだが、過去作はいまでも語り草になっている名作ばかりで、作中ではKOFシリーズやサムライ・スピリッツ、餓狼伝説などが言及されている。ハイスコアガールはアニメ化も決定していて、そのアニメ製作者がSNKに問い合わせをしたことで発覚したらしい。スクエニは「自主回収」という方法で応じて、スクエニ発行の関連書籍はすべて店頭から撤去されることになった。いま確認したところ、アマゾンでも手付かずの新品はもう売っていないみたい。

スクエニによれば、SNK以外のキャラクターについてはすべての会社から許可をもらっているらしい。「許可をもらう」というのがどういうことなのか、つまり、お金を払うということなのか、よくわからないが、奇妙なはなしではある。じっさい、カプコンなどとはスト2のガイルを通してかなりいろいろ企画を立てていたので、すべての読者が、すべてのキャラにかんして許可をとっているものととらえていたはずである。

いちおうスクエニの発表では連載は継続、アニメについてもとりあえず中止ということにはならないようだが(やる、ということでもないっぽい)、気になるのは近々発売予定のあった6巻の展開である。というのも、5巻では主人公のハルオと彼に恋する日高小春がサムライスピリッツでの勝負を開始するところで終わっているのである。この勝負ははなしの展開的にも非常に重要で、たんにゲームをいれかえればよいというはなしにはならない。だいたい、この漫画は、細部をつぎはぎしてできるようなものではなく、随所に気のきいたゲームの小ネタがちりばめられており、もしSNK作品を漫画から取り除くとなると、なにかこう、道路を広げるにあたって、そのためには周辺住民全員に移住してもらい、街の構造じたいから変えなければならないと気づいたときのような、ちょっと絶望的な気分になる。まあ、とっていなかったその許可をとればいいというはなしなんだけど、ここまでもめて果たしてそれは叶うのだろうか。


はなしを聞いた直後、僕としてはまずSNKに対して違和感が募っていった。というのは、ハイスコアガールはああいう漫画なので、愛をもって過去の名作たちを描いていっているわけである。あんなふうによく描いてもらえて、なにをそんなと、最初はおもった。けれど、それはちがうのである。許可をとるとかとらないとか、そういうのは、読者的にははっきりいってどうでもいい。重要なのは漫画だ。この騒動も含めて、でろでろや焔の眼を読んですっかり押切蓮介ファンになってしまったうちの相方についに最大のヒット作であるハイスコアガールを読ませてみることにした。相方は女の子にしてはゲームをやるほうだとおもうが、格ゲーは鉄拳をやっていた程度で、スト2も知らないし、というか作中に登場するほとんどゲームを知らない。けれども、一晩でぜんぶ読み終え、しばらく語り合いが終わらないほどに気に入ってくれたようだった。そういう漫画なのだ。僕からして、作中ゲームはファイナルファイトとスト2くらいしか知らない。やったことがない。しかし、そのゲームひとつひとつに、なにか不思議な懐かしさと愛着を覚える。このことについては以前 分析したが、ひとは他人の感動に感動することができる。深い愛をもって、慈しみをもって、作中の華として描かれるゲーム、その手つきそれじたいを経由して、プレイしたことのない僕のような読者もなにか「懐かしい」と、「このゲームいいよね」と感じてしまう。この件を経て最初から読み返してみたのだけど、ハイスコアガールって構成としてはけっこうベタだし、キャラクターに甘いぶぶんもけっこうある。ハルオは鈍感で、女の子の気持ちにまるで気づけないのだが、そういう彼らを守っていくひとがいる。それは、同級生の宮尾や、ハルオの母親や、大野さんのじいやなどである。こういう、理解者、外から彼らをガードしてどうにかしてあげようとしてくれる大人たち(宮尾は同級生だが)がいる。これは、登場人物に厳しい現代の漫画にはむしろ珍しい。ひとことでいえば、「そんな展開あるかよ」っていう、予定調和的な展開なのである。しかし、読んでいるわたしたちはそんなことを微塵も感じない。これは焔の眼もそうだった。作者の、純粋に物語を求める気持ち、そしてゲームを愛する気持ち、こういうものが、ほんとうに透明に物語に宿っている、だからわたしたちは、ベタな展開にも、やったことのないゲームにも心底感動し、「懐かしい」とおもう。

文学や哲学の入り込む余地のない、純粋な漫画作品。そういう漫画、またそれを描ける作家というのはいまはとても少ない。そして、この純粋な漫画作品は、ある意味でハルオによく似ている。ハルオがゲームに熱中するさま、また大野さん、ないし日高との関係を見守る、この漫画にとってのそういう立場が、わたしたち読者であり、またそれを製作する関係者なのだ。エンターテイメントは、それが成立した瞬間から、わたしたちの日常、もっと具体的にいえば、朝起きて、電車に揺られて、仕事をして、くたくたになって帰ってくる、そういう生活実感から断絶する。断絶しないのをよしとする作品もあってもいいが、そうではないものもあっていい。遊園地で大きなきぐるみのなかに入っているのが仮におじさんでも、そして真夏日に中が40度を超えていても、彼は客の前でスポッと着ぐるみのあたまをはずしたりはしない。「今日も馬鹿な客ばっかりだったよ」と休憩所で談笑していたとしても、客に聞こえるようにはいわない。ごく当たり前のことだ。作品がエンターテイメントとして成立するために必要なことは、許可をとっているかとかとっていないかとか、そんなことではない。許可云々の文脈じたいが表面に出てこないことである。そして、それを表面に出さないためにも、誰もが許可をとっておくわけである。からだが熱くなりすぎて客の前でぶっ倒れたり挙動不審になったりしないように、冷却材を忍ばせたり、シフトを細かく刻んだりするのである。


この件でもうひとつ悲しいのは、漫画を読んだことのないひとが、「なんかゲームの漫画がやらかしたらしいよ笑」という口調で語りかねないということである。どうか関係者には、ハルオや大野さんを見守る宮尾やじいやのような心持ちでことにあたってもらいたい。






・『ハイスコアガール』押切蓮介‐「懐かしさ」について

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-11426691313.html