はじめて小説を書いたのは2年半前…21の夏だと、他人に対してもじぶんに対してもつねに僕は語ってきましたが、じつはこれにはトリックがあってですね…。たしかに、もう小説家になるしかねぇ!という結論に達し、書くことに意識的になり、小説とはどういう事態なのか、とかいう小難しいことを体系的に考えはじめたのはそんなにむかしではないし、そのさきにひとつの小説をつくりあげたのはじっさいそのころでした。だけどほんとのこというと、“おはなし”を書いたのはそれがはじめてなんかではない。むしろ僕はちょっとしたベテランだとおもう。なにしろ小学生から高校生なかばまで、大学ノート4、50冊ぶんくらい、ずっと書き続けていたのだから。
でも、なんでかじぶんでもよくわからないのだけど、その事実を封印してるみたいなところがあるんですよね。見るに耐えない、拙いものだったから?しかし誰が小学生の書いた空想科学小説にリリシズムや高度な文学的表現を求めるというのか。たしかにある程度年をとってからそれらを読み返すのは気恥ずかしいし苦しい作業だった。書いていたものはほとんどSFか推理小説で、たまに格闘小説なんかも書いていた。SFについてはまず映画が好きだったから、異次元とか時間旅行とかそういうのをコンセプトに(笑)、既存のものを焼き直したり同じキャラクターをつかったり(イアン・マルカムはよくつかった(恥))していて、推理小説については島田荘司は大好きだったし、「金田一少年」とか「あやつり左近」とかいうマンガレベルだったら真相解明前にふつうに解けていて、じぶんでトリックを考えるのも当然好きで、トリックを先に考えたうえで書いたりしていた。格闘小説も似たような感じ。書くためというよりは読むために書いていた。
もちろんそれらは拙いし見るに耐えないしぜったい他人には見せたくないし、だから書いてたという事実すら隠したいとおもうのだろう。でもなんで?といまおもう。僕はそのうちのいくつかを(というかほとんどを)ひもで縛って廃棄すらしたのだ。ときどきものすごい後悔がおそってきて、当時楽しんで書き、また読んでいた世界をおもい、ないとわかっているのに埃まみれになって狂ったように棚を探ったりする。そりゃ自慰行為にはちがいない。しかしそれがいまとどうちがう?というか、それこそがいま必要なんじゃないの?
たとえば、当時…たぶん小六か、せいぜい中一だったとおもうんだけど、かなり長い異次元モノのSF小説を書いていて…。ある会社が、我々の住む三次元にある物体をより低次の平面世界を通過させることで三次元的な距離をゼロにし、瞬間的なテレポートを可能にした機械を発明した。しかしそれは空間を切ることにほかならない。三次元と二次元が一時的に混ざり合うその場所にひとが立つとどうなるか。生き物はすべておぞましい怪物に変身する。しかもその怪物は三次元にいながら二次元生物の特質も備えているため、瞬間移動も可能だ。空間に歪みをつくって穴を穿つことのできるそのモンスターは、ブラックホール的に人間たちを次々に飲み込み、子供を増やしていく。やがて地上は彼らのものとなり、街は破壊され、かわりに巨大な虫型のドームがそれじたい生き物のように屹立する。人間たちは地下に隠れて、反乱のときをまつ…
見てのとおり、SF的慣用句のオンパレード、めっちゃくちゃなはなしです(笑)だけどこんなもの、いまぜったい書けないし、書けると想像すらしないとおもうんですよね。子供ってのは、多少の差はあれこの種類の妄想をするものだとはおもうけど、いま重要なのは他人との比較ではなく、現在のじぶんとの比較。もちろん設定について科学的にはなんの根拠もないし、ほとんど思いつきのこじつけだ。しかしこうおもうことが、すでに創作を阻害してるんですよね。いま仮に同じ内容のものを書くとしたらたぶん図書館に通いつめて科学系の論文を読みこむことになるし、手元にあるSFの古典なんかも読み返すかもしれない。もちろんそれも重要。だけどさきにおはなしのない物語なんかないわけで…。この物語の拙さが問題なのではなくて、光量子論や不確定性原理のまえに“おはなし”がなければ、どんな物語も(少なくとも魅力的な物語は)生まれてこないということなんです。こういうものをどんなに低レベルでもほいほい書けた当時のじぶんになぜ敬意を払わ
なかったのか…。それも自慰行為になってしまうから…?
じぶんを貫き通す…過去のじぶんを否定しない、それがB-BOYだと、MUROは語っています。とすれば僕はやっぱりB-BOYじゃない。だけどこれをさらに敷衍して考えれば、過去を否定するようなふるまいをしてしまったことをも、否定してはいけないんですよね。むしろ僕はこのことを見つめなおさないと…。ときどき本気で胸が痛むんです。殺してしまったキャラクターや愛する“世界”、まぎれもないじぶんの一部たちのことをおもうと。