すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10426281677.html

・考察‐価値観は人それぞれという価値観

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10159270907.html

・考察‐共有と共感、その発端

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html

・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10422484912.html

・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10855081068.html

・映画評‐『キャリー』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10202697077.html

・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10372611010.html

・アニメ批評-侵略!イカ娘

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10803805089.html









バキ感想最新・刃牙道

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10079104494.html

 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10036290965.html

 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10016899943.html

 ・ピクル対範馬刃牙編

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10010553996.html

  



ウシジマ感想最新

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10099471132.html

 ・逃亡者くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10094429374.html


 ・ヤクザくん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10085446424.html

 ・復讐くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10084090217.html

 ・フリーエージェントくん

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10074769118.html

 ・中年会社員くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10071550162.html

 ・洗脳くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10056764945.html

    

    



※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第423話/ウシジマくん⑨

 

 

 

 

 

 

 

丑嶋から借金をしている菊地千代という女の息子・辰也には姉がいる。家出をしていていっしょに住んではいないのだが、きょうだいの中はいまもよい。貧乏という理由でクラスメートからいじめを受けている辰也は、切り取られた制服を縫ってもらおうとその姉の文香(ふみか)を呼び出す。辰也は髪の毛もへんなふうに切られてしまっていたので、文香はそれもきれいに直してあげる。

 

 

文香が家出したのは母親とその彼氏が原因である。辰也も、いじめの原因にかんしては貧乏であることがかなり大きく、貧乏であることの原因はかなりのぶぶん母にある。少なくとも、彼氏にせがまれて闇金で借金をするというようなことがなければ、いまよりいくぶんマシだったはずであり、辰也のいじめに対する態度もまたちがったものになっていただろう。

あの様子だとデリカシーも皆無だし、思春期の文香には耐え難いものがあっただろう。だが、家出していまなにをしているのか、どこにいるのかというのは辰也にも教えていない。聞くなともいう。なにしろ母親と男に知られたくないのだ。文香はミシンがないので手縫いするらしく、辰也の制服をもって去っていく。そして、姉の行方が気になる辰也はそのあとをつける。内緒で尾行するというやましさもあるし、姉がいったいなにをしているのか、知りたいような知りたくないようなという葛藤もあって、辰也はぶるぶる震えている。

 

 

文香が入っていった部屋には多栄子という金髪の女がいる。10万の部屋をルームシェアして住まわせてもらっているのだ。といってもシェア代は7万で、家出して帰るところのない文香は足元を見られているようだ。悪いひとではないのだけど、文香としては早く出て行きたい。たしかに7万も払うんなら小さい部屋を借りたほうがよさそうだけど、文香はまだ17歳のようなので、親に連帯保証人になってもらったりしなければならないだろうし、何か別の方法をとらない限りは、親と会いたくない文香にはなにもできないだろう。

多栄子はあまり仕事にやる気を見せておらず、今日も生理休暇をとったという。文香は笑っているが、それって文香が余計に部屋代払ってるからじゃ・・・。

多栄子はシェア代の7万を請求され、それを店にきている木崎に払ってくれという。木崎というのは柄崎のことである。そして彼女たちの仕事とは、デリヘルである。

文香は美人だし、サバをよむまでもなくじっさい若いので、人気がある。店長的なひとの態度もいい。そして事務所でエラそうにふんぞりかえっている柄崎もそれをほめる。

尾行を続けている辰也は店にも入っていく。そして、女の子の写真のなかに姉の姿を発見し、硬直する。母親が男といちゃいちゃしていても、辰也の場合は母親に聖性を見出していない可能性がかなり高く、深層ではともかく、表面的なダメージはそれほどないかもしれない。聖性を見出しているとすれば、この状況ではどう考えても姉だろう。辰也には見た目以上にショッキングな出来事のはずだ。

店長に声をかけられて辰也は逃げ出す。同時に文香は出勤する。柄崎は店長に文香のことを訊ねる。家出してうろついているところをスカウトしたらしい。未成年でなにかと不便なところ、多栄子の部屋をあてがったりして面倒みている。未成年は在籍しているだけでリスキーなので、手数料と称して文香の手取りは売り上げの30パーセントのようだ。あんまりあくどいことしてると刺されるぞと柄崎はいうが、店の裏のオーナーは丑嶋らしい。これは、この店長的なひとはそれを知らないということだろうか。そんなことありうるかな。でも知ってるとしたら、30パーセントの件を咎めるやりとりは変だよな。丑嶋と柄崎のあいだにかかわりがあることを知らないか、べつのものをオーナーとして立てているか、どちらかかもしれない。

 

 

さて、獅子谷一味に駐車場で包囲された丑嶋である。とりあえず前回希望をこめて書いた獅子谷が味方説はどうやらなさそうだ。じゃあなんで丑嶋は監視カメラが機能していないことに気づきながら無防備に中央まで進んだんだろうな・・・。

獅子谷はやはり身長もかなりあるようだ。丑嶋より5センチくらい高いかな。少なくとも上半身の厚みは丑嶋以上である。作中はじめて、筋量で丑嶋の体重を上回る人物かもしれない。これだけでかいと、丑嶋じしんがそうであるように、格闘技術がなくたってじゅうぶん脅威である。が、丑嶋はいちおう落ち着いている。滑皮さんが呼んでいる、半殺しで拉致られるか、黙って車に乗るか選べと、マフィア映画みたいなことを獅子谷はいう。が、すぐになにかをおもいなおし、首飾りを握り締めて、なにかに耐えるような表情をする。丑嶋の顔を見たらいますぐ殺したくなったと。獅子谷は「あの日」のことを覚えているかと語り始める。獅子谷は一生忘れないという。丑嶋も、獅子谷については忘れようがないというようなことをいっていた。よほどのことが以前にあったようなのだ。

 

 

そうして回想シーンに入る。たぶん、三蔵のあたまを豆腐みたいに割った件だろう、丑嶋が少年院から出てくるところだ。金髪でまだ髪の毛のある柄崎がそれを迎える。このときの柄崎はまだ丑嶋にタメ語だった。あの事件からろくに会話もせず丑嶋は捕まっただろうから、柄崎のなかの丑嶋時計はあまりすすんでいないだろう。しかし会えない期間育まれた、いまにつながる尊敬の感情はすでにあるようで、久しぶりに会えて柄崎はちょっと赤くなったりしてる。念のためにいっておくが、柄崎は人間として社長が好きなのである。そういっているのは柄崎本人だけだが。

久しぶりに見る丑嶋は背がずいぶん伸びている。以前はむしろ小さいくらいだったが、いまは柄崎を超えている。少年院とか刑務所は規則正しい生活をするし、質素ではあってもしっかりとした食事もあるから、シャバにいるよりよほどいい、みたいなセリフは映画などでもよく見られる。そういうので丑嶋はぐんぐん背を伸ばしたのかもしれない。

迎えには加納もきているらしいが、照れて車のなかにいる。加納なんかは、丑嶋にボコボコにされて、そのあと鰐戸にさらわれてしまったから、柄崎と協力関係になったことも知らなかったはずだ。つまり、気がついてみたらじぶんは病院に寝ていて、柄崎に捕まった丑嶋のことを聞かされた、みたいな状況なのである。たしかにそれは、どういう表情をすればいいのかわからない状況かもしれない。最後にあったのは石でボコボコにされたときということになるのだから。

見た目はすでに風格のあるものになりつつあるが、発言などはまだ若い。車なんかもっている柄崎をハブりがいいな、などといっている。柄崎はなにをして稼いでいるのか?それは闇金なのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

ついに丑嶋たちが闇金をはじめたときのことが描写されるようだ。これは長いあいだずっと見たいとおもってきたものなので、とてもうれしいです。

彼らが闇金業についたときのことについては、以前ちょっとだけ語られたことがあった。なんのはなしだったか思い出せないうえに単行本もばらばらにおいてあってぜんぜん見つからないのでブログ内検索をかけると、どうやら中年会社員くんの第1話のようだ。それによると加納と柄崎は18歳のときに闇金をはじめたそうである。とすると、今回の回想シーンのふたりは18歳以上ということになるだろうか。獅子谷はモンスター連合で滑皮の後輩ということで、丑嶋たちより滑皮は年上なので(丑嶋たちが中学生だったとき愛沢はすでに愛沢連合の総長で、そのさらに先輩が滑皮)もしかすると丑嶋と獅子谷はほとんど同じ年なのかもしれない。

そして、どうやらこれから闇金をはじめることになる丑嶋の前に、当時の獅子谷が立ちはだかることになるようだ。獅子谷は首からさげた飾りを握り締めて感情を押し殺している。この首飾りは、滑皮にボコられたとおもわれる描写のときにも使われていた。このヘッドがなんなのかもよくわからないのだが、なにか象徴的なものなのかもしれない。

 

 

 

文香の現状を見て辰也はなにをおもっただろう。貧乏であっても、たとえば逃亡者くんに出てきたのどかの息子が中学生になって、貧乏だとバカにされたとしても、きっと彼はのどかを憎まないだろう。のどかは男遊びをしているわけではなかったし、そのために借金をしているわけでもない。いじめでなくても、苦しい状況、そしてそれを耐えなければならないような状況においては、精神の均衡を保つために、それの原因を探し、場合によってはつくりかえて、それの説明とすることがある。それは、たとえば自分自身になにか原因があるときでも同様で、そうすることで、理不尽さに合理性をほどこし、責任の所在を明らかにしようとするのである。こころの優しいものは、なにもかも自分自身のせいなのだと解釈して背負いこんでしまうかもしれないし、ある種のなまけものは他責的な言葉遣いで理屈をこね、じぶんには責任がないとしてなまけることを正当化するかもしれない。それは、個々の人格や環境にもよってちがってくるだろう。辰也のばあいは、げんにそのようにしてバカにされているということもあり、この苦しい状況にかんして、原因は家にあると考えている。この母親がのどかであったら、おそらく息子はいじめを行うものの悪意に原因を求めるかもしれないし、あるいはいくら働いても報いることがないこの社会そのものにそうするかもしれない。

そんな辰也が足場にしているのが姉のようである。テレクラくんなどでも描かれたことだが、とりわけしっかり自立を果たしていないような未成年では、家や母親というものに聖性を見出しがちである。もっと卑近な例でいうと、たとえば僕は、こんなふうに本を読んだり音楽を聴いたりしてから、ブログにあることないこと解釈を書きつづっているが、最初に読書のおもしろさ、音楽のおもしろさを教えてくれたようなもの、つまり、作家でいうと島田荘司とか浦賀和宏とか村上春樹、音楽でいうとチック・コリアやウェザーリポートやm-flo、こうしたひとたちに対しては、深い解釈をすることにどこか抵抗がある。これらのひとたちは、僕にとっては「とっておかれるべき」場所にいるひとたちであり、解釈をしたり、なんなら否定的な批判をしたりというような文脈には決しておかれることのないひとたちなのである。それをここでは聖性と呼んでいる。自立を果たしたあとでも、ひとはどこかしらにそうしたきよらかな居場所を求めるものかもしれない。それは、なにがあっても、自分自身がどのように変化しても同じ表情を持続する場所であり、宇宙空間でじぶんの位置を確認するために用意した定点であり、昨日のじぶんと今日のじぶんがまちがいなく同一人物であると確認するために無意識に経由することになるめじるしなのである。とりわけ、理不尽で苦しい状況を解釈しなければならないようなときの人間には、聖域は足場として不可欠のものだろう。テレクラくんで母親と3Pを行った美奈子は、その後ストレスからか一時的に精神に異状をきたし、ベラ化した。異様なメイクを行って、見るからになにかがおかしいとおもわせるような描写は、ウシジマくんに限らずあらゆるところで見られるので、ひょっとするとなんらかの定説があるのかもしれないが、僕はそれを外部からの視線の欠落というふうに受け取った。女性のメイクに限らず、身だしなみにかんする行為全般というのは、本人の客観そのものである。それが異様になるということは、可能性としては、異様であることを相対的に判断することができないほど客観を損なっているか、あるいはみずからの現状を否定する変身への欲望があらわれていると見てとることができる。

近親者の性的なぶぶんについて、なぜわたしたちがそれを見るなり知るなりして大きなダメージを受けるのか、いろいろと考えられるが、ひとつには、習慣的にそうした行為がおおっぴらにやるものではないということがあるだろう。ふつう隠されているはずのモノが母親にもあるということを直視してしまったせいで、美奈子にとっての聖域は周囲の道行くひとたちとなにもちがわない、生臭いものとなってしまった。まあ美奈子のばあいはあんな母親だったから、依って立つもなにもなかったろうが、血縁的にはゆるがない関係なのだし、事前と事後で関係がなにも変わらないということはありえない。いまおもえばそれが、彼女を、先天的な女性性だけをたよりにする「テレクラくん」から、男女雇用機会均等法的な意味でアラフォー女性的な自立を果たさせたのだとおもわれるが、ともかく、それが失われたことで、彼女は一時的に客観、すなわち社会関係におけるわたしというものの位置を見失ったのである。

 

 

辰也では、どちらが先かはともかく、この理不尽な状況の原因として母親が据えられている。ではどこを足場にしているかというと、姉だったと、こういうはなしである。これが、今回損なわれた。なぜ損なわれたかというと、あんな家であるからなのだが、実はあの家をあんなふうにしているある箇所には、丑嶋がかかわっている。そうして逃げ出した姉のからだを開き、損なうものもまたカウカウファイナンスである。いまはまだ、姉が不可抗力的な状況に押されてひどい状況にいる、という感じでショックを受けているばかりだろうが、もしこのことのすべてにかんして丑嶋がかかわっているということが判明したら、辰也はこれを除こうとするかもしれないのである。

 

 

 

監視カメラに気づきながらまっすぐ駐車場のまんなかにすすんだ丑嶋だが、獅子谷が味方ということはやはりなかったようである。ではいったい丑嶋はなにをしに駐車場にきたのだろう・・・。見たところやはり彼の車はないようなのだが・・・。これは素直に書き落としと読んだほうがいいかもしれない。

獅子谷は丑嶋を拷問する気満々のようだったが、いちおういまのところは拉致するだけのようだ。しかし、それであんなマッチョマン10人も集めるってすごいな。獅子谷じしんもいれると11人だよ。ちょっと前の刃牙道で宮本武蔵を捕まえようとして集まった警官が12人だった。獅子谷は丑嶋にうらみがあるらしいが、それに加えてやはりたいへん警戒してもいるのだろう。

ようやく獅子谷のまともなセリフが聞けたのだが、まだこれではぜんぜん、なにもわからない。滑皮への忠誠がほんものなのかとか、これから描かれる丑嶋との因縁とかも、まだ不透明である。というかまだ獅子谷がどういう性格なのかさえほとんどわからない。なのでそのあたりはまだ保留しておこう(来週は休載のようですが)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『社会的選択理論への招待 投票と多数決の科学』坂井豊貴 日本評論社

 

 

 

 

 
 
 
 
「多数の人々の異なる意見をどう集約すればよいか。民主主義の歴史と同程度に古いこの問いは、フランス革命前夜のパリ王立科学ア カデミーで、はじめて科学的な分析の俎上に載せられた。議論の焦点は多数決だ。まずボルダが多数決は「票の割れ」に弱いことを端的に示し、代替案として今日ボルダルールと呼ばれるルールを考案した。次いでコンドルセが、ルソーの一般 意志を念頭に置きつつ、多数決の確率論的な分析を行った。こうして始まる社会 的選択理論は、約150年後の20世紀半ば、ブラックの中位投票者定理とアローの不可能性定理により劇的な新展開を迎える。本書はそうした歴史を辿りながら、当該分野の本質的内容を平明に解説していく。民主主義の理想に対し、社会的選択理論はどのような実装を与えられるか。可能性の境界に私たちは迫る」Amazon商品説明より
 
 
 
 
 

 

 

多数決を疑う』の坂井豊貴の本を続けて読んでみたぞ。

 

 

『多数決を疑う』が示した社会的選択理論は、その問題意識もさることながら、学んでいてただおもしろいということの強くある学問だった。選択肢が3つ以上ある場合、集約ルールとして単純な多数決というのはかなりおそまつなもので、そういう研究はルソーの時代からずっとされていたことだった。しかし万能のルールというものはなかなかなく、数学的証明を重ねながら、各時代の学者たちは長期的な目線で、人民主権社会を目指して研究をすすめてきた。日本ばかりではない、ふつうにテレビを見ていて、いやいやなんでこのひと当選しちゃった?みたいなことはどこでもよくあるだろう。そういう視点でいえば、社会的選択理論が提示している問題はたいへんタイムリーなもので、学ぶ必要があると感じられるのだが、それ以上に重要なことに、ただ入門書を読んでいるだけでじゅうぶんおもしろいのである。

 

 

骨組みとしては『多数決を疑う』とあまりちがいはない。あちらでは後半に書かれていたメカニズムデザインのはなしがやや難しかったが、こちらでは見たところその関係のはなしはほとんどない。ただ、たぶんぜんたいの半分くらいはあるかとおもうけど、数学的な証明がかなりの紙数を割いている。そのことは読む前から知っていたのだけど、数学科に進んだ僕としては迷うところなんかないだろうとおもえて、別に気にしていなかった。おかげでじぶんが高校レベルの数学もすっかり忘れてしまっているということを思い知らされたのであった・・・。逆にいえば、中学高校レベルの数学(Σとかlimとか・・・)が問題ないということであれば、たぶん本書の証明はふつうに読めるとおもう。どこまで研究者の証明に寄せているかはよくわからないのだが、成り立たない一例を取り上げて、その理論が無効であることを示すとか、そういうパターンが多いので、過程だけ読み飛ばして結論だけ受け取っても、とりあえず読むぶんには問題ない。僕のばあいは『多数決を疑う』を読んでだいたい理解していたということもあったとおもうけど。しかし、本書の肝といってもいいアローの不可能性定理は、ちょっとそういうわけにもいかず、残念ではあったけど、今回は丸ごとスルーさせてもらった。著者の坂井先生的には、アローのこの定理が界隈ではまちがった受けとめ方をされている、という危機感のようなものが強くあって、それは『多数決を疑う』でも変わらないことであったが、そのぶん証明もちからが入っていた。勉強しなおして、そのうち読み返さないといけない。

 

 

ということで、陪審定理(個々人が正しい選択をする確率が0.5より上であるばあい、判定をするものの人数が多ければ多いほど結果は正しいものに近づく)を証明した2章、アローについて細かく論じた5章などは、ほとんど読み飛ばしてしまった(日本語で書いてあるところを除いて)。そういうわけだから、書評などというたいそうなものは書けそうもないが、『多数決を疑う』と比較してということであれば、その証明以外に、最終章などでけっこう具体的な、個別の時事的状況について書かれていたりもするので、そのあたりについてちょっと考えておこう。陪審定理では露骨にそれが反映されるが、そうでなくても、ルソーやコンドルセは国による人民の制度的教育を重視してきた。要するに、国民ひとりひとりがしっかりした教育を受けて、個々の頭脳で考えることができないと、選挙において正しい判断をすることは難しくなってしまう。まちがった判断を選択的にすることはなくても、事後的に「なぜこんな結果に」としかおもえないような状況がおとずれてしまうことになるのである。よくいわれることだが、その原因のひとつには市場原理の発想でこれを見てしまっているということがあるだろう。経済学的に「賢明な有権者」を公共財ととらえることはまちがいではないのだが、教育を貨幣で購入し、その「リターン」を顧客として手に入れる、という図式で教育現場の関係性をとらえているうちは、「賢明な有権者」が生れることはない。

ルソーの想定する一般意志というものは、とりわけ選挙のような状況では、仮定や前提としてまず「ある」ものとして想定される。より住みやすい社会を築くために、一般意志が選択するであろうもの、これを、わたしたちは推測して、投票することになる。だから、この考えでいうと、選挙の結果、とうていそれが正しいとはおもえないものが代表に選ばれたとしても、それは「じぶんが一般意志を読み違えてしまった」ということになるのである。

ただし、そうなるためにはふたつの条件がある。それは、わたしたちがそれぞれに「賢明な有権者」であることと、選挙によってしっかり民意が反映されていることである。たとえば、じっさいそんな制度があるのかどうかは知らないが、仮にグラミー賞の選考委員の委員長を選ぼうとしたときに、日本の街中を歩いている老若男女を無作為に100人選んで投票させたとしても、決して一般意志にたどりつくことはない。そもそもおそらく半分くらいのひとはグラミー賞がなんであるかも知らないし、9割5分くらいのひとは候補になっているものたちが誰であるのかもわからない、そんな状況では、各自が正しい候補を選び取る確率はまちがいなく半分を下回るだろう。グラミー賞の委員長を選ぶという状況においては、彼らは「愚鈍な有権者」となってしまうわけである。また、もしこの際に、ミュージシャンや音楽評論などに携わる「賢明な有権者」が選ばれていたとしても、選挙の方法がとんちんかんだと、やはり一般意志が選びとられることはない。候補が2択であるなら、陪審定理により、正しい判定がされる可能性は高くなるが、もし候補が100人いて、それでいてそのなかからひとりしか選べない多数決というようなことになったとしたらどうだろう。票がばらついて、ほとんどのものが1票しか手に入らない状況で、たまたま2票獲得したものを「もっとも委員長にふさわしいもの」ということはできるだろうか。これはどれも極端なはなしではあるけれど、ルソーの考えをまっとうしようとしたら、その2点については掘り下げすぎるということはないのである。

 

 

数学的な証明をくりかえしているので、まるでひとの発想というものを量でとらえているかのようではあるが、これは慎重を期するための厳密さを求めた結果であって、ルソーたちの啓蒙思想からこの社会的選択理論まで、これらの研究に通奏しているものはむしろ、ひとはまちがった選択をしうる、ということである。現政権では、改憲条項である「衆参両院で3分の2以上の賛成」ということが重過ぎるとして、そこから改憲しようとする向きもあるようだが、この条件はむしろ弱すぎるというのは、『多数決を疑う』でもされていた主張だ。じっさいには、3分の2という数字じたいにはかなり正当性がある。というのは、難しいということで本書でさえ証明が省かれているのだが、カプリンとネイルバフによる「64パーセント多数決ルール」という理論があるからである。憲法を現行のXからYへと変えるにあたって、そこには潜在的にさらに別の改憲案Zも想定できる。そうしたとき、X>Y、Y>Z、Z>Xという主張がそれぞれ過半数を超える可能性があり、そうなれば人民の意見はサイクルを生んでなんの結論も呼ばないことになる。これを生まないのが、過半数ではなく、64パーセント以上の賛成であるということなのである。ただ、現実には日本は小選挙区制なので、こうならない。選挙の仕組みじたいにあまりくわしくないので、ぼんやりしたイメージなのだが、それぞれの議席を獲得するのにしかるべき場所で過半数獲得すればいいわけなので、全体で3分の2の議席を獲得しようとしたら、3分の2×2分の1つまり、有権者3分の1の賛成でこれは達成できてしまうことになるのである。それが弱すぎるということの意味である。憲法は、いつでもまちがいをしうる人間というものを想定して、それでも致命的な失敗をしないように、予防的に設けられているものだ。だから、仮にその必要があるのだとしても、そうかんたんにかえることができてしまうのはまずいのである。すべてこれらは原理的なはなしなのだ。

 

 

まあこういう分野なので、なにを読んでも証明ばっかりということにもなりそうだが、読みやすくおもしろい書き手なので、今度はもっと逆に軽いものも読んでみたい。ほかに手に入りやすいものあるかな?

 

 

 

 

 

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第141話/孤高

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12人の警官を苦もなく片付けた宮本武蔵。相手は銃をもっていたが、日本特有のためらいもあってか、けっきょく発砲はされず、おそらくそのためもあって、武蔵もさすまたを切り落とし初動以外では刀を抜かずに、イメージ刀と素手の殴打だけでこれを制圧したのだった。

 

 

その件がふつうにテレビのニュースで報道されている。たたかいの詳細が語られているわけではない・・・。さすがに、刀はもっていたけど厳密には素手で、12人全員イメージでやられました、とまではいっていないが、乱闘の末姿を消したと。いちおう、キャスターは「武蔵と名乗る男」といってはいる。うーん、光成は、どういうつもりなのだろう。まあ、そういうはなしをしたら、そもそも、この事件のきっかけであるテレビ番組出演からしてなんでオッケーしたのかというなってしまうのだが、だいたい、武蔵はクローンで生れた存在じたいがタブーな人間なのである。いや、武蔵がタブーというか、彼が存在しているということが、誰かがタブーを破ったことの結果なわけだ。そしてもちろん、こんなふうに大事になって、武蔵の顔や存在が不特定多数のものに知られてしまうことも、好ましいとはおもえないだろう。屋敷から出て行くことさえ光成はとめていたのだから。ひとつには、じつは光成のちからというのは、わたしたちが想像しているほど大きくはないということなのかもしれない。総理大臣さえアゴでつかうような彼でも、立憲主義のまともな国内で、無法者の存在を認めさせることはできないのだ。光成がそこまでの強者で、ほとんど独裁的にものごとを決めることができるとして、もしそれを認めてしまったら、それはもう近代的な国家とはいいがたいものとなってしまう。できるかどうかということが問題なのではなく、いち市民として、そういうことはやるべきではないと、そんなはなしかもしれない。

そういうことに加えて、詳細は不明だが、テレビ番組への出演を認めたことからしても、武蔵がどれだけ強くてすばらしいかということを周知したいという無意識の欲望が光成にあったとしても不思議はない。だいたい、クローンにかんしては、仮に光成がみずからすすんで「あれはクローンです」と証言したとしても、信じてもらえるかどうか微妙なものである。ほんとうは隠さなきゃいけないけど、でもせっかく復活させたのだし・・・というようなへんな顕示欲があるのかも。

 

 

彼は何者で、どこに向かっているのでしょう、というようなキャスターの発言を受けて、番組を見ていたバキは本部のいっていたことを思い出している。じぶんたち現代のファイターは、勇次郎でさえが、関係性のなかに含まれて、それぞれにつながって生きている。しかし武蔵はどうだろうと。あのはなしについて作中で解説はなかったが、今回バキがたんねんに読み解いてくれている。

 

 

 

 

 

 

(「生きる」とはそう

 

 

誰かとの繋がりのなかで営まれる)

 

 

 

 

 

 

冷静になってみれば、考えなくてもわかるようなことだ。しかし、武蔵の双眸に射すくめられ、他人を拒絶したような無機質な眼差しに魅入られ、孤高の武士道(イズム)、異次元の戦力、精悍な佇まいを前にし、あの「孤高」の孤独を見ようともしていなかったと(以上の形容はほぼ作中のバキの表現)

そのように語るバキのような現代人でさえが、生きていれば孤独を感じることがある。いわんや時代を超えて復活した剣豪においてをや。家族も親戚も友人もいない場所でいきなり目を覚ました宮本武蔵の孤独は、想像を絶するもののはずである。バキはそれをおもい、またそれに気づかなかったじぶんの愚鈍さをおもい、拳を握り締めて悔しがるのだった。

 

 

その武蔵は、夜間、高架下で火をたいて、眠らずにじっとしている。相変わらず、なにを考えているのかはさっぱりわからない。ひとがいないところでもそうなのだから、もう彼のばあいは自然に表情が浮かぶということがないのだろうな。

そこへ片目をつぶされた大塚がやってくる。橋のうえには最新装備の警官が100人待機している。宮本武蔵といえども、勝てるわけがない。「兵法者」なら、なにがみずからを守るのか、賢明な判断をしろと、降伏をすすめるのである。ただ、みたところマシンガンをもっていたりはしてないようだな・・・。でっかい透明な盾と、たぶんあのバットみたいな警棒をもってるだけだろう。

 

 

最新の装備といわれてもピンとこないだろうが、「100人」の意味は武蔵にもわかるだろう。最新装備じゃなくても100人は脅威のはずだ。12人では末堂も逮捕できないと前回書いたけど、100人となると作中強者でも突破できるものはかなり限られるはずだ。範馬一族とピクルを除くと、独歩クラスでもかなりあやしいかもしれない。スピードのある烈とかならいけるか・・・?という感じ。13歳のときバキも100人とたたかったことがあった。まだぜんぜん未完成とはいえ、あのときのバキもすでに常人離れした強さだったはずである。しかし、36人だか37人だかあたりで負けてしまった。あのときの相手も武装してはいたが、みんな10代の不良だったはずである。日々訓練を怠らない屈強な警官たちがきっちり防具をつけて100人も押し寄せたら・・・。銃がないとしても、やはり突破できるものは勇次郎やピクルくらいしかおもいつけない。

が、別に武蔵はなにも態度に出さない。というかむしろ用事ができてうれしそうですらある。かたわらにおいていた刀を差し、待っていたといわんばかりに、捕えたらよいと大塚にいうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよ国家権力と本格的に衝突する運びとなった。ああいう装備の警官が銃をもっているのか、もっているとしてどういう大きさの銃なのか、というのはわからない。が、ここではそれはたいした問題ではないだろう。極端なことをいえば、銃にかんしては、スナイパーが最強である。あの勇次郎でさえが、最大トーナメントで大暴れしたとき、ハンターたちの一斉射撃に不覚をとっているのである。押切連介の『焔の眼』という漫画に登場する最強者・クロは、スナイパーの殺気を針のように感じ取ってそれをかわすなり弾くなりして、狙撃主のもとに一瞬でたどりつき、これを倒すということをやってのけていた。とぎすまされたファイターの感性であれば、こうしたことができるようになるといわれれば、そんな気もしないでもない。しかし、仮に200メートル離れたところにいるスナイパーに気づいたからといって、その弾丸をかわせるということにはならないし、倒すにしても、弾丸があたらないまま一瞬で200メートルをつめる、ということをやってのけなければならない。だから、ほんとうに武蔵を殺そうとしたら、スナイパーを何人か用意すればよい。だが、この場面で問題になっているのは、とりあえずはまだ、「どうやれば武蔵を殺せるか」ということなのではない。勇次郎が総理官邸を襲ったときも同様に100人の機動隊が登場したはずだが、「100人」というのは、99人でも101人でもないその数字に意味があるわけではなく、要するに「たくさんの人間」ということなのである。

武蔵としては、これは戦である。戦とは、相手国の憲法を書き換えるということだ。つまり、これは日本国の決めているルールと、武蔵の抱えているルールのぶつかりあいである。日本国の法律は、ひとを刀で切り殺すことを認めていないし、刀を常備することも認めていない。さらにいえば、倫理的なレベルでは、クローンというものが認められない。しかしだからといって武蔵は、刀や技術を封印してコンビニでバイトするわけにはいかない。それは宮本武蔵の死を意味する。武蔵は、じぶんをじぶんたらしめているものを保持する権利を得るために、日本とたたかわなければならない。とはいえ、武蔵としては権利の獲得が目的なので、いってみればこれは独立戦争である。日本の国のルール全部を書き換えることがねらいではなく、じぶんにかんして特別のルールを設けよという意志があるのだ。だから、武蔵としては、攻めるというより、じぶんの存在を咎めるものたちを打ち払う、という態度になる。今回の高架下にたたずむ姿は、そういうものを示しているだろう。

対して日本国、ここでは警察のなすべきことは、そういうふるまいを国内では認めていないということを示すことである。一般的な意味における犯罪者もまた、ある意味では固有のルールを内に抱えており、それを国家が認めないというしかたで、逮捕という状況が生じる。だが、これを戦と呼ぶことはない。もしそう呼ぶのだとしたら、内戦のない国というものはこの世からなくなってしまうだろう。武蔵は、わが意を通すというファイターとしての動機と、孤独なものとして存在する権利を獲得するという二重の意味で、法律と対決しなくてはならない。だからこれは戦として解釈しうる。しかし警察にとってみれば、武蔵はただの「超強い犯罪者」でしかない。というか、その文脈に落としこむことが、国家権力としての使命だともいえる。ある無法者を、国の定めたルールに関して、「別のルール」で生きているものか、相対的な「そうではないルール」で生きているものか、どちらととらえるかによって、これは変わってくるかもしれない。武蔵が勇次郎のようなレベルの強さかどうかというのはまだ警察にもわからないし、そのぶぶんの解釈はまだ潜在的なものだろう。だがいまのところは、警察は武蔵を「ルールを破っているもの」ととらえることに集中している。うまくいえないが、警察にとって武蔵は、外国人というよりは非シティズンといったところなのだ。そうすることによって、武蔵は、別の法にしたがっているものではなく、国内の法にしたがわないものとして広く国内に生きるものとしての国民に包摂される。不思議なことに、武蔵をアウトローとしてとらえることがむしろ彼に国内における居場所を提供するのである。

 

 

大塚の認識などについてはよくわからないが、ここへきてスナイパーなどの身もふたもない手段ではなく、「100人」という方法が採られているのは、国家権力側の不安が見て取れるものかもしれない。つまり、警察は、治安を維持する存在として、武蔵を法の枠内で捕えたい。要するに、国家はこの件を決して「戦」にするわけにはいかないわけである。なぜなら、「戦」は、国内の生活を安定させる法を相対化するものであり、それが行われるということじたいが、国民にとっては不安なことだからである。定義上、そうした法はある種の絶対性をもつことで有効に機能することができる。「戦」は、それがおこってしまうことじたいが、国民の視点を相対化してしまうのであり、国家としては好ましくないのである。だから、あるいは集団の無意識において、武蔵の強さがちょっとシャレにならないものかもしれない、ということに気づいている可能性はあっても、彼らはそれを決して認めない。なんとしても、外部から国を相対化するものではなく、「超強い犯罪者」としてこれを捕えなければならないのである。そのために、彼らは通常暴漢などを制圧するときのような方法を拡大したようなやりかたでこれに臨むことになる。たとえば、外国のテロ集団みたいなのがどこかに立てこもって何人も殺している、みたいなことになったら、彼らはもっとちがう手段に出る。だが武蔵はまだその段階としてはとらえられていない。その結果、彼らは通常の逮捕の方法を倍化・拡大するしかたで、100人集めたのである。

 

 

 

武蔵の孤独にかんしては、いろいろ考察をすすめてきたが、ようやく作中で、しかもかなりわかりやすい説明がなされることになった。この孤独についての理解は、本部が武蔵になにをなしたのかということにつながっていくだろう。あの、武蔵を絞め落とした場面での述懐である。本部は、武蔵から知人たちを守護るとともに、武蔵をも守護ることとなった。そしてそのはなしの流れで、いまさら武蔵の孤独に追いついたと、こう述べているのである。はなしの流れからして、本部の闘争は武蔵の孤独を癒す一助となったはずなのである。それはどういうことなのかというと、バキが今回強く実感していた、生の営みにおけるひととひととのつながりということだ。武蔵にはそれがなかった。なにしろ400年も眠っていた古代人のような存在なのである。だが、その技術をずっと受け継いできた人間がひとりだけいた。むろん本部である。だから、バキたちは本部を通じて、武蔵にコミットすることができる。それまでのバキたちは「イメージとしての宮本武蔵」を見ていた。五輪書や肖像画などを通して知っている武蔵を、実際の武蔵の動きで確認していただけなのである。だから彼の実力を見誤ってきた。本部は闘争を通じ、そのイメージを破壊してほんものの武蔵の実力を引き出すとともに、みずからを媒体として武蔵の孤独を目に見えるものとし、実物の存在として地に足つけさせたのである。

そうした展開があって、いまの武蔵の行動がある。いまでも宮本武蔵というものは有名なようではあるが、どうも彼らの見ているものはじぶんじしんそのものではないらしい。そういうことを武蔵も感じ取ったかもしれない。彼は、いまのこの生身、文字通り光成という個人から授かることになった偶然の生を正しく生きるために、存在の権利を獲得しなくてはならない。コメントでも指摘をいただいたことだが、彼の動機である富と名声という点からしても、彼はいまのこの生身でそれを獲得したいと考えたことだろう。だからこその「戦」なのである。そしてそれはいま、「超強い犯罪者」として生じつつある。ただ、このたたかいには際限がないだろう。とりわけ、今回は勇次郎のときとちがって、ふつうに報道されてしまっている。国からしてみれば、国を保持するためには、落としどころを見つけてなかったことにする、ということができないのである。彼らはぜったいに、なんとしても武蔵を倒さなければならない。ひょっとしてそのためもあって、妙なところでアメリカ大統領候補たちの描写がはさまれたのかもしれない。大統領を経由して勇次郎の一声があれば、このたたかいをとめることはできるにちがいない。それとも、犯罪者ということになれば、ハンターとしてオリバが出てくるなんてこともあるかもしれないから、そっちのほうの流れで勇次郎や大統領が出てくるかな?独立戦争なんて観点からすればゲバルとも相性がよい。なんにしてもあんまり極端なはなしになる前に誰かとめてくれないと・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『翻訳と日本の近代』丸山真男/加藤周一 岩波新書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本の近代化にあたって,社会と文化に大きな影響を与えた〈翻訳〉.何を,どのように訳したのか.また,それを可能とした条件は何であり,その功罪とは何か.活発な言論活動を続ける評論家の問いに答えて,政治思想史研究の第一人者が存分に語る.日本近代思想大系『翻訳の思想』(1991年刊)編集過程でなされた貴重な記録」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

どこかで見かけた(たぶん水村美苗だとおもうけど)本書を岩波のショタレのなかから発見して読んでみたぞ。

 

 

有名な政治思想家の丸山真男だが、僕はこのひとをはじめて読む。実をいうと『日本の思想』という、本書と同じく岩波新書から出ている本をもっているのだが、難しくて途中で挫折・中断してしまっている。政治思想というものじたいにあまり馴染みがないということもあって、普段しないような思考法と言葉遣いで、ひどく消耗してしまうのだった。

 

 

本書成立の背景には、岩波書店が出した日本近代思想大系というものがある。そのうちのひとつである『翻訳の思想』の編集を担当したのが本書の加藤周一と丸山真男だった。これの作業において最後に解説を残すのみというところで、丸山真男が体調を崩してしまったため、執筆じたいは加藤周一が行うことになり、それにあたって加藤周一が丸山真男にいろいろ質問する、という場面が設けられたのである。だから、本書は対談形式ではあるけれど、厳密には問答である、と、編集部による冒頭の文章にはある。たしかに、基本的には加藤周一が質問して、博覧強記の丸山真男が脱線しつつも延々としゃべりつづける、という感じではあるのだけど、読み進めればむしろ一周して対談ということでもよろしいのではないかという感じもしてくる。ふたりの意見はいつもまったくいっしょということではないし、加藤周一がかなり食い下がる場面もあっておもしろい。丸山真男は悪いひとではないようで、こうしたところでも嫌な雰囲気になったりしないし、きちんと互いに尊重しあっている感じも好ましい。内容的にも僕には興味深いものだったし、非常に知的でスリリングな対談だった。

 

 

なにが書いてあるのかというと、けっきょくはインテリのふたりのおしゃべりなので、くっきりと示しだすことは難しいが、ひとことでいえば、明治維新において西洋の脅威に接した日本がどういう行動をとって、またなぜそうなっていったのかということである。西洋の概念を取り入れ、思考法をつかって、思弁するなり行動するなりしようとするとき、当時の日本人たちはそのままではいけないことを痛感して、手当たり次第、がむしゃらに「翻訳」をしていった。明治維新が欧化にほかならず、近代化というのが西洋にしたがって変容していくことなのだとして、いずれにしてもそのころの日本にはそれしかなかった。つまり、翻訳にかんして、なにをどのようにしていったかを追及すれば、おのずと維新の真の姿というものが浮かび上がってくるのである。

このことにかんしてはおもしろいはなしがかなりあって、まず前提として、本書でいえば荻生徂徠など、維新のずっと以前から知的な蓄積があって、外部を取り入れる土台のようなものができていた。丸山真男は荻生徂徠がかなりお気に入りのようで、よくまあそんなにというほどいろいろとおもしろいはなしが出てくる。それまでは外国といえばオランダや中国で、特に中国は、ずっと以前から日本のそばでその威容をふるっていたあこがれの存在であった。しかしこれがアヘン戦争でイギリスに敗北する。これを受けて日本はたいへんに焦ったわけである。侵略されるとも考えたかもしれない。中国は、中華思想といって、世界の中心が中国にあって、それがはなつ光が世界を照射し、中央から遠ざかるにしたがってアナログに関係性を失っていく、華夷秩序という枠組みで世界をとらえている。だから、国土の端っこくらいはむしろ野蛮人どもにくれてやる、くらいの感覚だったようだが、神の国という発想で、土地を代々受け継いで神聖なものとしてとらえる日本はより事態を重くとらえた。翻訳にかんして、文化的にはいままでずっとリードしてきた中国より日本のほうが多くのものを得ることができたのは、そして引いてはすばやい近代化を達成できたのは、こういう、ものの考え方のちがいがあったのである。また、よくいわれることだが、当時のアメリカは南北戦争をしていて、現実には侵略どころではなかった、という、日本にとっては幸運な事情もあった。そのすきに日本は大急ぎで翻訳をして、よくもわるくも西洋化していったのである。維新のころの近代化の速度、またじっさいにいまでも目にすることのできる、福沢諭吉など当時の知識人たちのなしたことを知り、その絶大な知性に触れると感動してしまうが、それはじっさい奇跡的な成り立ちだったのである。

 

 

あまり翻訳翻訳といってもあるいはなんのことかわからないというひともいるかもしれない。僕も、加賀野井秀一の新書や柳父章の本を読むまではそんなことを意識したことはなかったのだが、今日、わたしたちのつかっている日本語というのは、そのほとんどが、明治維新のその短い期間に、福沢諭吉、西周、中江兆民、箕作麟祥といったひとたちが海外のことば(概念)を、仏教の古いことばを転用したり造語したりして翻訳したものなのである。個人とか、社会とか、自由とか、哲学とか、理念とか、極端なことをいえば二字熟語はだいたいそうとさえいってしまってもそれほどまちがいではないかもしれない。たとえばsocietyという英語が指し示すものは、かつての日本にはなかった。いちばん近いものは「世間」かとおもわれたが、もう少しマクロ的である。本書によれば(135頁)それが「社会」になっていったのは明治10年ということで、それまでは「会社」といっていたこともあるそうだ。Individualも福沢諭吉などは当初「独一個人」などと訳していたが、短くなって「個人」となった。「個人」も「社会」も、それまでは存在しない言葉だった。それはつまり、そういう概念がかつてはなかったことを意味する。もう見えている世界がぜんぜんちがったのである。柳父章はこうした翻訳語がカセット効果をもたらすと示した。カセットとは宝石箱ということで、明確に意味を知らなくてもなんとなくで使用することができてしまうということである。柳父章はそこに否定的な意味をあまり持たせていなかったような記憶もあるが、僕が最初にこの手の問題に興味をもった加賀野井秀一というひとの本では、これを日本語の、そして日本人の問題点として取り上げていた。当時僕は冷泉彰彦から山本七平までを踏まえて、カセット効果がいわゆる「空気」を醸成するものだととらえていたが、翻訳語がよく意味のわからないまま使えてしまうという状況が生じるのは、日本語が機能として言語学的には膠着語という分類にあったことによるものである。日本語は、ある程度のテンプレートを身につけてさえしまえば、固体の単語を放り込むだけで文章を成立させてしまうことができる。○○は××である、という鋳型が使いこなせれば、このぶぶんによく知らない外来語を埋め込んでも、文章としては成立してしまう。そしてカセット効果により、ここに放り込まれたよくわからない言葉は宝石を内に秘めているかのような輝きをもつことになる。結果としてはそれが権威的になる。よく会社や学校にいないだろうか、ほんとうにそれ意味わかってつかってるの?といいたくなるようなカタカナの外来語をやたらと使いたがる上司や教師というものが。それは外来語のカセット効果がもたらす権威を利用しているのである。コンプライアンスとかインセンティブとか、発音をそのままカタカナに表記したようなものよりはまだ誠実であるとはいえ、翻訳語もその点では似たようなものである。個人とか社会という概念は日本にはなかった。生れたときからそれに接してきているわたしたちにとっても、日本社会にそうした概念が歴史的に根付いているわけではないのだから同じことである。だから、現実には、どこかこうした言葉に対して、わかったつもりでいるぶぶんがかなりある。日本人なら誰だって理念と概念と観念のちがいを説明するのは難しいのである。

とはいえ、明治維新にかんしていえば、本書のはなしを踏まえると、よくもわるくも膠着語としての日本語は非常に有効に働いたわけである。日本は一刻もはやく西洋に追いつかなければならなかった。歴史的にはどうだか知らないが、アヘン戦争での中国の敗北を受けてそういう危機感が強くあった。膠着語としての日本語は、だいたいでありながら、また今日の目線からするとちょっとそれはどうなんだろうというような翻訳でありながら、文章として成立することができたのである。

 

 

 

いまはとりあえず、その挫折した丸山真男の本を(どこかに埋まっているとおもうが)最初から読み直さないといけないなあという感じだし、福沢諭吉はもともと好きだけど、それより荻生徂徠や本居宣長など江戸時代の学者にかんする本ももっと読まないとだめだなあと痛感した。そして、本書を読んでしまうとやはり、これが生れた原因であるその『翻訳の思想』が読みたくなってくる。が、これはどうも中古でなければ手に入らないっぽい。どうせすぐぼろぼろになるから、問題はないので、アマゾンで買っちゃおうかなあ、高いけど・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第422話/ウシジマくん⑧

 

 

 

 

 

 

 

 

カウカウのところの客で、どういう経緯か描かれていなかったが、鳶田を呼び出して結果滑皮に丑嶋が帰ってきていることを知らせるきっかけを作った菊地千代、その息子・菊地辰也が描かれる。いちどだけおもわせぶりに部屋のなかに引きこもっている様子が描かれたが、別に引きこもっているわけではなく、学校にはちゃんと行っている。ただちょっと暗いだけだ。

 

 

辰也は学校でいじめられている。ウシジマくんのキャラなら、すんなり引きこもってひどい状態のところから描かれそうなものだが、辰也はちゃんと通っている。家が貧乏なので、給食費を払っていないから、そのことでいじめられているようだ。しばられているわけではないが、手をうしろにまわして、貧乏人だから犬食いだと、そのまま口だけで食べさせられている。風呂もあまり頻繁には入っていないのか、臭いとバカにされる。さらに、カリスマ美容師を目指しているとかいうクラスメートに髪と服を切られる。辰也は半そで半ズボン状態になり、それを教師に咎められる。省エネルックか、などとあたまの悪そうなことをいう教師も、さすがにいじめのことには気づいているだろう。辰也はオサレ皇帝を目指しているのだ、というクラスメートの言を聞き流しながら、教師は校則違反だから明日はちゃんとした制服でこいという。この間、いじめて、はやしたてているクラスメートも、また教師も、まったく描かれることがない。

 

 

帰宅した辰也の異様なかっこうには、さすがに千代も気がつく。菊地千代ってこんな感じの太いひとだったっけ・・・。のどかのお母さんとごっちゃになっちゃってるな。家には千代の彼氏というかなんというか、客の男がいる。おじさんがヤキいれてやろうか、という男の冗談に、辰也は反応しない。

男は千代に三万貸してくれという。なにに使ってるのか不明だが、どうも千代の借金はこの男が原因のようだ。しかし、テレクラくんのギャル代がそうであったように、千代はこの男の存在にすっかり依存してしまっていて、抵抗がないようである。まだ辰也が部屋に入る前から、キメセクしようなどとやっている。

 

 

辰也は仲のよい姉を呼び出して、切られた制服を縫ってもらうことにする。姉とはほんとうにわかりあっているようで、仲がよさそう。辰也はあまり説明をしないのだけど、姉はちょっとした会話で、なにがあって、なにをしてほしがっているか、じぶんはなにをしてあげればよいかを察している。姉は100円ショップで、おそらくはさみやくし、それにからだにすっぽりとかぶせるビニール袋を買ってきて、河原で辰也の髪の毛を整える。前髪がものすごい短くなっているので、バランスをとろうとしたらぜんたいをすごく短くするほかないのだった。

辰也はあの家がやだという。姉もそうで、だから家出したそうだ。でも辰也とおは連絡をとっているし、まだ自立しきってはおらず、誰かの家に居候になっているくらいだから行動は起こせないが、弟を家に置いておく気もないようだ。お金がたまったらひとりで暮らすから、辰也もきなさいと。

 

 

で、千代は男にわたす三万を丑嶋に借りようとしている。丑嶋は以前、千代に呼び出されたさきで鳶田に会ってしまっているので、またハメられるかと勘繰ったといっているが、けっきょくきているので、まあ、いつものことだ、そんなに深く考えてないのだろう。千代はハメてはいないという。なぜあそこで鳶田がやってきたのかというと、利息分をすべて払うように要求する丑嶋に、まるでケツモチでも呼ぶように、千代が電話したからである。たまたま鳶田が千代と知り合いだった、などということはなさそうだし、おそらく、丑嶋がいないあいだに苅部をつけるなどしてヘビーな債務者を鳶田たちは把握していて、なにかあったら(というか丑嶋がごちゃごちゃいってきたら)電話しろ、というような感じでいってあったのではないかとおもわれる。いずれにしても千代的にはハメたというつもりはないのだろう。そんな知性があるともおもえないので、丑嶋もいちいち追及しないのかもしれない。

だが、そのせいで滑皮と対面するハメになったことはまちがいない。信用を失った千代は、いままで十日一割で借りれていたものを十日五割に戻され、再契約あつかいで初回に引かれているもろもろをもういちど取られて、一万だけわたされることになる。足りないと千代はいうが、丑嶋としてはいやなら借りるなということだ。無理に貸しているわけではないのである。

 

 

滑皮はホテルの風呂場で全裸になっている。背中の入れ墨が全部見えるぞ。けっこうオーソドックスな龍のやつだけど、太ももから肘の先まで、ヤクザらしく広く盛大に彫られている。

 

 

 

 

 

 

「分からせてやるよ。

 

 

中途半端な人間と

 

生き方を決めた人間の差を」

 

 

 

 

 

 

滑皮はそのように独り言をいう。しかしアレだな、ウシジマくんになってから、滑皮はいっつも風呂入ってるか風呂わかしてるかしてるな。

 

 

じぶんの車がとめてある駐車場なのだろうか、そこへ丑嶋がやってくる。丑嶋の車ってどういうやつだったっけな。見たところ僕の記憶している丑嶋の車はないような感じがするのだが・・・。右の列のいちばん下のやつはちがうよな?丑嶋の車ってもっとこう、タイヤのでかい感じのやつだった気が・・・(車に乗らないので識別ができない)

ともかく、丑嶋が駐車場にやってくる。駐車場の監視カメラは布的なもので覆われていて、丑嶋もそれに気づいている。状況からして丑嶋はいつ誰に襲われても不思議でない。滑皮だけではない、薮蛇だって彼を探しているはずだ(沖縄で安里がそういっていた)。というか、ヤクザくんの件がなくたって、彼はいつだって誰かに狙われている。監視カメラが覆われている、という状況は、ピンときてもよさそうなものだろう。というか、あるいはピンときたのかもしれない。しかし丑嶋は引き返したりしない。そういう人間である。面子的な意味でもそんなことはできないし、ハブが丑嶋を狙っているとあちこちからいわれても、平気で営業を続けていたような男なのだ。

駐車場にはもちろん獅子谷軍団がいる。それも、この前登場した三人ばかりではない。獅子谷以外に10人いる。どいつもこいつも、シャツがハンガーに吊るされたような横に張っている筋肉のかたまりである。駐車場の真ん中まで進んだ丑嶋を待っていた彼らは、彼を囲むように物陰からあらわれ、包囲するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

いま過去の単行本を読んで確認したんだけど、駐車場を俯瞰している画面を見る限り、やはり丑嶋の乗っている車はなさそうに見える。まあ、おじさんがAKB48のメンバーの区別がつかない、とかいうのと同じで、目が肥えていないと車というのもぜんぜん区別がつかないもので、じっさいに横に並べて比べたとしても、僕は免許がないので、わからない可能性もある。

これをどうとらえるかは、しばらく待ってみないとはっきりしない。たんに作画ミスかもしれないが、いちおううちはテキスト論的に読むことを心掛けているので、そういう見立てはしない。もしほんとうにここに丑嶋の車がないのだとしたら、どういうことになるだろう。ひとつには、丑嶋はここに車をとめたのだが、それを尾行するとかして知った獅子谷が車をどこかに隠し、逃走手段を奪った状態で包囲しようとした、ということが考えられる。もうひとつ考えられることは、駐車場に向かう道で丑嶋がひとことも発しないのでわからないのだが、丑嶋が獅子谷と連絡をとっていた、もっといえば待ち合わせをしていたという可能性である。車は無関係で、丑嶋はただ待ち合わせ場所に向かっただけなのだ。それなら、監視カメラを確認しながら丑嶋がまっすぐ駐車場の中央にすすんだことの説明もつく。ただ、そうなると獅子谷が敵ではないのかもしれないという可能性も出てくるわけだが・・・。

 

 

 

今回は以前思わせぶりに登場した菊地辰也の描写が中心だった。いきなり気になるのはやはり名前に辰が含まれていることである。鼓舞羅、ハブ、肉蝮という具合に、爬虫類系でもとりわけ蛇にまつわる名前をもつものは、丑嶋に実害を及ぼしてきた実績がある。辰というのは龍のことなので、架空の生き物なわけだが、辞書にも龍は蛇を神格化したものとあるので、同類ととらえてまちがいないかもしれない。というか、冷静に考えると十二支というのは、辰と巳(へび)が同時に含まれてるんだな。

ともあれ、こうして考えると、辰也は丑嶋に実害を及ぼす存在になるのではないかとおもわれるのである。

辰也は学校ではいじめられている。暴力的な描写はないが、服を切られるなど、状況はかなり深刻だ。辰也は反抗することなく、クラスメートたちの命令に従っている。不気味なのは当事者たちの顔がまったく描かれないことだ。これは、辰也がいじめを受けながら、“誰に”それをされているのかということを意識していないことを示しているだろう。クラス中の悪意が、ひとつのかたまり、あるいは粘着質の空気のようなものになって、辰也にむかってきて、彼はそれに逆らわずに動いているだけなのだ。

SNSが隆盛をきわめ、中学生とかでもふつうにアカウントをもっているような時代では、そういうものにおけるグループからはずすといった方向性にいじめは変化していっているようである。仮に暴力を経由しなくても、一日の大半をすごすクラスの教室で無視されるとか、誰もがおこなっている遊びややりとりから意図的に排除されるということは、よほど高い自負心を保持していないかぎり、あの繊細な時期の子どもたちには強烈な刻印を残すものである。SNSでも同じようなことは起こっている。

ただ、辰也の感じ方はちょっと不思議なもののようである。いじめで自殺した少年少女が、その主犯の名前を遺書に書いたりすることはある。いつじぶんがいじめる側、いじめられる側にかわるかわからない、という意味では、「主犯」というものは流動的ではあるのだが、げんにいじめられている側からすれば、それを実行するもの、企てるものの“顔”というものは、かなりのぶぶん明らかなのだ。ところが、辰也はおそらくそういう感じ方をしていない。単位として、犬食いを強要するもの、髪や服を切るもの、気づかぬふりをする先生、などといったものを切り取ることはできるだろうが、全体としてそれらには半透明の膜がかかっており、なにか現象、あるいは状況そのもののように、辰也はとらえているようである。

どうしてそうなるかというと、そもそも彼がいじめられているのは、今回に限ればということだが、「貧乏だから」である。しかも、ただ貧乏なだけではなく、母親の菊地千代は、息子のいじめの原因となっている給食費を払わず、闇金から金を借りてわけのわからない男に3万わたしたりしているわけである。だから、理解しあっている姉と会って、弱音をもらすタイミングでも、学校がいやだとか、あいつら全員死ねばいいのにとか、いじめそのものへの呪詛が吐かれることがない。ただひとこと、あの家がいやだと、それだけなのである。辰也からしてみれば、「あの家」がもたらしているじぶんの負の要素がいじめを引き起こしているのであり、彼はそれを現象として受け止め、耐えるほかないのである。つまり、辰也がいじめのある現状を変えようとしたら、家庭環境のほうに手を加える可能性が高いのである。

 

 

滑皮は風呂場で丑嶋を中途半端と言い切る。この風呂描写は、前回風呂に入ろうとしていた続きとおもわれるが、だとすると3億をあっさり「無理っす」といわれた直後ということになるだろう。滑皮や梶尾から指示がいった描写がないので、丑嶋にはおもうところがあるらしい獅子谷がかってに行動に出ている可能性もないではなかったが、この流れからすると、たぶん指示したのだろう。滑皮がわからせようとする「差」とはなんだろう。ハブたちを全滅させた丑嶋を知っているわたしたちは、いくら彼がカタギのふりをしても、丑嶋が中途半端だとはとうていおもえない。そして、じっさいのところそういうおもいは滑皮にもあるのではないかとおもわれる。滑皮は以前から丑嶋に妙なシンパシーを感じているようだった。少なくとも、ハブたちをやるつもりなんですけど、という丑嶋に動揺してみせた熊倉みたいに、彼の本質を見誤っているということはないとおもわれる。だからこそ、なにを証拠にいっているのだか、熊倉殺し、ひいてはハブ組全滅の真犯人が丑嶋だということも信じることができるのである。

とすれば、滑皮が半端だとするのは、たんじゅんに強さだとか、ひとを殺すこともためらわない危険さとか、そういうことではない。ではふたりの差はなにか。それはひとことでいえば、ヤクザ入りを否定したか肯定したか、ということではないかとおもわれる。

滑皮は丑嶋を「中途半端」とし、同時にじぶんを「生き方を決めた人間」と規定する。この言い方を踏まえると、やたら滑皮の風呂描写が多いのは偶然ではない。いまはレーザーで消したりとかいうこともあるようだが、原則的に入れ墨というものは“消せない”、一生背負っていく刻印のようなものとして認識されているだろう。タトゥーという呼び名で、オシャレのひとつとしてそれを行うたとえばミュージシャンとか格闘家が、愛するもの、子どもとかパートナーとかの名前を彫るのも、表面的なものがもたらす印象は異なっても、実は同様の動機によるものだ。じぶんはそれを背負って一生を貫くという自他に向けての表明が、入れ墨という行為なのである。獅子谷のようなタイプもあからさまな入れ墨をしているものだが、それはどちらかというと威嚇のための道具であるぶぶんが大きい。もちろん、ふつうの感覚からすると、生れたときからからだに絵が描かれているひとというのはいないので、目に入ってくればぎょっとするし、恐怖感も覚えるかもしれない。だが、それがもたらす恐怖というものは、表面的なデノテーションではなく、コノテーションである。たとえば赤という色は、パトカーなどの緊急車両が点滅させたり、どこにでも設置されている消火栓を縁取っていたり、あるいは横断の禁止を意味して信号機が照らし示したりしている色だが、赤という色それじたいに禁止や抑制の効果があるわけではない。いや、心理的にはあるのだろうが、信号機をみたことのないひとがそれを見て渡るのをやめるということはないだろう。わたしたちはそういう経験を通して赤色というものに危険や警戒のニュアンスを感じ取るようになるから、別の場所で赤色の点灯を見たときにも、なにか警戒したほうがよさそうなものがここらにはあるらしいということを感じ取ることができる。

仮に、獅子谷のようなタイプが威嚇の目的で墨を入れているのだとしても、入れ墨そのものにそうした効能が先天的にあるのではないと考えることは、それほど突飛ではないのである。ではどうしてわたしたちは獅子谷の入れ墨にぎょっとするかというと、ヤクザがヤクザたる覚悟を表明するためにそれをしているということを知っているからである。実物を見たことがなくても、子どものときに映画や漫画で一度でもそれを見たことがあり、しかものちにそれを大人から説明されたとき、わたしたちはそのことを鮮烈に記憶するだろう。そして、からだに人工的に絵が描かれていることそれじたいが先天的に孕む生臭い違和感と、後天的に耳にした言語的なエピソードが合致したときはじめて、わたしたちのなかにおける入れ墨の価値は決定する。ここでは入れ墨に限ったはなしになっているが、髪型、服装、言動など、基本的にそうした暴力的なにおいをさせる威嚇の道具というものは、ヤクザのふるまいに原因がある可能性が高い。極端なことをいえば、肉蝮とか三蔵みたいなタイプを除いて、獅子谷のような人物が半グレでありながら脅威的にみえるのは、ヤクザがそうした文脈を形作り、それぞれの道具に価値をほどこしているからなのである。

 

 

長くなったが、「生き方を決めた人間」と自己規定する滑皮がやたら風呂に入るのは、おそらく「ヤクザとしての生き方」を決定したものとして、入れ墨がもっとも象徴的に機能するからなのだ。では丑嶋は、丑嶋なりの生き方を決めていないのかというと、もちろんそんなことはない。彼は彼なりの生き方を貫き、数々の、ヤクザ顔負けの危機を乗り切ってきている。ちがいはヤクザなのかヤクザではないのか、その点だけだ。そして、滑皮にとってはそれこそが重要なのだ。まずひとつには、いま見たように、アウトローたちの言動が、威嚇や脅しなどのためにしっかり機能するのは、ヤクザがそれを意味づけているからだ。極端ないいかたをすれば、獅子谷は腕にこれみよがしの入れ墨をいれてカタギの連中を威嚇するのだが、その腕に宿っている脅威は、ヤクザからの借り物なのである。そしてそれは、入れ墨以外のどの装置にかんしても同じことがいえる。アウトローたちがつかう、アウトローであることを外部に示す記号は、すべてヤクザがその価値を担保したものであると、日本にかんしてはそのようにいってしまってもまちがいないだろう。丑嶋は、まず巨体であることと、B系のファッションであることが特徴だが、巨体にかんしてはともかくとして、服装については、ヤクザ外のものから借りてきたイメージであるぶぶんは大きい。その意味では丑嶋はヤクザになんの借りもないわけだが、具体的にどのぶぶんが、ということはここではさして重要ではない。いずれにしても日本における悪事の背景にはすべてヤクザがかかわっている、というか、日本における悪事の背景にかかわるものをヤクザと呼ぶのであり、丑嶋のケツモチ問題にかんしてはこれを免れることはなかったのである。そうした意味で、単純に「ヤクザのほうがうえ」という認識が、滑皮にもないではないだろう。

それとは別に、彼は丑嶋に妙なシンパシーを抱えてもいる。滑皮と丑嶋を、もとは同一人物として、それぞれヤクザになったバージョンとならなかったバージョンとしてとらえることができるかもしれない。そして、入れ墨が示すように、滑皮はヤクザとしての道を選んだ。それは後戻りのできない道であり、ヤクザであること以外の選択肢をみずから抹消したことを意味する。彼が悪人としてヤクザにあこがれたぶぶんがあったとしても、いいことばかりではない。いまの彼は稼いでいるが、そううまくいかないこともあるだろうし、うえから大金をせびられたり、わけのわからない理由で肘鉄をくらうこともある。そしてそれに逆らうことは許されない。気に入らないから辞めるということもできない。厳密にはできるだろうが、かんたんではないだろうし、アウトロー的には不名誉なことだろう。それでも、彼はそこに美学を感じ取り、その道を選んだ。しかしヤクザを厭う丑嶋は、その道を避け、ヤクザから見ればいつでも後戻りのきく「半カタギ」のような位置にしがみついている。丑嶋にはそのつもりはないだろうが、みずからカタギとしての生き方を断つ滑皮のヤクザ的生き方からすれば、逃げ道を確保した「中途半端」にしか見えないのである。生物としては、まず生き残らなければならないので、どちらかというと丑嶋の生き方のほうが合理的かもしれない。だが、暴力と悪の文脈を掌握しているヤクザは、それを非合理に変えてしまうだろう。滑皮は、丑嶋にじぶんとの「差」をわからせると、そのように宣言したが、その描写をはさんで獅子谷は丑嶋に迫っている。獅子谷ほどの強力な不良をコマに使えるというのはヤクザでなければ考えられないことである。それもこれも、ヤクザであることのよいこともわるいこともぜんぶひっくるめて背負う覚悟を、彼が決めたからなのである。

 

 

ただやはり、いってみればただの闇金でしかない丑嶋に、わざわざ「差」をわからせるというのは、逆にいえば、熊倉の件を踏まえても、彼が丑嶋を同列ととらえていることを意味するかもしれない。過去エピソードなども含めて、彼の丑嶋評価みたいなものをもう少し見たい気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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