- 花組 宝塚大劇場公演DVD『ラスト・タイクーン ―ハリウッドの帝王、不滅の愛―』 『TAKAR.../宝塚クリエイティブアーツ
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花組東京公演2回目。4月25日13時半。
・1回目
前回の記事でおおまかな僕の蘭寿体験の意味を書いてしまったので、今回こそは内容に触れてみたい。
『ラスト・タイクーン』はスコット・フィッツジェラルドが原作のものだが、本書は未完ということになっている。基本となっているのは角川文庫版で(作者表記は角川ではなぜか「フィツジェラル」となっている)、僕も演目が発表されてからすぐ買ったが、まだ読んでない。いつものことである。フィッツジェラルドのメモも添えられている本書では、最初から書き直さなくては、的な文言も見られ、先にそれを読んでしまって、未完成なんだなーというイメージが強くついてしまったのかもしれない。というのはもちろんかってないい訳である。
宝塚でスコット・フィッツジェラルドといえばむろん『グレート・ギャツビー』である。これは村上春樹『ノルウェイの森』で重要な作品として取り上げらており、杜けあきの初演のビデオは見ていたが、タイトルが異なっていたためうまく結びつかず(どっちかが『華麗なるギャツビー』となっていたはず)、両者が同一の作品だと気づいたときは感動したものである。
グレートギャツビーの時代設定は、ウィキペディアによれば1922年、出版されたのは1925年とのことである。禁酒法、アル・カポネの時代である。これを調べてみて、なんかちょっと驚いてしまった。大恐慌のはじまりが1929年だから、これはそれより4年も前に書かれたものだったのである。僕はてっきり、あの喪失感からして、ほとんど一日で世界が様変わりするような大恐慌を経験したのち、ある意味懐古的にフィッツジェラルドが記したものだとばっかりおもっていた。いま時代をふりかえってみて、その当時の狂騒の描写に、そののちやってくる大恐慌の気配がすでに含まれている、ということはかんたんだけど、果たして自覚があるものか微妙だが、フィッツジェラルドはその当時からすでにそうした喪失感を抱えて小説で時代を描いていたのである。まさしくそのバカ騒ぎを最前線で体験している身でありながら。ふつう、わたしたちは、いま現在進行形でわたしたちが生きている物語を語ることができない。小説家だけがそれを先取りできるという意味で、まさしくフィッツジェラルドは生粋の「小説家」だったのである。
本作ラストタイクーンの設定は、脚本も掲載されている「ル・サンク」154号によると、冒頭が1932年、そして物語の大半を占める現在が1935年ということになっている。これも、ちょっと予想と異なっていた。というのは、ミナ・デービスという幻のように儚く消失する美貌が、そのまま1929年以前のアメリカのメタファーなんだろうとかってに思い込んでいたからである。モンロー・スターのミナへの執着は、そのまま、アメリカの「よき時代」への郷愁なのだと。じっさい、重役会議で1929年以降の不況のことが触れられるし、また冒頭とそのあとでは明らかに世界の雰囲気がちがう。しかしことはそう単純ではないようである。もちろんひとことで不況といっても、一年のどの時期か、またどういう産業かなど、いろいろな状況がありえたとはおもうが、そのあたりどうなのだろう。
蘭寿とむ演じるモンロー・スターはハリウッドの天才プロデューサーで、次の作品の主演女優がうまく決まらなかったところにたまたまあらわれた蘭乃はな/ジェシカ・ハウエルをスカウトし、「ミナ・デービス」として育て上げる。映画は大成功、その後のモンローの語られかたからして、彼の名前はこの作品でさらに不動のものとなった。モンローはミナと結婚するのだが、直後ミナは交通事故で死亡。ここまでが1935年時点のモンローが回想する夢として一気に語られる。ミナのいない世界でも、モンローは禁欲的に映画をつくりつづけているが、ちょっとしたことで監督をクビにしてしまったことから、たぶんもともとよくはおもっていなかったスタッフたちの不満が爆発する。結束にひびが入ってはいい映画は撮れないと。「結束」というワードじたいは1935年以降はじめて登場するものだが、この秩序維持にかんしては冒頭の女優選びからして昔からのもののようである。つまり、モンローは変わっていない。世界が、それを認めないものとして変わってきているのである。そういう強硬手段のことを「スチームローラー」というらしいのだが、そうかんたんにクビにされては、スタッフたちの生活が成り立ってゆかない。明日海りお演じるブレーディ、また会社との不和も、不況が原因である。完璧な映画を撮ろうとおもったら、小道具や衣装でけちけちするわけにはいかず、また結束を必要とする以上、ちょっとしたことにもいちいち反応していかなくてはならない。千夜一夜物語、また主演のミナは、こうしたことに周囲がすべて応え、完璧な映画をつくることができた時代の象徴である。やはりここに差がある以上、1932年と1935年で大きく状況が変わっていると見ていいだろう。映画産業ではじっさい1932年あたりが境界線だったとかそんなことかもしれない。
そういうなかで、撮影所が火事になったところで、ミナとそっくりなキャサリン・ムーアという女性と出会う。演じているのは同じく蘭乃はななので、我々からすれば「同じ顔」なのは当たり前だが、しかしどの程度似ているかというと、よくわからない。劇中で両者が似ていることに気づくのは、キャサリンの友人のエドナと、キャサリンが同棲しているブロンソン・スミスという男だけである。モンローはキャサリンをひとめ見ただけで硬直し、目を疑う。それだけ似ているのであれば、なんというか、最初に撮影所に忍び込んだじてんで実際的な性格のエドナがもう少し売り込むようなことをしても不思議はないし、観客以上に近いところでミナを見てきたスタッフも何人かいるあの場所で騒ぎになっても不思議はないだろう。ブロンソンにかんしても、あの反応をみると、これまでにただの一瞬も、じぶんの彼女とミナが瓜二つだと考えたことはない様子である。彼も映画の仕事をする人間であるのに。以上のことからして、両者はおそらく、双子のように似ている、という種類の似方はしていない。つまり、物理的に、顔の造形的に似ている、という似方ではない。それは、似ているぶぶんがある、という言い方をしてもいいとおもうが、モンローの立場からすると、彼は、ミナとしかおもえない、彼女固有の面影を、選択して掬い取ってしまっているのである。つまり、モンローは、ミナとそっくりな女性と出会ったのではなく、出会ったキャサリンという女性からミナの面影を探し出した、もっといえば、世界をミナの面影を求めてさまよっていたのである。
もちろん、そんなかたちで愛を求められても応えることなどできない。モンローには途中までほとんどその自覚はないし、悪いことには、いちどじぶんでそれを乗り越えたと思い込んでいる。そして相手はミナ・デービス。耐えられるものではない。
そうしたわけで、モンローは過去に束縛されている。「よき時代」とミナ・デービスに。だから、映画に対して、「よき時代」の慣習を適用しようとするし、世界からミナの面影を掬い出そうとしてしまう。だけど、あらゆるものを失って、モンローには「映画を作りたい」という衝動だけが残った。そして、ありのままのキャサリンへの愛。映画にかんしては、モンローは慣習というより「方法」として「結束」ということばをつかっているので、今後も実行される可能性はあるが、少なくとも「まず結束ありき」というものにはならなそうな雰囲気である。あるいは、そういう経験による「方法」の知識さえも、ここでは失われているのかもしれない。それも含めて、みんなで立て直していこうと。
というところで時間がなくなってきた。今回の公演はあと何度見れるかわからないのだけど、とりあえず今日はここまでにします。蘭寿さんのことなどまだ書きたいことはたくさんあるので、もし観劇の機会がもうなかったとしても、そもそもこの記事は日付をふっている意味がほとんどないので、また別に記事を立てて書いていきます。
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