『20世紀言語学入門』加賀野井秀一 | すっぴんマスター

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■『20世紀言語学入門』加賀野井秀一著 講談社現代新書

20世紀言語学入門―現代思想の原点 (講談社現代新書)


はっきり言って、いまあたまのなかぐっちゃぐちゃです。少なくとも僕のばあい、こういう哲学・思想系の本は消費が激しいから気分転換が大事で、だからいつも小説と並行して読んでいくのですが、今回はそれが安部公房だったから、これもまた知的におもしろいうえにいろいろあたまをつかわせるし、それじゃマンガに逃げようとジョジョを手にとると、ブログをはじめて以来癖になっている体系的な、明確な言葉による深読みを誘発するものだから、もちろん楽しくはあるのだけど、もう頭脳疲労が尋常じゃない。しかも僕は記憶能力が人並みはずれて欠けているため、ページを前後にいったりきたり、また理解が難しいところは竹田青嗣を引っ張ってきて参考にしたりするから文体も思考作用も混ざり、さまざまな言語学者の名前、理論、顔写真なんかもほとんど砕かれたジグソーパズル状態…。
ってひどい書き出しだけど、この本じたいはすばらしかった。この混乱は僕の要領の悪さとアホさ加減によるものですので、悪しからず…。


しかし入門書というものの性格から、多少駆け足になってしまっている感じは、ありました。それだけ言語学というものの変遷が深みのあるものということでしょうか。ある程度こういう思考システムを勉強しているか、質はともかく、自発的にあたまのなかに理論ができているかしていればなおよし。でもそういうひとは入門書なんて読まないか…。

人間は言葉をつかって思考する。だから「思考」じたいを掘り下げ、認識というものを捉えなおし、言葉について思考するときにも、その言葉じたいをつかわざるを得ない…。こういう悩みというかジレンマを普段から抱いているひとには、まず共感がやってくると思います。でももちろん僕のそれは体系だったものでは全然ないし、幼児が人形をつかって戦略を立てるようなものですので、やはりとても勉強になります。(あたりまえか…)。僕くらい知識がまっさらだと、なにを読んでも期待以上のものが返ってくるんです。

「言語学」という発想、ものの考えかたを「考える」この学問の最重要人物は、まちがいなくソシュールです。彼を理解しないと、なぜこれほどまでに表層的な「技術」の部分…つまり発音など…にこだわるのかということを混乱してしまう。げんに、ソシュール以降、ある程度年月がたって、「言語学」という概念が学問として不動のものとなってからは、本来の意味、出発点を忘れてしまっているかのような議論もあるように思えました。すなわち、「言語とは何かという問いに、どのような言語で応えるべきか」…。


「私の命題を首尾よく紹介するには、確固たる出発点をおくことが必要だろう。しかし、言語学にはさけられぬ、出発点の不在というものがある。なぜなら、言語には自然のままにあたえられるどのような実質もなく、あるのは、生理的・物理的・精神的な力の、結合したり離れたりする活動だけであって、そうした活動から生じる言語事象は、人がそれをとらえる移ろいやすい視点に依存しているからだ」ソシュール


まず確固とした客観・世界=実質があって、僕らはそれを指差し、名前をつけ、規定する。普通はそう考える。しかしソシュールは、それはむしろ言葉のほうから、恣意的に規定したものだと言います。目の前にあるこの白くて細長いものをタバコと呼ぶのは、「それ」が実質的に「タバコ」だからではなく、恣意的に、「タバコ」と呼ぶから「タバコ」なのだ。我々はそこに実在する世界を読み取っているのではなく、たまたま手にした言葉で編み上げ、読んでいるのだと…。
このシニフィアン(音声像)とシニフィエ(概念)のあいだにある恣意性は、言語という体系…ラング(言語体)/パロール(発話)にもつながり、ラングには「通時的」な捉えかたと「共時的」な捉えかたがあるのだといいます。


「こうした二種のとらえ方を比較すると、通時的な変化は、実は共時的な価値の変遷としてしか把握することはできず、まずはこの、共存する諸価値の網目のようなラングの『体系』を考察するのが先決だということになるだろう」
(1―ソシュール‐最初の衝撃より)


ある言葉の「価値」(広がり、とでも考えればいいのかな)はそれじたい実質的に決定されたものではなく、ある空間ある時間の、ある体系のなかで、他の「価値」との示差性によって規定されるのだと。言葉どうしが規定しあい、全体として成立している、みたいなことか。つまりそのシステム、共時的な体系をまず把握しなくては、通時的…要するにつかわれている時間の異なる言葉と比較しても意味がないと、そういうことかな。体系の把握が、先決だと。これが出発点となり、音素や形態素、さらには構造主義や記号論という世界認識の思想にまで応用されていくわけです。だから、ソシュールによるパラダイム・シフト…我々は実在する世界を読むのでなく、世界との関係を表した言葉を読んでいるのだという発想の基点を忘れてしまうと、なんだか意味ないような気分になってしまいます。構造主義にしても記号論にしても、それじたいでなく、同様にして主観→客観という一般的だったものの考えかたに、フロイトの夢分析のような無意識のうちにあるシステムや記号による世界把握というものが組みこまれるところがおもしろい、肝なわけですから…。

…僕じしんかなり悩みながら読んだので、説明も雑で乱暴だけど、とにかくこのような過程で、体系そのものを論じる言語学は成立したのです。説明、まちがってないよね?その理解はちがうよってのあったら、遠慮せず指摘してくださいね。生成文法のチョムスキーが言っています。「開かれた精神を持ち続けねばならない。理論はつねに反証可能でなければならない」、ってね。


これから何度もめくることになるにちがいない、まさに入門書でした。


■『日本語の復権』加賀野井秀一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10043543218.html