うたかた/サンクチュアリ (角川文庫)
「人を好きになることは本当にかなしい。かなしさのあまりその他のいろんなかなしいことまで知ってしまう。果てがない―――瞬間、私もまた彼に恋をする。失望も欲望も、あらゆる角度から彼をくり返し発見して、くり返し恋をする。そして、こういう恋はもう後戻りできないことを、くり返し知る―――
透明な空間のなかに、運命的な恋の瞬間と海の底のような静謐な愛の風景を描き出した二中篇を収録。芸術選奨新人賞受賞」裏から
文庫版あとがきの「この小説こそが、誰が書いたかわからないくらい今の私から遠い一作でしょう」ということばを読んで、なんかすごく納得してしまった。武者小路実篤の『愛と死』のよう。ここまで全力で恋愛小説だと、こそばゆいのも超えて圧倒される。目を充血させ、一気に衝動をことばにしようとしている小説家の姿が目に浮かぶようだ。青臭さすら感じさせる「うたかた」などは、プロットもほとんど決めずに書いたんじゃないかという感じがする。時期が時期なら、つまりこちらがその状況にあるなら、あるいは僕も強く「共感」していたのかもしれないが、恋愛ということの理不尽、いま見えている世界の縁取りすら強引に変えてしまうような、引力や太陽や酸素のように、生まれたときからすでにあり、我々を規定するものに潜在する条件のような、本質的なちからをおもうと、ここでは誰の記憶がどう作用してというようなことはもはや起こっていないような気すらしてくる。普遍的ではないという意味あいにおいて、普遍的なのだ。
「サンクチュアリ」を読みながら僕はつねに、作中にも象徴的にあらわれている写真のような、静止画の「記憶のイメージ」を感じていた。写真とは瞬間の視覚的表現だ。友子という人物が、久しぶりに再会した主人公に高校時代の思い出を語るこんなシーンがあった。
「よくさぁ、夏、プールの後ってくたびれて授業中熟睡しちゃうことがあるじゃない。ほら、あの感じ。体がまだ半分泳いでるようなね、心地良くて、陽がたくさん当たって。それで先生の声がとおーく、子守唄になっちゃって、ぐうぐう寝ちゃうのよね。それでぱっと目が覚めると、五分くらいしか寝てないのに、なぜかしらすごくいっぱい寝たような不思議な気分にならなかった?」
「まわりはなにも、変わってないの。先生は相変わらず黒板になにか書いてしゃべってるし、みんなも変化がなくって、体がほんのりあったかくって、窓の外は晴れてて、なにもさっきと変わってないのに、私だけ急にそこに降ってわいちゃったみたいな変な感じで、なんだかとても誰かとなにかしゃべりたいような不安な気がして、ねえって振り向くと智明くん(主人公※tsucchini注)、必ず!寝てるの。おかしかったあ。ぼうぜんと智明くんの眠る背中を見て、笑いながらまた前向いて、…懐かしいなあ」P104から
会話文だから当然くだけた口語なわけだけど、ここのぶぶんは奇跡みたいに美しい。そして友子じしんが言うように、この記憶風景はどこか静止画的だ。
「サンクチュアリ」は聖域という意味だそうだ。広辞苑には「中世に法律の及ばなかった教会などの聖域。聖所」とある。「サンクチュアリ」は理の及ばぬ領域をさすのだ。
我々のありよう、ひととひととの関係性、「世界」というものは、なにか臭い言い方になってしまうけど、すべて気の遠くなるような数の偶然の連続から成っている。すべての演繹は帰納に基づく。理はこの連続からたしからしさを抽出し、事後的に秩序を施す。しかし瞬間を写し出す写真というものは、この欺瞞を暴く行いなのかもしれない。
だが同時にその瞬間の停止画像は、これまでの時間の流れがそこに至るまでの結果という意味も含んでいる。そしてそれが、記憶ということなのだ。記憶はただ生きるだけでつねに更新されていくもの。そこにとどまることはできない。世界とは、静止した画像ではないからである(主人公が友子の夫・大友と遭遇したのが、動画である映画の試写会であるというのもおもしろい。大友はすでに歩き出していたのだから)。
友子の死後、大友は言う。
「最近やっと、あれはもう終わったことなんだと思えるようになりました。忘れることは不可能ですが、人は自分をやる他ないです。友子のことがどんなに自分の人生をすり減らしても、後はなんとかやっていく他、ないですからね」P156から
たったいまのこの瞬間、僕たちの目の前に広がるこの世界は、辛いものも愉快なものもひっくるめ、あらゆる記憶の連続が成立させている。これはじぶんがげんに生きているということの証明でもある。生きているにんげんは、まさにいまこうして生きているということそれじたいを根拠に、これからも生きていく。最後に主人公は言う。
「楽しいことなんか、まだいくらだってあるんだ」