いまさらだけども、嫌煙運動がすごいですね~。筒井康隆の「最後の喫煙者」が笑えない感じになってきましたね。
この前長野に行ったとき、どこのサービスエリアだったかは忘れたけど、びっくりしましたよ。まず喫煙コーナーがぜんぜんなくて、やっと見つけたら、二メートル四方くらい、でっかい電話ボックス程度のガラスばりの空間が一個だけぼこんとあって、真ん中にふたりがけの椅子がある、それだけなんですよね。かなり大きいサービスエリアだったんですが。異様な光景でしたよ。ほとんど見世物ですよ。おまけにそのときは直射日光もひどくて、当然屋根も、微妙にラインが入ってはいたけどガラスばりで、というかそもそもぜんいんはその空間に入りきらなくて、「ここまでするか」と僕らは力無く言い合ったのでした。
僕じしんは嫌煙家ではもちろんないから、彼らのおもいを共感することはできないが、想像と情報で共有を目指すことはできる。なんでも、嫌いなひとは、たとえば団地のような集合住宅に住むばあい、となりの部屋で吸っているというだけでも耐えられないそうです。それはたいへんに気の毒だし、申し訳ない気分です。
ここではとりあえず、この運動が「嫌煙」ということからはじまっているとしましょう。喫煙者と嫌煙者のちがいは、当然タバコを吸っているか否かという点にあり、またそれじたいが問題であるので、両者の状況を並べて等しい基準で比較することは論理的にはできない。つまり、嫌煙者が煙を吸う苦しみと、喫煙者が煙を吸えない苦しみは比較不可能なわけです。ただ、喫煙者が積極的に吸うことはたやすいが、嫌煙者が積極的に吸わないでいるということは実体がないためむずかしい。それこそ運動でもしてタバコという存在じたいを弾圧する以外ない。この状況では嫌煙者はつねに受け身であり、煙の下では弱者となる。だからこそ喫煙者は吸いかたを操作する義務がある。両者のあいだには、マナーという協定に秩序づけられた、あいまいな折り合いのグレーゾーンがあったとおもうのです。崩れたマナーはすぐさま補正すべきでしょう。とすればこれまでの協定では不公平だったからこそこの運動は起こっているはずだ。比較不可能な両者の公平は、いったい誰が決めるのだろう?論理
的には、喫煙者に対する嫌煙者による嫌煙、嫌煙者に対する喫煙者による喫煙は、どちらにしても必ず一方的になる。ほんらいあるべきはお互いの領域の侵食ではなく、マナーを実行可能な環境、すなわち「喫煙環境の充実」ではなかろうか?税金のことはよくわからないが、タバコ税はたすぽなんかではなく、このようなことにつかわれて相殺されるべきもののような気がする。…まあ、僕らがこの運動に理不尽を覚えるのと同じように、これも喫煙者の論理なんだろうな。(もしかしておれ、けっこう危険なこと書いてる…?)
まあありえないとはおもうけど、万が一禁煙法が施行され、全国津々浦々全面禁煙となったらどうなるでしょう?とりあえず「タバコ王」はまちがいなく生まれるでしょうね。禁酒法時代のアメリカで、アル・カポネはまさに禁じられていたからこそ、酒の密輸だか密造だかで巨万の富を得たはずだ(…とおもう。ほんとはよく知らないけど)。
そのように大きなはなしにしなくとも、中学生くらいのヤンキーにおいてはいま以上にタバコが不良のシンボルとなるんじゃないかな。麻薬とちがってこれまではふつうに流通していたものだから、入手も比較的たやすく、しかるに違法となれば、これほど彼らの名誉となるアイテムはないでしょう。そりゃ法律があいだに入ることで気圧され、ちょっとした気まぐれで吸ってみるということは減るかもしれないが…。
仕事の能率とかも…どうかなあ。僕程度のスモーカーなら逆にいいのかもしれないが、吸わないとストレスがたまってなんにも集中できないというひとは大勢いるとおもうな~。
それから…これは大多数の嫌煙者は鼻で笑うとおもうけど…タバコは一種のコミュニケーション・ツールとしての効果もかなりある。僕がホテルでバイトしていたとき(そもそも僕はこの仕事中サボる口実をつけるためタバコをはじめたのだが)、喫煙室にはいろんな部署のひとが集まるので、僕はけっこう人見知りだけど、こちらはアルバイトながら、フロントやベル・ボーイや客室サービスや清掃員にいたるまでいろいろなはなしがきけて刺激的だった。これはふつうの会社でも一緒でしょう。
それと、一緒に悪いことしてるような、ヘンな連帯感ね。特に最近は風当たり厳しいので、ちょうど大雨の日にすべてのひとが均等に濡らされるように、なにか「痛みの共有」のような現象が起こるのですよ。あの瞬間、吸ってるときだけ、リーマンもヤーもフリーターも同じラインに立ってにやにやすることができてしまう…。あの感覚はほほえましいし、他ではなかなか得難いよな~