『さよならクリストファー・ロビン』高橋源一郎 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『さよならクリストファー・ロビン』高橋源一郎 新潮社


さよならクリストファー・ロビン/新潮社
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「最後に残ったのは、きみとぼくだけだった―――
お話の主人公たちとともに「虚無」と戦う物語」帯より







高橋源一郎の幻想的な新作短編集。『「悪」と戦う』や『恋する原発』など、長編が続いたので、短編は久しぶりという感じがするのだが、どうだろう。





収録されている作品はぜんぶで6つ、すべて雑誌「新潮」に掲載されたもので、「さよならクリストファー・ロビン」なんかは2010年の発表のもの。震災ということでいうと、表題作含めた前半の3つ、「峠の我が家」、「星降る夜に」が以前のもので、「お伽草子」、「ダウンタウンへ繰り出そう」、「アトム」は以後のものということになる。





個人的には、文庫化された『ニッポンの小説』を読んでいるところだったので(まだ半分くらい)、「ダウンタウンへ繰り出そう」なんかは、なにか、書いては消し、書いては破りしていく作業そのものを掲載したかのようなものに見えた。





見て分かるとおり、表題作にはくまのプー他あの世界のキャラクターが何人か登場する。しかしその世界には、彼ら以外にもさまざまの、御伽噺の住人が暮らしている。だが、いまその世界は、ネバーエンディングストーリーみたいに、虚無に侵食され、消えかかっている。その世界を夢見、記述するものがどんどんいなくなっていってしまっているからだ。しかたなく彼らは、自分自身の手で、彼らの物語を書いていく。しかし徐々に、ひとりひとり、物語を書くことに疲れたものたちは、消えていってしまう。

「正しさ」とはなんなのか、どこかしかるべきところにいけばそれは自存しているものなのか、そういう問いが、デビューのころから高橋源一郎にはずっとある(とおもう)。「問い」というものが正解を求めるものだとすれば、「正しさとはなにか」という問いに「正しいこたえ」を与えることは原理的にできない。だから、わたしたちは、「正しさとはなにか」という問いをたてた瞬間に、よってたつべき正しさのいっさいを未来永劫失ってしまう。そこでいったいなにを記すべきなのか、『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』 においては、本来出版にたえない刹那的なつぶやきをそのままに硬化させ、制度とすることで、「正しさを保留する」という、問いがたったあとで唯一とることのできる行動をかたちにしたと僕は考えている。





文学の文法とか論理が、記された瞬間制度となって権威性を帯びるということは、正統性を身につけるということでもある。わたしたちはいつでも、わたし以前に誰かがくちにしたことばをしゃべっているが、これを敷衍すると、自由に書いているように見えても、文学にはたしかに文法があり、独特の論理が底流している。そうした方法で、たとえば「死者」のような、交感できない圧倒的他者を描くというのは、どういうことなのか。こういう疑問が、高橋源一郎のすばらしい批評性として、小説のなかにも流れている。高橋源一郎が作品内で使用する漫画のキャラクターなんかは、わたしたちのよく知るあのキャラクターであると同時に、ぜんぜんちがうもののようにも見える。というのは、おそらく、こうしてべつの作品で語られるという作業を経由することで、一種の神話、要するに御伽噺のようになっているからではないかとおもう。わたしたちの意識を超えて、語らずにはいられない、聞かずにはいられない原的な物語の媒体、そういうものとして、キャラクターはあらわれてきているようにおもえる。小説を書くにあたり、「正しさ」についての問いは、前提として、物語をまったく安定させない。いずれ書けなくなる・・・ということはじっさい高橋源一郎の身にも起こったことだけど、必然的に、小説は、ほとんど「完成する直前」のような感触になるにちがいない。もしかすると、作者が借り物のキャラクターをつかうのは、そうすることで生じる神話性のようなものを、保留され続ける小説が要請するからなのかもしれない。





作品内においても、人物たちは、虚無や「お友だち」や死者など、記憶から抹消されたもの、トラウマ的に語る文法そのものを内部に備えられないもの、わたしたちの語ることばの外側にあることを旨とするもの、そういう「語りえないもの」に遭遇する。小説そのものにも迷いがあるし、人物たちも戸惑う。しかしそのことで、「正しさ」を保留しようとする、問いから発生したたぶん無意識の運動は、境界を越えたわたしたち自身の問題にもなっていく。わかりやすい例でいうと、映画『マトリックス』では、人類の暮らしていた世界がじつはロボットに見せられている夢で、ほんとうの現実はほかにある、という世界観だった。この仕掛けが導く不安は、彼ら人類が、外部から起こされない限り「マトリックス」のなかにいるということに気づけなかったのならば、その「現実世界」もマトリックスの内部ではないとどうして断言できるのか、という問いが、浮かび上がってくるからだ。あの映画の製作者がどういう意図でつくっていたか不明だが、いくつかヒントはあった。たとえば、ネオは現実世界でも、マトリックス内でのような超人的な能力を発揮したのだ。またサイファーという人物は、「マトリックス」が偽ものの世界であることを知りながら、そこにとどまることを望む。作品内でそのことを自覚していたものはいなかったようだが、「マトリックス」を抜け出ることは、現実世界が過酷な世界であること以上に、「正しさ」を保留し続けるという点で、苦行に等しい。サイファーは俗物のように描かれていたが、彼の存在には、現実のたたかい以上の無間地獄のような過酷さがうつされていたのではないかとおもう。それは、要するに、断言のできない世界にすすみでるということなのだ。それだから、主人公ネオのチームのリーダー、モーフィアスは、断言を好むキャラだったのではないかとおもうが、それはまあ別の話。





文学は、死者のしゃべることばも、制度的文法で、生者のことばと同じものにしてしまう。しかしあの問いののちでは、すべての記述が、「正しさの保留」につながる、次代への「パス」になっていく。死者のことばを記すことはできない、でも記すとしたらどのようなものになるか、そういう試みが、そのまま「正しさ」への問いにつながっているのだ。







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