第25話/対面
0.5秒拳と同じ原理でバキの背後をとった宮本武蔵。
もともとその異様な雰囲気は察知していたので、バキも緊張感をもって応じる。そして、ありえないことであるとしながらも、彼が宮本武蔵なのではないかと見破る。「他に言いようがない」と。
こたえを知っていながら、光成はなぜかあわてたふうを装って、正気かという。クローン作製の倫理上の問題から、最後までそのことは秘密にするつもりだった・・・なんてことはまさかないとおもうが、まあ、バキを試しているのだろう。
そんなことはありえないということはじゅうぶん理解している、というようなことを、バキも表現をかえていくどもくちにする。「SF作家さえ躊躇う安易な設定だ」とも。これはたぶん、宮本武蔵を出してしまった板垣先生じしんの自己分析だろう。
そういう様子を、武蔵は楽しむように眺めている。佐部などとのやりとりも含め、じぶんがどういうあつかいで、現代のひとがどういうリアクションをとりがちなのか、だんだんわかってきたのかも。
そしてそのさなかに、例のイメージでの攻撃をしかける。会話中でありながら瞬間的に2メートルくらいの高さにまで回転して飛び上がるバキ。武蔵も感嘆の声をあげる。かわしたのである。とはいえ、緊張はさらに高まっている様子だし、イメージとはいえいきなり切りつけてきたことにも若干驚いている。
バキは続ける。根拠も理屈も、説明はできないけど、いまこの迫力、このイメージでのやりとりを前に他になにが必要か、このひとは宮本武蔵だと。
これまでのバキのことばをまとめると、つまり、相手が武蔵だと判断した理由はほんとうにひとつもないらしい。しかし、それはおかしい。「SF作家だってためらう設定だ」と認めて、それが通るくらいなら、作中漫画の、たとえば横山光輝『三国志』に出てきた呂布だったとしても、不思議はないわけである。バキが数ある「存在しているはずのない強者」から武蔵という個人を選び出すには、理由がどうしても必要である。
バキを試すというよりは、なにかこう、ドラマチックにする筋書きみたいなものが光成のなかにはあったのかもしれない。こたえはそのうちするけれども、それをするのはじぶんだよと、あわて気味に取り繕う。
武蔵はバキを外に誘う。「おもてに出るか」と。現代でたとえばコンビニで肩のぶつかったヤクザものなどからこういうことばが出ると、9割方「外に出て白黒つけよう」という意味を含むわけだが、武蔵はどういうつもりでいったのだろう。現代人どうしがこういうことばのやりとりをして、バキも応じれば、喧嘩することに合意したことにほとんどのばあいなるのである。
特筆すべきはやはり武蔵の余裕感である。想像してみてほしい。いくらじぶんが天下無双の剣士だという自負があっても、数百年の眠りから無理矢理さまされて、「たたかってほしいんですけど」といわれて、しかも武蔵も察知しているであろうバキの強さは世界で3本の指に入るほどのものである。建物も、空気も、地面も、ことばも、なにもかもちがう。知り合いもいない。そういう状況で、おのれのちからだけをたよりにここまでの余裕を見せられるだろうか。
さっそく光成はどっちが強いかと考え始めている。非常に魅力的な問いだけど、これではまだはっきりってぜんぜんわからない。バキも主人公である。範馬の血族である。ピクルを技術で制圧しかけた少年である。ふつうに考えて、バキのほうが強そうだ。けれども、たがいの緊張の具合はそういう予想をこえている。バキのほうはいますぐたたかえるという空気を表面に出し続けているが、武蔵はそこらへんで昼寝でもしはじめかねないほどリラックスしているのだ。
武蔵はすでに立ち会う気でいるらしい。バキたちも特に意外に感じたりはしていないようなので、やはり「おもてに出る」はそういう意味らしい。しかしそれにあたり、バキは丸腰だけどいいのかと武蔵はいうのである。武蔵も素手である。どう見ても。武蔵は、そう見えるかと応じる。光成は例のことばを思い出す。「剣がなくては人は斬れぬか」「剣とはそんなに不便なものか」と。
武蔵は素手のまま人差し指を柱にして両手を縦に重ね、剣をかまえているかのようなかたちをとる。そして実際、バキにはそこに剣が見えている。
その姿に圧倒されたか、たわむれに振られた斬撃を、今度はバキは受けてしまう。
「我は天下一・・・
俺ほどになるとな
姿がそのまま刃
帯刀の必要もない」
バキは感じ取る。「こういう強さもあったのか」と。が、この状況で「やらない」という選択肢はバキにはない。武蔵が具体的にどういうたたかいかたをするのか不明なまま、バキもまたかまえるのであった。
つづく。
相変わらず武蔵がどういう動きでたたかうのかがさっぱりわからん。そして今回合併号なので続きは2週間後。もどかしすぎるっす。
バキがなぜ彼を武蔵と見破ったのか、けっきょくよくわからなかった。
しかし、くりかえすように、武蔵がどれだけの迫力と技量を見せ付けても、そうであると確信するためには、宮本武蔵という個性について知っていなければならない。ただ強い、迫力がある、あるいはもっと極端なはなしで、「宮本武蔵的な技をつかう」ということがあっても、それがじっさいに宮本武蔵であるという確信にたどりつけるとはかぎらない。これほどの強さをもつものは宮本武蔵以外考えられない、と考えた可能性もあるが、しかしわざわざ「SF作家」云々の説明をしているくらいである、「存在しているはずのないもの」が存在することを迫力で認めてしまうことが可能なら、バキは彼をゲーム世界や漫画世界から連想した最強キャラかと勘違いしてしまう可能性もあるわけである。
というわけで、バキは武蔵のことを知っている。論理的にそうなる。ではどこで知っているのかというと、それはもう、リアルシャドー以外考えられない。リアルシャドーは相手の動き、べつにたたかいの動きでなくてもいい、じっさいに動いている姿などを観察し、バキの経験知がそれを補完し、脳内でほんものとまったく同様の動きをとる模型をつくりだし、それとたたかうという、孤独なバキらしい修行法だ。つまり、「こんな歩きかただから、こんな技をつかってくるにちがいない」とか、「筋肉の発達のしかたからして、これくらいの威力にちがいない」とか、そういう推測を重ねて、模型をつくっていくのである。シャーロック・ホームズは相談にやってきた依頼主のわずかな動作を観察しただけで、彼の出身地とか趣味とかこれまでどこにいたかとか、なにからなにまで言い当ててしまうことを特技にしていたが、それと同じである。脳内で、じぶんの認識のおよぶ範囲の模型をつくるわけだから、じっさいには彼の意識、というか予測をこえるということはありえない。たとえば空手家は拳を鍛えるから拳頭のところにかたいタコができているが、それを知っているわたしたちは、「ああ、このひとは空手をやってるんだ」と推測できるけれど、空手のことを何一つ知らないひとがそれを見ても、その異様さにぎょっとはしても、「カラテ」というキーワードは出てこない。ふつうは、リアルシャドーは反復練習の域を出ない。けれども、バキたちはちがう。愚地独歩はドリアンとたたかったとき、催眠術にかけられた。それは、脳内で「じぶんの技でぼこぼこにやられる理想の相手」をつくりださせ、それとたたかわせるというじつにいやらしいものであった。加藤は見事にその術にはまり、重傷を負ったが、独歩にそれは通用しなかった。術にかからなかったわけではない。独歩は、たしかに脳内でつくりだした「理想の相手」とたたかっていた。しかし、百戦錬磨の独歩は、たたかいが「思い通りにならないもの」だということを熟知していた。つまり、「予測」のできないものだと。だから、彼の無意識が想定する「理想の相手」は、彼の知識、技術、つまり予測の範囲内におさまるものではなかった。予測のできないもの、おもいもよらない行動をとるもの、そういうものとして、つねに相手が想定されてきたため、夢のなかの「理想の相手」としてのドリアンもまた独歩の予測をこえる動きをとったのであり、その意味で彼は現実のドリアンに対してもスキを見せることはなかったのである。
同様の面がバキにもある。そうでなければリアルシャドーは成り立たない。ただ、「予測超える」というしかたに、一種の方程式があるようではある。彼らは、脳内に「脳で捕捉できないもの」を飼うことができるのだ。
さて、長くなったが、ではバキはどのように武蔵とリアルシャドーしていたのか。ピクル編がヒントになるかもしれない。バキは克巳がピクルとたたかおうとしていたころ、ティラノサウルスとリアルシャドーをしていた。細部は描かれなかったが、それは行われたようであり、また、「そのとき相手の姿がみえていたのはまだバキひとりだった」(うろ覚え)という説明からして、しばらくたってから観戦していたストライダムたちにもティラノサウルスの姿は見えていたようである。しかし、これはかなり奇妙である。そこにいた誰も、ティラノサウルスを見たことはないからである。図鑑などで描かれる恐竜の皮膚というのは、描いているひとの想像だけで描かれているらしい。つまり、たとえば色とかは、化石からそうとわかるわけではなく、画家の勘なのである。最近の研究では恐竜にも体毛が生えていたらしいということがわかってきて、図鑑でも毛がはえているティラノサウルスが描かれ始めている。
つまり、バキはいったいなにを見て恐竜の想像を膨らませたかということである。映画などから影響を受けている可能性はかなり高い。というか、基本的な造形は「ジュラシック・パーク」などから拝借して、そこに動きをつけくわえた、というのが正確なところだろうとおもわれる。そうなると動きをどこかから読み取らなければならないわけだが、そうなるともう化石しかないわけである。化石から、わたしたちが空手家の拳からその鍛錬の様子を思い浮かべるように、恐竜の動きを脳内で再構築していたのである。とんでもないはなしだが、それがたんに映画のコピーではないとわかったのは、じっさいに恐竜を知っているピクルまでもがバキの象形拳に驚嘆していたからである。「ジュラシックパーク」がきわめて正確に恐竜を描いていた、という可能性もないではないが、そこにはやはりバキの想像力を見たほうがいいだろう。逆にいえば、動きだけでも正確に再現できれば、ほんものを知っているピクルはそれをそのように錯覚するはずなのだ。
それであるなら、バキが武蔵を再構築するのも難しくない。というのは、あの自画像である。少なくともバキ世界では、あの自画像には武蔵の脱力が描かれているということであるから、武蔵があの絵に「立ち方」のきわみみたいなものを含めたとしても不思議はない。「すべてが描かれている」かもしれないあの自画像を通せば、化石から恐竜を想像可能なバキなら、模型をつくることは難しくないだろう。そして、そうやってリアルシャドーをしたことのあるバキなら、武蔵のもたらしたであろう雰囲気、迫力、こういうものを知っていてもおかしくはないのである。
武蔵はバキに丸腰でよいのかと問う。武蔵は、じぶんくらいになると姿がそのまま刃だという。つまり、武蔵は丸腰ではない、刀をもっている、そういう理屈である。その意味はやはりよくわからない。たとえば手刀みたいなことでひとの身体をちょんぎれるということなのか。しかし、ひとつわかったのは、武蔵はたぶん実物としての剣はつかわないようだということだ。武蔵の「刀とはそんな不便なものか」というのを単純な反語だとすると、あのセリフは、「刀がよく斬れるせいでひとは刀なしでひとを斬ることができなくなってしまった」という意味ではないかと以前推測した。じっさい、刀があればひとを斬れるのであれば、斬ることに際して素手にこだわる意味はないし、また武蔵のように必要以上に強く振ることもない。だから、たぶん武蔵はそのさらに先を目指していたはずだ。だから、おそらく「姿がそのまま刃」の境地は、単純な足し算引き算で、刀をもっている状態よりもっていない状態のほうが弱い、というようなことをいっているのではない。むしろ、耐えられる刀がそうはないために、武蔵は結果刀ありの状態よりも強くなってしまったと、たぶんそういうことだろう。
しかし、それでいてバキに丸腰でよいのかと訊ねるということは、武蔵の見立てではバキは素手は刀をもったバキを超えていないことになる。さて、これは武蔵の見立てちがいか、バキの敗北からの成長フラグととるか、かなり見ものだが、2週間か・・・。
- 刃牙道 2 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥463
- Amazon.co.jp
- 刃牙道 1 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥463
- Amazon.co.jp
- バキ外伝 拳刃(1) (チャンピオンREDコミックス)/秋田書店
- ¥607
- Amazon.co.jp