すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


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※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第434話/ウシジマくん⑳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竹本優希が運営する会社は雑誌とのタイアップなどがうまくいって、非常に羽振りがいい。専務のよっちゃんはアイデアマンで、スタッフにキャバ嬢をつかうことで、これを効果的な広告とし、さらに売り上げを伸ばした。けれどもよっちゃんはなかなか危なっかしい男のようで、ついに獅子谷に目をつけられ、型にはめられてキメセク写真を撮られてしまう。よっちゃんは地元の先輩である熊倉に相談しようとしているが、竹本は乗り気でないと、そんな相談を丑嶋にしたところだった。

 

 

よっちゃんは吉澤敬純(たかずみ)という名前らしい。シシックの道場に呼び出されたのか、獅子谷兄と直接話している。

獅子谷は緊張しているよっちゃんの視力を訊ねる。そばには、鯖野だろうか、海老名の友達の彼が耳を落とされてうずくまっていて、メガネが落ちている。要するに、耳を落とされたメガネをかけられなくなるので、大変だよね、ということだ。ウシジマくんに出てくる不良たちのこういう言い回しは見事なものである。よっちゃんは両目1.0なのでとりあえずメガネは必要ないけど、こういうはなしをすることで急に耳を落とされる状況が身近に感じられてくるのである。

今日の獅子谷兄はまた一段と腕が太い。よっちゃんを脅すためにパンプアップさせてるんじゃないかとおもわれるほどだ。いかつい入れ墨のだまし絵的な効果か、なんか腕も長く見える。そうして、太い腕を組んで立つ獅子谷の首には、いくつもの人の耳を通したネックレスがまわっている。

 

 

 

 

 

 

「ミイラの技術は宗教儀式の一環として生まれたんだって。

 

 

死者の魂が永遠に生き続けるように」

 

 

 

 

 

 

獅子谷が巻いているのはただ切り取った耳に紐を通しているだけのものではなくて、煙で燻した耳ジャーキーなのだという。獅子谷が暴力を通したシシックの方針について語る。歯向かったり、あるいは要領が悪かったりするものは厳しく教育する。聞き分けの悪いやつはガスコンロで焼肉パーティー、それでもダメなやつは心が折れるまで徹底的に教育したあと、こうして耳ジャーキーを作って形に残すのだという。分かりやすい形の恐怖は永遠の服従につながると。最初の「教育」の段階というのは、鯖野でいうと最初に登場してアッパーされたときのあの感じだろう。ああして、上下関係をはっきりさせ、死に物狂いでがんばらせることが最初の教育だ。次に「聞き分けの悪い奴」とあるが、これはたぶん、逆らうものと要領の悪いもの両方にかんしてのことだろう。逆らうものが痛めつけてもまだ逆らい続けるなら、耳を切って焼く。弟の甲児が現在やっているようにそれをじっさいに食わせるのかどうかはよくわからない。でもそうしないと焼く意味ないから、食わせるのかもしれない。そして、もし鯖野があのままずっと最下位のままだったら、やはり聞き分けの悪い、指示をよく理解していないものとして焼肉パーティーとなる。で、いまがそうなのだろう。これでわからなかったら耳ジャーキーをつくると。もしこのまま、鯖野が逆らって暴れるなり、獅子谷兄のご機嫌を損ねるようなことをしたら、いま切り取った耳が焼きあがる前にジャーキーになるのかもしれない。しかし、たいていはそうではないだろう。とすると、段階としては3番目になるこの耳ジャーキーは、すでに片方の耳を落とされて焼肉にされているものに対して実行されることになる。つまり残ったもういっぽうの耳である。耳ジャーキーにまで到達したものは、こうみるとけっこういるようだが、おそらく両耳がないのである。

 

 

獅子谷が求めているのは1億円だ。よっちゃんは竹本社長と相談中だとするが、獅子谷はもう待ってくれない。明日までに用意できなければ、以上のはなしを踏まえたうえで、それを実行に移すと。ついでに精神的にゆさぶりをかける。よっちゃんの実家が父親と母親、それに妹の三人で仲良く切り盛りしているラーメン屋だということまで獅子谷は調べている。よく燃えそうな家だから用心しろよと、こういうのである。これはよっちゃんも痛みの恐怖を越えてぞっとしたことだろう。

 

 

 

久しぶりに滑皮秀信の描写だ。美優紀というキャバ嬢といっしょにホテルにいる。美優紀はひとりでしゃべっていて、滑皮はときどき頷くくらいだ。なにか気になっている事柄があるか、女といる時間にそれほど魅力を感じないのかもしれない。美優紀はおしゃべりではあるが比較的落ち着いたしゃべりかたで、この状況に焦ったりとか、間がもたないから喋り続けたりとかしているというわけではないようだ。いつもこうなのだろう。今月ナンバー1になったのだが、それは滑皮のおかげなので、今度の日曜日になにか高い買い物をするつもりだ。

 

 

そこに電話がくる。電話がくることをタイミング的に知っていたのか、それとも年中こうやって電話をかまえて待っているのかわからないが、滑皮が気のない返事をしていたのはどうもそういうことのようだ。熊倉からの電話に、滑皮は美優紀を静かにさせてワンコールで出る。出かけるという滑皮に対して美優紀はさびしがるが、滑皮はそれを黙らせて、30万寄越せという。

家に着いた滑皮に、かっこよかったころの熊倉の兄貴は朝飯をふるまう。オイルサーディンとネギを炒めて土鍋で炊いた飯にのせると。オイルサーディンがなにかわからなかったが、塩水につけてオイルで煮込んだいわしのことらしい。雅子という女が出てくるが、看護師の仕事の夜勤明けということで、熊倉は寝かせる。いつものサイヤ人食いをして滑皮は美味いという。ふたりとも仲がよさそう。この描写を踏まえてから、ヤクザくんでの熊倉の肘打ちの場面を思い返すと、なかなかさびしいものがある。

次に光輝という小学生の男の子まで出てきて滑皮にあいさつする。滑皮とも当然顔見知りのようだ。

そして出発。まずはスナック幸子に向かい、熊倉は幸子を満足させる。外で待機している滑皮が戸惑うほどのでかい嬌声である。次は紀美江。愛人めぐりなのである。最初の雅子はどうなのだろう。ふつうに家があるし、滑皮はまずそこに迎えにいっていた。いちおう、正妻(という呼び方が正しいのかどうかはわからないが)は雅子ということになり、熊倉の(年賀状とか送るときの)住所はあそこということになるのだろうか。雅子は看護師ということだが、小学生のいる状態で、ひとりで一軒家を手に入れることは難しいだろうし、あの家にかんしては熊倉が金を入れているはずである。熊倉は、愛人喜ばすのも重労働だという。稼いでもらうモチベーション上げてやらないと、と。となると、滑皮にとっての美優紀みたいなもので、いざというとき金を手配する保険みたいなものとして愛人を囲っているのではないかと考えられる。同時に男の、ヤクザの甲斐性も周囲に示すことができる。しかし雅子にそんな金銭的余裕はないだろう。

運転しながら滑皮は2時間後によっちゃんのアポが入っていることを告げる。竹本の会社は「サンバーバィ」というブランドのようだ。このはなしをすらすら空で滑皮がくちにしたので、熊倉はほめる。ふたりは紀美江のところに行く前によっちゃんと会うことにする。

2時間後ということだったから、熊倉たちのほうが先についたのだろう。熊倉は呼び出しておいてなにあとから来てんだ?と理不尽なことをいう。よっちゃんは、5分前には来てたんですが・・・とよくわからない言い訳をする。5分前にはロビーにきてたけど、約束の地点には行かなかった、時間ぴったりに行ってみたらすでに熊倉が待っていたと、こういうことだろう。たぶん5分前に直行しても同じこといわれたとおもうけど。

 

 

そうして、獅子谷に負けず劣らずこわい熊倉の兄貴に、よっちゃんは恐喝の件を相談し始める。しかし熊倉はその前に社長はどうしたのかと、竹本の行方を尋ねるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

熊倉もヤクザなので、どうやれば金がいちばん手に入るかを第一に考えている。たんに地元つながりでよっちゃんを救うだけが仕事ではない。そのことで金をたくさん手に入れたい。だから、この件によっちゃんのうえにいる竹本を混ぜて、会社ごと手中におさめたいのだ。社長を経由してこの件が依頼されたことになれば、会社からの金も引き出しやすくなるし、なんならケツモチになってやるとか、そういう竹本からしたらめんどくさい交渉も今後しやすくなる。

 

 

なんだかもりだくさんすぎて、わくわくする回だったが、順番に振り返ってみよう。まずは獅子谷の支配者としての発想である。シシックのランキングシステムは、洗脳くんで神堂が上原家にもうけたシステムと同じで、組織内で競争をさせ、上位になればなるほどいいことがある、というだけでなく、下位になると悪いことが起こる、ということを徹底させて、利益をあげていくものだ。これは基本的な構造としては学歴社会の進学校における生徒のあつかいと同じで、成績がよければそれなりの栄光が得られるし、悪ければ他人の目が苦しくなる。トップの売り上げをあげれば、獅子谷は喜ぶし、祝杯をあげてくれる。しかし最下位になると、鯖野や海老名のように痛めつけられ、耳をちぎりとられる。ほとんどのものはトップになって得られるものを期待するより、最下位になりたくない一心で仕事をがんばるだろう。というのは、祝杯や給与アップがなくても生きていくうえで特別支障はないが、痛いのは誰だって嫌だし、耳を失うのはふつうのペナルティの次元では考えられない損失だからである。ランキングシステムは、その構造上、上位のものが優れているということを示してしまうために、そう明文化されなくても、下位のものは優れていないということを内に含んでしまう。それが努力で覆ることなら、対象となっているものにとって原動力ともなるのかもしれないが、トップになることがそうかんたんではなく、場合によっては運に左右されるような状況では、成員は上を目指すより下を回避する方向にあたまを働かせる。これを示す状況が、洗脳くんではじっさい起こっていた。しばらく最下位を続けてしまいあとがなくなった母の和子は、娘のみゆきにある失敗をさせて、足を引っ張ることで、これを逃れようとした。洗脳くんの場合は通電という罰だったが、これから逃れるために、彼女たちはトップ争いではなく最下位争いに終始してしまい、結果として競争相手の売り上げ(成績)を落とす方に向きを変えていったのである。こうなると、上原家全体から利益を吸い上げる神堂としては、ランキングシステムはあまり有意なものではなくなってしまう。成員がじぶんのランクにかんして熱心になればなるほど、足のひっぱりあいが激化し、全体の売り上げは落ちていくことになるからである。だから神堂はこれを長期的なものとしては見ていなかった。精神状態としても健全とはいいがたく、ほいほいひとが死ぬということもあり、神堂は短期的に家を支配し、ある程度吸い上げたところで全員滅ぼし、乗り換える、ということをくりかえしてきたのである。学歴社会の競争原理は批判も多く、とりわけ偏差値重視の成績判定は、それが相対的なものであるぶん、足の引っ張り合いを強化してしまう面がある。日本中の同学年の人間が全員知性に問題があれば、じぶんはそうがんばる必要がないからである。しかしそのいっぽうで、競争原理経験者の市民の多くは、いまでもこのしくみを支持しているようにも見える。じっさい、では競争をいっさいなくしてしまったら、どういう教育が可能なのかということを考えると、欧米のやりかたを取り入れるのだとしても、なかなか気の遠くなるような経過を必要とするのではないかともおもわれる。つまり、原理的には問題含みであるが、それを結果としてはよかったとするものも多数いるという状況なのだ。これはおそらく、神堂の「乗り換え」を踏まえると、学校生活というのが比較的短期であるからではないかと考えられる。学校は、成績優秀者を輩出し、東大とか京大とかにすすむ高校生を出すことで、利益を得ることができる。しかし、1年ごとに学年をかえ、高校生なら3年で卒業することになる彼らは永遠に学校から吸い上げられる存在ではない。わたしたちには何度かそれをリセットするチャンスがあるのだ。

はなしが飛躍してしまったが、シシックもその競争原理を採用している。ただ、今回の語りを見ると、そのシステムによって売り上げを向上させることが目的なのではなく、罰を含んだシステムによって支配を強化することが本質的なことのようである。歯向かうもの、つかえないものを徹底的に教育し、二度と歯向かわず、しくじらせないようにすることで、シシックは成り立っている。興味深いのは、「歯向かうもの」と、要領の悪いもの、つまり「つかえないもの」が同列で語られていることである。少なくとも、シシックの罰が向けられるのはこうしたものたちであり、両者にかんしては公平に、等しく罰が下される。つまり、さすがにシシックや不良業界という枠内ではということに限られるとはおもうが、獅子谷にとっては「つかえない」ということが歯向かうことと等価なのである。ここに、獅子谷の、ワンマンというのとはまたちがう、あふれる野心に支えられたあの立ち位置が浮かんでくる。たとえば獅子谷が「5分以内に焼きそばパン買ってこい」と、ふたりのものに命令したとする。ひとりは「歯向かうもの」であり、なぜそんな命令を聞かなければならないのかとその場を動かない。もうひとりは「つかえないもの」であり、急いで出発したが、足が遅く、アホなのでレジに手間取り、戻ってくるのに10分かかってしまった。両者は獅子谷的には等しい。いずれにせよ「5分以内に焼きそばパン」という命令は果たされなかったからである。「歯向かうもの」にかんしては、それを打ちのめすことで、歯向かうことをやめさせる、つまり服従させる、という理屈はわかる。しかし、後者の人物にかんしては、足が遅いのはしかたのないことだし、ふつうは海恕の余地がある。しかし獅子谷としては、そんな先方の事情など知ったことではない。ただ必要なのは「5分以内の焼きそばパン」なのであって、それができないのであれば、それは歯向かってその場を動かないのとなにもちがわないのである。

ランキングシステムは、特に下位のものに罰をもうけるとき、その効力を激減させてしまう。罰が強烈であればあるほど、下位のものたちは上位にあがることより近くのランクのものを落とすことに熱心になるだろう。おもえば海老名は、友人の鯖野が最下位を脱出したとき、ほっとしていたが、あれはのちの裏切りを示唆していたとも考えられる。海老名はそのときの最下位だった。ほっとしている場合ではないのである。にもかかわらず、じぶんのランクより鯖野の心配をするということは、ランキングで何位になるかということが、おそらく獅子谷が見抜いたように、海老名のなかでは最優先ではなくなっていたのである。ばあいによってはすでにいまの裏切りにつながる意図が芽生えていたのかもしれない。彼にとって決定的だったのはおそらく、いつだったか、獅子谷の気分で、最下位でないのに最下位あつかいされたアレだろう。そうされたくないから必死こいてがんばっているのに、そうなるのだったら、このシステムにいったいなんの意味があるのかと、そうなって当然なのである。

海老名のばあいは、上原家のように、彼らを支配するランキングシステムが「全世界」にはなっていない。鯖野の無事を喜ぶ程度には、シシックが相対化されている。だからこそ、シシック内での足の引っ張り合いという方向には力は向かなかった。ではそれはどこにいくのかというと、その相対化によるシステムの否定ではないか。ただ、現状の裏切りは、獅子谷兄弟から金を奪って、彼らに丑嶋を殺させるという筋書きになっているので、システムの否定としてはまだ弱いかもしれない。これが「獅子谷を殺す」ということになっていないのは、獅子谷兄が徹底的に暴力で支配してきた結果だろう。要するに獅子谷兄弟を仮に闇討ちでも襲うのは、端的にいってこわいのである。

 

 

そしてシシックのこのランキングシステムだが、これはたぶん売り上げ向上のために考案されたものではない。たぶん、順序としては、まず罰がある。順位が生じ、その処遇を考えたあとで罰が出てくるのではない。まず、獅子谷の意に反するもの、つまり「逆らうもの」と「つかえないもの」が出てきて、これを処罰する動作が先に生じる。それがランキングの原点になる。だから、そんなやりかたでは利益を上げられない、などとさかしらにいってみてもしかたない。じぶんの価値観とは異なるものをいっさい認めない独裁者と同じ方法で、まず獅子谷は、他者との共存ではなく、それを「教育」するところから仕事をはじめている。獅子谷への恐怖がシシックの原点であり、または動機であり、これを除くことはできないのである。

 

 

いままで滑皮のくちからしか語られることのなかった「かっこよかったころの熊倉」が描かれつつあってうれしい。滑皮はそうした美学の観点からヤクザ社会を見ており、舎弟にもそれが身につくことを期待しているようである。ヤクザくんでくりかえしみたように、まずこのころの不良の前提として、ヤクザは稼げない、暴れられないということがあり、そんなものになるくらいならよく知った仲間たちとつるんでいたほうがいい、ということがある。獅子谷のセリフにはじっさいそういうものがあった。その意味では、美学にこだわる滑皮のありかたはヤクザくんのとき以上に相対化されていくかもしれない。そうした面は、たしかに事実であるかもしれないし、あるいはやりかた次第では乗り越えられるのかもしれないが(当時の熊倉やいまの滑皮は水準以上に稼いでいる)、ともかく、滑皮は「ヤクザになる」ということベースを美学に見出している。熊倉にもし金がなくても、かっこいい彼に、滑皮はあこがれたにちがいない。そんなふうになりたいと願うことができれば、それでヤクザになる理由としてはじゅうぶんなのであり、それが今後のヤクザ社会も維持していくことになる。だから滑皮は、みずからが「かっこいい兄貴」であり続けようとすると同時に、じぶんもそうやって熊倉を見て育ったのだ、ということを、梶尾たち舎弟に隠さない。

今回のような熊倉のふるまいは、滑皮のヤクザ的美学の原風景となっているのだろう。滑皮の脳裏にはつねにこのころの熊倉の姿がある。雅子との一般家庭ふうな所帯を維持しつつ、愛人をしっかり満足させ、滑皮のよいところをほめ、地元の後輩の相談を受けにいく、こういう思い出がある。だから、鼓舞羅に殴られて男を落とし、ひょっとすると知性も落とし、なにもかもうまくいかない感じになってイラつく熊倉が肘鉄をくらわせてきても、反応しない。滑皮は熊倉に感情移入ができるのである。

 

 

 

 

 

 

 

↓闇金ウシジマくん 40巻 7月28日発売予定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ミュージカル 『瑠璃色の刻(とき)』
作・演出/原田 諒

ヨーロッパ史に今も多くの謎を残すサン・ジェルマン伯爵。ある者は彼を不老不死の超人といい、またある者は稀代の魔術師だという。時空を超えて生きる錬金術師であり、比類なき予言者、そして正体不明の山師──。
ふとした事から謎多きその伯爵になりすました男は、瞬く間に時代の寵児となり、いつしか宮廷での立場は大きなものになっていく。しかし、やがて押し寄せる革命の渦に巻き込まれ…。18世紀フランスを舞台に、「サン・ジェルマン伯爵」として虚飾に生きた一人の男の数奇な生き様をドラマティックに描くミュージカル。

 

 

 

 

 

公式サイトより

 

 

 

 

 

月組TBS赤坂ACTシアター公演『瑠璃色の刻』観劇。2017年5月19日金曜日13時開演。

 

 

美弥るりか単独初主演!人事的なことはいろいろいわれているようだが、僕としてはあんなふうにでっかいポスター(と呼んでいいのかわからないが)が劇場外に向けて貼り出されているような事態がもううれしい。加えて今回の公演から、雪組から異動してきた月城かなとが参加している。このふたりの並びの美しさときたらそれはもう・・・。すごいですよ。

演出は原田諒ということで、雪組・望海風斗のアル・カポネで、カポネとエリオット・ネスが友人になるという超展開を書いた先生である(ちなみにこのときネスを演じたのが月城かなと)。この前の雪華抄ではショーも書けるということが判明したが、今回はまた芝居に戻ってきた。題材はサン・ジェルマン伯爵。ストーリーを見たときから見る直前まで、僕はこれをカリオストロ伯爵と勘違いしていた。だって時代も同じだしやってることも同じだし・・・。でも調べたら別人みたい。そのあたりの関係性はわからない。

 

サンジェルマンは錬金術師で占い師で、不老不死とされており、作中では4000年前から若さを保って生きている称している。が、美弥るりかが演じるのはサンジェルマン本人ではない。シモンという旅役者で、月城かなとのジャックとともに、かつてサンジェルマンが住んだとされるお城に侵入するところから物語ははじまる。サンジェルマンは60年前に旅に出てから戻っておらず、お城ではテオドールという従者が辛抱強く帰りを待っている。時代はフランス革命前夜、貧しい一座の暮らしにうんざりしていたシモンとジャックは、軽い気持ちでそこを抜け出し、お宝を狙って伝説的なサンジェルマンの城に侵入したのだ。賢者の石という、未来をのぞくことのできる石を発見したところで、肖像画を目撃、シモンがサンジェルマンに瓜二つだということを彼らは知る。60年前の記憶なのであやしいものだが、テオドールがそう信じて疑わないほど似ているのだ。そういうことなので、幸い年をとらないという設定もあることだし、シモンはサンジェルマンに、ジャックはテオドールになりすましてベルサイユに入り込み、マリー・アントワネットをはじめとした貴族を相手に稼ぎまくることになる。

ヒロイン格、といっても恋愛要素は特に見当たらないが、一座擁する名ダンサーのアデマールは海乃美月が演じ、1789のオランプと同じく、この時代の平民を演じることになった(よく似合う)。アデマールの感情はうまくくみとれなかったが、彼女はいなくなったシモンやジャックを案じており、ふとしたことでベルサイユで芝居をすることになったのをきっかけに、ジャックたちと再会することになる。もともと役者であるシモンたちは見事にサンジェルマンらを演じ、誰一人それを疑うものはいないのだが、ジャックはそのことに少し疲れ始める。思い出すのは貧乏ではあったが誠実で裏表のない時代であり、なんとなく迷いが生じ始めている。そんなところで彼は、第三身分出身で、平民にも唯一人気がある大臣ネッケルが、なんとなく鬱陶しい、くちうるさいというような理由で罷免され、軍隊が平民の動きを鎮圧するために出動しようとしている、という情報をうっかり入手してしまう。これを決定的なきっかけとしてジャックはテオドール役をおりようとするが、シモンはサンジェルマンをやめようとしない。当初、なぜそこまでシモンがサンジェルマンにこだわるのかわからなかったが、ここにはどうやら賢者の石の魔力が作用していたようである。サンジェルマンは貴族に必要とされている。はじめた以上最後までやらなければならない。シモンはサンジェルマンとして生きていくことを決めたのであり、もうそれをやめるつもりはないのだ。だがその貴族は、じぶんたち平民をひととしてみるものではなく、それどころかいまから攻撃をしようとしている。かくしてシモンとジャックは喧嘩別れ、そのままバスティーユ陥落を迎えることになるのであった。

 

 

シモンは最初、サンジェルマンのお城のお宝だけが目当てだったが、テオドールにそれを見られ、そしてサンジェルマン本人だと勘違いされたので、サンジェルマンを演じることでその場を乗り切った。その後、テオドールは城に残ったようなので、彼がサンジェルマンを演じ続けたのはじぶんの意志によるものである。はっきりってしまえば、その場で持ち帰ったお宝でじゅうぶんなのであり、いくらそうすればさらにもうけられるとしても、貴族のあいだに入り込んでまでしてサンジェルマンを演じるというのは、なかなかリスキーである。ここにはおそらく、平民としてのルサンチマンのようなものも含まれているだろう。彼らとしては、まぬけな貴族どもを騙して金を稼いでやる、くらいのつもりかもしれないが、実力や運ではどうしても超えることのできない貴族と平民の差を超えてやろうという気持ちがあったにちがいないのである。大臣にまでのしあがったネッケルでさえが、陰では(場合によっては直接)なりあがりものと揶揄されるような社会なのだ。階級というものは過去の為政者が資源を独占するために設定した人為的なものであって、ほんとうの人間というのは平等である、というのは宇月さん演じるロベスピエールのいっていたことだが、ともかく、事実としてそういう体制があり、体制の内側にいるままでは、この階級を超えることはできない。しかしサンジェルマンを詐称することでこれは乗り越えられる。では、この詐称のどのぶぶんが階級を無化しているのだろう。サンジェルマン本人が築いた信頼に基づく階級的なものを、詐称することによって身につけたというのであれば、シモンが名乗るのはサンジェルマンでなくてもいいことになる。貴族なら誰でもいいはずだ。とすると、サンジェルマン固有の超能力が、これをさせたことになる。つまり、占い、錬金術、若返り、不老不死といった要素のことだ。これらは、体制の外側にある。貴族とか平民とかいう分類で一定の秩序を保つシステムとは、無関係のものだ。サンジェルマンの存在は、実は質としては革命よりのものであって、サンジェルマンの前では貴族も平民も平等になってしまうのだ。

しかしそれも彼がほんとうに超能力者であり、さらにいえば、この貧しい社会においては、いまこの瞬間にパンが出てくるような能力でなければ意味がない。金をつくれてもそれに20年もかかるということでは、とりあえず今日の飯に困っている平民にはなんの価値もない。作中にも似た意味のセリフがある。貴族が毎夜パーティーやら狩りやらをするのは、それしかすることがないからだと。平民のように暮らしの心配をする必要がないのだ。同じことはサンジェルマンの宿す能力についてもいえる。占いとは未来のことであり、若返りは美を求めるものだ。しかし、今日を生き延びることが最優先の問題である貧しい平民に、未来のことや美のことがどれほど問題だろう。体制を超越したサンジェルマンは、しかし貴族の前でしかその技術を評価されることはないのだ。

 

 

シモンは、サンジェルマンとして貴族たちから必要とされることで、みずからの出自である平民より、自己実現のほうに動機を傾けはじめる。もちろん、そこには、賢者の石の魔力と、ルサンチマン的な歪んだものがかなり働いているとおもうが、ひとことでいえばそうだろう。ある意味では、サンジェルマンの存在じたいがそうであるように、この時点でシモンも、体制の外側に立っている。平民としてではなく、もちろん貴族としてでもなく、「わたし」として必要とされるそのことに価値を見出しているのである。体制においては、そこに属するものが必ず「平民」や「貴族」のような属性にふりわけられることになるが、サンジェルマンを構成する非現実的な要素はこの体制を解体して、個々人の価値観に戻してしまうものだ。けれども、実際のところ、平民はサンジェルマンを必要とはしない。たぶん、その価値を見出すこともないだろう。むしろ享楽の象徴のような存在になるにちがいない。だから、体制の外側にいたはずのサンジェルマンが、もし体制の内側に生きようとしたら、自然と貴族にこだわることになる。それはサンジェルマン(シモン)の問題というより、とことんやせ細った体制の問題だろう。こうして、シモンとジャックの対立が発生する。シモンは、貴族とか平民とか、そういう文脈ではなしていないのだが、それは結果として貴族側に立つことを意味してしまうのであり、それをジャックは認められないのだ。

 

 

サンジェルマンの魔術がどこまでほんとうのものかわからないが、賢者の石がシモンに語りかける場面を見ておもったのは、「サン・ジェルマン」というのは実在のある個人のことではなく、石を所持してそのように名乗っているその時代の誰かのことを指しているのではないか、ということだ。賢者の石を所持し、サンジェルマンの伝説を知ってそのように詐称するシモンのような男が、サンジェルマンそのものなのではないかと。ほとんどホラ話なのだが、4000年前から生きているというのは、ひとが現在に連続する文明を立ち上げて以来、というくらいの意味ではないかと考えられる。錬金術も占いも、取り組むひとは真剣になって研究してきたものだが、ついに学術として採用されることはなかった(統計学としての占いはともかくとして)。だが、これらの技術は「たとえば」であって、それは要するに体制の外側にある、あるいはあってほしいと人々が願う「魔法」のことなのだ。サンジェルマンが有史以来存在し続けているのだとして、それがつねに同一人物であるか、あるいはいまいったように「賢者の石を所持してそのように自称するもの」のことなのか、不老不死の能力以外にかんしては、どちらであってもちがいはない。というのは、4000年前に生きていたサンジェルマンと、いま目の前にいるサンジェルマンが同一人物であるということを証明することは、誰にもできないからである。もちろんDNA鑑定とか、そういう身もふたもない方法も現代ではないわけではないが、とりあえずフランス革命時の貴族たちには、それを否定することはできなかった。なぜなら、4000年前の彼を見たことのあるものなど存在しないからである。また、サンジェルマンが実在の個人であっても、あるいは概念のようなものであったとしても、不老不死であるということは揺らがない。もしサンジェルマンというものが、体制の外側にある魔法の総称なのだとしたら、受け継がれるたびに生は更新され続け、持ち手があらわれなくてもただそれを待つだけで、原理的に死のない存在であるのだから、たしかにそれは不老不死なのである。体制の外側にあるもの、という定義もまた廃れることのないものだ。それはつまり、いまわたしたちの把握しうるものの全体、その外側にあるもの、ということだからだ。外側にあって、わたしたちを相対化するもの、そういう存在なのだから、わたしたちが存在している以上、それも必ずありうるし、これは革命が秩序の内側に潜在するのとほぼ同義である。「サンジェルマン」はたしかに、この現代においても存在しているにちがいないのだ。

 

 

美弥るりかはそのヴィジュアルと芝居心でもって、この超越者としてのサンジェルマンのミステリアスさと、俗物の延長のようなユーモアを同居させていた。平民であることにとらわれる月城かなとも誠実さがよく出ていた。

エモーショナルな芝居を得意とする宇月さんはロベスピエール。作品によってこれほど大きくキャラクターのかわる人物もいないとおもうが、それはつまり、見るひとによってどのようにでも見えるということだ。後半では、例の粛清タイムがはじまって黒くなっていったが、それまでは基本的に正義のひととして演じられていたようにおもう。たしかに、これまでの文脈でいうと、革命までは、彼もまたサンジェルマン的な立ち位置だった。しかし、革命が成り、新しい秩序ができあがるとともに、彼自身が今度は体制側に含まれ、同時にあらたなサンジェルマンが別の場所で育まれることになる。そのあたりがくっきり演じわけられていたというようなわけではないが、やはり見事なもので、安心して観劇できる、非常にたよりになる上級生である。フィナーレのダンスもかっこよかった。

 

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第157話/侠客立ち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内海警視総監からの依頼を義侠心からうけ、さらに烈の死を聞かされて個人的な感情にも突き動かされることになり、迷いなく武蔵退治に出陣することになった花山薫。今回はまるまる一話、彼を彼たらしめている背中の入れ墨である侠客立ちの物語の復習だ。これまでも何度か語られてきた物語だが、改めていまの絵で説明されています。

 

 

 

1616年2月、武蔵野でのはなしだという。当地の豪農「花山家」をひとりの旅の博徒が訪れる。長い間宿のないまま歩き回っていたのか、ずいぶん疲れている様子で、からだもひどく汚れている。花山家は長旅を労ってこの博徒を厚遇した。

その夜、十数名の盗賊が花山家を襲った。リーダー格の片目の男は以前の描写にも登場していた記憶がある。博徒がいたのはたまたまだとおもうが、いずれにせよ、花山家のお金や持ち物を狙った強盗である。丸太で扉を破り、一家5名を皆殺し。しかしひとりだけ無傷で生還したものがいる。花山家のただひとりのあととり、まだ小さな「弥吉」である。その夜偶然居合わせた博徒は、ひとりでは勝てない、この状況を突破できないと考え、子供だけでも救おうと、寺の鐘のなかに弥吉を隠して背負ったのである。ここでは「盗賊の前へ立ちふさがった」とされているが、それはちがうだろう。子供を隠しても、立ちふさがってじぶんが斬られ、死んでしまっては意味がない。結果はそうならなかったが、そうなる確信があったともおもわれない。鐘は刀や矢の攻撃から子供を守る。じぶんは多少喰らっても問題ないから、子供を守った状態で逃げ出そうと考えたのではないか。

むしろ立ちはだかったのは盗賊たちのほうだろう。博徒は重い鐘を支えているので両手がふさがっている。攻撃どころか防御行動もできない。ただ立っているだけである。それを、盗賊たちは幾太刀も切りまくる。やがて博徒は立ったまま死亡。「絶命して尚、我身を楯に立ち尽くす」。とるものはとったのだろうし、盗賊としてもこの侠客っぷりは賞賛せずにいられず、そのままに現場をあとにしたという。

ここからはいままで描かれたことのないところだ。成人した弥吉は、記憶にはないのだろう、伝え聞いているその身の上から、博徒稼業に身を転じ、物語のなかの住人であるその「旅の博徒」の威容を背中に彫ることになった。以来その彫り物のデザインは花山家の家長の背中に受け継がれていくことになり、やがて「侠客立ち」というタイトルまで冠せられることになる。

 

 

この作品に「待った」をかけたのが十六代目家長の花山薫だった。切り刻まれていない侠客立ちなど、侠客立ちではないと。そして、父親のカタキでもある富沢会に、花山はその足で殴りこむ。そして素手で、たった10分で彼らを壊滅させてしまった。とはいえ相手は武装集団であり、花山も重傷を負う。それこそが、わざわざこのタイミングで敵討ちを果たした花山の目的だった。四方八方から刀で襲いかかるヤクザたちの攻撃で、からだのすべてのぶぶんに傷を負ったわけだが、むろん背中の侠客たちもずたずたに切れている。このとき花山は14歳と2ヶ月。真なる「侠客立ち」が完成したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非常に印象的な物語で、バキの通読者であれば誰もがくっきり記憶しているであろうエピソードだが、バキも長寿漫画なので、意外とグラップラー時代は読んでないというひとも多いのかもしれない。僕も最初に読んだのは第2部の死刑囚篇だった。いまの絵で見れるというのもうれしいはなしだし、これから展開されるであろうたたかいの意味を深めるためにも、必要な挿話なのだろう。

 

 

はなしが進んでいないのでなにか考えをすすめようにも材料がないが、侠客立ちが花山の花山らしさみたいなものを担保しているとして、この物語の本質はどのへんにあるだろう。この「旅の博徒」を通して、ふつうに読んで「かっこええ~」となるのは、やはり死んでも立っている、そして弥吉を守り続けているというところだろう。弱きものである弥吉を救い、この場では圧倒的強者だった盗賊に対抗する、という意味ではたんに、いわゆる意味での義侠心みたいなものが感じられるわけだが、それを上回るものとして、死んでも倒れないということがあって、それこそが花山のファイトスタイルに直結している。いま便宜的に「スタイル」と書いたが、この呼び方は、微妙に本質を言い当てていない感じがある。というのは、死を超越して守り続ける姿には、意識を越えたものが感じられるのであって、そこのところに、盗賊も読者も感服しているにちがいないからである。弱者を守るのも、強者をくじくのも、信念とかポリシーみたいなものに駆動されて、意識的に行うものだろう。そうしようとして、ひとはそうするのだ。しかしそういう捉え方をすると、そうではないありかたもそのときその場所に潜在しており、彼は選択をすることによって、弱者を守ったのだ、という読めなくもないということになる。なんであっても、それがなんらかの意図のもとに行為されているのであれば、そういう見方は否定できないだろう。しかし、死んでも、花山の場合は気絶しても、立ち続け、守り続ける、あるいはたたかい続けるという姿には、そういう意識はもはや感じられない。まるで行為そのものが自律し、人物として動いているかのように、絶対的に迫ってくる。これがおそらく、それを見たものが、敵でさえも感服してしまう理由である。ここには、合理性も、打算も、美学や思想さえもはやない。「旅の博徒」や「花山薫」のような、それを具現化する媒体としての人物さえ、ここでは漂白され、ただ行為だけが実物のもののようにそこに立つ。旅の博徒は死んで個人であることをやめると同時に、弥吉を守る動作そのものになって立ち尽くしたのだ。

じっさい、花山のファイトスタイルは合理的とはいいがたい。ほとんど滅私といってもいい。しかしそれだけに、行為の質量は誰より大きい。生物の自己保存的な本能に基づいたものとしての武術や格闘技、あるいは闘争本能、こういう文脈にいながら、花山じしんは、まったくじぶんを守ろうとはしない。しかし、そのことによって、旅の博徒でいえば弱者を守ろうとする姿勢、花山でいえば攻撃を受けきってただ拳をふりまわすスタイル、こういうものが、非常に高い純度で顕現することになる。花山が相手の攻撃を受けきるのは、柴千春によれば、負い目のなさが勝ち目を呼ぶからだ。しかし、こう考えるとそこにもうひとつ、わたしというものを相手の攻撃によって破壊しているという可能性も出てくる。自己保存の本能からは考えられないガードなしの姿勢を貫くことにより、「私」は縮小し、弱者の守護や拳での攻撃にかんして、その行為の純度は非常に高まることになる。もはやそこには目的さえない。ただ営みだけが、誰のものでもないものとしてあらわれることになる。花山の計算できない強さというのは、ひょっとするとそんなところにあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

↓刃牙道 17巻 6月8日発売予定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』沼野充義 講談社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チェーホフとは何者だったのか?19世紀末ロシアで人間の本質を見つめ続けた冷徹なリアリストは、なぜ時空を超えた現代的な作家として愛されるのか?子供、ユダヤ人、オカルト、革命、女たち…。ロシア文学の第一人者が、世紀末を彩るモチーフをまじえ、最新研究をふまえて描く!」Amazon内容説明より

 

 

 

 

 

 

 

 

このあいだのトルストイのはなしにもかかわってくるが、チェーホフは僕が唯一追っている(ある程度読み進めている)ロシアの作家だ。その理由としては、作品の手軽さがある。ドストエフスキーやトルストイの代表作となるとどれも大著も大著、片手間に読むようなしろものではなく(チェーホフが片手間に読めるということではないが)、手に取るにあたってはそれなりの覚悟が必要だが、チェーホフには長編らしい長編はほぼないし、文庫1冊分の作品があるかとおもえば戯曲だったりするので、すぐ読めちゃうのだ。

しかしこの手軽さはじつはチェーホフの作品の質にもつながっているものかもしれず、チェーホフじしん、実は大衆向けのユーモア小説、ロシア語で「ユモレスカ」を書きまくることで生計を立てていた。チェーホフの圧倒的な才能に気づいていたもののなかには、そんなことで才能をむだにするんじゃないと忠告をするものもあったようだが、とにかく、たとえば「チェホンテ」というようなペンネームで、チェーホフはユモレスカを年間120本くらいのペースで書きまくっていたという。出発点がそういうところなので、作風にもやはり関係はあるのではないか。本書でも検証されているが、病気(結核)の進行が明らかでありながらも、それに気がつかないふりでもするかのようにして仕事に没頭し、自己韜晦というか、作品と作家を断絶させ、無関係のものとし、作品からはほとんど作家の素顔が見えてこないというような状況を作り出していたのも、この「ペンネーム」と「ユモレスカ」という作風である、というのは浦雅春の受け売りである。

 

 

本書は沼野充義によるチェーホフの研究書で、いわゆる評論とか批評とかいった、作品の読解をする本ではない。沼野充義といえば、文芸誌に目を通すようなひとなら誰でも名前を知っているような批評家で、ロシア周辺の文学や、あと村上春樹にもくわしい印象があるが、じっさいなんのひとなのかというとよくわからない。本書のプロフィールによると専門はロシア・ポーランド文学ということだが、まあそんなことは読者としてはどうでもよいことかもしれない。批評家独自の見解に深入りしないという点では、批評として物足りないものもあるが(ときどき著者の創見とおもわれる解釈が挿入されるが、深く追及はされない)、そのぶん平易で、そもそも、本書が描こうとしたものはむしろロシアであり、チェーホフやその作品をめぐる歴史や背景などを洗っていく過程で、こういうものを見ていこうとする主旨なのだ。フランスやイギリスのこともよく知っているとは言い難いが、よく考えてみると僕はロシアについてなにも知らない。その意味で非常に勉強になったし、よりいっそう、わけのわからないひとだという認識が強化されたという点でチェーホフの魅力を再確認することにもなった。

 

 

チェーホフ関連の本で僕が大切に考えているのは、最初に読んだ講談社文芸文庫の「たいくつな話」、浦雅春の「チェーホフ」、短編集「馬のような名字」といったあたりなのだが、おそろしいことに、大量の本に埋もれてこのどれも発見することができない。たぶん、何年か前に評論を書いて投稿したときにチェーホフのことも織り込んだので、そのときにまとめて読み返して、まとめてどこかに隠れているものとおもわれる。そんなわけで、誰がどんなことをいっていたかとか、これはだれの見解か、といったようなことがあいまいなまま記憶のなかで混ざり合っている状況なので、細かいところを思い返して記すことはできない。なので、知ったかぶりはせず、本書を読んで考えたことをそのまま書いてみよう。

 

 

チェーホフの女性関係やほとんど語られてこなかった政治への関心など、非常に興味深い項目が満載で、チェーホフが好きなひとはすらすら読んでしまうとおもうし、「届かない手紙」など、チェーホフにかんする定番の批評も網羅的に学ぶことができる。そのなかでいちばんおもしろかったのは、本書でいうところの有名な「喜劇問題」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

「チェーホフ晩年のいわゆる四大戯曲、『かもめ』『ワーニャおじさん』『三人姉妹』『桜の園』は――誰もが劇作家としての彼の頂点と認める作品群だが――どれも挫折、自殺、絶望、殺人(未遂)、失意、没落といったモチーフに満ち、普通に考えたらその内容は楽しいというよりは、むしろ悲しいものであることは明らかなのだが、チェーホフはこれらの作品を「喜劇」と考えていた」255頁

 

 

 

 

 

 

 

 

チェーホフにかんして僕は基本的に小説ばかり読んできて、戯曲は拾い読みの段階だが、とにかくそういういかにも魅力的な謎がある。作家がそれを悲劇ととらえようと喜劇ととらえようと作品の性質が変化するわけではない、という意味ではどうでもよいことかもしれないが、たとえばこれをじっさいお芝居にしようとしたとき、当代随一の演出家とかが仕掛けても、けっきょく悲劇になる。それについてチェーホフはじっさい不満をあらわにしていたというのである。これはよほど難問のようで、さまざまな演劇関係者や批評家があたまをひねってきたが、定説というのは特にないようだ。この点にかんして、僕は「馬のような名字」の書評である程度こたえを出したのだが、これは、本書で書かれているヴェラ・ゴットリープというひとの見解とほぼ同じである。実は「届かない手紙」というモチーフもこの件とは無関係ではなく、これは、ひとことでいえば「おもいは伝わらない」というある種の諦念なのだ。「ひととひととはわかりあえない」という、闇金ウシジマくんなどでもおなじみの、現代文学や漫画ではおなじみの視点なのである。たとえば、その「馬のような名字」に入っていた(らしい)「創立記念日」という短編には、会話の成り立たないメルチュートキナというおばあさんが登場する。おばあさんはおばあさんで、主観的には地獄を抱えているが、傍目にはわけのわからないことをまくしたてるおかしな老婆でしかない。わたしたちがもし、このおばあさんの境遇に同情して、その申し立てを理解しようと努めたなら、それは悲劇となる。しかしそれは、演劇的作法を経由した、ある意味恵まれた理解であり、おそらくチェーホフのリアリティはそこにはない。この作家が戯曲に大きくちからを注いだこととも無関係ではないとおもうが、セリフはただ物体として乱立し、ぶつかりあい、それじたいとして鳴り響くのである。そうしたとき、個々に地獄を抱えるものたちのかみあわないやりとりはスラップスティックな喜劇となる。チェーホフの理解はおそらくこういうことだったのである。戯曲は、その時点では、即物的なセリフの羅列でしかない。しかしそれが現実のお芝居になると、演出家や役者などの感情移入が働き、捨象されていた事物固有の性質はある意味では歪んで立ち上がることになり、物語が自律しはじめる。戯曲は芝居の前段階ではなく、ひょっとするとチェーホフにおいては、そのじてんですでに完成されたものだったのかもしれない。

 

 

その他、これも有名な「サハリン問題」についてもさまざまな文献を引用して描出されているが、今後もチェーホフの本を読んでいく予定があるので、今回はここまでにしておこう。作品だけでなく、手紙や、関係者の些細な短文にまで言及して、網羅的にはなしを広げていく労力とテクニックはまさしく専門家にしかかけないものであって、すばらしいのはそれでいて情報の羅列のようなものにはなっていないことだ。沼野充義の文章は、文芸誌や、なにかの解説とかでよく見かけるけど、いつもおもしろいイメージがあるし、一流の文筆家という感じがする。できたら次はこのひとの解釈に満ちた本格的な批評を読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第433話/ウシジマくん⑲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10週連続売り上げトップのお祝いの席からちょっと離れたところで、偶然竹本優希と遭遇した丑嶋。竹本は自社ブランドの宣伝のために出版社を接待しているところだった。なにかしゃべりたいことがあるのか、竹本が誘い、ふたりは海に向かうのだった。

 

 

竹本の会社にはなにか問題があるらしい。売り上げはいい。たんに扱っているものの質がいいとか、竹本がデザインしてるのかどうかわからないが、それの価値が高いとか、そういうこととは別に、雑誌とのタイアップなどの宣伝がうまくいって、世の常として、有名なものがそのためにまた有名になり、売れているものがそれを理由にまた売れる原則にしたがって、とんとん拍子で成長していったのだ。

問題なのは専務のよっちゃんである。むちゃくちゃする男のようで、イベントで現金をばらまいたり、女の子と豪遊したり、会社の金をばんばん使っていく感じらしい。よっちゃんは地元の先輩だという。ということは丑嶋たちの先輩でもあるはずだ。しかし丑嶋は知らないようなので、高校の先輩かもしれない。丑嶋は、いかにも彼らしく、先輩でも社長の竹本がガツンといったほうがいいとアドバイスする。しかしそれがしにくい事情がある。先輩であるという以上に、よっちゃんはアイデアマンで人脈も広く、会社に欠かせない人間のようなのだ。ブランドが売れた理由のひとつに、ショップ店員にキャバクラ嬢をつかったことがあるという。会話上手で華のある彼女たちに女子高生たちは憧れ、そこから取材も多く受けるようになり、売り上げも上がっていったと。そのアイデアがよっちゃんのものなのだ。人脈の広さも、よっちゃんがそうやって遊び歩いた成果だ。しかしそれだけ派手に遊びまわってると、スキャンダル目当ての記者や、あるいは恐喝のタネを探す悪い連中なんかにも目をつけられるようになる。竹本は敏感にそのことを感じ取り、買い取った会員制のバーでしばらくは遊ばせていたようだ。しかしそれでもトラブルは回避できなかった。悪い連中が身内のセクシー女優を、どうやってか不明だが店に仕込み、よっちゃんをはめたのである。で、しっかりおくすりも写っている見事な写メが一枚撮られてしまう。このキメセク画像を1億で買い取れと、輩から脅されているのだ。ネガさえ回収してしまえばとりあえずは安心、というようなものではないし、1億払ったら次も当然あるだろう。かといって警察に相談したらクスリの件でよっちゃんが逮捕される。よっちゃんは、毒をもって毒を制すということで、地元のヤクザに相談しようとも考えているが、愛沢がそうなっていったように、そんなことをしてもただ恐喝の主が変わるだけだ。丑嶋もそういうし、竹本もそう考えている。つまり、だからどうしたらいいかわからない、というところのようだ。よっちゃんを脅しているのは田中と名乗っているが、明らかに偽名である。よっちゃんは竹本と地元が同じわけだから、よっちゃんが相談しようとしているヤクザも丑嶋たちと同じ地元だ。丑嶋は、戌亥がいま探偵事務所に入っているから調べてもらおうかという。竹本と戌亥が話している描写はこれまでなかったとおもうが、いちおう、竹本も名前は知っているらしい。戌亥は加納や柄崎、竹本よりも前から付き合いのある丑嶋の親友だ。でも、あとで検証するが、たぶん会ったことはないだろう。描かれていない短い会話で、戌亥という親友の存在を話したことがあるとか、そんなことかもしれない。

また、明らかなことではあったが、戌亥が探偵事務所の人間だということも今回初めて言及された。初めて・・・だよな?アウトロー専門の情報屋として活動しているとしても、そういう看板を出すわけにもいかないのだし、そうなると表向きどういう仕事になっているか考えたとき、探偵しかないのだ。

丑嶋は取り立てがあるので竹本と別れる。キャバクラのお祝いを抜けだしてふたりで(車で?)海にいって朝をむかえているとおもうので、丑嶋はたぶん寝てないとおもうのだが、ふつうに今日の仕事を開始するらしい。向かうのは10年後の現在も関係のある菊地千代の家だ。電話に出ないので丑嶋はかってに家に入る。なかには菊地千代の子供、辰也と文香がいる。辰也の顔はなんだかウシジマくんの絵じゃないみたいだ。あの辰也がそのまんま小さくなったようなおかしみを含みつつも、肝心なところの欠落したようなのっぺりとした表情だ。床には死んだ鳩が転がっていて、辰也は血のついた包丁を握っている。顔にも血がついている。

丑嶋になにしてるのかと訊かれて、姉の文香が応える。洗濯機の脇に鳩が巣をつくってうんこばっかりするので、汚い汚いと、母親やおじさんがイライラするからと。いつだったかに丑嶋たちが取り立てをしていたのは父親ではなかったらしい。しかし、たしかあの男も菊地姓で呼ばれていたはずである。なにか複雑なものがあるようだ。

文香の決然とした言い方を見ると、どうもこのことは彼女たちじしんの意志で行われたことのようである。幼すぎる辰也は表情も空洞で、ほとんどなにも読み取れないが、そうする必要があると、文香は判断したのだ。彼女たちに実害があるのか、あるいは母親に男から害が及ぶのか、そのあたりは不明だが、わざわざ母親がいないときにこれが決行されるというのはなかなか謎である。

 

 

母親たちはどこにいったのかと丑嶋は訊ねるが、ふたりは知らない。なので丑嶋は駅前のパチンコ屋でものぞいてみることにする。ここで、よくみると、文香がなにかを「ガリ ガリ」としている。何回読んでもこれがなんの音かわからない。口元に手をやっているので、指を強く噛む癖でもあるのかともおもったが、それにしては微妙に手が前のほうにある。ひょっとすると丑嶋がなにか駄菓子でも与えたのかもしれない。

 

 

丑嶋は戌亥と合流、さっそく竹本の件の結果が届いている。丑嶋が読んだとおりということなので、そのように戌亥には伝えてあったらしい、よっちゃんを脅迫しているのは獅子谷兄弟で、そのよっちゃんが相談しようとしている地元のヤクザは熊倉なのだった。たしかに、よっちゃんがはめられた手口は獅子谷兄が語っていたものそのままなのだ。丑嶋は引き続き獅子谷を調べてくれないかという。丑嶋によれば、獅子谷兄の言動がおかしいようだ。シシックに内偵が入って一斉摘発されるといううわさがあり、そのせいでいっそう凶暴化していると。内偵の件も含めて、そのあたりどうなのか調べ、自衛の意味もこめてなにか弱みでも探すつもりなのかもしれない。

その凶暴化獅子谷の被害をうけた海老名である。右耳を失ったぶぶんが痛々しい。ばい菌が入ってしばらく膿んでしまい、いまもうずくそうだ。アッパーをくらって舌をかんだ鯖野はらりるれろの「ろ」がいえなくなってしまった。本人はいえていると主張しているが、どうしても「お」になってしまう。

海老名は銀行への使いに柄崎を出すが、なんとなく感じが悪い。鯖野もそれに気づく。海老名がいうには、丑嶋がきてからずっとそんな調子のようだ。いまも似たようなものだが、キャバクラで自慢話しまくりなので、強盗にねらってくださいといってるようなものだという。

そのはなしと関係があるのか、鯖野と海老名は「今月末にやる」という。

 

 

 

 

 

 

 

 

「各店舗の売り上げが本部に集まる。

そいつを根こそぎ強盗する。

 

丑嶋を犯人に仕立てあげて獅子谷兄弟に殺させる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふむふむ、なるほど。そういう作戦でくるわけね。獅子谷社長の暴力には我慢ならない。丑嶋も新入りのクセにむかつく。獅子谷社長を暴力や金で上回ることはできないが、金を奪うことはできるかもしれない。丑嶋をその犯人にしてしまえば、じぶんたちの身の安全が図れるうえに丑嶋を殺すこともできると。耳を切られたりしたことは決定的ではあったのだろうけど、まあいままでずっとたまってきたものがここにきて爆発しかけているという感じなんだろうな。もともと海老名たちだってそこそこの悪党なんだろうし、そのことにためらいもないのだろう。

 

 

 

竹本を脅しているのは獅子谷だった。アパレル業界ということで、ハブサンの影を感じずにはいられなかったが、こういう事情ならしかたないだろう。ま、まだ再登場がないと決まったわけではないし、ここまで大物になったブランドをスルーというのも、あの界隈をじぶんの街であると宣言したハブサンらしくない感じもする。案外今回の件にはまったくかかわらず、獅子谷退場のあとちょっと顔を出す感じになるかもしれない。

前回の獅子谷と竹本がそれぞれ語った儲けのシステムには、なにかたんじゅんな動物性のようなものが感じられた。システムはひとの欲望によって動いているが、それがきわめて原始的な反射のようなものに突き動かされているので、細部をとると非常にばからしく、無意味に見えるのである。よっちゃんは金使いがあらく、おそらく勘定ができないタイプの人間っぽいが、アイデアマンで、人間的魅力、カリスマ性には優れているのではないかと想像できる。そのよっちゃんのアイデアのひとつが、店員にキャバ嬢を配したことである。会話上手と美人であることは彼女たちには仕事なので、その点で女子高生たちのこころをつかんだのだ。しかしこれはこれで奇妙なはなしにもおもえる。ショップ店員にも会話上手と美貌は要求されたはずである。要求されるから、それに圧倒的に優れたキャバ嬢配置が成功したわけである。しかし、だとするなら、ものの道理として、もともとのショップ店員もその上達に努めたはずである。げんに、キャバ嬢でなくてもショップ店員というのはみんな明るく華があってかわいい子ばかりのはずだ。だからこの件が成功したのは、というかよっちゃんの慧眼は、それが実物のキャバクラ嬢である、ということに尽きるのである。キャバクラ嬢ばりの華とコミュ力をもった店員、ではダメなのである。夜の雰囲気、そしてそこにプロ意識をもって取り組む雰囲気、こういうものが、ブランドに価値をもたらしたのである。

竹本の言い方は微妙だが、おそらくこのスタッフはみんな、じしんがキャバクラ嬢であることを隠していない、ばかりかすすんで表明しているのではないかと考えられる。竹本は彼女たちを「人気嬢」と呼ぶ。つまり、キャバクラの世界で成功した女の子たちなのだ。ポイントはおそらくここで、夜の仕事であることそれじたいが女子高生にもたらすなにかスリリングなものに加えて、彼女たちはその世界で成功している。その世界とは、金と肉欲がうずまき、それをぎりぎりのところで賢く制御する世界だ。彼女たちがショップであらわにするファッションやメイクは、直接、そのまま、そうした動物的なものを制御した技術であり、ブランドである。ただ店員が美しく華がある、という場合には、もしそれにあこがれて、そういう女性になりたいと考えてあたまのなかでモデルにしようと考えたとしても、それをさせるのはそのひとの価値観であり美意識である。しかしキャバクラ嬢の場合はそうではない。もちろんそれを感じ取るのは個人の美意識にほかならないが、その美を裏付けるのは彼女たちが人気嬢であるという事実と、それがもたらす迫力なのだ。ショップ店員が広告であるという点にかんして振り切ったのがよっちゃんのアイデアなのである。こういう意味では、キャバクラ嬢が表象するのは動物的なものの制御なので、一種の賢さとか女性のしたたかさを、消費者は感じ取っている可能性がある。動物的反射につけこんだシステムに惑わされない、個々人の強度を引き出そうとする意志が感じられるのだ。けれども、よっちゃんのアイデアはそれさえも動物的反射としてシステムに組み込んでしまうものである。広告には啓蒙的側面もある。広告に描き出されることがわたしたちの美意識や価値観を画定し、そこに向かわせるよう仕向けるのだ。スマホのある生活がいかに素晴らしいかを徹底的に、刷り込むように発信しつづける手の込んだCM群を見ているとつくづく、現代人の価値観というのは消費社会のメディアが「創出」しているのだなあと感じてしまうが、ここで起きていることも同じだ。キャバクラ嬢がもたらす夜の女の魅力も、動物的なものを制御する立ち姿そのまま、広告となって、動物的にわたしたちの価値観に含まれていくのである。

 

 

前回獅子谷が語っていたそのままの手口でよっちゃんははめられたわけだが、しかしこの写真はどういうことだろう。おくすりでラリってるのか、札束ばらまいてるときと同じうっとりとした表情のよっちゃんがじぶんで足をV字に保ち、肛門的なところにセクシー女優が顔をうずめている感じだが、しかし誰がこの写真を撮ったのか。こんな角度で盗撮をするには監視カメラ的な位置にならないといけないが、そんなところに設置するだろうか。たまたまよっちゃんがドアホで、前後不覚になるくらい酔ってくれたりしてくれたらいいが、もしそうならなかったときすぐにバレてしまうようなところにカメラはつけないだろう。となると、もうわけがわからなくなってしまってるところにふつうに獅子谷が乗り込んで、ポーズやなんかも指示してやらせた感じなのだろうか。

 

 

探偵事務所所属ということが明言された戌亥だが、竹本は戌亥を知っているようである。丑嶋は柄崎、加納、竹本のいる中学に中二のとき転入してきた。戌亥はどうもその前からの知り合いらしい。で、丑嶋はおそらく転入したその日に柄崎たちにボコられている。その後、ウサギ小屋で竹本とあったとき、顔の傷を見て丑嶋は竹本がリンチに参加しなかったために柄崎たちに殴られたらしいことを知る。だから、丑嶋はリンチ以来初めて竹本に会ったことになる。そのまま別れた足で丑嶋は柄崎に相談されて、鰐戸兄弟をぶちのめしにいく。そのときまた竹本と会って、うーたんを預けることになる。こう見ると、丑嶋が竹本と長く会話できた可能性があるのは2度しかない。まずは、柄崎が因縁をつけて丑嶋をボコったのが転入初日ではないという可能性である。これはありうる。というのは、ウサギ小屋にいる竹本を丑嶋はいきなり名前で呼びかけているので、数度は話したことがあるのではないかと見られるのだ。次はうーたんを預けたときで、これは2度にわけて描かれているので、それなりに長く会話していたようなのだ。しかしそれでも、やはり竹本に戌亥を紹介するチャンスはなさそうだ。転入してからしばらくは柄崎も手を出さず、丑嶋と竹本がそれなりに仲良くなるということはありそうだが、幼馴染を紹介するというのは相当である。たぶん、このどちらかのタイミングで、丑嶋はじぶんの親友について話したのではないだろうか。

 

 

 

今回描写が深まったのはもうひとつ、菊地家である。いつものようにそのときのスピリッツが手元にないのであやしい記憶に頼るしかないが、菊地家にいた男は菊地という名前だったはずである。とすると、ふつうに考えて菊地千代と男は夫婦のはずだ。愛沢みたいな例もあるので一概にはいえないが、少なくとも、たんなる居候の彼氏とかではないはずである。しかし辰也たちは男をおじさんと呼ぶ。となると、常識的に考えて、この男は千代の夫ではあるが、彼らの父親ではないのであり、つまり再婚であろうとおもわれるのである。だが、現在の菊地千代は別の男といる。暮らしているのかなんなのかはよくわからないが、少なくともいまの男はいないようである。もし「菊地」が、10年前のこの回想時の彼の姓だとしたら、それを彼がいなくなったあとも名乗り続けているのは奇妙だ。そうなりうる状況はいくらでも想定できる。まずは、僕の記憶ちがいで、10年前の菊地と、現在の男が同一人物という可能性である。だが、すでに発売されている39巻には現在の男が登場しているが、そのセリフはいかにもゲストのものである。仮にも10年いっしょに暮らしてきたような男のセリフではない。ふたりが別人だとすると、たとえば、まだ離婚が成立していない状況で新しい男と暮らしている、というふうなこともおもいつく。あるいは、愛沢と一緒で、姓を変えなければならないなんらかの事情があって、嫁の姓にしているのかもしれない。愛沢によれば、そうすることでまた消費者金融の審査が通るというのである。これは、今後の描写を見なければわからないが、いずれにしても辰也たちにとって非常にうれしい同居人という感じではなさそうだ。そういう家庭環境をもともと知っているのか、それとも文香のいいかたを踏まえただけなのか、丑嶋のしゃべりかたはどちらかというと子供たち目線だ。

 

 

文香によれば、鳩の糞が臭いということで、母親と同居人の男はイライラしているという。不思議なのは、なぜそのイライラしている当人たちが行動に出なかったのかということだ。千代はともかく、ウシジマ界の住人っぽい男なら、そういうことをあっさりしそうな気もする。しかししていない。そして、たぶん、文香の決然としたいいかたを見る限り、「片付けておけ」という感じでそれを子供たちに指示したという感じもしない。あくまで文香の意志で鳩は殺されたように見えるのだ。通常の感性では、鳩くらいの大きさになるとよほど切迫していても殺せるものではない。かわいそうだし、それ以前に生き物の命を奪う行為じたいに耐えられない。しかし文香はそれを行う。なぜなら、ここで彼女が除去したのは「鳩」ではなく、「(母親たちに生じる)イライラ」だからである。鳩は原因であり、イライラは結果だ。だから、鳩を除けば、イライラも除かれる。彼女たちの日常がどのようなものかは想像が難しいが、どうやらそのイライラは、一刻もはやく取り除かなければならないという種類のものだったらしい。だからこそ文香は行動に出た。まだ情報は少ないが、まだなにが道徳心が備わっていないような子供では、本来してはならないことを母親のために笑顔でやってのけてしまうということはあるかもしれない。現在の文香は、おそらく思春期をあの家で過ごすうちに、耐えられずに出て行ってしまったが、このときはまだ小さいので、母親をたより、愛する気持ちも強かったのだろうか。しかし、その決然とした表情には、自衛の意味も含まれているように感じる。いずれにしても、まだ小さな彼女は原因と結果を等価ととらえてしまう。この場合、鳩には生命があるのでためらうべきところ、「鳩」とは「母のイライラ」の形象でしかないので、本来その記号が含んでいるコノテーションをいっさい理解しないまま、除いてしまう。これを、ふたりが母親たちのいないときに行っているというのも気になる。なにしろ彼らの日常が描かれていないので、想像を出ることはないのだが、たとえば文香たちは母親たちのいるところではほとんど発言を許されていないとか、そういう可能性もないではない。しかし、今回の描写に限っていうと、これは「プレゼント」なのではないか、というふうにおもわれる。家出もできない、まだ小さな文香からすれば、まだ母親は、それがどれだけダメな母親でも、ほぼ「全世界」である。それを「イライラ」が揺さぶる。そしてそれは、弟も含めたじぶんたちにたぶん実害もある。したがって除かなければならない。そして、それを実行したのはほかならぬじぶんたちである、ということもポイントである。母親のためにそういうことを実行する子供たちは、むろん母への愛と、また母からの愛のためにそれを行う。小さな子供の依存心が愛と等しい状況で、文香が母の興味をみずから得なくてはならないとしたとき、「イライラ」を除く行為を母を喜ばせる行為としてとった、という可能性は、捨てきれないのである。この仮定のなかでは、文香はあえて母親のいないところでそれを行うことで、母親をびっくりさせ、喜ばせることができる(と文香は考える)のである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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