花組日本青年館公演『近松・恋の道行』※追記あり | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■主演・・・愛音 羽麗


上方絵草紙
『近松・恋の道行』

脚本・演出/植田景子

[解 説]
 愛と命・・・どちらを捨てられますか?

人の持つ業(ごう)の深さ、色恋のためにすべてを犠牲にし、命までをも落とす人間の性(さが)をテーマに据え、近松門左衛門の「生玉心中」「曽根崎心中」などを中心に構成した、正統派日本物作品。江戸時代の大阪を舞台に、遊女おさがとの恋に身を持ち崩していく茶碗商の跡取り息子、嘉平次の姿を中心に、許嫁のおきは、そして、さがの妹女郎、小弁と清吉の恋など、様々な人たちの義理人情を劇的に描き出します。
愛ゆえに死への道行に殉じる男女の生き様が現代に問いかけるものとは・・・?




以上、公式ページ より。



さて、なにから語ればいいだろう。

まず個人的なことを一覧的に記すと、5月25日13時と28日12時の部、二度観劇した。今回は仕事の休みがとれたので、出待ちなんかもやってみた、ということは、前回 書いた。

今回、つまり28日の千秋楽のあとも、我々は出待ちを試みた。とにかく、ビビりすぎかもしれないが、果たしてこんなところに突っ立ってみていていいのか、ファンクラブのひとに注意されないかということばかり気になって、例の喫煙所のあたりをいったりきたりくりかえす、ということをまたもくりかえしてしまった。しかも今回は、終演直後からばかみたいに雨が降り始めて、なかなかたいへんなおもいもした。




長いこと観てるけど、たぶん、記憶しているかぎりで、千秋楽を見るのははじめて。だからちょっとほかの公演の千秋楽と比較したりはできないのだけど、あれだけの出来だったのであるから、なにか珍しいことが起こったとしても不思議ではない。とにかく、観客の生徒さんの占める割合が異様だった。他の組のかたやOGさんが見にこられることじたいはぜんぜん珍しくない。だから今回も、数人の金髪集団が列をなしてやってくるのが見えたとき、ああ、日比谷のほうが休みだから観にきたのかなくらいにぼんやり眺めていたのだけど、その列のおわりがぜんぜん見えてこないのである。あれは何人くらいだろう・・・40人くらいいたのだろうか。近くの席にいた若い女性のお客さんが、たいへん興奮した調子で「なにこれ、え、なにこれ!どうなってんの?!今日どうなってんの?!!」と悲鳴をあげておられたので、たぶん相当なものなんだろうとおもわれる。僕は、ちょっと最近視力が落ちてきたせいか、望海風斗さんしか確認できなかったが、蘭寿とむさんもいたらしいので、花組の全国ツアーのメンバーはほとんどこられていたのかもしれない。知った顔が確認できないのにどうして宝塚の生徒だとわかるのかと、宝塚ファンではない読者はおもわれるかもしれないが、それは、見ればわかるとしかいいようがない。タカラジェンヌというのは、どっからどうみてもタカラジェンヌなのである。終演後の悠真倫さんの挨拶によれば、宙組のメンバーもいらしたようである。OGでは元花組トップの愛華みれさんも。(※追記‐書き忘れたが、カーテンコールは数度繰り返され、やがてみんな立って拍手をするようになった。何度も書くが、これが千秋楽ではごく当たり前の風景なのか、近松だけに見られた特別な出来事なのか、それはわからないが、いずれにしても、そこにいた誰もが、なにかあたたかい、特別な気分を覚えたはずである。しまいにはサヨナラショーみたいに、閉じた幕の前に戸惑いつつ愛音さんがやってきて、「おおきに!」といって帰っていったのだった)



そういう状況が生成する雰囲気というのは、もちろん当人たちは純粋に仲間の芝居を見に来たという感じかもしれないが、やはり祝福のムードだった。近松は、素人目に見てもたいへんなお芝居だったにちがいないとおもわれる。それが無事終わろうとするところ見守ろうと、ファンや劇団の仲間たちが、あたたかく支えているのだ。




じっさいのところ、ツイッターなどを通して感じられる評判は上々で、愛音羽麗も華形ひかるも僕は大好きなので、真っ白の状態で作品を見るということは、役者個体に思いいれをする宝塚歌劇という媒体でもとりわけて難しいのだけど、でも、なんというか、お芝居というものの底の深さを、このふたりや、実咲凛音、さらに、ちょっとこれ以上のものは考えられないという心情表現をしてみせた春風弥里から感じることができた。愛音さんはもともと歌唱力のあるひとだけど、もうそこにすごい深みが加わっていて、華形さんとのデュエットのところとか、からだが硬直してしまうくらい感動した。




話の構造をごく単純化してしまえば、システムと個体の対立ということなので、宝塚ではよく見られる設定かもしれない。タフな現実世界に価値として生きるある人物が、それ以外がどうでもよくなってしまうような激しい恋に落ちて、その齟齬から、破滅に向かう。けれど、曽根崎心中のヒットで心中が流行するという事態にまでなっているこのときでは、問題は微妙に変わっていく。

愛音さんの演じた嘉平次は、仕事一筋に生きてきた愚直な男で、友人からもそのようにからかわれるのだが、さが(実咲凛音)という美しい女郎と出会って、恋に落ちる。それと並行する物語として、もともと生まれのよい小弁ちゃん(桜咲彩花)という女郎と、それに仕える清吉(華形ひかる)とのあいだにも、主従を超えた無二の感情が浮かんでくる。世間では近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」が大ヒットしているころであり、嘉平次もさがと出会う前にそうした燃え上がる恋へのあこがれを語り、小弁ちゃんはさがに浄瑠璃本をわたされる。当代のひとびとの無意識に、そうして「心中」という選択肢が、ゆっくりと刻み込まれていったわけである。

「心中」は、残されたものたちの悲しみ、また背負わなければならないもの、そして当然本人たちの死という客観的な現象を見ると、破滅にちがいないが、彼らじしんは、一種の達成としてこれをとらえている。さがなどが語る、死んだあとということが、果たしてどの程度の意味をもつものか知れないが、少なくとも、社会関係的には破滅であっても、絶対に幸福である瞬間があればそれでいい、というような嘉平次からすれば、これはたしかに解決なのであり、ある面では勝利なのである。ふつう、システムと個の対決では、ウエストサイド物語のように、どうやっても個は勝利できない。ミーアンドマイガールなどは、その意味ではうまく解決しているが、あれにしても、サリーは上流階級のふるまいを身につけなければならなかったのであり、単純な勝敗の図で語ることはできない。ちょっと正確になんといっていたか忘れたが、物語のおしまいに、夏美ようさん演じる近松は、憂き世を嘆きつつ、物語の虚構のちからみたいなものを訴えていた。舞台の上くらいでは、愛を貫く姿を描き続けようとか、そんな感じだったかな。万が一DVDが発売されることがあれば、しっかり確認したいが、ともかく、近松の描き出した虚構というのは、ここでは、「心中」のもたらす幻想のことなのかもしれない。嘘でも幻でも、真に愛を貫く、ということは、システムのしがらみに逆らい個を貫くなかに、生の美しさがあるのだ。


しかし、本作がすばらしい、というか異様なのは、そこにやはりリアルな不気味さが残る点ではないかとおもう。というのは、くりかえすように、おそるべき心情表現を見せた春風弥里が演じた、近松の次男であるニヒリスト・鯉助なのだ。いまがよければよいと、ふらふら生きる鯉助は、しょっちゅう近松に叱られている。いわく、お前はじぶんの弱さから逃げ出しているだけだ、だからいい作品が書けない、しっかり人生と向き合って、悩み、苦しんでみろと。対して鯉助は、ホントの人生ってナンだよ、そんなもの誰がわかるんだよ、という具合に、へらへらした言動とは裏腹に、誰よりも苦悩している。こういう、銀ちゃんのヤスみたいに、論理で理解することの難しい心情表現には、役者としての霊感、一種の飛躍が必要で、華形さんはそういうところがすごいのだが、この春風さんも、おそるべき到達度であって、このひとの芝居には終始鳥肌がたちまくりだった。

鯉助は、「ほんとう」がわからないから、ふらふらしている。へらへら笑って、ごまかしごまかし生きている。「心中」の結果に対しても、多くのひとが悲しみとかあざけりとかの感情を見せ、つまり「心中」そのものがもたらしている意味については自己解決しながら、彼だけは、理解できない、「わからない」というふうに端的にいう。彼だけは、あたまを抱えて、「心中」の意味を保留する。鯉助の青さ、落ち着きのなさ、不安定な動き、それが、結末を硬直させないのだ。劇中、子供たちが世相を反映するおままごとをする場面がたびたびあって、そのほとんどが笑いを誘う、かわいらしいものでありながら、最後に「心中ごっこをしよう!」というとき、たぶん多くのひとが、ひきつった笑いを見せつつぞっとしたはずである。それを見て、うつろな表情の鯉助は乾ききった笑い声をあげる。笑うところだから笑ったというような、機械的な笑いだ。当人たちが変えがたい幸福を手に入れたのなら、それでいいのかもしれない。しかしそれが正しいのかどうかは誰にもわからない。






出店に隠れて茶碗で遊ぶ嘉平次とさがのやりとり、一種のおままごとも、たいへんすばらしい。これが、ウエストサイド物語の、仮想結婚式の場面などとちがうのは、彼らはもう死ぬつもりであるというところだろうか。すでに死ぬつもり・・・だったはず。だから、さがは茶碗商の未来の女房として、茶碗について学ぶ意味などない。にもかかわらず、塗りの種類を覚えるさがは幸福に満ちている。一瞬、僕はテルマ&ルイーズの、明らかな破滅が目前に迫っているふたりのあのテンションを思い出したけど、これを「破滅」と名づけるのはシステムであって、当人たちからすれば、とりわけ「心中」という解決策があるうえでは、なにか達成のようなものだ。茶碗商の女房という姿は、現実には見ることができない。しかしある意味では、心中を決めたことで、すでにさがは女房になっている。だがここには、幸福感と悲しみが、たしかに同居していたようにおもう。彼らに迷いはなかった。しかし、ほんとうにそれで正しいといえるのかわからない選択を、最後に残された唯一の道として迷いなく進むことじたいのなかに、人間の生の皮肉というか業みたいなものが、たぶん浮かんでくるのだ。というのは、これも一種のごっこ遊び、「演技」だからである。激しい恋愛、そこから続く「心中」じたいが、彼らには「ことば」だった。人生にそうした面があり、そういうふうに解釈が可能だとは、それまでは考えもしなかった出来事なのだ。だから、彼らには、ある種の作法を必要としたのだろう。彼らにはもはや、そうする以外なかった。彼らには必然性をもって「心中」は迫ってきたが、彼らの自覚しないレベルで、これは「心中ごっこ」にすぎなかったのかもしれない・・・そういう不安が、あの子供たちの無邪気なひとことのなかに浮かんでくるのである。しかし、たしかに芽生えた愛情と、それを虚構でも追い求めた近松を攻めることなどできはしないだろう。彼らにはそれが、唯一の必然だったのであって、それだからこそ、たぶんここには、やりきれない生そのものへの鯉助的な悲しみが底流しているのだ。






みなさんすばらしいお芝居をみせていたが、そのほかでとりわけていえば、長作を演じた瀬戸かずやさんだろうか。もともと精悍な顔立ちの、いかにも強そうな長身の男役で、それが今回かなりの憎まれ役である。対して愛音さんが弱そうなのだから、嘉平次が上着を脱いでもう許さんみたいになったときは、ほんとう、いややめときなさい、どう転んでも勝てませんよ、という感じになった。すばらしい迫力でした。





みなさんお疲れさまでした。実咲凛音さん、宙組での活躍期待しています!




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