『あらしのよるに』きむらゆういち | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『あらしのよるにⅠ、Ⅱ、Ⅲ』きむらゆういち/あべ弘士 絵  講談社文庫




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「嵐の夜に芽生えたヤギとオオカミの奇跡の友情物語―。児童書から飛び出して、あらゆる年代に感動を呼んでいるベストセラー絵本シリーズを大人向けに再編集。パート1は『あらしのよるに』『あるはれたひに』『くものきれまに』の第1部から第3部までを収録。あべ弘士描下ろし挿絵入りの文庫オリジナル版」Ⅰ巻裏表紙より




映画のほうはDVDですでに見たことがあったのだけど、今回、しっかり読んでみたいと考えて、もともと絵本だったものを文庫にまとめた三冊を手に入れた。といっても、絵は文庫描き下ろしみたい。




・映画あらしのよるに

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10354535688.html




やっぱり、原作もたいそうな筆力であって、いっきに読んでしまった。

うえの記事にも書いてあることだけど、本作はウエストサイドストーリー、ということはロミオとジュリエットと同じ物語類型にあてはまるものであり、「公」と「私」が、わかりやすすぎるほどに露骨に、音をたててぶつかりあう構造にある。

ガブは狼であり、メイは山羊なのであるから、基本的に普段の両者は食う側と食われる側にわかれている。仲良くなったあとでも、この食欲は両者のあいだに宿命的に割って入り、混乱を呼ぶこともある。

この食欲に加えて、映画では特に、メイのていねいな口調、美しい顔つきなどが手伝い、ふたりの関係はかなりきわどいものに感じられる。もちろん、食欲と性欲を同型のものとしてあつかうことはできるし、げんに僕はふたりの関係をウエストサイドストーリーの相似、すなわち恋愛と等しくみている。ガブは、メイとの友情を死ぬほど大切におもいながら、そのいっぽうで、何度もメイを食いたくなってしまう。まるっきり鈍感な女の子のようなメイは、ほとんど挑発しているんじゃないかというほど無防備にからだをさらし、ガブの食欲を刺激していく。

最終的には、ふたりはこれをのりこえる。まず雪山で、メイは、食われてもよいという境地に達し、ガブも、少なくとも記憶を失うまでは、やっぱり食えないと、食べてしまうことで失われるものをおもい、理論的にはそれを禁じ手とする。ここで重要なのは、たぶん、ガブの食欲が最終的にあるのかないのか、ということではないだろう。ガブはたぶん、今後もくりかえし、メイの姿態に舌なめずりしていることに気づいてじぶんを責める、ということをくりかえしていくだろう。しかし、それでもなお、ガブとメイの友情は成立している。というのも、ある意味でガブはメイを食べて、体内に取り込み、一体となっているからである。


「公」と「私」の衝突というのは、要するに「他者的なものとのとりかえしのつかない争い」ということだ。ガブとメイの関係は禁断のものであり、社会(他者が築く網目)的にはあってはならないできごとである。そのことは、彼らの仲間が彼らを責めたてているときにはっきりとわかる。個人として成り立つ成り立たないではない、原理としてあってはならない事態なのだ。彼らがもし、「オオカミ」や「山羊」という概念のない世界にふたりだけで存在していたなら、問題はない。そこでは、もしかするとガブは「牙のある山羊」だったかもしれないし、メイは「温和なオオカミ」であるかもしれない。しかし現実には、彼らの関係は存在を認められない。だから、彼らはまさしくその、「オオカミ」とか「山羊」といった「意味」がほどこされる以前の、大洋的世界を望む。いうまでもなくそれは緑の森というネバーランドなのであり、創世記における蛇以前の楽園、ウエストサイド物語でトニーとマリアがうたう「somewhere(どこか)」なのだ。


アダムとイブは智慧をさずかり、他者の目を獲得して、イチジクの葉でからだを隠すが、これはことばによって世界が分節された最初の衝撃でもあっただろう。そして、ことば(法)が秩序づける世界にひとは投げ出されるが、柔軟な社会のルールでもカバーしきれない関係というものが、たとえばトニーとマリアの恋愛であり、ガブとメイの友情なのだった。このとき彼らが「somewhere」とうたい、希求するのは、禁断の実以前の、赤子が抱えている大洋的世界なのである。まだ「おもいどおりにならないもの」が発見される前の、世界と「私」が一致している認識だ。

だから、こころの底からこの世界を望むとき、いっさいの「他者」は消滅する。それは、ガブとメイ、またトニーとマリアについてもおなじことである。彼らどうしもまた、合体し、その瞬間に他者ではなくなっているのである。


食欲も性欲も、相手のからだを体内に入れる行為であり、ある種の合体である。ただ、文学的な意味ではそうであっても、たとえばガブが舌なめずりするときの食欲は、厳密にはそうした欲求ではない。メイ以外のすべての山羊にも向けられる、ただの、食欲だ。これが両者の関係になんらかの意味をほどこしているとは、この意味ではいえないだろう。このあとに、“にもかかわらず”という接続詞がつくとき、たぶんふたりは真の意味で一致し、楽園への回帰を求めるようになるのだ。


ふたりは「緑の森」になんとかかんとか到達するが、ウエストサイドストーリーでは、あのように悲劇的な結末がやってきていた。こうした楽園は、どこにもないことを、基本的には旨とする。緑の森にはオオカミはいないようだし、これまでの意味での「他者」とそれがもたらす拘束はないだろう。だが、オオカミというものがこわいものであるという事実は知れ渡っているし、この森が最後の到達点だとはいえないにちがいない。だからおそらく、ふたりは、禁断の関係を保ったまま、つねに「どこか」を探しながら生きていくことになるにちがいない。この「どこか」は、指定することのできない、ことばの外にあるものである。指差し、名づけ、移住したときから、そこは「どこか」ではなくなっている。しかし、それであるのに、「どこか」の予感は、つねに我々のなかに潜在しているのだ。



この「あらしのよるに」は、いま検索してわかったのだが、ふつうの小説も出ているらしい。絵本とはちがった結末や、細かい心理描写が読めるとか。これも、近いうち手に入れたいです。



小説 あらしのよるに (小学館文庫)/きむら ゆういち
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