すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10426281677.html

・考察‐価値観は人それぞれという価値観

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10159270907.html

・考察‐共有と共感、その発端

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html

・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10422484912.html

・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10855081068.html

・映画評‐『キャリー』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10202697077.html

・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10372611010.html

・アニメ批評-侵略!イカ娘

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10803805089.html









バキ感想最新・刃牙道

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10079104494.html

 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10036290965.html

 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10016899943.html

 ・ピクル対範馬刃牙編

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10010553996.html

  



ウシジマ感想最新

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10094429374.html

 ・ヤクザくん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10085446424.html

 ・復讐くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10084090217.html

 ・フリーエージェントくん

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10074769118.html

 ・中年会社員くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10071550162.html

 ・洗脳くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10056764945.html

    

    



※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第114話/猛獣






独歩が光成のところにやってきている。

独歩は、武蔵に完敗して、しばらく引きこもりたいなどといっていたが、じっさいは稽古を続けており、以前よりからだの厚みを増してもいた。ただ、どうだろう、独歩にはそんなつもりはないだろうが、これは対武蔵用に考案された稽古でついた肉ではないようにおもわれる。独歩は、すりきれるほど五輪書を読み込むことを若いころからずっとくりかえしており、武道の精神性や、空手が空手として成立する以前の武術的思考法みたいなものを、すべてここから学んできたんだろうとおもわれる。そういう相手とたたかうのはどんなものだろう。師匠どころの騒ぎではない。もう五輪書以上の教えを引き出すことはできない、すでに死んだ人物で、何度も読み返すうちに読解は深まり、それがオリジナルとして独歩のスタイルに内面化されていったはずである。闘争が、相手のスタイルを解釈し、攻略の糸口を見つけ、乗り越えることだとすれば、武蔵のスタイルを母語のようなものとする独歩には、原理的に武蔵を乗り越えることができないのである。なんというか、そういう気持ちは僕にもある。読者として、またささやかながら書き手として生きるそのしかたを教えてくれたひとたちを読解し、解釈することの難しさは僕も知っているのだ。ただ、それは不可能なことではないし、そもそも、師匠を尊敬し、解釈をする、深読みをするという行為は、そのじてんで実はオリジナルなものでもある。しかし、特に独歩のばあいはそこに強烈な自覚もあるだろう。じぶんの原点が武蔵であるということを、独歩じしんが熟知しているのである。その結果が、実力の半分も出せていないような、というよりほとんどピエロみたいなあの結果である。独歩の無意識は、できるかどうかはともかくとして、武蔵を超えたくないと願ったはずである。そうでなければ、あんな無防備に飛び蹴りをかますなんて、ちょっと考えられないのだ。

そうしたわけで、以前よりむきむきになりながら、準備を整えているという気配が薄いのは、けっきょくそれが対武蔵のためだけに目的的につくられたものではなく、ふつうに武蔵と会えた喜びがもたらしたものだからだろう。げんに、前回バキとはなしていたときも今回も、少しテンションがおかしいのだ。


独歩が光成の出した紹興酒を堪能している。酒といえば大学生のころの、ビールみたいな安物の乱暴な飲み方しか知らず、大人になってからはむしろ飲まなくなってしまったので、いい酒の飲み方なんて僕は知らないが、独歩はもぐもぐとくちのなかで転がして、食べ物でも食べるみたいに味わっている。ふーん、そうやって飲むの。機会があったら僕もかっこつけてやってみよう。

次にものすごい量の餃子が出てくる。独歩はその甘みに驚愕して、これが餃子であることを光成に確認してしまう。光成によれば、餃子というのはもともと野菜料理で、その野菜の甘みがしみでているのだ。敗戦からの、欧米へのコンプレックスが、肉食信仰を呼び、餃子の一般認識を肉料理にしてしまったのだ。


食事を進めつつ、光成はバキと話した内容を独歩にも伝える。独歩のことば、「飢えこそが野生におけるベストコンディション」をバキが引いたというはなしだ。そういう独歩は、どうおもうのか。光成は、「どっちだ」と訊ねる。てっきり武蔵とピクルかとおもいきや、そうではない。「武蔵の刃」と「ティラノサウルスの牙」である。どちらもピクルに襲いかかろうとするものだ。要は、ピクルは、ティラノサウルスの牙は克服している。比較にはならないが、雑談レベルでいえば、少なくともこれを超えていないと、武蔵はピクルに勝つことができないと、こういう理屈である。

両者は同じ武器ではあっても質がぜんぜん異なるし、ピクルだってなにもティラノサウルスが噛み切るのを完全に待ってから反撃に転じたわけではないだろう。ティラノサウルスの噛みつきをほんのちょっとだけ耐えることができるからといって、武蔵の攻撃もほんのちょっとだけ耐えられる、ということにはならない。だから、おもしろい問いではあるけど、応えられない問いでもある。


まあ酒の席での雑談である。独歩は作家の大藪春彦のことば、「人間と猛獣が対峙するならば、銃を手にして初めて対等だ」というものを引用する。これは、夜叉猿戦のときに安藤さんがいっていたことだ。あのときは名前は伏せられていたが、今回それが大藪春彦だということが判明した。説明につかっているコマの絵もたしかこんな感じだった。

独歩・光成ともに、それがじっさいには「対等」とはいいがたいことを理解している。そもそも大藪春彦にしてからが、ライフルを手にしていてなお揺るがない野生の強さを実感していた。要はこれは小説家的な「表現」なのである。どこまでも勝つつもりで襲いかかってくる、傷をおそれない、というような野生の点ですでに人間は劣位にあるし、人間が銃を取り落とすように彼らが牙や爪を失うということもない。銃でも装備しなければ、野生とはとてもまともに対峙できないと、つまりそういうことを大藪春彦はいっているわけである。

野生はそれほどに手ごわい。そんななかでも最大級の、たとえば3メートルのヒグマと対峙したら、武蔵はどうするだろう。たぶん、勝負にもならない。1トン程度なら、苦戦することすら難しい。独歩はそう断定する。

しかし、ピクルのたたかってきた相手は、その何倍もある恐竜である。からだの大部分がアゴといってもいいようなティラノサウルスの牙の威力とはいったいどんなものだったろうか。

はなしは転々とする。武蔵は戦国期を生きていた。もうそのころは戦国時代ではないような気がするが、例の有名な吉岡一門とのたたかいである。武蔵からすれば有象無象の存在とはいえ、その時代の名門である吉岡の実力者を次々と倒してしまった武蔵を、一門はなりふりかまわず全員で仕留めようとした。人数からして玉石混交だろうとはおもうけど、それでも名門出のお侍さんが数十人集まり、弓や鉄砲まで配備して武蔵をしとめにかかった。そのすべてを斬り殺した武蔵の悪魔的戦力。うむ、すごい説得力だ。たしかに、そりゃ化け物だな。


というわけで、要するにどちらも化け物である。ふたりにはそれなりに納得できるこたえなど出せないのだった。





つづく。





なんか、少なくとも武蔵篇が続くあいだは、もう独歩はこのポジションなんだろうなという気がしてきた。たたかわなければ死ぬことはないから、それでいいんだけど、ちょっと悲しいなあ・・・。光成なんかと仲良くしないで、もっと勇次郎とか、せめて克巳か渋川剛気と語らおうよ。

今回の論点が微妙にずれていく感じも、独歩が光成目線というか、ただ対戦を楽しみにしているファン目線になっちゃってるからだろう。試合でもなんでも、じぶんの予想があたるかどうかをたしかめるためだけにわたしたちはそれを見るのではない。自己顕示欲的な意味ではそういう見方もあるかもしれないが、基本的にはそれはそれまでの時間を楽しむ過程にすぎないのであって、試合の予想をするひとたちの気持ちをひとことでいえば、ただ「試合が楽しみ」にほかならないのである。漫画の展開予想とかもそうですよね。当たるかどうかはどうでもいい。

だから、牙と刀のどちらが強いかという問いも、そう重要な意味はない。アリと猪木がたたかうと聞いて、馬場さんのチョップとボクサーのパンチはどっちが強いんだろうね、と語り合うような、他愛ないものなのだ。ふつうに「ただのファン」でいるあいだは、独歩は無事なんだけど、それ勇次郎に怒られないかな・・・。まあ、勇次郎もけっこう武蔵ファンだから、共感しちゃうような気もするけど。じっさいのところ、「宮本武蔵」を知らないことがピクルにイメージ刀の通用しない理由のひとつであったことからもわかるように、基本的に後世のファイターは誰もが多少の差はあれ武蔵ファンなので、これはそれなりに重要な要素なのかもしれない。いままでのところいちばん健闘したのが中国人の烈であるというのも、おもえばそういう意味があったかも。「武蔵」の価値が万国共通とはいっても、日本人のファイターの尊敬のしかたと比べたら、そりゃやっぱりちがうだろうし。


とはいえ、独歩は一流のファイターで、光成も経験豊かな観戦者なのだから、その会話も、無意味にみえてそれなりに読み取れるものがあるかもしれない。やはり気になるのは、最初の問いが「牙か刀か」だったことである。「ピクルか武蔵か」ではないのだ。牙も刀も、どちらもピクルに向けられるものだ。つまり、この一戦の最重要のポイントは、「ピクルに武蔵の刀がどれほど通用するのか」ということだということである。ただ、うえにも書いたけど、ピクルがティラノサウルスに勝利したのは、なにもその牙をはじく鋼鉄の皮膚があったからではない。たしかに、彼のからだには大きな噛み傷があり、それは、少なくともティラノサウルスが噛み付こうとしてピクルをアゴのなかにおさめ、それなりに力が加わった状態から、彼が生還したことを意味はする。けれどもピクルは、パワーなりスピードなり、野生なりの技術なり、あるいは少なくともティラノサウルスは上回る知能なりで、その危機を乗り越えたわけである。くりかえすように、牙をはじく、それを無効にするなんらかの要素があったわけではないのだ。

そして、それは実は武蔵も同様である。同じ言い方をすれば、武蔵が多くの達人たち、また吉岡一門などの集団のサムライに勝利できたのは、その攻撃を無効にする鋼鉄の皮膚があったからではない。それを乗り切る技術や知能や胆力があったからである。だとすれば、どちらにおいても、襲いかかる牙や刀の強さはそれほど重要ではないことになる。というか、端的に価値としては等しいといってもいいかもしれない。ピクルが刀のことを知らないぶん不利だ、というくらいのことしか、いえないわけである。

だから、問いとしては、実は、「どっちじゃとおもう・・・?」「なにがですか?」「ピクルの牙か、吉岡清十郎の、また佐々木小次郎の刀か・・・」という成立のしかたをしても問題はないはずなのである。しかるに、誰も(もちろん僕も)そういう発想はしない。なぜかというと、ピクルの強度をわたしたちは知っているからだ。ピクルが、からだの頑健さを武器にしてこれまでたたかってきたさまを知っているからだ。じっさいには、ただ耐えるだけでは、恐竜たちの爪や角や牙に対処することはできない。ジャック戦で見せた超スピードのステップは、巨大かつ強力な相手と立体的にたたかうためにピクルが編み出した「技術」であると、いまならいえる。だが、素手のバキたちとたたかうピクルは、まず回避という行動をとることがなかった。そして、ジャックの渾身のアッパーをまともに受けながらダメージゼロというその頑丈さが、現実的にもピクルの強さそのものといってもよかった。そういうことをわたしたちは知っているから、ピクルについて考えるとき、果たして刀は通用するのか、というような発想をしてしまうのである。くどいようだが、ピクルだってティラノサウルスの牙を皮膚のかたさと根性だけで乗り切ったわけではないだろう。にもかかわらず、わたしたちファン目線のものは、そういう思考法を採用してしまうのである。

ピクルも回避をすることはできる。したがって、重要なのは、ピクルが刀の強さを理解できるかということになる。ピクルが、武蔵の刀を、正しく、ティラノサウルスの牙なみの脅威と理解することができれば、ピクルにも勝機はある。ピクルが恐竜時代を生き抜いてきたほんとうの意味は、頑丈さや、体重差をものともしないパワーももちろんあるけど、そもそもは、一撃必殺である爪や牙を回避してきたにちがいない、ピクルなりの方法にあるのだ。あるいは、素手相手ではついに見せることがなかった、ステップ以外のなんらかの防御のテクニックなどを、ピクルは武蔵戦で見せることになるかもしれない。




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■『村上ラヂオ3 サラダ好きのライオン』村上春樹 新潮文庫




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「日々の暮らしの中で体験した愉快な話から、人生の深淵に触れる不思議なエピソードまで、小説家の頭の中の抽斗には、まだまだ話題がいっぱい! 「どうして寝る前に限ってネタを思いつくんでしょうね?」と悩みつつ、つぎつぎ繰り出されるユーモア溢れるエッセイ52編。大橋歩さんのおしゃれな銅版画も楽しい人気エッセイ・シリーズ第3弾。『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』改題」










相変わらず「1Q84より前の小説はすべて読んでいる(以後は読んでいない)」というきわめていびつな村上春樹読者なのだけど、こういうのは出るとすぐ買っちゃうな。アンアンで連載されていた短いエッセイの集まりです。挿絵は大橋歩のいつもの銅版画。村上春樹のエッセイでは村上朝日堂のころの安西水丸が僕も好きで、このひとの描く村上春樹は吹きだしちゃうくらいそっくりだったし、エッセイのリラックスした(かつほんの少しだけ理屈っぽい)文体にもぴったりだった。ほかには、エッセイではないが、「羊男のクリスマス」の挿絵を佐々木マキが描いたりしている。このひとの描く人物の、くちもとの気配が薄い、無口でひとのはなしを聴いていない感じがたまらなくてかわいくて、絵本もちょっと集めたりしたものだ。

当初はこの銅版画の質感のある雰囲気はどうなのだろうと感じていたのだけど、慣れてみるとこれがいいというふうにもおもえてくる。もちろん、安西水丸だってそれなりに時間をかけて仕事をするはずだけど、比べるとやはりかかっている労力というか、手間のちがいが伝わってくるのか、文章のある風景を切り取るにしても、伴う決断力が異なるようにおもえる。たぶんそこが、村上春樹のいかにもさらさらーという筆致と比べて、当初は異質におもえたのだろう。しかし、ドライポイントという方法らしいのだが、銅版をニードルで引っかき、それを紙にうつす長い時間を経ながら、彫刻ではないという意味で、それぞれの絵にはどこか「すき」があって、これは作家さんの個性なのか、それともリラックスした本書の印象をふまえたものなのか不明だが、それが、重厚でありながら決定的ではない、不思議な感触を生んでいる。創作の「手間」が、文章のある瞬間意図的に切り出した、という印象を強化しつつも、取り入る余白を残してもいるのである。


ひとつひとつのはなしは文学的に深い含みがあるわけでもなく(そうであっても批評家はそこから意味を掬い出すべきだが)、どのような層がこれを読むのかというと、やはり村上春樹がどういう小説家なのかを熟知しているファンだろう。この1冊ではじめて村上春樹を読んだというひとが、ここから小説にすすむという可能性もないではないが、するする読めるぶぶんに村上春樹の小説家としての文章の上手さを見出すことはできても、複雑に、緻密に構成された小説のあのパワーと同じものを孕んでいるとはいいがたいだろう。小説とは別に村上春樹は翻訳業もこなしているが、これについては、小説の筆を休めるというか、脳のつかいかたがちがう、というようなことをどこかに書いていた。エッセイもそうなんじゃないかとおもう。じぶんの小説について、または小説そのものについて、そして社会について、世界について、作家には問題意識というものが多かれ少なかれあるとおもうけど、エッセイはもっと日々の反射に近いところで書かれているからずっと軽く、みずからの感覚に誠実である村上春樹を見ていると、すなおに「じぶんのこんな人生も悪くないかな」と、ポジティブな気分になってくる。

おもに寝る前と、あとはブログを書く前に、ものを書くあたまにするためにちょっとずつ読んでいたのだが、短くておもしろいので、一気に2つ3つと読んでしまうから、いつものことだがこの手の本はすぐ読み終わってしまう。本書にもいちおう52編ものエッセイが収められているわけだが、この倍もあれば、もう少し手応えもあるんだろうけど・・・。でも、タイミング的にはそろそろ次の(1Q84くらいの)長編にとりかかってるころだろうしな。


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第404話/逃亡者くん⑯






のどかの東京行きをとりあえず思いとどまらせ、新城をやっつけていっしょに支援団体のところに行こうとするマサル。しかし仕事があるので、それが終わってから迎えにいくということになったのだった。聡子という客の紹介なのだが、それは実は戌亥なのである。戌亥は丑嶋に待ち合わせ場所を伝えてある。戌亥は、丑嶋がそこにいることを知らないはずだが、丑嶋はマサルを捕まえるつもりで柄崎とともにすでにコンテナの陰に待機している。


ここはどういう場所なんだろう、スーパーみたいなのがあるけど、港にも直結している。丑嶋たちは市場にも出かけていたし、海に接続した沖縄ならではの施設なのかもしれない。建物からは離れているが、マサルは車のなかにいる聡子を見つけ、その相手はどこにいるのかと訊ねる。相手はフェリー乗り場の待合室にいるということだが、聡子はゲームに夢中で案内してくれないっぽい。マサルは、黒いスーツの男だということと電話番号だけ聡子に聞いて、警戒しつつバイクを離れて待合室に向かう。それを、コンテナの陰から、丑嶋がおそろしい表情で見ている。


待合室には黒いスーツの男などいない。というか、人間じたいが全然いない。電話にも出ないし、聡子は無責任にトイレじゃないかとかいっている。紹介するというのになぜ聡子がいっしょにいないのか、だいたい黒いスーツの男が聡子に接触して闇金を紹介してもらうってのはなんかへんじゃないかとか、マサルがこの状況に気づくチャンスはあったとおもう。しかし、いまのマサルは焦っている。とっととこの仕事を片付けてのどかのもとに帰りたい。だから、ただ「その男が見つからない」ということが前景化して、苛立ちだけが募り、いつかの黒猫とか死神の落書きとかのように、身体が発するアラームに気を廻すことができないのだ。

マサルが待合室をうろうろしているあいだに、戌亥は宣言通りGPSをバイクにとりつける。わざわざ足を運んで、時間も決めてあるのにすぐ見つかるところにいないのは相手が悪い。マサルはがまんできず、金は貸さないと伝えておけと聡子に電話でいいつつ、その場を去ろうとする。それを、「新規の客を逃すんじゃねーよ」と呼び止めるものがいる。すぐそばまで迫っていた丑嶋と柄崎が襲いかかってきたのだ。丑嶋がすばやくマサルを後ろ手にしばり、柄崎がカバンをマサルの顔にかぶせる。視界を奪われる直前、マサルはじぶんをしばっているのが丑嶋であり、少し離れたところには戌亥もいることを発見する。マサルが戌亥のことを知っているのかどうかいままでずっと微妙だったが、ふつうに知ってたか。変装もしないでうろうそ那覇を歩き回っていたのはけっこう危なっかしい行動だったんだな。


いくらせっぱつまったマサルでも、この配役を見れば状況は一目瞭然だろう。おそらくすべてを理解したマサルは、しかし丑嶋に2時間だけ時間をくれと叫ぶ。やらないといけないことがある、逃げないから待ってくれと。

しかし丑嶋もそんなにヒマではないし優しくもない。誰もいない広場を連行されるマサルは、車の後ろにそのまま詰め込まれてしまうのだった。




つづく。





ついにマサルが捕まってしまった。マサルも、警戒はしていても、じっさいに丑嶋が沖縄にきているという確信があったわけではなかったろうから、すごくびっくりしたろうな。でもこれで、息をひそめるように停滞していた物語が動き出すぞ。


戌亥はやはりマサルのバイクにGPSをつけていた。戌亥の認識としては、マサルを呼び出し、そのバイクにどうにかそれをつけることで、職場や家を割り出すことができる、ということだけだったはずである。丑嶋が連絡を受けたその足で市場に向かうとは、少なくとも聴いてはいない。だいたい、家や職場を割り出すことの目的がなにかというと、マサルをつかまえるためなわけのはずだ。もしここでマサルを100パーセントつかまえることができる確信があるとしたら、それは不要になる。

とはいえ、戌亥の連絡を受けて丑嶋がすぐ市場に向かうことは、想像の範囲内ともいえるかもしれない。万が一マサルが逃げ出してしまったとき、GPSがついていればすぐにまた見つけ出すことができる。もしそういう意味でそれをしようとするなら、本来なら丑嶋と連携し、丑嶋が姿を見せる前に装着しておかなければならないが、そのあたりは以心伝心というか、「丑嶋ならこうするだろうから、じぶんは早めにGPSをつけよう」というふうに戌亥は考えたのかもしれない。

また、これらの仮説はそもそもGPS装着の目的がマサルの捕獲にあるという前提によっている。だとしたら、そうではないのかもしれない。つまり、マサル捕獲は丑嶋のほうで勝手にやって、戌亥はほかに目的があってマサルの職場を割り出そうとしているのかもしれない。たとえば、マサルの自宅には例の加納の金がある。ただ、そのためには誰かにそのバイクに乗って帰宅してもらわなければいけない。新城のところは、従業員が出かけるときどこに行くか、ホワイトボードに書いたりしているだろうか。危険な仕事ではあるので、している可能性はある。もしそれがなかったら、新城のほうでマサルの行き先を知ることはできない。マサルと連絡がとれなくなった聡子が事務所に出向いてきて、最後に会ったのが彼女であることが判明するまで、バイクはずっと放置されているだろう。


というわけで戌亥の行動は謎なままだが、なにはともあれマサルはつかまってしまった。車のナンバープレートには666という数字が見える。ウシジマ感想を書いたらスピリッツはすぐ捨ててしまうので確認ができないし、すべてがうろ覚えなのだが、丑嶋たちは車をどうしていたのだったろう。魚の目を見ている丑嶋に柄崎が「車に戻ろう」と呼びかけたり、「あと1時間」とかやってたのは覚えがあるのだが、冷静に考えるとこの車はなんなんだろうな。沖縄ナンバーだけど、彼らを隠れ家に送っていった新城らしき男が車も貸してくれたのだろうか。隠れているわけだから、うろうろ出歩くようなことはないはずだが、買い物とかしようとしたら車も必要かもしれない。

666はよく悪魔の数字などといわれるが、その出自はというと、よくわからないので、ググッてみた。元ネタはヨハネの黙示録で、この世の終末に異形の獣が海から上がってきて、世界を支配するが、そのときに人間たちに施す刻印が「666」だというのである。(参照 )

獣は、すべての人類の右手か額に刻印をし、それがなければ物を買うことも売ることもできないようにした。そして、ここから謎かけがはじまり、それを解けというふうに語られる。一般には、キリスト教徒を弾圧したネロをさしていると解釈されているようだ。なんでも、ネロのギリシア語表記をヘブライ文字に置き換え、それを数値化したものの和が666になるというのである。ヨハネの黙示録には、それは人間をさしており、それは名前であると同時に数字である、というふうに書かれているから、ネロ説を踏まえるとたしかにここは、「この数字は、なにか物や事象ではなくある個人をあらわしたものであり、その名を数字に置き換えたものである」というふうに読めるのである。

それが悪魔の数字であるのは、ネロがキリスト教徒にとって悪魔的存在であり、それがみずからの認めたものでなければ通常の生活を送れないような支配のしかたをしたことが、海の底からやってきた悪魔の所業を連想させるからだ。つまり、666の刻印が示すことは、それの記されたものはキリスト教徒ではないということなのである。キリスト教徒でない以上、そのものは迫害される理由もないので、ふつうにものの売り買いができ、社会生活を営むことができる。

キリスト教者が社会に多く存在し、そうでないものとの対立が現実的にあって、生活に影響を与えるようなことがある社会では、この刻印は大きな意味をもつだろう。ひとことでいえば、ネロは、キリスト教徒でないものに「ネロ」という名札をつけて通常の生活を許可し、キリスト教徒にはそれをせず、したがって生活を認めない、という方法をとったわけである。いまの日本には宗教的対立というものはないし、水面下であったとしても、じっさいの生活に影響を与えるようなものではないはずだ。したがってここにおける「666」という名札は別の意味をもつ。ある条件について、人類をふたつのグループにわけ、ある種の特権が付与されるものに、666の数字がふられるのだ。

なにかヒントになるものはないだろうかと、ごそごそスピリッツをめくっていたら、闇金ウシジマくんの新刊である37巻の宣伝文句である「楽園喪失」ということばが目に入ってきた。これを、エデンの園から追われるアダムとイブのはなしとして読んでみるとどうなるだろう。資料によって異なるのだが、複合的にみると、神はまず、「われわれの像(かたち)」に似せて土をつかって人間を創造した(だから死んだら土に還る)。まず男がつくられたが、ひとりはかわいそうなので、彼の肋骨から今度は女をつくった。無垢な幼児のようなふたりは、互いに裸であることを恥じることなく、神のもうけた楽園で自然を享受してぬくぬくと生活していた。しかしそこに蛇があらわれ、神がこれだけは唯一食べてはいけないとしていた善悪の智恵の樹を食べるようそそのかす。そうして、タブーをおかしたふたりは神から楽園を追われることになる。これがいわゆる「失楽園」である。善悪の実を食べるまで、ふたりは善も悪もなかった。快も不快も、たぶん男と女もなかっただろう。要するに世界を分節する術をもたなかったのである。フロイトでは、乳児における最初の衝撃的な世界の分節は、母親の乳房の不在である。友人のロマン・ロランの表現を借りて、それは大洋的と形容されるが、乳児にとって世界は、ちょうどアダムとイブのように、すべてが溶け合ってじしんの身体感覚と連動している海のようなものである。ところが、母親がいない、いたとしても乳房が出せない等の状況によって、おっぱいがほしいのに手に入らない、という不如意を乳児は経験する。このとき、乳児にとって「思い通りにいくもの」と「思い通りにいかないもの」がはじめて分離する。僕の理解では、これが人間の最初の「他者」の獲得である。「他者」とは、「思い通りにならないもの」のことなのである。

善悪の実を食べたといっても、アダムとイブが獲得したのはただの二元論ではない。溶け合って身体感覚と一体化していた「世界」が、はじめて分節されることを知ったことが重要なのだ。だから、その以前までは、アダムにとってのイブ、イブにとってのアダムも、おそらく認識としてはちがいがなかった。わたしたちにとって思い通りに動く手や足が決して他人のものとはおもわれないように、彼らは相手をじぶんの一部としてとらえていたはずである。しかし、乳児にとっての乳房の不在と同じ衝撃としての善悪の実を食べることで、彼らは世界を分節することそれじたいを知り、同時に他者を獲得する。すぐに彼らは裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉で前を隠すことになる。彼らの周囲の世界に、他人の目線が加わったからだ。

そうして、ひとは、乳児の段階から、客観にまでいたるような世界の分節を獲得した。実はそこには生命の樹というものもあって、それを食べると永遠の命を手に入れることができる。そうなると、彼らは神の立場さえおびやかすかもしれない。そう考えて、神はあわてて彼らを追い出したわけである。

彼らをそそのかした蛇だが、これの正体は少なくとも創世記を読むかぎりでは不明で、一般には悪魔の化身とされているようである。ぜんぜん資料が別なので、ほんらいであれば比較にならないものかもしれないが、蛇と666を関連させて考えるとどうなるだろう。蛇は、人間に智恵を与える禁断の実を食べさせることで、過不足なく暮らすことのできる楽園を奪った。ネロは、名札による通常の生活を約束したかわりに、キリスト教徒である自由を奪った。つまり、悪魔のお墨付きということを示す666の刻印をもつものは、善悪を判断する智恵と通常の生活が約束されているものであり、それをもたぬものは、少なくとも獣のようなものが支配する世界では、エデン以外で住まう場所をもたないのである。しかし、ここでいう「通常の生活」がなんなのかというと、それは物を売ったり買ったりすることである。エデンでは自給自足、実る果実を食べるだけで、貨幣も、物々交換もなかった。問題は“どちらが優れているか”というようなことではないのである。通常、わたしたちは、智恵に優れることをよしとするので、この挿話に戸惑うことになる。蛇は、悪魔のはずなのに、人間に思考するちからを授けてくれたわけである。それでエデンから追われはしたが、しかし大洋的に溶け合った乳児の世界はほんとうにそんなにすばらしいものなのかと、多くのひとは考えてしまうかもしれない。しかしこれを信仰という観点から考えると、よくいわれるユダヤ人的売買の価値観とキリスト教的価値観のどちらが優れているかとは、通常いえないはずである。

666の刻印が分けるものは、両者に売買を認めるかどうかということである。そして、そうすることによって刻印されたものに特権を与えるからには、売買それじたいにも大きな価値が認められているにちがいない。「売り買いなんかできなくたって、おれはひとりで生きていくから問題ないよ」というひとが大多数の世界では、666の刻印も効力を発揮しない。したがって、666の刻印は、人類がエデンを追放されたあとでなければ意味がない。

悪魔は、まずひとに智恵を与え、ものの道理をわきまえさせることで、貨幣を流通させた。そうすることで、売買なしでは生活ができないように、人間の行動原則を限定したのである。なるほど、そう考えると、少年漫画的支配形態としては、理にかなっていたのかもしれない。人間がずっとエデンのなかにいるような乳児のままでは、支配できない。ある程度価値観を抱えてもらわないと、刻印をしてもなんの意味もないのだ。


さて、くどくどとまた長くなってしまって申し訳ないが、マサルはのどかに楽園を見出しているといえるだろうか。こじつければ、マサルはたしかにのどかを他人事とはおもっていない。のどかの痛みをじぶんのもののように受け取り、苦しんでいる。だから、新城の件について、まるで父親のような語り口でいろいろと指示を出す。のどかの意見を聞くこともほとんどない。それは、のどかをじぶんの身体のいちぶのように感じているからなのだ。

丑嶋には666の刻印がほどこされている。沖縄におけるキリスト教徒的な存在と差別化され、特権を宿すのが、この刻印である。それはなにかというと、ここまで考えておいてうまくつながらなかったのだが、要は東京流である。互いに助け合わないことのみを約束事とした、東京での人間関係である。これが特権となるのは、ここが沖縄だからである。東京で東京流を通しても、特権とはならない。キリスト教徒がひとりもいない地区でキリスト教徒ではないことを示す刻印がなんの意味ももたないのと同様である。そして、ローマにおける売買がそうであるように、沖縄でも東京流がちからをもっていることは、新城が示している。長期的にみればゆいまーるは民族を持続させるという点で強いが、しかし個別の局面では、沖縄流は東京流に勝てない。助け合って生きる弱者より、そこに土足で踏み込む一時的強者のほうが、その場では強いのである。

そう考えてみるとどうだろう、楽園からマサルを追放するのは、智恵を与えた悪魔だ。だとするとこの後、丑嶋はマサルになんらかの選択を迫るかもしれない。このまま死ぬか、あるいは、そうすることによって楽園を永久に追放されるような、つまり二度とのどかに会えなくなるような、しかし生きることのできる、悪魔的選択だ。そしてもちろん、悪魔はそれを「マサルのため」にするのではないのだ。とはいえ、丑嶋の表情はそれなりに感情的であり、アクロバティックな展開はなさそうな気もする。人気のないところにいって彼らがなにを話すか、それ次第かもしれない。






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MUSICAL


『こうもり』
…こうもり博士の愉快な復讐劇…
-ヨハン・シュトラウス二世 オペレッタ「こうもり」より-
脚本・演出/谷 正純

“ワルツ王”と呼ばれる、ヨハン・シュトラウス二世の傑作オペレッタ「こうもり」。名曲の数々で彩られ、今なお世界中の人々に愛される作品が、北翔海莉を中心とした星組メンバーにより新たに飛びっ切り愉快なミュージカルとして甦ります。
19世紀後半のウィーン。ファルケ博士は、親友のアイゼンシュタイン侯爵と共にエリザベート皇后主催の仮装舞踏会に出席。その帰り道、調子に乗って泥酔したファルケは、彼を持て余したアイゼンシュタインによって大通りに縛り付けられ、そのまま一夜を過ごすこととなる。“こうもり”の扮装のまま朝を迎えたファルケは、街中の笑いものとなり、“こうもり博士”の渾名を頂戴する羽目に。自業自得とは云え怒りが収まらないファルケは、アイゼンシュタインに対する愉快な仕返しを考えた。個性的な登場人物が織りなす、虚々実々の駆け引きをお楽しみ下さい。

ショー・スペクタキュラー 『THE ENTERTAINER!』
作・演出/野口 幸作
「究極のエンターテイナー」北翔海莉率いる星組の魅力を余すところなく見せる、華麗多彩なショー作品。
日常を忘れさせ、観客に最高の感動を与える者「ENTERTAINER」をテーマに、ジャズ・クラシック・ポップスなど様々な名曲を現代的にアレンジし、心躍る場面の数々で構成した新時代のエンターテインメント・ショーをお届け致します。
なお、この作品は野口幸作の宝塚大劇場デビュー作であり、宝塚大劇場公演では第102期生が初舞台を踏みます。




以上公式サイト より






星組東京公演『こうもり/THE ENTERTAINER!』観劇。6月17日13時半開演。


LOVE&DREAMの記憶も新しい北翔海莉率いる星組の本公演を観てきた。今年はこれに加えて宙組のシェイクスピアと、真風さんのヴァンパイア・サクセションを見ているわけだが、これはちょっと前までは考えられなかったことである。というのは、僕らの観劇は基本花・月・雪が基本で、星と宙は、金銭的な問題もあるし、よほどの場合でなければ我慢するのがふつうだったのである。それが、今年ももう半分をすぎるというのに、逆転しているわけである。それについてはまあ、ふつうに公演の順序がそうであるということと、雪組るろうに剣心を見にいけなかったというのがあるわけだが。


しかしじっさいのところ、前星組トップのグレート柚希の実力と魅力を認めつつも、好みというものは当然あるわけで、タイミングの問題ばかりでなく、この北翔海莉と妃海風のコンビがもたらしているものは大きいわけである。うたのうまいひとというのは探せばそれはいるけれども、しかもコンビでここまでのレベルでうまいというのは控えめにいってもごくまれといってよく、生で生きている人間が目の前でうたい、そして踊るという宝塚の当たり前の演目披露の仕組みをこれほど得がたいものと感じたのは非常に久しぶりのことなのであった。ディズニーと宝塚の名曲を星組メンバーがうたいまくるただそれだけといってもいい例のラブ&ドリームも、観劇時の感動はそのままに、購入したDVDをくりかえし見ていまでもそれを反復している。また、個人的な直感としてはやはり柚希礼音の影響はいまでも太く組に残っており、群舞ひとつとっても基礎体力がケタちがいで、いやないいかたになるがその枠に稀有のうたいてであるふたりがカチリとはまった計算になり、こんなとんでもないことが可能になっているのだと、今日の公演を見てもつくづく感じた。柚希礼音もまたエンターテイナーとしてのみずからのふるまいを自認しており、演目からもそれは強く感じられたが、たほうで北翔海莉もたいへんなエンターテイナーで、それでいて両者のもっている華の種類がぜんぜん別のものであるということもおもしろい。柚希礼音については、語れるほど芝居を見ていないので、あくまでイメージにとどまるわけだが、少なくとも北翔海莉は、宝塚のトップスターの典型としての「生活感の欠如」からかなり遠い人物である。「すみれコード」というのは、具体的には芝居などで直接的な性の描写などを避けることを指すが、原理的には、このタカラジェンヌの生活感のありかたについての構造のことだ。これらは『宝塚・やおい、愛の読み替え』という本の受け売り、乃至援用なのだが、タカラジェンヌ独特の、「そこにいないのにリアリティがある」フェアリー的ありかたを成り立たせるのが、愛称と本名の間にある溝であって、これをわかつのがすみれコードなのである。タカラジェンヌにおいて私生活におけるたとえば彼氏とか、それにまつわる具体的な気配が欠けているのは、それが本名の領域に封印されているからだ。しかしそれでいて彼女たちが身近にも感じられるのは、芸名の前に愛称という「虚構の素の姿」があるからである。

しかし、北翔海莉の「生活感」はただごとではない。もちろんすみれコードは相変わらず北翔海莉の知覚にも厳然と存在するし、このひとの本名の領域が開示されているわけではないのだが、皮膚的に、わたしたちはほかのスターではありえないような距離の近さを感じ取るのである。これはもちろん、錯覚である。それは、「みっちゃん」と呼ばれ、また名乗るときの北翔海莉が作り出している方法的な、タカラジェンヌとしての生活感でしかない。ではどうしてこういう感覚が生じてくるのかというと、それはむしろ、愛称と本名の関係性ではなく、愛称と芸名の関係性によるものなのである。つまり、ふつう宝塚ファンは、各種メディアを通して愛称のタカラジェンヌに接することで彼女たちの「虚構の生身」を感じ取り、芝居を含めて立体的に受け取っていくわけだが、たとえば舞台をおりて、ナウオンステージと呼ばれる、演目について出演者と語り合う番組などをとるにあたって、ややリラックスして芸名の衣装を取り払い、愛称のじぶんとしてそれを語る、というような段取りを、たぶんこのひとはとらないのだ。格闘家でいえばいつでも臨戦体勢でいる武道家タイプとでもいえばいいだろうか。うたの技術ひとつとっても、たんにスキルとしてあとからとりつけるだけではなく、ソウルフルに肉体と直結しているので、そのような段階を踏む必要がないのである。

それはあのフリースタイルのチャンピオンも顔負けの、無限に出てくるアドリブのアイデアなんかとも関係しているだろう。もちろんこのひともふつうに舞台人なので、次の役柄に関係することをその場その場で勉強したり修得したりしていくのだが、基本的には、ボクサーがボクシングのルール内におけるたたかいかたを修得するのとはまた別に、いつどんなときに危険が襲ってきてもいいような訓練のしかたをする武道家のように、肉体にじっさいに生きている広い知識と経験がもたらすものこそが役柄にリアリティをもたらすという直観が、おそらくあるのである。トラックの免許をとったりとか、なんのためにそんなことをするのか、というようなことをこのひとはよくやっているらしいが、それもこれも、小学生が必要不必要にかかわらずさまざまな基本的知識をいろいろな角度からつめこまれ、それがわたしたちをふつうの人間、いっぱしのオトナにするように、愛称と芸名の距離をかぎりなく近づけるための心構えのあらわれなのである。これはそれが役者として正解であるとかそんなはなしではなくて、たぶんタイプの問題だろう。


「こうもり」はそんな北翔海莉ありきといってもいい作品で、よく知らないが、古いオペレッタということで、冒頭からどことなくその笑いのセンスに古臭さが感じられても、なれてくるとそれが標準になってくるのはいつものことだ。しかし、どこからどこまでがアドリブなのかほとんどわからないといってもいいような本作の器の大きさは、このひとじしんの器の大きさが伴っていなければとても不可能であったろう。もちろんそれだけではなく、本作の成立には星組そのものの基礎体力の高さもかかわっている。とりわけ紅ゆずるは、主演以上に本作に必要不可欠な人間だった。北翔海莉があんなべらべらアドリブかまして余裕で打ち返せるのって、現状、全タカラジェンヌ見回しても紅さんしかいない気がする。個人的には、学年も学年だし、もう少し正統的な役をやらせてもいいんじゃないかというおもいはあって、はじまってすぐ「またこういう感じの三枚目か・・・」という感じでちょっとがっかりしたんだけど、現実的にいって紅さんがやらないで誰がやるのかってはなしなわけですよね。そして、その紅さんをはじめとして、星組全体が、北翔海莉のソウルフルなムチャ振りにしっかりついていっている感じがあったのが驚異的で、あんなカリスマのあとでやりづらいぶぶんもあったろうに、新トップも星組メンバーもしっかり仕事をこなしているさまが感動的だったわけです。


それから妃海風がかわいくて・・・。「どうせ娘役でしょ」といわれるのがこわくて、特に娘役についての好みを語るときは、例の抑圧が生じてくるのだけど、しかしかわいいのだからしかたない。なにしろそのうたごえの美しさよ・・・。主演に負けず劣らず、こうもりでは信じられないくらいレベルの高い歌唱を見せていたが、なんでも初日まで出ない音があったそうで(原曲のキーでやってるのだそうだ)、あんなにうたのうまい妃海風でも出ない音があって、しかもそれを初日に間に合わせたということがもう素人の僕には複雑に驚愕なわけだが、なによりそこまで高い声がまったく耳障りでないということが信じられないのである。もとの声がマイルドなせいなのかな・・・。デュエットのときなど、うたもダンスも息がぴったりで、非常にあたまがよく、男役をたてるしぐさといい、華奢だが鍛え抜かれた身体といい、男役主導のこの世界における娘役の鑑といってもいいような、北翔海莉にとってもたいへん重要な存在にちがいないのである。


こうもりは、ああいう作品だったので、作品の分析とかではないかなというふうにおもう。うえの文脈でいえば、なにしろ愛称と芸名の近さを表出するための高度さな作品といってもよくて、上演が成立しているということじたいがもう成果なのである。ショーの「THE ENTERTAINER!」は大劇場公演デビューの野口幸作という若い先生の作品で、これもまた北翔海莉の存在を最初から意識した複製のできない作品である。とにかくトップが出ずっぱりで、ワンマンな感じもないではないが、それだけのバイタリティが北翔海莉にはあるし、うるさい感じは特にしない。これはこれでいいのではないかとおもう。


そういうわけで、熱く語らずにはいられないトップコンビに出会えて幸福感でいっぱいではあるのだが、ふたりはともに退団を発表している。トップになった以上、いつかは退団するのは自然なことである。しかし僕のようなライトなファンは、けっきょく深く下級生などを追うことがないので、トップになってはじめてその魅力を知り、そのときにはもう退団が決まっている、というようなことになりがちなのである。残念だが、せっかく好きになったので、最後までしっかり応援していきたい。






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第113話/絶好調(ベストコンディション)






ピクルは刀の切れ味を知らない。似たような攻撃をしてくる恐竜はいたし、彼らの牙や爪も強力だが、質の点で刀とは異なる。また、「宮本武蔵」ということの価値も知らない。武蔵としては、それがイメージ刀の通用しない原因であるという結論になった。だから実物の愛刀、金重を取り寄せた。じっさいに斬って、わからせるほかないと。この「わかる」にかんしては、ピクルの首を飛ばしている絵が描かれていた。もしそれでピクルが刀についてのすべてを理解したとしても、それをその後の生に生かすことはできない。つまり、武蔵としては、からだのどこかを斬って、ピクルを仰天させ、しかるのちにイメージ刀も成功させる、という流れが想定されていない。わからせるということは、生きていようが死んでいようが、ただ斬るということなのである。


そのピクルは闘技場にもどっていた。そもそもあの武蔵とのたたかいの現場でどうやってピクルを落ち着かせ、ここまで連れてきたのか不明なのだが、あるいはピクルとしても、あまりにこれまでのたたかいと勝手がちがうので、混乱していたぶぶんがあり、たたかいをやめたらしい武蔵のふるまいを見て、ピクルのほうでも戦闘モードを解除したのかもしれない。

ピクルは、この闘技場にいれば「おもしろいこと」が起きることを知っている。待っていれば、烈や、克巳や、ジャックや、バキみたいな、すばらしいファイトを行う連中がやってくる。つまり、よくわからない攻撃で翻弄されはしたが、まだ武蔵とのたたかいについて彼はあきらめていないし、どうしていいのかわからないから、とりあえずこの場で待っているのである。

それはいいのだが、しかしピクルはなぜか用意されたティラノサウルスの肉にくちをつけない。闘技場にはバキと光成が様子を見に来ている。あんな巨大なワニをパクパク食べるような男であるが4日もなにも食べていないので、すでにげっそりし始めている。

バキはなにかを察したのだろうか。柵を飛び越えて歩み寄っていく。光成が緊張の面持ちで見守っているが、べつに喧嘩をふっかけにいったわけではない。ふたりはもういやというほどやりあっている。

歩み寄るバキをピクルが不思議そうに見ている。ピクルの人間についての個体認識って、顔なのだろうか。顔のつくりでそれをするのはけっこう高度な脳の使い方だとも聞く。彼の場合は野生だから、においとかもあるかもしれないが、やはりファイトスタイルとかもあるかもしれない。たたかってみたらきっとすぐに、あのときのあいつだとわかることだろう。

ともあれ、ピクルはバキの「久しぶり」という言葉を聞いてなにかを感じて、小さく笑みも浮かべた。そして、体育座りのような体勢をほどいて、あぐらをかく。体育座りはみずからのからだをみずからの手でしばるという形で、子供たちに手遊びをさせないという目的で考案されたようだが、そういう意味でいえば、内にこもって緊張している状態から、リラックスした体勢に移ったとみてもいいだろう。ふたりのあいだにはベルばらとかの花の表現ばりにパァァっとしたなごやかな空気が流れる。子供みたいなピクルが好きな僕としてはうれしい描写だし、じっさい、「強い相手=親友=食事」の世界で、涙なしにはものを食べれなかった孤独なピクルにはかつてなかったタイプの人間関係だろう。拳や牙を交わした親友が、「久しぶり」と声をかけてくるという状況が、これまでは原理的にありえなかったのである。その意味ではピクルの野生は損なわれてしまったのかもしれないが、別に損なわれてもいいや。


バキと光成が東京ドームの外を歩いている。光成は、ふたりがなにを話していたのか聞きたいようだ。もちろん、ピクルは言葉をもたないので、話すことはできない。だが、本気出してたたかったものどうしにしかわからないなにかがあるようで、バキはピクルと向き合うことでなにかを受け取ったようだ。ピクルが武蔵を餌と認めたというはなしである。ふたりの空想のなかで、ジャック戦のときのように、ピクルが武蔵の顔面にかぶりついている。光成は動揺して、本気でそんなことができるとおもっているのかと、よくわからない問いをする。素手でもどうしようもなかった武蔵を食う状況にまでもっていけるとおもうのか、という意味にとれるが、光成の動揺はおそらく、くわれる武蔵をリアルに想像してしまったからだろう。それをいったら烈だって克巳だってそうなんだけど、それ以上に、武蔵を食っていいはずがない。

さらにいえば、ピクルは4日なにも食べずに衰弱している。光成としては武蔵がまけるはずないとおもいつつも、少しは不安がある。だからそうしてじぶんに言い聞かせている雰囲気だ。対してバキの反論は、いまのピクルは「食えない」のではなく、みずから選んで「食わない」でいるのだというものである。そこで、「拳刃」で描かれた、無人島での虎との決戦における独歩の格言が引かれる。




「飢えこそが


野生における


絶好調(ベストコンディション)なんだよ」




ピクルは生きるために食事をしたいと考えて、狩りをするわけではない。おいしいもの、つまりご馳走が食べたい。そしてここでいうおいしさとは、味覚が規定するものではない。強い相手、食事にするのなど到底不可能におもえる相手、それこそがご馳走なのだ。そして、それに備えて、野性は空腹を選択している。それこそがベストコンディションをもたらすということを知っているからである。


ピクルは武蔵の奇抜な攻撃に翻弄されてなにもできなかった。しかしそれをいえば、武蔵のほうでもなんのダメージも与えられてはいない。たしかに刀を取り戻した武蔵は、そりゃー強いだろう。けれども、と、バキは考える。たとえば、ピクルがたたかい、そのアゴから生還したTレックス、彼らの牙が、刀以下なんてことがあるだろうかと。




つづく。




ピクルはバキを相手に「ひとによって解釈がわかれる」ところまで勝負をもっていった勇次郎以外でただひとりの人間である。ごくたんじゅんにいって、範馬と本部以外で武蔵に匹敵する実力をもっている可能性のある、数少ない人物なのだ。こういう解釈があるのは自然なことなのだけど、それが作中、しかもバキのくちから語られたことはたんじゅんにうれしい。武蔵の斬撃はそりゃすごいわけだけど、比べるための尺度がないとはいえ、ピクルはTレックスとかとたたかってきたわけで、一方的にまけるわけがないのよね。


さまざまなたたかいを経てピクルも変わっていったので、いまではどうなのかよくわからないのだが(げんにじぶんからワニを襲っていたようだし)、ピクルは基本的にたたかって勝った相手しか食べない。で、死力を尽くしてたたかった相手は、拳で生きるピクルからすればじぶんのすべてをわかちあった親友にほかならない。が、ピクルとその野生が属するコードが、それを食すことを求める、だから涙する。ピクルとたたかったものはバキ以外みんなからだのどこかを失うことになったし、それが彼とたたかうということにおける大きなリスクだった。しかし、バキがそうすることに成功したように、勝たないまでも戦意を喪失させることができれば、どちらも最悪死ぬか、からだのどこかを失うか、というようなことにはならなくて済む。しかし刀をもった武蔵が相手となるとそうもいかない。武蔵の勝利は、イコールピクルの首を飛ばしたときであり、ピクルの勝利は、彼がおもうさま武蔵の顔面にかぶりついたときである。つまり、必ずどちらかが死ぬか、よくて再起不能になるのである。武蔵もピクルもふつうに社会生活を行っている人間ではないわけで、このまま遭遇しなければたたかわなくても済むわけだし、特に光成はもういちどよく考えてことの重大さを認識したほうがいいのではないかな。この前のガイアなんかは、あるいは本部の指示かもしれないが、そういうことを踏まえて暗に武蔵を止めようとしたし、バキもいちおうピクルにコミットしてその意志を確認したりしたわけだけど、光成は唯々諾々とたたかいにふさわしい状況を用意しているだけだよね。武蔵がピクルに食われるという状況に想像が及んでいなかったのだとしたら相当だし、知っててやってるのだとしたらそれはピクルの首が斬られることを「しかたない」と受け入れていることにもなる。たのむよ。


しかし常識的に考えて、そういう展開はちょっとありそうもない。いや、烈がじっさいに死んでしまったいま、「常識」なんてなんの意味もないかもしれないが、しかしピクルは子供みたいなものだから余計ショックが大きい。ここはやはり本部が割り込んでくるものとおもわれる。正体不明の無刀を、バキ戦か、あるいは再戦があるとしたら勇次郎にとっておくとしたら、その前段階である金重装備状態が本部にはもっともふさわしいと考えられる。あんまり抽象的な攻撃をしても、具体物のなかで知識とともに生きる本部にはなんの効果もないだろう。道具をもった最高の状態の武蔵こそが、ここまであおったあとでは、本部の相手としてふさわしいとおもえるのである(勝てるかどうかは別として)


ピクルの認識としては、武蔵を食べることはこのうえないご馳走になるはずで、その味付けのためにも、またベストコンディションにするためにも、空腹が適当である、ということのようだ。武蔵によればピクルは刀を理解していない。だから、イメージ刀がうまく伝わらない。だが、まったくなにも感じないわけではない。武蔵の攻撃にピクルはディノニクスの爪を連想していたし、少なくともそれと同程度の衝撃を、彼のからだは感じていたはずである。だが出血はない。ここに、ピクルが不気味さを感じた可能性はある。バキや、倒しても倒してももどってくるジャックに感じた、未知のものへの恐怖である。が、同時に彼らはピクルにそれを克服する精神的強さも授けてしまっている。よくわからない攻撃をしてくるが、もしこれを乗り越えるとしたら、もっと調子のよいときでなければならないと、あるいは現代文明の思考法に感化されたピクルが感じ取った可能性もある。ピクルはワニを食べているところを眠らされたので、あのときおなかがいっぱいだった。ひょっとするとそのことが、彼の拳の握りを甘くし、いつもの超スピードのステップを阻んでいたかもしれない。空腹になることで、野生の身体はなんとしても目の前の敵を倒さなければという状態になり、すべての能力をさらにアップさせるだろう。ピクルがおとなしくあの場から引き下がったのは、そういう直感があったからかもしれないのだ。

そういえば、いま気づいたんだけど、下水暮らしでひどく汚れていたピクルが今回はきれいになっていた。ペイン博士以外にピクルをうまくあつかえるものがひょっとして闘技場の小坊主のなかにいるのではないか・・・?






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