こうふくろん | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ヘッセを読んでから(ついこないだだけど)、幸福とはなんだろうということを、よく考えたのである。幸福とはなにか…。ヘッセは『幸福論』と題しているが、その内容は「論」というほどに一般化されたものではない個人的幸福観だ、ということを書評には書いたのだが、ほんとうにそうだったろうか…



まず、自分自身が幸福であると感じるのはどんなときだろう?全身がふるえるような物語や音楽に出会ったときだろうか?書いたものを褒められたときだろうか?好きなひとと認識の共有が果たせている実感があるときだろうか?友人たちと夜通し飲み明かすときか。いやもっとシンプルに、おいしいものを食べたときとか、あたたかなコメントとともに読者登録をもらったときか、野良猫をもふもふするときか…。個人でもこのようにふたしかで多彩なのだから、もはや人類普遍の幸福などは、考えるだけムダである。しかしその感じかたそのものはどうだろう?


この記事を書こうとおもったのは、そもそも幸福を知らない人間というのはいるのだろうかということだった。つまり、体験したことがあるとかげんにいまそうだとかいうことはおいて、幸福という概念を理解できないひとはいるだろうかということだった。あの追手内洋一くんですら、みっちゃんのことを考えるときは幸せだったはずだし、レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語における兄弟たちも、どのような状況であっても三人が元気に暮らせているという事実は幸福だった。みずからの境遇を「不幸」であるとおもうとき、言葉それじたいが示すように、ひとは「幸福」がそこに“ない”ことを歎くのだ。「不幸」という実体があるわけではないのだ。だとしたらそこに幸福の概念はあるわけで、つまり「こうなら幸せなのに」というねがいはあるわけで、したがってそのひとは幸福がなんであるかを、少なくとも想像的には知っていることになる。


『幸福論』の書評では、たいした考えもなしに僕は、幸福は、人生の無意味をやんわり否定する意味である、というふうに書いた。幸福感のために生きる、という人生への態度は、なんにも考えずにこういう文章が出てくるということは、たぶん僕の幸福観なんだろう。しかし視点を変えるとこれは、生を生き抜くためにひとが無意識に設定するものを、ひとは「幸福」と呼んでいるだけなんじゃないかともおもえてくるのだ。ここだけを読むとじつにネガティブだが、まあ聞いてください。すべての「幸福」は、一般化すると、ヘッセをふまえたうえで、ある種の“解放”のことなのではないかとおもうのです。つまり…いまそこにないが、目標として設定し、向かうことができる状況…向かう姿勢そのものが、幸福なんではないかと。つまり、「幸福」とは、得難いからこそ「幸福」であるのではないか。というか、得難い好ましき状況を、ひとは「幸福」と規定し、希求するんではないかと。さらにいえば、その「幸福」を待ち希み、到達した瞬間のカタルシスが「幸福感」というものなんで
はないか。とすれば、驚くべきことに、幸福の本質とは、かなうかなわないではなく、そこに働きかけることにあるのである。おもいあたるふしは僕にもある…。つまらない毎日の先に計画した旅行や飲み会を、僕らは里程標のようにして生活の段階とし、解放され、幸福を感じないだろうか?


待っていてもはじまらないのですよ。



眠れないツッキーニの、真夜中のラブレターでした。支離滅裂で、展開も稚拙ですみません。