よく「なおざり」と「おざなり」がわからなくなる。
あと、「霊験あらたか」だったか「あらかた」だったかも、たまに不安になる(げんにいま僕は辞書をつかった)。
そういうのと似ているといっていいとおもうが、「老いさらばえる」も、なんだか口にしながら(文字にしながら)、隔靴掻痒、どうも輪郭のはっきりしない感じが甚だしい。なにか一文字たりないような、あるいは一文字多いような気がしてくる。
それというのはけっきょくのところそのことばの成り立ちについて疑問をもちながらぼんやりしたまま放っておくから起こるのだとおもう。
たとえば「なおざり」と「おざなり」は、それぞれ「等閑」「お座なり」と書くわけだが、「なおざり」の「閑」という字は「ひま」なわけで、そこからこのことばの「注意を払わないさま」を推測することはべつにむずかしくない(いま辞書フル活用してるけどネ!!)。
「おざなり」は、とりあえずその場をしのぐという程度の意味で、これだってべつに「座」の意味を正確に知らなくとも、「当座をつくろう」などということばと関連させれば、「座」という字から内容が浮かんできても不思議はないはずなのだ(たぶん)。
で、「老いさらばえる」の「さらばえる=さらぼう」は、広辞苑によると「曝(さ)る」から派生したことばということだ。
・さらぼう
①雨露にさらされて骨だけとなる。
②痩せて衰える。
ふつうに考えて「老いさらばえる」では②があてはまり、「老い、そして痩せ衰える」ということなんだろうとおもう。だけれどこのことばが実際につかわれるときの攻撃的、あるいは自虐的な語感では、語源もあわせて、それよりも「老い(という状態)を外に曝す」という感じのほうが近い気がする。だけど「さらぼう」の語源は「曝る」だが、「雨露に」とわざわざ書かれてあるところを見ると、すでに広く「曝す」という意味はないようである…(↑載ってないから)。
とおもったら、「老いさらぼう」ということばそのものが載っていた。
・老いさらぼふ
年をとってよぼよぼになる。甚だしく老衰する。
…。
わかんね。
もういいや。