■『鳥の計画』松浦寿輝 思潮社
鳥の計画
「計画が必要だ 大気のなかに 飛び散るための
魚座の星のもとに生まれた詩人は、いかにして血のぬめりへの郷愁を経ち、水のやさしさから離脱しうるのか。みずからの胞子を乾いた大気の高みに飛散させうるのか。詩の不可能性をめぐる官能的な問いかけが、言葉の気圏をかろやかに浮游する。『ウサギのダンス』以降言葉と時代の走行をしなやかにリードしてきた詩人の新展開」
詩集の感想ってむずかしいな…。なに書けばいいかぜんぜんわからない。まあ、たんに論じるだけの実力がないということなんだけど。だからこれは紹介でも感想でも、ましてや批評でもありません。ただ、tsucchiniがこれを読みましたという記録です。
以前書いた『幽』に見られたものと同様の世界観がところどころに感じられた。境界線付近における、生と死の判別不能なほど溶け合った一元的二元論とでもいえばいいか…(なんのことやら)。「つややかなきれ、あるいは骸」とかね。
■『幽』松浦寿輝
http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10067057111.html
また、詩じたいに言及するような詩もおもしろい。
「(…)そんなものはただのことば。見えるもののための。うたがわしい。いまここで、遠くから近くから聞こえてくるつめたい音に名前はない。
見えないものは名づけられない。たとえば眠りにおちる直前、めしいた眼ににじむほんの少量の涙。わたしのことばはそうしたものでできていなければならぬ」
(『失明』から抜粋)
僕はなかでも、筆者じしん詩篇とはいいがたいと認めている「誰か」を、非常におもしろく読んで、これもまた「境界」のおはなしなのだけど、ここにある「論理的なリリシズム」とでもいったらいいのか、どちらの視点にあってもふつうに書いてはぜったい生まれてこないこの奇妙に静謐な感触はどことなく吉本隆明の文章を思い出させる。と書いたら顰蹙を買うだろうか。本来折り合わない論理性と詩性の、高次元での融和とでもいえばいいのか…。河出文庫の『言葉からの触手』とか。
もちろんこれはたんなる“感触”のはなしにすぎず、両者は(少なくともこの作品では)なんの関係もないのだけど、ついでだから書いておくと、詩人にして批評家、またはその逆、という種類の作家が多いというのは、なんだか僕には意外です。むしろ真逆の、両極端の存在にすらおもえるから。しかし吉本隆明の批評や、松浦寿輝のこの「誰か」なんかを読むと、そんなかんたんなはなしでもないとちょっと考えさせられますね。詩の感想も書かずにべつの作家のはなしでごまかしていることを考えると、だから僕はまだまだだな…。