今週の闇金ウシジマくん/第272話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第272話/生活保護くん⑳









さまざまな経験を通して、佐古は目を覚ました。表層的には、社会はひとを交換可能なものとしてあつかう。そのなかから声をあげて、おれはここにいるのだと主張しながら、しかし佐古には、そこにとどまろうとするかのような矛盾したぶぶんがあった。あくまで虐げられているものの身振りをとりつづけるかぎりで、彼は被害者でいられる。だが、たぶんこうした世界観の根本にあった親との関係、また大人のあつかう兄との関係という点において、前回ついに佐古は、すべてをはっきりと知ることになった。ちょうど、労働において、表層的には、あるいは便宜的には、労働者を交換可能なものとしてあつかいながら、原初的なぶぶんにおいて、その給金がお返しとして、他のものに換算できない固有のしるしとして機能していたのとおなじように、父親の言説がときに兄との比較で佐古を語ることがあっても、その本質は愛にあったのであり、佐古彰固有の人格を見つめていたものだったのだ。




髪を切ってさっぱりした佐古が薬局にまたおむつを買いにきている。いまだ脱糞あ治っていないのか、それはよくわからない。というのは、ここは藤代彩花のバイトしていたところなのであって、彼女に会うために2週間も通い続けているのだ。だが会えない。辞めてしまったらしい。ストーカー行為でつきとめてある家も引っ越してしまったらしく、フェイクブックやツブヤイターには鍵がかけられ、このままでは彩花の行方を知ることは不可能となった。



佐古はつらい気持ちをつぶやく。起業の精神的きっかけは彩花がくれたとあるが、そうだったっけな・・・。

ともかく、彩花のアカウントそのものが消失してしまったわけではない。フォローを申請して承認してもらえば、また以前のようにつぶやきを見ることはできる。しかし、鍵をかけるからには、彩花のなかでなにか変化があったにちがいなく、それが、実名をネットという匿名界にさらすのを辞めたということなのであれば、ぜんぜん知らない佐古からのフォローが通る可能性は低いかもしれない。



おばあさんたちとは仲直りしている。おばあさんたちも、温泉旅行をパソコンで予約できるようにまでなって、ずいぶん習熟してきた。とりあえずめしあが騙し取った金は佐古が返したので、以前よりむしろ信用されているのかもしれない。

そういうわけでパソコン教室は順調だ。このままいけば生活保護を受けなくてもよくなりそうという佐古をみて、ケースワーカーの三橋は、同僚に感懐を述べる。しかし、同僚の女はまだ、以前のようにすさんだ顔をしている。というのは、彼女の勤めているグループホームで、生活保護の女に刺されそうになったというのである。Gacktがむかえにくるという妄想を抱き、電子レンジに恋愛相談する女・・・。ののあなのである。生活保護を維持するための陽狂なのか、それとも、もともとその気があった彼女がついにあるレベルに達してしまったのか、それはこれだけではわからない。だが見たところ、爪はのびている。ストレスの感じる生活ではないということだろう。





佐古はふるえる手で、よっしーに借りていた金を返す。よっしーはもらえないというが、佐古は働いて稼いだ金だ。気まずかったふたりだが、苦労の経験を通して、なにか通じ合うものがまた出てきたようだ。





生活保護生活から抜け出れそうというくらいだから、パソコン教室だけではちょっときついかもしれない。佐古はめしあやぬーべーと老人の家に営業にきている。震災のあった地域らしい。まあ、いまのおばあさんたちとのような堅固な信頼は、一朝一夕では築けない。三人は地道にやっていこうと、晴れやかな表情で決意を固めているのだ。とはいえ、不安はある。佐古はツブヤイターかフェイクブックに、おもいをつづる。じぶんはいつも、都合のいいように物事を解釈し、歪ませてきた。しかし、友達ができ、仕事をはじめ、修羅場を通じて生身のからだをさらけだし、さらに親のおもいも教わり、成長した。









「ありのままの姿でありのままを捉えて素直になりたい。





朝起きてやる事があるのは素晴らしい。





人と会う約束があると嬉しい。





今日したことを明日へ繋げて積み重ねられる毎日を過ごしたい。





もう手遅れかもしれないけど、間に合うと思ってる」








佐古のつぶやきを、彩花も読み、笑顔を浮かべている。見覚えのないアカウントからフォロー申請があったので、誰だろうと、つぶやきをたどってみていたところなのだろう。佐古にメールが届くが、仕事の依頼だったらしい。どうやらフォローは通らなかったらしい。






駅を探し歩く三人のうしろから丑嶋の車がやってくる。たぶん東北の一地区だとおもうので、こんなところで出会うのはものすごい偶然だし、つけられていたのではないかと勘繰ってもおかしくないとおもうが、佐古にそういう感じはない。真っ当に生きているという、かすかな自負が芽生えてきているからかもしれない。

丑嶋は、ここから駅は遠いという。だが、乗せてはくれない。ただ、まっすぐ歩いていけば着くと、それだけ告げて去っていく。佐古たちはどうやら正しい方向に向かっているらしい、だが、それはまだまだ、遠い道のりなのである。







おしまい。









全20話。生活保護くん完結。




ひとつひとつのエピソードは小粒ながら、それぞれに意味をもって連動していた、たいへんウシジマくんらしいおはなしだったとおもいます。

ウシジマくんは社会派といわれる。べつにそれを否定するものではないけど、本作はそういう点、つまり、「闇金ウシジマくん」という作品が一般の意識のうえでとらえられている姿というものがより意識されていたつくりだったとおもう。それは、要するに、作者において、じぶんにできることはいったいなんだろうかという問いが強烈に立ち上がったということだ。本エピソードでいえば、日本国民の60人に1人が受給しているという生活保護、ネット上の匿名と実名、それにもちろん、東日本大震災、こういったことが、ウシジマくんを「社会派」たらしめている要素だった。これまでもつねに、闇金ウシジマくんは、時代を読み、綿密な取材に基づいて、わたしたちに現実をつきつけてきたのだが、そもそも本作の前提として、いったい現実とはなにか、正しさとはなにか、そういう本質的な問いがあったと、僕は考えている。であるから、作品は、通常の生活では決して理解することなど不可能なさまざまなひとびとを、個々に抱える地獄のかたちを明瞭にしながら、うつしていったのである。それだから、あくまで僕個人としてはということだが、これを一種の情報漫画、現実暴露漫画のように読むことには抵抗がある。

しかし、事実としてこの漫画がどういう役割を担っているのか、そういうことを振り返ったとき、狷介に「真実」であると信じられる情報の乗り物としてであろうと、あるいは、「真実」などいったいどこにあるのだろう、という疑問が底流した、交わることのないひとびとのすれちがいを描いたものであろうと、そこには、げんにこうして生きているひとびとの姿が、たしかに見えたのである。登場人物が同じ空気を吸っているかのようなリアリティ。わたしたちのことが書かれている、そう感じられる漫画なのだ。それが、今回はいつも以上に、現実に取材するという方法に基づいたものとして、自覚されたものとして描かれていたようにおもう。闇金ウシジマくんは現実を暴く漫画である、いやちがう、そもそも暴く現実などどこにもないと告げるのがこの漫画である、という議論は、あってもいいだろう。いずれにしてもたしかなのは、こうして漫画を読み、げんに息をしているわたしたちじしんのことが、どうやら書かれているらしい、ということなのだ。




たぶんそうした分析のあとに、「闇金ウシジマくん」はこの現況下でどうあるべきなのだろうか、そういう問いがたってきたのだ。というより、たぶん、ウシジマくんはつねにそうやって書かれてきたのだとはおもうのだが、今回に見える「社会派」たる側面の強度は、作者の自己分析の結果なんじゃないだろうか、などというふうにおもいます。







佐古の病がどのようにして成立していたのか、それがどのように回復していったのか、毎週毎週、僕の考えは臆面もなくくりかえし開陳してきたので、くわしくは記事をさかのぼってもらうとして、その解決みたいなものが、構造改革というような巨大なおはなしではなく、個人の解釈の次元にあるというのが、じつに優れたミクロの物語という感じがする。今回、佐古とめしあ、ぬーべーは、あのように立ち上がったが、ののあが変わらず残っているところなど、ウシジマくんらしい。生活保護は、受給者の痛みや苦しみを計量するシステムの一面だ。佐古はそもそも、痛み苦しみや、個人に属する「固有の事情」が顧慮されない、計量社会に疲弊し、理解されないという苦悩を抱えていたはずである。そうした社会が善であるのか悪であるか、あるいはしかたのない必要悪であるのか、そうしたことはおいて、事実として、便宜上世界はそうあらねばならないものかもしれない。ともかく佐古は、前回明らかになったことだが、兄との比較という点でも、佐古彰個人に目を向けられることのない、少なくとも彼にはその自覚のおとずれない世界に疲れていた。緊張すると脱糞するという病気は、それが身体に翻訳され、「みんなががまんできるのにじぶんはできない」というしかたで顕現した、彼の自信喪失の過程だ。しかも、佐古は、すすんで生活保護者になることで、ふたたび計量される存在に戻っていこうとする。ここにはもしかすると、つねにじぶんを被害者側におこうとする無意識が働いているのかもしれないが、おもえば剛田に強要された食糞は、この無限のスポイルをとめるものだったのかもしれない。もれでたうんちそのものが、彼にダメージを与えるわけではない。「みんなができること」ができないことが、彼を貶めるのだ。そして、「みんなができること」をさせまいと、彼の意志を阻む強権的な病、これは計量社会の反映であって、とするならば、彼が無意識にその権威的なものさしの計量を受け容れたように、病にしがみつこうとしていたぶぶんもあったのかもしれない。ほんとうは、がまんしたい。だが病がそうさせない。悪いのは病である。権威が、病そのものが、病を深くしていく。こういうふうに考えたとき、佐古では胃腸の病気は被害者意識を高める言い訳になりうる。ここを内側から乗り越えるために、佐古は、食糞によって疲弊のスパイラルをリセットしたのである、というのは、むちゃくちゃな理論だろうか。




しかし、剛田は、実名としての佐古を暴力的に求める存在だった。ウシジマワールドで暴力は他者の露骨なあらわれであり、つまりまったく理解のおよばない他者が、佐古個人を求める行動の最後に、佐古の食糞はあったのである。佐古はたぶん、あのおそろしい経験で、個人であること、実名であるというのがどういうことかというのを学んだのだ。



そこから、労働の起源、父の思い、そうしたことを学んで、佐古は世界の見方を、解釈を柔軟にしていく。世界のほうはなにも変わっていない。つまり、佐古の叫びによってなにかが変わったわけではない。佐古のほうで、世界の受け止め方が変わったわけだ。佐古は、匿名的世界ではなく、実名的な、世界の本質をつかんだ。匿名的言説には、返っていく文脈が欠けている。それはめしあやののあの会話を見て知ったことだが、ある語り口が「匿名的」であるということは、そういうことだとおもう。つぶやきは単発で完結し、前後のものと響きあうことがない。だから「約束」みたいな、過去や未来のじしんの存在を担保にしたコミュニケーションは成立しない。固体ではあっても流れではない。匿名的世界というのは、要するに、それぞれの単発のつぶやきが誰によってされたものであるかが問題とされない空間のことなのである。佐古はまさしく、そこに身をおきながら、DQNバスターとして剛田という個人を利用し、ここにいる、このおれを見てくれと、矛盾した主張をくりかえしてきたのである。




だが、とりかえしのつかない危険な方法ではあったが、佐古は実名的な世界へとおりたった。佐古の「理解されない」という叫びは、彩花へフォロー申請をするというかたちにかわっていった。もちろん、ツブヤイターも匿名空間であるかもしれないが、そこに文脈が形成されていけば、少なくとも「匿名的」から抜け出ることは可能だろう。重要なのはそうしたところに佐古が踏み出したということなのだ。




次シリーズ再開は7月2日ということです。今回は、被災地にも出向かれたようだし、特別取材はたいへんだったろうとおもいます。真鍋先生、お疲れ様でした。コミックで読み返すのを楽しみに待っています。





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