金持ちブスとイケメン貧乏、どっちがイイ? | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

お金と愛、どっちが大事? ブログネタ:お金と愛、どっちが大事? 参加中


ジュルジュル、風邪ひきまジュルした、tsucchiniでジュル




漫画のドラゴンボールで、セルと戦って悟空が死んだ数年後、悟飯が天下一武道会のことでブルマ宅を訪れたとき、ブルマは夫であるベジータについて言っていた。「ぜんぜん働かないのよこのひと」と。これは当時の僕にはけっこう印象的なセリフだった。このことばの裏からは、ベジータが働かなくとも、ブルマが金持ちだからなんとかやっていけるのだという生活感が伝わってくる。つまり、ベジータはたしかに無職だが、それでもブルマ家に寄生することでいちおうは社会の成員として生活を営んでいるということが逆に伝わってくるのです。このことがどことなく不思議なのだ。なぜなら、『範馬刃牙』の作者・板垣恵介が言うように、強さとはわがままを貫く力のことだからだ。惑星ひとつくらいかんたんに消せるあのちからがあれば、強奪して生活していくことなどたやすいはずだ。なんというか、そんな、しかもあのベジータが、“ちゃんと”生活しているというのが奇妙なのです。もちろん行動を抑制する条件はいくつかあったでしょう。たとえば、悟空は死んでしまったとはいえ、セルを倒した孫悟飯という存在は大きかったはず。てもとに宇宙船があるわけでもない。


だけど、そんなことではない。ベジータが行動に出ず、もしかするとバビディとかがあらわれるまでそんなことは考えもしなかったかもしれないのは、もちろん理由がある。ブルマやトランクスへの、また彼らからじぶんへの「愛」である。フロイトでは、善悪といった概念、良心とか道徳的ありかたとかいった基準はにんげんに最初から備わっているわけではなく、「(他者からの)愛の喪失への恐怖」からきている。ただし、ここでの愛とはふつうにいう「愛」の含みをもつものではなく、もっと原的なもので、「愛の喪失への恐怖」とは、悪いことをすると罰をうけ、庇護を失い危険にさらされる幼児の恐怖につながっていく。そして大人になって内面化されたこの審級は良心として自我を厳しく観察する。こういったことが、僕らに“ちゃんと”生活させる。となれば、圧倒的な強者にはこの心配はないはずだ。範馬勇次郎に友人が少ないのはこのためだ。あの世界の絶対者である彼に罰を加えるものなどいないし、他者の庇護など必要ないのだ。


しかしベジータは、バビディに操られて悟空とたたかうことになったときのコメントからもわかるように、あきらかに愛の喪失を恐れていた。それはじぶんが愛する者からの愛の喪失の恐怖なのだろうか。ベジータほどの破壊力…家を壊してしまうかもしれないからおちおちくしゃみもできないようなにんげんのエゴがどのようなものかは想像もできない。しかしそれだけに孤独だったはずである。家族や友人をもち、また維持することで得られた認識共有の感覚…おなじモノをおなじように見ているという、自我のありようを支持する感覚(最終的にこれがいきつくさきは芸術とセックスだ)は新鮮だったはずだ。もしこれが彼の孤独を癒すものなら、ここでもまた愛はある種の庇護であり、彼はそのために良心を築き、社会に組み入っていたのだ。



長々となにが言いたいかというと、社会がシステムとして、じぶんを含み、機能していない限り、お金には価値がないということなんですよ。勇次郎に金が必要なようには見えないでしょ?そして社会を“ちゃんと”動かせているのは、根源的には「愛」なのですよ。したがって、愛なくしてお金は価値を持ち得ない、ということなんですよね~。All you need is love!!ユナームセイン?以上。