■『笙野頼子・初期作品集/夢の死体』笙野頼子 河出書房新社
とにかく、すさまじい小説集だった。
ときどき文芸誌なんかで名前を見かけて、短編もいくつか読んでみたことのある作家で、ずっと気になっていました。独特の空気、世界観をもっているというとそうなんだけど、なにか一筋縄ではいかない感じがしていたのです。何度も何度もくりかえし読んで、気難しい老人から初体験のはなしを聞き出すみたいに、からだごと馴染ませていかないと、なんかよくわからん、ムズイ、で終わってしまう気がする。表面だけをなぞって雰囲気でなんとなく読むことを拒否するようでもあり、また精緻な解読にも背を向けたような…比喩がそのまま直截表現になってしまっているようでもある。詩的に、幽霊みたいに実体のない物々のすきまにありながら、地に足ついた状態で堅実に見たまま、感じたままを綴るようでもある。
これは世界の再構築ではない。文字通り本のなかにとじこめた、生き物のような小説。なにかもうひとつきっかけがあれば、すっとその体内に入っていける…ずっとそんな気分で読んでいた。本を開いているあいだだけそれは明らかになり、逆にいえば本を開かないかぎり、この小説は外にあらわれない。ひどく閉じた世界で、しかし開いたとたん、底無しの穴みたいな、本能的な恐怖を呼ぶような立体感が、息苦しさとともに、読み手である僕から遠ざかるほうに向けて伸びていく…。「~のだった」、「~はずだ」という調子の連続は記憶をさぐりさぐり、不安定に振動するようでもあり、また冷徹に客視的でもある…。なにかきっかけがあればぱあっと視界が開けそうなのだが…。なにが描かれているのかよくわからないだまし絵や3Dの立体画像が、ある瞬間にそれがわかると、もうそれ以外には見ることができなくなる、というふうに。
「持ったら本の中の海の揺れと重みで、本が腕から勝手にはじけ飛んでしまうような水の本を書きたいと思っていた。そんな理想には程遠かったが、それでも水の本はなんとか完成した。汚れた石英のような拳大の石の中に、十滴程の水が封じ込められていて、それはまるで自分自身が乾いているかのように揺れ動いている――小さな水の本だ。水という言葉を今発信する。水という観念が私のかかえた、痛みの側の至福を投げかけるだろうか」
あとがきより
率直な感想、おもいとして、あたまでなにかをおもうことは、たぶんできる。しかし笙野頼子はこれこれこういうことを言いたいのです、という説明は意味がないし、だいいち不可能。根本的なはなしにもどって、だからひとは小説を書く。たぶん、きっかけがあれば云々というのも錯覚か、あるいは大して意味のあることではないのだろう。読んで受けた、この実体のつかめない感触こそが、小説に託されたものなのかもしれない。
「妄想を通して外界と触れあう方法、可能性というのを結局Yはふた通りしか考え付く事が出来なかったのだ。ひとつは妄想そのものをオブジェや活字の形で流通させる事、もうひとつはその妄想を自分の記憶や経験で毎日確かめて行き、いわば徹底的に個人化してしまう事、要するに他者の視線に堪えて流通させるか、パラノイアまたは信仰家になるかだ」
夢の死体より
最初の「海獣」、「冬眠」を読むのはひどく苦しい作業だった。ほとんど、読んでいるあいだは息をとめ、本を閉じてから深呼吸をするくらいの息苦しさだった。これは、そのまま、筆者の本人の息苦しさだろう。しかし「夢の死体」になると、超内向的で、ほとんど狂気すれすれ、不連続で無関係な細切れの風景のようにすら見える文章もそれじたいについて自覚的になりはじめ、話題もやや実際的になってきて、なんとか呼吸を続けながら読むことができた。
「虚空人魚」…他の小説とは決して見間違えるはずもないこの冷ややかに美しく、かつどうしようもなく異質なおはなし、どっかで見たことあるなーとおもったら、講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見⑩―表現の冒険』で既読でした。硬質な文章でありながら即興性すら感じさせるこの小説は、それこそここに出てくるアメーバみたいに、強い光りを一瞬だけはなち消滅する、刹那的煌めきみたいな、「瞬間」そのもののよう。美しいとかの前に…なにか「すさまじい」という感触がやってきます。そのあと副次的に、じぶんにはこんな小説はどう転んでも書けないということも悟ります…。少なくとも、いまのところは。
とりあえず、あいだをあけて、このひとのものをもっと読んでみたいとおもいます。
「この世には書き言葉と話し言葉との区別を知らない人間がいくらでもいる。それどころか動物と植物の区別をしなくとも生きていられる。そんなところでは結局植物を守って黙るしかない。私の植物は私が生きるための装置なのだ。
いや、昔、植物を殺されそうになったから今黙っているのだ。喋れば喋るほどおかしくなる」
呼ぶ植物より