『街場の現代思想』内田樹 | すっぴんマスター

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■『街場の現代思想』内田樹 文春文庫

街場の現代思想 (文春文庫 (う19-3))



「『バカ組・利口組』に二極化した新しいタイプの階層社会が出現しつつある。そんな格差社会において真に必要な文化資本戦略とは何か?日本の危機を救う『負け犬』論から社内改革の要諦まで、目からウロコの知見を伝授。結婚・離婚・お金・転職の悩み…著者初の人生相談も必見。話題の名著がついに文庫化!」裏から


ううむ。おもしろい。じつに刺激的でした。このひとはほんとうにあたまがいい。内容はもう輝かしいほどに理知的なのに、語り口はきわめて平易、であるのに語彙は豊饒そのもので、論理の道筋はこたえつきの迷路のように明確で、こんなにバランスよく、気持ちのいい知的体験はなかなか得られるものではない。たぶん、小説以外では今年いちばんのオススメ本になるとおもう。

前半は「文化資本主義」がもたらす「階層社会」。このぶぶんは…はっきり言って僕なんかはへこんでしまいました。家庭=環境から「気付いたら身についていた」身体的な文化資本と、たゆまぬ努力によって獲得された後天的文化資本では、「ありようがまるで違う」というのです。そして、たとえば芸術の鑑賞眼などについてこれを身につけたいと考えたばあい、そのじてんで彼と文化資本を身体化している人物とのあいだには大きな差異が生じているのだ。要は、「文化資本を持たないもの」だけが文化資本を希求すると、そういうことなんです。


「ブルデューが皮肉に指摘していたように、文化資本の逆説とは、「それを身につけよう」という発想を持つことそれ自体が、つまり、文化資本を手にして社会階層を上昇しようという動機づけそのものが、彼が触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうということにある。「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化的貴族」へのドアを閉じてしまうのである」P34から


つまり、原理的には「努力したら負け」なのである。そして日本は確実にそうなりつつあると。




後半は若いひとからの具体的な質問…なんで敬語をつかわなきゃいけないのとか、フリーターってどうなのとか…そういう「街場的」な疑問に内田樹が応えていくというもの。前半に比べるとこちらはもう少しくだけた様子だが、知的なおもしろさは微塵も損なわれない。特に「結婚」の項目は、瞠目というか、ほとんど物理的なショックがともなうようなパラダイム・シフトだった。


いい恋人を得ることと結婚は異なるのか、だとしたら長所短所はどのようにあるのかという問いに対し、内田樹は欠点を補って余りある利点が結婚にはあるという。結論として内田樹は、結婚とは「エンドレスの不快」だと断言する。私的につきあっているうちはまだいい。しかし結婚の契約を結んで公的な関係になると、そこには必ず「先方の親族」といううっとうしい付録がついてくる。続いてほとんどのばあい必然的に現れてくる「子供」は、まちがいなく「不快な隣人ナンバーワン」である。はっきり言ってなんにも「得」はないはずだ。しかしここで筆者は、そもそも「損か得か」、「快か不快か」という基準がなぜあらゆる選択の判断に適用できるとおもうのかと問う。ひとをひとたらしめる能力とは、原理的に決してわかりあえない、気持ちの通じ合うことのない「他者」というものと、不快を乗り越えて共生するちからである。


「結婚は快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である。だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。それは再生産ではない。「不快な隣人」、すなわち「他者」と共生する能力である。おそらくはそれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである」P153より



これをある種の詭弁と捉えるひともなかにはいるかもしれないが、それはおそらく「快楽至上主義」とでもいうか、判断の大前提として無意識に「快か不快か」ということを探ってしまっているからだろう(快楽の貨幣でものごとを捉える「近代の病徴」については、当ブログでもくりかえし書いてきたことだ)。



引用はしないけど、転職や社内改革についても、なんていうかふつうにびっくりしてしまった。こんな見方があるのかと。


…論旨が明確なので引用・要約しやすいな~。しかしそれだけにちょっと慎重になってしまう。こんなことを書いてしまうのはどうなのかともおもうのだが…、鮮やかすぎて警戒してしまうのだ!!橋下弁護士(いまは知事か)に、すさまじい説得力で僕のよく知らない法律のことをまくしたてられたらこんな気分になるだろう。右も左もわからないラフティングに参加して、なぜもどうしてもくそもなく、インストラクターに言われるまま慌ただしくスーツを装着し、ボートに腰掛け、必死こいてパドルを動かし、あとで一服しながら、「あのスーツはどういう意味があったのだろう」とぼんやりおもいおこすような。いかにもあほな言い分ですがね。でもこれはほんとのことで、本来はどんなものもそう読むべきだとおもいます。内田樹の本は…、さまざまなにんげんが集まる飲み会やらパーティーやら合コンやらに行って、刺激的に含蓄あることばを受け、いろいろな人生に触れてほくほくと帰宅する、あの気分で読むのが正しい気がする。


■『私家版・ユダヤ文化論』内田樹

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10068489853.html