うちに帰ってプログラムを開き、小池修一郎の「演出家に聞く」を読んでいろいろ納得してしまった。以下、略しつつ引用します。
「1991年の夏、私は雪組公演『華麗なるギャツビー』を脚色・演出した。(略)。『ギャツビー』に関してはずっと劇化したく、過去に2度企画を出したものの『ヒロインが宝塚的でない』という理由で却下されていた」
「脚色上の最大の違いは、デイジーがギャツビーの墓を訪ねる点であろう。彼女はギャツビーを捨てたのではなく、思いは残したと解釈した。だが、言葉は発しない。デイジーは言い訳しないだろうと想像した」
お墓の場面は、僕も「なんでデイジー出てきちゃうわけ?」と疑問だったところだ。この描写があるとないとではおはなしの相が大きく変わってくる(そしてこれは僕がここ何日かぶんの記事でオブラートに包みながら遠まわしに書いてきたことがもっともよく表出している場面でもある)。まさにここが、この『グレート・ギャツビー』(=『華麗なるギャツビー』)が「宝塚作品」たることの顕れ、すなわち娘役トップ(厳密に胃は城咲あいはトップではないのだが)という席が要請する「ヒロイン」ということなんではないかと。
しかしこの文章を読んでみると、意外と事態は単純ではないのかもしれない。というのは、ギャツビーが死んでしまっている以上、トム・ブキャナンはむしろデイジーに墓参りをさせるんじゃないかということだ。もちろんこのことも、またうえの小池修一郎のことばもどこまでも解釈でしかないわけだけど。
しかしなあ、前記事でも書いたが、第二幕第六場「神の眼」はほんとにすばらしかった。硬直して動けなかったもの。『ウエスト・サイド・ストーリー』の「クインテット」みたいだった。すごいなーお芝居のひとたちって…。