第11話/仏作って魂入れず
バキと同様、独歩や紅葉たちのもとにも欠伸は訪れていた。バキが退屈するのはまだわかるが、彼らが退屈というのは奇妙である。当人たちも奇妙に感じている。その理由は、勇次郎とバキのたたかいが終了し、最強という意味が変化してしまったことで、どの道、どの方向に進めばよいのか、彼ら(の身体)としても不明であり、混沌とした最強戦線で唯一の比較する対象がなくなったことでじぶんの位置や価値も不明確になり、達成を感じられなくなっているためであると、当ブログのあてずっぽの読みをひとことでまとめるとそうなる。
それはからだを鍛えない、つまり方向も道も必要としない花山も同様だった。花山のばあい症状はもっと深刻で、独歩たちでは本来最大限に緊張すべきときを選んで弛緩していたものが、花山では日常的にそうなっている。独歩たちの日常でもそうなっている可能性はあるが、とりあえずそういうことにしておく。うえの読みでいうと、独歩たちはからだを限界まで追い込んで、これまでその追い込みによって明確になっていたじぶんの輪郭のようなもの、これは、勇次郎というものさしを経由することで、だいたいどのくらいか、あとどれだけ鍛えればいいか、そもそも鍛える方向はこちらでいいのか、等々のことを、自覚するレベルでも、また無意識のレベルでも、おおよそ定めてきたはずである。これはべつに難しいはなしではなくて、わたしたちはいつでも、「じぶんがなにをできないか」ということに反省的になれたときはじめて成長していく。ところが、ものさしが消失したことで、「なにをできないか」がわからなくなっているわけである。地球と太陽では地球のほうが小さいわけだが、もし太陽という概念が最初からなかったら、地球がちっぽけだという発想は生まれてこなかったかもしれない。だが、もちろん彼らは、じぶんたちがまだまだ鍛える余地のある「弱きもの」だということを、経験的に知っている。だから、直感に突き動かされるかたちでからだを鍛えるが、くりかえすようにそれがどのような位置や価値をもたらすものか、よくわからなくなってきているのである。
花山では、強くあろうとしているわけではないかもしれないが、かといってべつに弱くあろうとしているわけでもない。ただ、強く生まれてしまったから、強くいなければならないと、そんなような使命感が、彼には強いようである。だから、彼にとっての限界、存在の輪郭というもの、独歩たちが鍛錬で追い込むことで発見するところのものが、彼では日常のふつうの生活と合致している。だから、ふだんから欠伸がやってきているのである。
そうして、唐突に、その退屈を範馬勇次郎にぶつけたらどうなるだろうと思い立ち、光成のもとにやってきたのだった。(毎回同じ考察をことばを変えて展開してすみません。僕自身が、いちど復習しないと思い出せないのです)
花山のことばを、光成は「なつかしい」という。そんな勇ましい言葉を口にするものはすっかりいなくなってしまったからだ。ということは、むかしはけっこういたのだろうか。勇次郎はいつごろから地下闘技場でたたかっているのだろう。思い出せるかぎり、作中で描かれているのは独歩戦のみだが。
光成は花山を連れて外の池に向かい、たくさんの鯉に餌を投げながら語る。勇次郎とでは誰がやっても試合にはならない。暗にそこには花山も含まれている。だいぶ続く鯉と餌の描写は、勇次郎とその他の挑戦者の比喩だろうか。でも、挑む。なぜか。退屈してるんだなと、光成は見抜いている。花山は驚いているが、バキの欠伸も見ているし、光成がこの現象のことを知っていても不思議はない。仮に知らなかったとしても、こういうことが起こるのは光成くらいならある程度予想できたかも。
続けて光成は花山のトラウマに触れる。5年前の、花山と勇次郎の接触である。当時13歳のバキと15歳の花山が大激戦を終えた直後、乗り込んできた勇次郎が、満身創痍ながら挑もうとする花山を徹底的に破壊したのである。僕は死刑囚篇からバキに入ったくちなので、このたたかいを見たのはだいぶあとだったのだが、これは本当に勇次郎に腹が立ったし、同時になんておそろしいやつなのだと再認識した。喧嘩師にベストコンディションなんてない・・・という理屈を認めつつも、あのときの花山は全身ぼこぼこで、バキともども、もう動けないというレベルの消耗をしていた。しかし勇次郎はそんな相手にもいっさい手加減をしない。兎を狩る獅子は云々というやつである。ひと蹴りで両膝をへし折り、それでももがいて立ち上がろうとする花山の肘を、同様に逆向きに叩き壊したのである。五体満足で挑んでも勝てないと確信した花山は、顔をつかまれたそのとき、涙まで浮かべてしまう。スペック戦で窮地に陥ったときも、花山はこのときのことを思い出している。
そんな痛みと屈辱の記憶、それをも上回る苦痛が、「退屈」だというのである。
光成的には、それとはべつに、勇次郎を東京へ呼びたかったらしい。花山薫の名前ならきっとオーガも動くと、光成は花山に礼をいうのだった。
さて、光成がオーガを東京に呼びたい理由とおもわれる宮本武蔵であるが、せっかくクローンをつくって出産も成功させたのに、目を覚まさない。血圧や体温などの身体の状態は良好だが、ただ脳波だけがなんの反応も見せない。なんの夢も見ず眠っている状態ということだろうか。
ホナー博士は古生物学者、どんな分野か知らないが、このことについてたぶんいろいろな学者が集められ、議論されることとなった。いろいろもめているようだが、しばらくして光成が机を叩いて乱入する。「仏作って魂入れず」と。知らなかったが、そういうことわざがじっさいあるようである。肝心のぶぶんがおろそかになっては結局なんの価値もないと、そういう意味らしい。
そうして、あくまで素人意見として、光成が考えを述べる。「数字や科学では辿り着かない領域がある」と。
そうして、意味ありげに、光成の姉だという霊媒師の存在がほのめかされるのだった。
つづく。
霊媒師・・・!
なにやらあまり趣味がよいとはいいがたい、所持しているすべての装飾品を身につけているかのような、謝男に出てきたなんか教育委員会のおばあさんみたいなタイプのようだ。それも含めて「ビミョーな姉君」なのだろうか。
ふつうに考えて、からっぽの武蔵の肉体に武蔵の霊魂を憑依させるということだろう。
なんというか、真剣に考えたことのない領域なので面食らったが、身もふたもないはなし、いまこの時代に、全盛期の武蔵をすぐに用意しなければならないとなったとき、これはなかなかいい方法かもしれない。とりあえず、宮本武蔵というものが人生で積み上げた経験知、端的に「技術」の問題については、クリアできる。クローンがもとの人格と異なるのは、その経験においてのみである。だとしたらその経験をそのまま搭載することができるなら、そのままの人格が手に入ることになる。「仏作って魂入れず」というのはもともと仏像の製作についてのことばで、それが転じて、ものごとの肝心なことが欠けては意味がない、というつかわれかたになったようだが、これが要するにこのままの意味なわけである。
しかし、霊媒というのは、イタコみたいに、会話のできない霊魂とか神々をじぶんに憑依させることで、かわりに身体を動かせる、そのまま媒体のことだろう。要するに翻訳家のことである。ふつうのひとには、神や死者がなにをいってるのかわからない。そもそも音を聞き取ることができない。それを、身体を経由することで、わたしたちにわかることばに編みなおし、伝える。そういうひとが、武蔵の空の肉体に魂を憑依させることができるだろうか。それとも、あるいは武蔵の肉体に憑依させるわけではない、とも考えられる。彼女に憑依し、その武蔵が、じしんの再生した肉体に触れることでなにか奇跡的な現象が起こるとか、そんなこともありえる。かもしれない。
それに、その魂の状態は、どの段階の武蔵なのか。魂というからには死んでいるわけで、時の経過と少なくともその生は無関係になっている。であるから、おそらく魂に年齢というものはない。仮に60歳まで生きたとして、その魂は、死の羈束から解き放たれている。年齢というのは生の状態の表現であるから、たぶんすでに死と時間から自由な魂は時間とは無縁の様態である。60歳であると同時に12歳でもある、そんなものにおもえる。知識の堆積という点でみるとそれでよいが、そもそもそのありようは肉体を伴った状態ではありえないものである。それが、いくらじしんの肉体とはいえ、馴染み、ふつうに生活するみたいに動けるようになるのか。
しかしそれにしても、この段階で光成が霊媒というところまで踏み込めたのは、少し不思議ではある。あるいは、ちょうど読者や作者が考えたのとおなじように、「いますぐ、完璧な全盛期の武蔵がほしい」と考えた結果、これしかないと、そう思いついたのかもしれない。もしふつうに武蔵が目覚めちゃって、体は32歳の赤ちゃんが動き出しちゃったらどうするつもりだったんだろう。粘膜人間みたいなことになりかねないぞ。
花山が勇次郎とやる気になったのはいいが、光成がそれよりも勇次郎を呼べる口実ができたことを素直に喜んでしまってることが気になる。「仏作って・・・」ということばからしても、光成のなかで武蔵は完全に創作物という位置づけである。じっさいにそうなんだけど、たとえば完全な武蔵がこの世に生まれてきたとして、彼が東京のまんなかでたとえばカルチャーショック的なさびしさを覚えたとしたら、そういう微細な心理的振動について、光成はどう責任をとるつもりなのだろう。クローンじたいは「選択した人格」であっても、そこから生じてくるたとえば感情は、自然界の、神のもたらした世界の「わからないもの」である。これについてどう考えているのかがわからない。武蔵の人格それじたいではなく、「武蔵が生まれた世界」という状況にしか目がいっていないようにおもえる。花山についても同様で、勇次郎とたたかえば、いかに花山が不死身の肉体をもっていても、生還できるとは限らない。それを受けとめ、試合を設定するのは光成の仕事だからいい。けれど、それをじぶんの望みに書き換えて、そのうえで受けとめるというのはどうなのだろう。なにか光成に焦りが感じられるような気がする。病気、治ったんだよな・・・?
- 刃牙道 1 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥価格不明
- Amazon.co.jp
- 範馬刃牙 37 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥453
- Amazon.co.jp
- 刃牙ホエイプロテイン ココア味 600g/アルプロン製薬
- ¥3,758
- Amazon.co.jp