月刊『CIRCUS』10月号を立ち読みしていて、「3冊読めば、何かが変わる」というコーナーに内田樹が出ているのを発見した。ふだん読んでいる雑誌ではないけど、表紙の子がかわいかったので開いてみたのだ。
内田樹は新たな世界観の体験という意味で「若草物語」「吾輩は猫である」「阿Q正伝」をあげているのだが、しめの文章で僕の言いたいことがまったくそのまま書かれていてびっくりだった。
「言っておきますが、理解と共感のために本を読んじゃいけません。自分と同じ世代、同じ価値観、同じもの食べて同じ音楽聴いて同じ境遇の人物が「私」である小説なんて何万冊読んだって一歩も進歩がないんです。そんなものは捨てちゃいましょう。「理解も共感もできない、でもこの人の行動や思考には一貫性があるらしい。その一貫性はどこにあるんだろう?」と想像することが、自分のワクを壊していくわけですから」
…まったく、だから好きだよこのひとは。こんなこと、ほんとは当たり前なんですよね。当たり前すぎるから、誰も指摘しない。それを、このひとのように発言力のあるひとが明確な単語を用いて口にするというのはとても貴重だし大切だとおもう。ふつうの場所にはそういう啓蒙がないから、小説にせよ音楽にせよ、いつまでたっても安易な共感作品が「良作」で「ヒット」して、ホンモノの文学作品やヒップホップは「なんか難しい」とか「よくわかんない」とかに留まって「売れない」。お互いに背中向きで、大衆は大衆作品読んで文学者は文学作品読んでんだもん、これじゃだめだよ。両方が、仮にディスりあいながらも共存してかないと。自然じゃないでしょそんなの。文学研究者だけが読む文学、B-BOYだけが聴くヒップホップ…そんな文化は必ず停滞し、やがては退行する。ヒップホップについては、フレキシブルな姿勢のアーティストたちによってややこの状態を抜けつつあるようだが、それでも、たとえば人気の高いDABOにしたところで、「フツー」のリスナーは名前も知らないというのがほとんどだろうし、もっとも知名度が高いとおもわれるZEEBRAだって、「なんかグレートフル・デイズのひと」っていうのが一般的な認識だろう。ZEEBRAが追究する(と僕が勝手に想像している)、「ヒップホップ的排他性を保存しながらいかにこれを乗り越えるか」ということ…。作り手側もそうだけど、これはリスナー・読み手の意識改革なくしては果たし得ない(クリエータ側だけに任せるとすぐリスナーに媚び媚びの共感作品ばかりが横行するようになる。なぜなら多くの受け手がそれで満足してしまうから)。そのための我々の課題は、言うまでもなく、「消費者としていかに消費社会を乗り越えるか」…。
嫌いなことばだが、教養の格差って、tsucchini的共感(記憶の再体験=追体験の拒否)の日常化からきてるのかもしれない。
※参考記事
・表現を共有するということ
http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10046604109.html
・共有と共感、その発端
http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html