第287話/洗脳くん⑮
神堂に指を砕かれたすぐのち、会社に必要なお金として神堂に500万要求されたまゆみ。まゆみは母親に電話をする。お金の都合をつけてもらうということではなく、これでいいのだろうかという電話だ。どんなに愛があるようにおもえても、指を折るなんてのはふつうではない。まゆみのなかには迷いが生じている。迷っているくらいなら、結婚なんてことはすべきではないのではないか。たぶんそういうつもりで、結婚やめるなんてことできるかなと、母に相談したのだ。
だがグロテスクなほどけばくなっている母は、問題にもしない。世間体もある。結婚の直前によくある不安だと一蹴する。
まゆみは、家庭内暴力のことはとりあえず黙りつつ、お金の感覚がちがうなどと微妙な言い訳をする。指のことをいったからといって母が娘の味方をしたかどうかわからないが、ともかく、ぜんぜん、まったく、母にそんな気はない。彼女の眺める携帯には神堂からのメールの文章が表示されている。やはりあのとき、ふたりはラブホテルに入って、関係を結んだらしい。家族になれば、いっしょにいられる。神堂はわざわざ文末に「あの日」のことを想起させることばをおいて、まゆみの母の女性をくすぐる。もちろん、母親にしたところで、神堂と正式にどうこうしたいわけではない。だが、旦那が興味をむけていないところにあらわれた神堂は、彼女からしてみれば、最高の刺激だった。家の外では父親のゴルフのスイングを讃えつつ、着々と神堂が彼に取り入っている。「お父様」などとよんですっかり旦那気分だ。神堂と堂々と一つ屋根のしたに暮らしたい母親としては、神堂が父親と仲良くなることも喜ばしいのである。
いずれにしても、両親ははなしにならない。まゆみにもそのことはわかっていたはずである。古い価値観に生きるふたりなのだ。かといってDVのことはいえない。結婚という、婚活女子だった彼女からすれば人生最大の幸福の行事が、なんとも憂鬱なものになってしまっているわけである。
携帯には34件も伝言が受信されている。すべて神堂のものだ。まゆみの誕生日のことや、このあいだの指のことなど、くどくどと、まゆみのことだけを考えていますアピールが続く。
「優しい神堂さんと怖い神堂さん。
どっちが本当の神堂さんなんだろう」
おそらく、まゆみにこのような疑念を抱かせることが、神堂の目的だったはずだ。もともと、神堂の「ですます調」は、その背後に別の人格を感じさせる、なにか社会的ペルソナのようなものだった。少なくとも、それが後天的なものであることは、ほとんど隠されていなかった。そうしたなかで、くるりと入れ替わる人格を目にして、背後に感じられた彼の「本当」を、まゆみはそこにあてはめたはずである。だが、あの客観的に、あるいは事後的に見るといかにも芝居がかったあのセリフは、むしろ、それがペルソナであり、その背後にこそ、「ですます調」の、「優しい神堂さん」が隠れているようにおもわれてくる。こうしたことが続くとまゆみは、彼女にとっての「本当の神堂さん」が、いま目前に展開されている、進行形の神堂さんのその裏側にあるものなのである感じるようになり、やがて「怖い神堂さん」を目にしているとき「優しい神堂さん」を「本当」だと信じ込み、「優しい神堂さん」を前にしたとき「本当」の「怖い神堂さん」を警戒して与し易しの状態になってしまうかもしれない。そうした慢性的なゆさぶり、影のようなつかみがたさが、入れ替わる人格の運動のなかに、生まれてくるにちがいない。彼の「本当」は、つねに、すでに、「ここ」にはない。そういう状況が完成したとき、神堂がまゆみに追いつかれることはなくなる。つねにリードすることになるのだ。
だが、ふつう、相手の「本当」がわからないようでは、結婚どころか、たんなる恋愛ですら持続することは難しい。「本当」が見えないことで、疑心を抱くかもしれないし、負担を感じたり、なにか対等ではないという感じを覚えたりするかもしれない。いずれにしても、それは通じ合っているとはいいがたい。じぶんは愛されているんだろう。だが、そんな状態では受け容れるのはこわい。まゆみはさびしさを感じてつつも、涙ながらに別れを決心する。
しかし。帰宅したまゆみを待っていたのは、疲れを労う気持ちからのマカロンと、誕生日イブを祝う花束をもった神堂だ。別れをくちにするどころか、押し負けてまゆみはけっきょくまたからだを許してしまうのだった。
夜中、トイレに起き上がったまゆみをなぜか神堂がおんぶして連れて行くと言い出す。べつに足を骨折しているわけではないし、イラつくほどわざとらしいが、まゆみは悪い気はしない。トイレでため息をつくまゆみは笑顔なのだ。
そこに、まゆみの携帯が鳴る。ハシくんからの着信だ。たぶん、0時をまわったとかで誕生日のお祝いの電話だろう。それを手にした神堂は、再びおそろしい形相を見せ、「うぬぬ」とうなるのだった。
いっぽう、「天見」という名前で詐欺を働き、逃走している神堂を追っている2刑事は、どこかの家にきている。天見と社長が同居していた家は2階だてのアパートだったような気がするから、たぶんそことはべつだろう。ともかく、そこの天井をはがすと、なにやら不気味なものがでてくる。たくさんの飲料水と赤ちゃん用の食料、それに、だいぶつかいこまれた様子のテーブルタップなのである・・・。
つづく。
ハシくんはからの着信に対する神堂の、ほんとうに怒っているかのようなリアクションが意外だ。そばにまゆみがいないので、これは芝居ではない。ということは、まゆみへの行動は、特になんらかの目的に向けて方法なのではなく、目的そのもの、あるいはその一部ということなんだろう。そこで終わるはずはないが、少なくとも、ひとりの女性を支配し、独占することは、過程なのではなく、達成すべき目標のひとつなのだ。
勅使川原を経由して神堂にたどりつきながら、まゆみにはまだ冷静なぶぶんがあった。というか、いまではほとんど、勅使川原とかスピリチュアルとかいったものの影は見られない。だが、それにも関わらず、まゆみは神堂から逃れることができない。それは、神堂の暴力をおそれているがための、まゆみの消極性からきているものなのだろうか。おそらく、そこにも、見えないレベルで、ごく初期の段階における、物語の書き換えが生きているのではないだろうか。
神堂の「本当」は見えてこない。しかし、ではじぶんの「本当」はどこにあるのか。これは、ホストくんでも楽園くんでも見られた、多かれ少なかれ、わたしたち現代人が抱きがちな人生観だろう。たとえばホストくんでそれは、「ほんらいあるべき(理想の)わたし」に対応して、必然的に「現状のみるにたえないわたし」というイメージを生み出すものだった。いま見えているじぶんはあくまで仮の姿であり、未来のどこかの地点においてそれは、理想的に完成している、そういう、いってみれば、批判思想的な、つまり、現状のイメージをありきでそれを否定することで生まれてくるような「ほんらい」だった。しかしおそらく、まゆみではそうではなく、弁証法的なのだ。これは、まゆみがカタギの社会人として長いこともあるだろう。現実的なはなし、わたしたちにはさまざまな「本当」がある。これは平野啓一郎が「分人主義」として提唱している考え方なのだが、そのときそのときで、別個の仮面をつけて、核として「本当」のわたしがあるのではなく、その、そのときどきのわたしこそが、すべて「本当」なのである。そういう実感は、多くのひとが、大人になるにつれて修得していくだろう。しかし、現実として「からっぽである」というような感触はぬぐえない。そういうとき、わたしたちは十代のころ強く感じていた「ほんらいのわたし」という図式を用意してしまっているわけである。
では、こういう多面的な生き方にある「社会人」、つまり「社会関係人」たちが、ひととして成長するというのはどういうことかというと、それは「ほんらいあるべきわたし」というような批判思想的な否定によって成り立つモデルに向かってではなく、そうしたもろもろのひとの顔としての「本当」の連続を一元化し、さらなる高みをおもわせるような、そういう高次の存在ではないだろうか。あこがれかた、また対象の性質、そういうものは、ひとそれぞれだが、たとえば、仕事のできる上司にあこがれるとき、あんなふうになりたいとおもうとき、「仕事」という場における上司の「本当」にあこがれるとともに、それを含む、たとえばまゆみの上司でいえば、毎朝ジョギングをして、結婚に悩みつつもそれを乗り越えようとする生き様全体に、みずからののびしろを見るわけである。なにも、じぶんを否定したものとして上司を見るわけではないのだ。
そして、まゆみにおいて、おそらく無意識のレベルで、神堂はこのあこがれの頂点にいるのである。というか、そのように操作されているのだ。多面的な生がなにか「からっぽである」と感じられるとき、その生は、それが多面的である根拠を見失ってしまっているのかもしれない。学校で、会社で、飲み会で、恋人の前で、行き着けのコンビニで、わたしたちはそれぞれの場における「本当」をもっている。しかし、学校に行く意味、会社に行く価値、恋人といる喜び、そうしたものを見失ってしまったとき、こうした多面的生の連続性は損なわれ、場そのものへの疑いが、十代のころ強く感じた「ほんらいあるべきわたし」の図式をともなってよみがえり、まるで空洞であるかのような感覚に翻訳されてしまうのだ。場の停滞が、場そのものを疑わせ、ということは、そこにいる「本当のわたし」の価値もゆさぶられてしまい、そこに「ほんらいあるべきわたし」の批判思想的スキームが導入されることで、わたしたちはあの独特の「空洞である」という虚無感を覚えるのである。
だから、停滞を打ち破る、端的にいって「モデル」があると、「社会関係人」は復活するのかもしれない。じっさい、微視的にみて、まゆみも上司との関係が良好なとき、だいぶ調子がよかった。その究極的な位置に、神堂が据えられている。勅使川原や神堂じしんがくりかえしつかっていた「運命」とかその類のワーディングは効果的だったろう。だが、おそらく、もっとも重要なことは、まゆみのなかに、そうした「モデル」にむけて歩むというありかたを使命のようにして植えつけたことだろう。「ハイヤーセルフ」というワーディングのことだ。そうして、ごくふつうにわたしたちがとっている、「誰かにあこがれてより高みを目指す」というふるまいが、スピリチュアルな、神秘的な色合いを帯びることとなる。成長することじたいが神秘であり、特別であり、わたしをわたしたらしめる、そういうふうにもっていかれたのだ。停滞と成長をくりかえすのが通常のありようだとすれば、まゆみにおいては、現状のわたしを否定する物語の書き換えとともに、「ハイヤーセルフ」を目指す「わたし」こそが「ほんらい」であるというふうにされているのではないか。多面的に多くの「本当」を抱え、停滞と成長をくりかえす「わたし」それじたいが誤りであり、「そうではないほんらいのわたし」というものが、「ハイヤーセルフ」をめざすありようのなかにある、そういうことなのではないだろうか。
そうした生において、「到達できぬ絶対的他者」としての「モデル」はどのようなものになるか、もちろん、多面的生に甘んじる「現状のみるにたえないわたし」には理解することができない、不可解なものになるにちがいない。と同時に、そうした連続するセルフをトレースできる一種の包容力、わたしじしんは理解され、包み込まれていると感じてしまうような、そういう存在。神堂とまゆみにおいては、それは、「理解」というよりは、まゆみのほうで神堂の話型にのっとって「わたし」を歪ませているといったほうが正しいのだが、おそらく、別れようと決心しながら新宿でひとりさびしさを感じていたことを見抜いていたかのような「誕生日イブ」という「口実」は、あるいはまゆみを幸福な気分にさせたかもしれないのだ。
さて、次回神堂はどんな行動に出るか。電話帳から消していない、着信拒否していない、そんなようなことでまゆみに暴力をふるうのだろうか。タイミング的にはアメとムチでいえば次はムチだが、しかしまゆみから電話したわけではなるまいし、どうなるだろう。
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