今度花組公演を観にいくので、その予習というか、神経を宝塚仕様にするために、けっこう連続でいろんなビデオを観なおしている。
昨日はおなじ花組の2005年の作品、春野寿美礼『落陽のパレルモ』を観た。
春野寿美礼といえば大スターなのだが、僕は、ちょうど宝塚から離れていた時期のひとなので、観劇したことはないし、ビデオでも見たことがなかった。
だから今回はじめて、ちゃんとこのひとを見たことになるのだけど、やっぱりたいへんな存在感、圧倒的な華であって、やや大仰な表情・ふるまいも、芝居じたいに沿った適切なもので、これは、中毒性の高いひとだなーという感じ。
今回これを見て、いまさらなんだけど、宝塚というのは、ロミオとジュリエットの物語類型を基調とした“「公」と「私」のストラグル”、すなわち、社会のしがらみと愛の衝突が大好きなのだなーということを強く感じた。というか、もうそれだけしか描いてきていないとすらいってもいいかもしれない。というのは、べつに宝塚歌劇のあつかう題材がせまいということではなくて、そもそも、どのような物語も、仮にそれが恋愛をテーマにしていなくても、この葛藤を出発点にしてつくられていると、そういうふうにいってもいいんじゃないかと僕は最近考えている。宝塚は、恋愛があって、かっこいい男役がいて、男女はお互いに到達しがたい他者的距離にあってと、そういう、作品に先立つルールがあるから、それに自覚的にならざるを得ないと、そういうことなんではないかと、ふとおもった。
で、重要なのはその葛藤が結果どのようになるかということなんだけど、たとえばブロードウェイからもってきた「ミーアンドマイガール」では、サリーが高貴なもののしぐさを身につけることで、これは解決した。ぱっと見は、というか昨日まで僕は、この結末は、ちょっと不満だった。というのは、そうなると、貴族と平民の恋愛はそのままでは成り立たず、「愛」は敗北したことになりはしないかと、そうおもっていたからです。
しかしよくよくふりかえってみると、あのあとビルはそうとうに乱暴な口調でサリーをむかえいれ、サリーも身体が動かせるままにこれにとびこんでいっている。あの場面は、「高貴なもの」のしぐさなど外的な、オプションにすぎず、どうとでも習得は可能であると、そういうふうにも読めるわけですね。純粋に「私」が完全勝利したわけではないことはまちがいないけど、なかなか、うまいことまとめられているわけです。
今回においても、名前は忘れたが、これも宝塚が大好きな貴種流離譚的に、春野寿美礼はじぶんの出自もまた貴族であるということを知り、なんとかこの爆発的な恋愛を成就させるのだけど、この瞬間も、僕はちょっと不満だった。だが、そのあとに、春野寿美礼の父にあたる人物が、貴族の、ひいては「公」のありかたについての見直しを訴える・・・。ふーむという感じです。ここにお芝居としてなんらかの結論を与えなければならないというのは、たぶんすごくたいへんなことだとおもいます。
- ANUHEA―春野寿美礼写真集/春野 寿美礼
- ¥3,675
- Amazon.co.jp