- サン=テグジュペリ/CONGA!! (DVD)
- ¥10,500
- 楽天
花組『サン=テグジュペリ/CONGA!!』観劇2回目。10月5日13時半開演。
前回は不覚にも睡眠不足のためにうとうとしながら観てしまった「サン=テグジュペリ」ですけれど、今回やっと、集中して表層的な内容を理解することができた。
今回は、前もって準備してある券ではなく、ややあきのあった当日券で、2階席を選んだんですけれども、やはり、一度は、舞台全体を一望俯瞰できる距離から見ることは大切だなと感じた。まあ、あんまり遠すぎても、役者の表情とかが見えなくなるんですけど、ぜんたいとしてなにをなしているのか、ああ、あそこの場面はこういうふうにできていたのか、ということが腑に落ちることもある。むかしからいわれていることだとおもいますけど。
僕らのうしろにはどこかの高校の演劇部っぽい女子高生たちが大勢きていて、そのリアクションを見れたのも楽しかった。勉強ということだろうけど、みんな素直で、くちぐちに、「カッコイイ」とか「かわいい」とか「きれい」とか「すごい」とか、直情的な感想を興奮気味にもらしていて、なにかうれしくなってしまった。うんうん・・・、ほんとうにそうだよね。それにつきるね。
それに対して、というわけではないが、我々のとなりにきていたかたは特にお芝居に関してかなり辛らつな感想をもらしており、この作品が、ネット上でもかなり賛否わかれていたことを思い出した。というか、おもに賛成派のひとのくちから「否定的な意見もある」ということを知らされるかたちで、じっさいに耳にするのははじめてだったが、なかなか、これは興味深いようにおもった。「わかっているひと」と「わかっていないひと」に互いに相手を分類して、理解を拒否しているだけだといえばそうかもしれないが、ともかく、そういう状況が生じてきたという事実じたいに、なんらかの意味をくみ出せるかもしれない。
くわしい分析は来週の観劇後に完成させるとして、「サン=テグジュペリ」は星の王子さまをベースにした伝記的物語だ。サン=テグジュペリ(サンテックス)は大人になっても子供の感性を持続させている稀有の才能の持ち主で、それだから、じっさいの友人とか恋人が姿を変えて作品に登場したりするのだという。星の王子さまはたいへん有名な作品だが、僕は子供時代にこれを読んでいないので、いまはじめて読み進めているところであるが、冒頭から少し読んだだけでも、作品内には「星の王子さま」のセリフ、場面が数多くあらわれることがわかる。前回観劇時、睡眠不足の僕が睡魔とたたかうばかりでほとんどまともに観劇できなかったのは、お芝居ぜんたいにある種の夢のような感触があったからということもあるとおもう。この感触はいったいなにであるのかというと、これは、サンテックスやその盟友たちの考える「大空と大地のあいだ」のアナログな物語空間が、表層的なサンテックスの伝記的物語のいたるところにまぎれこんでいるところからきているものなのである。まず、物語がある。筋がある。ことばがそれを具体的にし、役者によって現前する。たしかにそうした順序で本作も完成しながら、じつは本質的に、そこを目指してはいない。ことばが、ロゴスが、サンテックスがまさに批判していたところの「大人」の感性だからだ。大人の感性、すなわち論理では、「生きていないもの」は「死んでいるもの」である。死んでいなければ、論理的には、そのひとは生きている。だが、サンテックスではそうではない。大空があり、世界のそのほかのぶぶんは大地である。だとすれば、論理的には、大空でないところは、大地ということになるし、大地にその姿がなければ、空の向こうにあることになる。しかし、サンテックスには、また子供の感性を維持するものたちには、「大空と大地のあいだ」があるのである。といっても、大人の感性はこれを、「大空」と「大空と大地のあいだ」と「大地」というふうにデジタルに区分しかねないが、そういうことではない。こうしたところに、「大空と大地のあいだ」としか表現しえない「ことば」の陥穽がある。ひとは、ことばを用い、ロジカルな思考を開始したときから、ことばになる以前の「大空と大地のあいだ」を失ってしまうのだ。
リビア砂漠に不時着したサンテックスは、三日間砂漠をうろついてもとの場所にもどってしまう。そのときに、幻想的な雰囲気の王子があらわれる。少なくとも本作のうえでのサンテックスには、これはたいへん重要な経験だったはずだ。砂漠にとりのこされ、周囲1000マイルなにもないところで迷い歩く彼は、まちがいなく、いわゆる「生と死のはざま」にある。現行の論理では表現不可能な事態に、彼は生身のまま陥るのである。ときおり挿入される星の王子さまの一場面は、ただの物語の置き換えとか、登場人物の妄想とか、そういうことではなく、物語が大人の論理で正しく「成立」してしまう以前の姿を大人の論理のままに表出するために、影のようによりそった、別の相なのである。というのは、そもそもことばをつかって「表出する」という行為じたいが、大人のものだからだ。並行してある、「サンテックスの見た世界」というふうにしても、ロゴスによって整序された物語は、ものごとをデジタルに分断してしまい、「あいだ」を損なってしまう。だが、場面という大きなくくりでなくとも、ふと、ほとんど前後の文脈無視ではじまる朗読のようなところなども、大きな役目を負っている。いずれにしても、ことばによる整序は不可避でありながら、一種の歪みがほどこされることで、わずかな感触として、わたしたち鑑賞者のなかに「成立以前」を呼び起こすのではないだろうか。本編はたしかにサンテックスの物語であるのだが、その傍流としての、多くのひとがよく知っている「星の王子さま」の独特のワーディングが、本流である物語の解釈の多様性をほとんど放置するようにして引き出し、ロゴスのもたらす一義性みたいなものを回避するのだ。おそらく、本作に対する賛成者も反対者も、おなじものを見ているのである。同じ、物語が成立する以前の、表現不可能なものを見ているのである。それに対する反射的感想が、おのおの激しく異なっているのだ。
サンテックスの妻・コンスエロは、最近めきめきと演技の幅を広げている蘭乃はながやっているが、このひとは星の王子さまも演じている。同時にコンスエロは、「星の王子さま」作品中の薔薇を体現しているようでもある。このあたりが多少混乱を呼んでいるというぶぶんもあるかもしれない。だが、お芝居ぜんたいで考えたとき、役者の「顔」、つまり、ある役者とある役者の差異ということもまた、ロゴスの一種なのではないかとおもえる。まだ原作を読みきっていないのでわからないが、おそらく、「物語成立以前」という視点で見たとき、ここに区別はないのかもしれない。われわれも、互いに知り合いのはずがない、高校と大学の友人が仲良くしている夢などを見ることがある。そこには、論理的整合性などない。そして、サンテックスのなかにある特殊な感性は、じぶんとコンスエロの関係を一身に体現した王子に、コンスエロの顔をあてはめてしまったのかもしれない。
もちろん、こうした解釈もロゴスなので、ぼくじしん、観劇していた最中の幻想的な感覚とのずれを感じてはいる。しかしまさに、こうしたずれこそが、本編とフィクションが交わるなかに生まれてくる予感的な感触そのものなのかもしれない。語るごとにずれていく、そこへの反省、たぶんそのなかにだけ、「ことば」で思考する大人は子供の世界の兆しを見ることができるのだとおもう。