■『空港にて』村上龍 文春文庫
「コンビニ、居酒屋、公園、カラオケルーム、披露宴会場、クリスマス、駅前、空港―。日本のどこにでもある場所を舞台に、時間を凝縮させた手法を使って、他人と共有できない個別の希望を描いた短編小説集。村上龍が三十年に及ぶ作家生活で『最高の短編を書いた』という『空港にて』の他、日本文学史に刻まれるべき全八編」
裏より
やっぱこのひとすごい。大好きな作家というわけではないが…、僕の特に重視する共有と共感のバランス感覚から、文章力、物語力、すなわち文学的基礎体力、「書く」ということについて自覚・意識の高さ、すさまじい迫力と臨場感を孕む小説以外に具現不可能な描写、あらゆる意味で、完璧。
村上龍は「あとがき」に書いている。
「社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に、絶望と退廃があふれかえっている。強力に近代化が推し進められていたころは、そのネガティブな側面を描くことが文学の使命だった。(略)。近代化が終焉して久しい現代に、そんな手法とテーマの小説はもう必要ではない。
この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ」
執拗な細部の描写、ほとんど区別なく、むしろ無機的に混合して現れる目前の現実と過去進行形の記憶(つまり両者は等しい扱い=交換可能)、移動はするがまったく進まない時間の「凝縮」された視点、これらが、現代人の覚える内意識と外意識の乖離、なにかを演じ続けているような、「箱」としての肉体ということをまっすぐに示しながらも、同時に、機能的には分断されることなく、おはなしはすすんでいく。人物たちは即物的に、演技される外意識を感じながらも、たとえばこれを軽蔑したり、ため息まじりにあきらめたり、吐き気を催したりということはなく、きれいに内側も一致させ、被写体のように設置され、コマおくりで少しずつ変化していく物々に同化する。万物が交換可能な記号であることに違和感を覚えながら、これまでの小説の主人公たちのようにこれに唾棄したり、虚無的になったりということなく、ごく自然に(少なくとも表面では)馴染んでいるのだ。くどいほどに細かな描写が物事の「アホらしさ」を、そして語り手じしんの感覚作用もそ
れを知覚しているということを明らかに表出しながらも、人物はそのことについてなにもコメントしないし、あきらめて馴染もうというような意識すら感じさせない。外意識の内側から聞こえる他者の悲鳴のような記憶もある。しかしそこからなにか派生して起こるということもない。このふたつの意識は、ぱっくりと明確に分かれながら、しかし表裏一体。
そして、「虫」と「家電」。いくつかの作品には、これらのアイテムが明らかに意図されて登場する。これが示すものも同じこと。人物たちは、「近代化」が達成されたこの社会の内側で、それぞれの役割にくるまれながら機能する。どうあれ社会が安定したものになれば、僕らはその世界の内側でジョブアップ、新たなアビリティの獲得をはかることで、自己成長を果たす。しかし「安定」はいっぽうで「停滞」を誘う。停滞は全体で箱となり、じぶんがどういう状況にいるのかも理解できずに生きる虫かごのなかの虫として人物を規定する。作中にも似たような箇所があったが、僕らの悲劇は、この停滞に、「箱」の存在に気付くことができてしまうということだ。
村上龍のいう希望とは、このオトナ的な社会への適応にあるわけではない。救いは、ここからの脱出に含まれている。なぜ脱出するか。それはつまり、この、いまのこの国の現実がそれじたいで機能しきって、完結し、そして“停滞”しているから。僕はそのように思いました。「駅前にて」のおしまいは、次のように結ばれている。
「どこにも出かけようとしない人間が嫌いなだけだ」