■『西の魔女が死んだ』梨木香歩 新潮文庫
- 西の魔女が死んだ (新潮文庫)/梨木 香歩
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「中学に進んでまもなく、どうしても学校に足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変わるひと月あまりを、西の魔女のもとで過した。西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、なんでも自分で決めるということだった。喜びも希望も、もちろん幸せも…。その後のまいの物語『渡りの一日』併録」裏から
流行りものは仮に優れていてもあとで読んだほうがいいばあいが多いのですが、僕のお気に入りのブログさんでことごとく評判のよかったので、僕もついにイッてみました。
「学校に行くことを考えただけで息が詰まりそう」になってしまった中学生の加納まいは、学校を休むあいだ、山の中に自然と共生するおばあちゃんと暮らすことになった。魔女であるというおばあちゃんの指南する「魔女になるための必須条件」とは、なんでも「自分で決める」ということだった。それは、聞きたくないもの、見たくないものは無視してしまい、自分で見ようと決めたものを見ることでもあった。そのための訓練として、おばあちゃんは言う。
「コツはね、朝、目覚める寸前の、あの夢と現実の境の感じをしっかり自分のものにするんです。これから毎朝、その瞬間を意識して捉えてごらんなさい。そして、自分で見ようと決めたものを見ることができるように訓練するんです」P95-96から
原作のピーター・パンではわからないが、ロビン・ウィリアムス主演の映画『フック』では、ジュリア・ロバーツ演じるティンカーベルが、ネバーランドのある場所をこことまったく似たように、「目が覚めきらない夢うつつの空間、そこがネバーランドだ」と表現するところがあった。
おばあちゃんの住むこの山の中は完全に現実界と離れた…というよりはまさに異界と呼ぶにふさわしい楽園のような空間だ。我々はこの小説を読みながら、日常失われてしまったありとあらゆる要素を発見して、ある種羨望のまなざしとともにまいとおばあちゃんとそして自然の共生を眺めるはずだ。しかしそれは、逆の立場からいえば、パパやママがばりばりと働く、慌ただしく刺激的な現実の世界から逃避していると見れないこともない。もちろん、こちらのおばあちゃんの世界にいるあいだ、まいはそんなことは考えないし、つねに心地よく、すくすくと生きていく。しかしまいじしんもこれでいいのかなということにじつはどこかで気付いている。それを強く指摘する存在の登場を、必要以上に毛嫌いすることからそれはわかる。言うまでもなく隣人であるゲンジさんの存在がそれだ。初対面のゲンジさんの印象は最悪だ。いきなりひとの家の敷地現れて、おまえだれだ、遊びに来たのか、ええ身分じゃなと、まいじゃなくたってイラッとくる言い草である。ゲンジさんに対するまいの嫌悪感は、最後に西の魔女の死を共有することでやや減少するものの、おしまいまでほとんど解消されない。それは彼がまいの投影だからである。離婚して町から山の中に戻ってきたゲンジさんは、彼がまいに指摘したまぎれもない「ええ身分」であって、彼を目にするたびにみずからの「ええ身分」もつきつけられたような気分になるまいは、だから彼の存在に耐えられないのだ。
ピーター・パンの住むネバーランドには、親のいない子供たちが永遠に年をとらないまま暮らしている。おばあちゃんの暮らす無垢なイノセント・ワールドも、現実世界と比較すればこのネバーランドと変わらない。これは僕らが東京ディズニーランドに行くときの感覚を思い起こせばわかりやすい。あそこでは完全に世界は現実界と分離し、時間は停止して、それぞれの「年齢」ということがほぼ無意味になる。だから、あの空間で喧嘩をするカップルや、家族に振り回されてぶうたれる父親などを目にすると、不快であるよりはむしろ滑稽なのである。楽園では原理的に誰も怒ったり機嫌が悪くなったりしないものだからだ。そう決まっているからだ。
しかし僕らは、げんにこうして年をとる、時間に支配されたタフな空間に生きている。おばあちゃんのイノセント・ワールドやディズニーランドは、まさに夢と現実の境に、時間の停止したネバーランドとして刹那的にあらわれてこそ意味がある。そして、現実に生きながらつねにネバーランドの空気を取り出して吸うことのできるちからを、おばあちゃんは魔女の能力と呼んでいるのだ。まいにそういう能力をおばあちゃんはつかわないのか訊ねられたとき、おばあちゃんは応えた。
「できるかできないかは別にしても、私はそういうことはやりません。必要がありませんから」P97から
そう、必要ないのだ。なぜならこの能力は厳しい現実世界を生き抜く能力であって、ネバーランドに息づくおばあちゃんにはつかう機会がないのである(そしておそらく作者である梨木香歩の小説観もそういうものだろうと想像する)。だからおばあちゃんは、パパが遊びにきて町へ誘っても山の外に出ない。
聞きたくないことに耳をふさぎ、見たくないことから目をそむけ、じぶんの見たいものだけを見る…このぶぶんだけを読むといかにも現実逃避だし、個人的にも首をかしげてしまうのだが、これはあくまで〈方法=すべ〉であって、つねに浸るものではなく、道具袋から取り出して身を守るためのありかただと考えれば、なるほどそういうものかもしれないともおもう。それは、世界の見えかた…解釈をみずから獲得するということでもあるのだ。じぶんがなぜ学校に行かなくなったかということをまいが告白したときに、おばあちゃんは言った。
「その時々で決めたらどうですか。自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」P162から
これはもちろん比喩なわけだけど、多少言葉のトリックがある。シロクマには選択肢があったわけではない。北極にいないシロクマはただ毛の白い熊であって、北極にいるからこそこの熊はシロクマなはずだ。北極以外である必要がないのではなく、北極である必要がシロクマにはあるのだ。しかしここで重要なのはどのように世界を捉えるかということなのかもしれない。シロクマにとって北極という環境がじぶんで獲得されたものだという自覚のもとに広がるならその寒さも耐えられるのだろう。
おしまいにはこのはなしの後日談として「渡りの一日」という、ごく短いおはなしが収められています。こちらではまいの習い覚えた「魔女的生き方」の具現(=あやさん)と結果があたたかな視線で描かれていて、補完という意味もこめて心地よかった。「何の迷いもない、確信に満ちた一途さ」に溢れたサシバの絵が出てきたときはちょっと鳥肌立っちゃったよ。