『日本語の復権』加賀野井秀一 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『日本語の復権』加賀野井秀一 講談社現代新書


日本語の復権 (講談社現代新書)  

再読です。

なんの記事だったか忘れちゃったけど、なにかでこの本を引き合いに出して、いずれ紹介します、みたいなことを書いちゃったおぼえがあるので、ちょうど同じ著者のちがう本を買ったところだし、読み返してみました。ぜんぜん知らなかったけど、講談社現代新書、カバーデザイン変わっちゃったんですね。なんかだっさいなぁ。あの薄い茶色みたいのがシックでよかったのに。表紙はそんなでもないけど、それぞれに色がちがうから、背表紙がとりどりに本棚に並んでる様子は、書き込みが多すぎてわけわかんなくなってるカレンダーみたいだ…。


この加賀野井というひと、この本を読んだときからずっと見たことある名前だなーと思っていて、それもそのはずで、うちの大学で授業もってたんですよ。なんの講義だったか忘れたけど。もうすこしまじめに通ってれば、このひとの講義で知的興奮を味わえたのかもしれないなぁ。



これはもう、とにかく良書。ほかになんと言っていいかわからない…。すこしでも、言葉や、言葉がもたらすさまざまなこと、そこから派生する文化論みたいなことに興味ある人は、ぜひ読んでみてください。すでにさまざまな言語学に親しんでいるひとには物足りないかもしれませんが、小説や詩は好きだけど、論文みたいな、ムズカシイ、ペダンチックな説明文は嫌い・苦手だ、というひとにこそ読んでもらいたい。平易な文章で、きわめてナマなことばで、著者の口からそのまま語られる、そういう印象なのです。言葉に興味があれば、ぜったいおもしろいと思います。


日本語という言語体系とそれをつかう我々日本人がどのようにかかわり、またそのことからどのようにものを考え、あたまのなかで世界を形作っているか。そこからどのような問題点が浮き上がってくるのか。この本ではそれが論理的かつきわめて実際的に、生活に密着した視点で語られます。論理展開というか、おはなしの順序、テーマごとの章分けなんかもおそろしく整っていて、すらすら読めてしまうし、言ってみればこれ以上ないほど(わかりやすさを前提として)簡潔に書かれているから、要約はひどくむずかしいです(笑)そしてもっとも重要なのは、これは竹田青嗣もそうでしたが、この一連の考察がたんなる学術的興味からでなく、きちんとした目的意識から出発しているということです。


「そろそろこのあたりで、言語学者もしくは国語学者の方から、なにを取り立ててそんなあたりまえのことを強調しているのか、という反論があるかもしれない。(略)そんな常識をいまさらあげつらってどうしようと言うのか、というわけである。
しかし、そうだとしたら、かえって、そんな常識の上にあぐらをかき、百年一日のごとく『日本語は膠着語であり、云々』とやって、その膠着語であることが私たち日本人の思考にどのような影響をもたらしてきたかを考えもしない講壇言語学についてこそ、反省していただきたいものだ」
(第四章 日本語の落とし穴より)



まあそういうことです。
前半の八割くらいで日本語の問題点が徹底して洗われ、残りで日本語の類を見ない優秀を指摘し、入門書としてのバランス感覚も最高。まずさまざまな事例から、日本語とは「察知」の言語であるということが指摘されます。限定された人間関係のなかでは「冗長性」はたんなる屁理屈として嫌われ、結果として我々は均質化された社会のなかで相手の理解に依存した態度で言葉をつかうことになる。しかしこの「察知」が、じっさいの「表現」を超えてしまうとどうなるか。表現は形骸化し、いかにも意味がありそうな言葉を前にして思考停止に陥ってしまうのである。


「私たちは察知能力が異常に肥大しているため、へたをすると、表現者が怠惰なまま、あるいは表現者がいないままに、物自体をそのまま表現ととらえてしまうことにもなりかねないのである」
(甘やかされた日本語より)


最初に読んだときは普通にスルーしていたけど、この本でもまたフッサールが取り上げられていました。時枝誠記という言語学者はフッサールの理論を継承して、「詞」と「辞」というものを定義し、これはこの本でもかなり重要なキーワードです。
まず「詞」は、「対象を客体化し概念化してあらわす語」であり、たとえば僕たちが目のまえにある花を前にしてそれを「花」と呼ぶとき、具体的なそれではなく、花一般を概念化して、「花」と呼ぶわけですよね。
いっぽうで「辞」は、「主観的情意を客体化も概念化もせずにそのままあらわす語」で、いわゆるテニヲハと考えてよいでしょう。ここでは、日本では詞よりも辞が重視されているという結論にあります。そしてこの「詞‐辞」という形式が、さまざまな外国語の輸入に耐え得るものであると同時に、わけのわからない言葉もわけのわからないまま使いこなせてしまうという、「察知文化論」から引き続く思考停止の状態がまたも起こってしまう。たとえば「社会」という言葉は、ソサイエティという英語が輸入されたとき、古くからあった「世間」という言葉ではカバーしきれない部分があったために明治時代に発明された言葉だが、「この『社会』という字面や「シャカイ」という音声を前にして、あるいは、中途半端な意味のままに、あるいは、何かを考えているような気になりながら、その実、思考停止の状態におちいってしまう」と筆者は書きます。


「大切なのは、宝石箱のような近代翻訳語の背後に、福沢諭吉がくりかえし言っていた『これらの訳字をもって原意を尽くすに足らず』という言葉を思い出すことであり、その宝石箱のなかに自力で宝をたくわえていくことなのである」



はあはあ…ゆ、指が痛い…。ケイタイで長文はきついです。続きはその…、本屋さんでお願いします(笑)オススメです。


■『20世紀言語学入門』加賀野井秀一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10045174530.html