すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10426281677.html

・考察‐価値観は人それぞれという価値観

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10159270907.html

・考察‐共有と共感、その発端

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html

・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10422484912.html

・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10855081068.html

・映画評‐『キャリー』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10202697077.html

・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10372611010.html

・アニメ批評-侵略!イカ娘

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10803805089.html









バキ感想最新・刃牙道

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10079104494.html

 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10036290965.html

 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10016899943.html

 ・ピクル対範馬刃牙編

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10010553996.html

  



ウシジマ感想最新

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10099471132.html

 ・逃亡者くん

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 ・ヤクザくん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10085446424.html

 ・復讐くん

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 ・フリーエージェントくん

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 ・中年会社員くん

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 ・洗脳くん

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※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第146話/妖術

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴム弾三つを同時に切り落とし、放水も車ごと両断してしまう武蔵に対し、岩間が次に取り出したのはテーザー銃である。

通常のテーザー銃は、スタンガンの一種で、非致死性であるという。空気圧で飛び出したケーブルが衣服を貫いてからだに刺さり、5万ボルトの電流が流れると。逮捕したり、相手の自由を奪ったりするための道具なので、殺傷力にかんしては高くなくてもよいのだろう。電撃が通れば、筋肉の働きがマヒしてしまうし、制圧対象の強さとか大きさとかは無関係になる。しかし今回警視・岩間達文が用意したのは特別仕様だったという。相手は宮本武蔵・・・かどうかはともかく、かなり危険な人物であり、しかも事実として武芸に長けている。ばあいによっては重傷を負わせ、あるいは殺してしまったとしても、しかたないのかもしれない。ケーブルは倍近い10メートルの長さに、そして5万ボルトの電圧は10倍の50万ボルトに改造されていたのである。ここまでになると、もはやこの道具は非致死性ではない。捕縛のための段階ではなく、それじたいで相手を殺すことのできる武器なのである。

 

 

電撃にかんしてはちょっとそれがどういうものか想像もつかないが、武蔵もこれを受けて平気で歩をすすめるというわけにはいかないようだ。手足がピンと伸びて漫画みたいなビリビリ状態になってしまっている。武蔵が倒れても電撃は続く。トリガーを引いているあいだだけ流れる仕組みなので、異様なテンションの岩間がそれを引き続けているのである。岩間の行動はある意味正しかった。彼はおそらくなにより恐怖から、倒れた武蔵にも電気を流し続けたのだろうが、もっと徹底的にやらないとこの相手は倒せない、という判断も多少はあっただろう。だが武蔵の殺意やオーラを真正面から受けて、じっさいに交渉していたわけではないほかのものたちが岩間を抑える。岩間がアブないテンションになっていることはまちがいない。だから倒れた武蔵に攻撃を続ける岩間をとめるのも、ひととしてまちがってはいない。ふつうの感覚では、電撃は効果的で、最悪殺してしまうつもりで放ったのだとしても、いま武蔵は倒れているわけで、だとするならもうそれをやめて、捕縛の作業に入るべきなのだ。

 

 

倒れた武蔵を隊員たちが囲み、ああでもないこうでもないと好き勝手にしゃべっている。武蔵はたぶん、しばらくのあいだは気絶か、あるいは完全に動けない状態だったのかもしれない。そのあいだに彼らは武蔵を拘束すべきだったのだが、彼らとしてはまず武蔵がそもそも生きているのか、生きているとして助かるのか、という常識的な切迫があった。だから、彼らのうちにはひとりも、縛れとか手錠をかけろとかいっているものがいない。武蔵の異様な風貌をはじめて近くからしげしげと見て感想を述べるものと、脈をみたり救急班を呼んだりという業務上常識的な行動をとっているものと、この2種類しかいない。

と、その騒ぎのなかで武蔵の小声がわずかに聞こえ、一堂が反応する。武蔵は岩間の名前を会話のなかから聴き取った。それを憶えたと。

岩間はその意味を身体的に感じ取ったか、血の気のひいていく表情で、まだ武蔵に刺さったままのケーブルに再び電流を流そうとする。しかし武蔵は、「ぐるちゃっっ」という不可解な音とともに立ち上がりながら刀をはらい、ケーブルを斬ってしまう。岩間がトリガーを引くよりも速くそれをやっているわけだから、かなりの早業である。

武蔵は電撃を猛毒と解釈したようだ。矢が触れると同時に全身がしびれ、そしていきなり回復したと。いきなり回復するのは、電撃固有の効果なのかどうか、よくわからないが、毒としてこれほどのものは初めてだと武蔵はいう。死を予感したか、岩間は小便をもらしてしまっている。仕組みはわからないが武蔵からすれば妖術のようなものである。捨ておけぬと、武蔵は岩間の首に刀をすべらせる。岩間はじぶんがどこを斬られた理解できただろうか。血を吹きだしながら岩間の頭が落ちていく。今夜二人目の犠牲者は岩間なのであった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岩間の首が大勢の見ている前で滑り落ちる。これはもう、どう考えてもイメージ斬りではありえない。岩間の以前に切られた大塚は、橋のしたで斬られたために、その現場を目撃したものは誰もいなかったし、死体も確認されていない。その意味で大塚がされたのはイメージ斬りで、もしかするとまだ生きているのではないかと推測することは、それほど不自然ではなかった。しかしこれでまずそれもなくなったと見ていいだろう。イメージ斬りの効用はいくつかある。ひとつには刀が手元にないときにそれに代用させることできる。また刀をもっているとしても、相手の勢いをそぐときなどに戦術的な道具として使えるし、場合によってはそれで戦意喪失したり、気絶してくれたりすることもある。では武蔵がなぜそれをするのかというと、刀があって、しかも戦術的なものでない場合、それはやはり、命を奪わないためであろうと考えられる。じっさいには武蔵がイメージ刀を用いるのは刀がない場合と、戦術的にくりだす場合とが多いので、そういう動機が武蔵にありうるというはなしをしているのではない。そうではなく、もし武蔵が大塚をイメージ斬りしたのだとしたら、どういう動機なのだろうかというはなしである。そして、大塚の場合を単独で見たときには、否定できないという意味でまだその可能性はあったわけである。けれどもここであっさり岩間の首を落としたことで、この可能性は消えてしまった。大塚との対峙で武蔵がイメージ斬りをする理由はない、少なくともなるべくそれだけで済ませようとする理由はないということになるのである。

 

 

100人の警官じたいはまだ無傷で残っているわけだが、指揮者を失ってしまったいま、それが抱えうる戦力は半減してしまったと見てもよいだろう。統率がとれないただのごちゃごちゃした集団になってしまっては、もはや勝ち目はない。戦場では序列がしっかり決まっていて、上官が死亡してしまった場合はそのすぐ下のものがすぐに指揮官として機能しなければならなくなるが(映画情報)、警察というのはどうなのだろう。この場に警部がいればすぐに切り替えられそうだけど、警視が先頭に立っているような集団なのだから警部がいっぱいいるなんて状況にもなりそう・・・。

岩間は電撃をとおして武蔵と対峙した。この時点でも彼らは100人という有利をまったく生かしていない。ただ、武装した岩間と武蔵がたたかっているのを100人が見物しているだけである。しかし電撃というチョイスじたいは、一対一のたたかいだとしてもかなりよいものだった。じっさい武蔵は危なかった。あのまま岩間が狂ったように電気を流し続けたらそのまま死んでいたかもしれないし、そうでなくても即座に100人がかりで武蔵を縛り上げたらもうアウトだった。しかしそうはならなかった。それはいくつか理由がある。

ひとつには、警察側が想定していた作戦が、戦略としては成功してしまっているということがある。というのは例の植芝盛平にかんする作戦である。あれを、集団の警察が、強力な個人を制圧するための典型的な作戦だとここでは仮にしよう。すなわち、放水車で囲んで水を放ち、丸くなって注意が散漫になったところに網をかけて動きを制限し、素早い移動ができなくなったところに複数の人間が長い棒で殴りまくると。これを一般化すると、注意を散漫にして、動きを制限して、とどめをさす、ということになる。テーザー銃の前に放水が行われたことは、警察がこのときの作戦の基本的なぶぶんを踏まえている可能性を示唆していた。それは失敗してしまったわけだが、しかし武蔵はけっきょく電撃を喰らっているので、「注意をそらす」ということに関しては省略できたことになる。もし電撃が網のかわりであって、筋肉をマヒさせることで動きを制限する、網のようなものだとしたら、このあとに彼らは「棒でめっちゃ殴る」という攻撃に移ることになるが、冷静に考えるとそれも省略できる。電撃は、動きの制限とそのあとの攻撃を兼ねているからである。

つまり、作戦は成功している。出口王仁三郎の一件で伝説の植芝を捕まえなくてはならないかもしれないとなった警察が、そのときに考えた奇抜な作戦は、武蔵において実現されているのだ。しかし問題はそのあとである。棒で殴りまくって、植芝がぐったり動かなくなったとする。そのあと彼らはどうするのか。網を払って、数人で縄や手錠でもって拘束するのだろうか、それとも、とりあえず網のままくるんでしまい、どこか屋内に運んでから同様のことをするのだろうか。問題なのは、ぐったりしているのがじっさいの症状なのか、あるいは演技なのかをたしかめるために、またどちらであるにせよ、最終的な拘束を行うために、彼らはどうしても接近しなければならないのだし、網などの方法によっては、一時的にそれを解除しなくてはならなくなるのである。

その点にかんしても、実は岩間は最善を尽くしていた。なぜなら、テーザー銃のケーブルは武蔵に刺さったままだからである。ぼこぼこに殴った植芝から網を取り払ったら、急に元気に動き出したとして、これに再び網をかぶせるのは難しい。しかし岩間が再び電気を流すことは実にかんたんだ。ただ人差し指にちからをこめればよいだけである。しかしこの点にかんしては、このテーザー銃がふつうより強力なものであったことが、岩間にじゃっかんのためらいをもたらした可能性を考えなくてはならない。というのは、多くの隊員が武蔵に接近し、下手すると触れている状況で、一撃でショック死してしまうかもしれないこんな電撃を行うのは、必要を感じたとしても、やはり一瞬のためらいをもたらすにちがいないのである。

だとしても、である。岩間のもたらしたこの状況は、それを踏まえても、植芝盛平逮捕作戦の計画の応用だとしたとき、最善を尽くしているといえるんじゃないかとおもわれるわけである。

しかし武蔵はそれを超えていく。ためらいがあったとしても、ただ人差し指にちからをこめるだけという状況を、起き上がってケーブルを切るという武蔵の流れるような動作がスピードで上回る。これなんかを見ても、やはり武蔵はケーブルをよけられなかったわけではないのだろうとおもわれる。いつもの、好奇心と油断からくる様子見だったのだ。ちょうどついさっき、範馬刃牙のブラックペンタゴン篇を読んでいたのだが、そこで、複数の刑務官に囲まれて銃を向けられているバキが、運動神経を司る小脳を正確に撃たなければ、じぶんは確実に動く、というようなことをいっていた。たぶん、武蔵もそういう感覚なのである。死が目前にあるような戦場に生きた武蔵にとっては、むしろ重傷は日常だったのではないだろうか。死にかけたこともあったかもしれない。だが死んでいない。そういう経験を経て、武蔵は少々のダメージでは人間は死なないということを知っただろうし、またじぶんにかんしては運動量を損なうこともできないということを悟ったのではないだろうか。武蔵は油断ばっかりしているバキと比べても、技をくらうことが多い。じっさいちょっと天然気味なところがあるから、シンプルな油断もけっこうあるとはおもう。しかしそこに、現代にやってきたことによる好奇心と、もうひとつ、この悟りがある。武蔵はからだじゅうに傷がある。おもえばそれも、技術的に秀でた剣士というようなイメージとはちょっと遠い気がする造形である。バキの攻撃をくらって脳震盪を起こしたときのリアクションなどを見ていると、どうも意識を飛ばすタイプの攻撃は戦国時代にはあまり経験していなかったようである。だから、戦闘中に気絶してしまう、というような状況は、たしかに不慣れなぶぶんがある。しかしその以前に、武蔵には、ちょっとくらい斬られたり撃たれたりしても、じぶんは死なないし、表面的にはなにも変化が起こらないという確信があるのである。

 

 

武蔵には動こうとおもえば人差し指が数センチ動くあいだに起き上がって切るということができてしまう。警察の作戦じたいは成功している。しかし武蔵はそれを超えていく。なぜそういう矛盾した状況になるのかというと、もちろん警察が武蔵の実力を見誤っていたためである。作品の構造として、警察が植芝という前例を参照したことじたいはまちがっていない。なぜなら、何度か考えたように、イデア的な原物語の世界を想定したとき、漫画世界や、わたしたちの現実世界を含め、それがどの物語に翻訳されたとしても、必ず同じ姿をとるものとして、植芝盛平はかなり近いポジションにあるからである。ただ、じっさいには、塩田剛三が語ったとされるこのはなしは、梶原一騎的手法の一環として盛り込まれたもので、作中で植芝盛平が実物あつかいされているわけではない。実物あつかいされたのは武田惣角であり、植芝盛平は作中では御子柴喜平に翻訳され、塩田剛三(の素体)の翻訳である渋川剛気に続いているのである。つまり、警察のとった作戦は、わたしたちの世界に生きていた植芝盛平を想定したものであって、これは(作中においては)物語によって姿をかえうるものとして、扱いがことなる人物なのである。

岩間は前回武蔵を「神話」あつかいしていた。これは、翻ってじぶんたちを「現実」側と考えていたことを意味している。このとらえかたそのものは、自然なもので、可能性を感じさせる。だが問題なのは、彼らが神話を現実の文脈で解釈してしまうということだ。未開の国や地域にある神話は、隣り合った村でも、似ているようで微妙にはなしの内容が異なっていることがある。それらは、その差異によって、ある小宇宙を示すようでもある。神話はそれじたいで「神話典」になるのではなく、ただ神話的思考法が感知する世界を示唆するだけのものでしかない。ある神が十字路を右に曲がったのだとしても、別の神話では左に曲がっているかもしれない。そんな状況で右であることの意味を探究してもしかたない。重要なのはそこで重複している曲がるという行動が表象しているなにかなのである。ところが、神話を現実の文脈で解釈するものは、この十字路をまるで地図でもつくるかのよう読んでしまう。植芝用に考えられた作戦は、バキ世界ではあるいは御子柴用に考えられた作戦であったかもしれない。この発想も、現実と地続きであるという点で、可能性が感じられる。だがその「現実」は、武蔵からはずいぶん遠いものだった。神話はひとつの解釈でしかない。バキたちが肖像画や五輪書から宮本武蔵というものを受け取り、それを想定していたせいで実力を見誤っていたのも、構造的には同じことである。肖像画も、著書も、解釈という点では神話にほかならないのであり、武蔵という人物の側面、ひとつの表象でしかない。彼らはそこに現実的空想を加えることで武蔵のイメージに受肉させてきた。それはもちろん実物の武蔵とは異なっているわけである。バキたちの前には、本部という、文字通り武蔵と地続きの人物が存在した。しかし警察にはそんなものはない。せいぜい、伝説でありながらまだその生を皮膚的に感じることのできる御子柴を参照するくらいなのである。しかし、おもえばこのはなしは、御子柴(植芝)を捕らえようとした警察でさえが、神話の住人である。だからこそ、このはなしはおもしろおかしく語ることができる。「現実」の人間である岩間は、神話のおはなしを現実の方法でそのまま実行してしまったわけである。

 

 

 

 

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月組東京公演『グランドホテル/カルーセル輪舞曲』観劇。2月21日火曜日15時半開演。

 

 

「おかしな二人」以来の初日観劇だぞ!本公演ではひょっとすると生まれて始めてかもしれない・・・。テレビでしか見たことのない組長とトップの挨拶とか、終演してから何回も拍手で呼んだりとかあんまり経験のないことがもりだくさんだった。

宝塚以外の記事からうちに入ってこられたようなかたも読まれているようなので、それも踏まえていうと、本作は相方がファンの例の華形ひかるが、ものすごい久しぶりに本公演に出演している公演である!どういうことかというと、宝塚にはいくつか公演の種類があって、基本的には本拠地宝塚にある宝塚大劇場と東京宝塚劇場で本公演というものをまわしている。宝塚には5組あるが、だいたい40日くらい、各組が公演を担って、まず宝塚大劇場でこれを行い、続いてあまり日をあけず東京でもこれを行う。本公演には全組子が参加し、だからこの5組に所属しているタカラジェンヌは必ず本公演に参加することになる。しかし華形ひかるは現在専科という、俗にスペシャリスト集団と呼ばれているグループに属している。通常、トップになったタカラジェンヌはそのまま退団することになるが、宝塚史上数少ない例外として、現在では轟悠という男前がトップ退任後理事長を兼任しつつ専科に属し、そのほか学年がかなりうえで、公演では老人の役や、質的なものではカバーできない悪役、圧倒的包容力の神父(つまり英真なおき)とかをやるようなタカラジェンヌがここに属することになる。僕が子どものころなんかは、専科といえばほんとうに、こういってはなにだが、若いジェンヌではどうしても学芸会みたいになってしまう老人みたいな役どころをおさえる非常向きのポジションというイメージが強かったが、あるとき劇団が新専科制度ということを思いついたときから、専科のイメージもだいぶかわってしまった。基本的には本公演ではトップしか主演をはれないが、トップでなくても有能だったり美しかったりするタカラジェンヌは大勢いる。ということはもちろんそういうひとたちにもファンがたくさんいて、チケットを買っている。劇団としてはトップにさせるわけにはいかないが、作劇的にもマーケティング的にも大切にしなければならない中堅の層というのは、いまもむかしも分厚く存在しているのであるのである。これ以上のことは、空気感みたいなものもあるし、あまり露骨に書くべきことでもないのでひかえるが、ともかくそういう、実力も人気も水準以上あるような上級生の、しかしまだまだ現役のスターといえるようなかたがたが、諸々の事情で専科に異動することが増えていったのである。数年前から華形ひかるはここに所属しているのである。専科のメンバーは必要に応じて、組名義で上演される芝居やショーに派遣されることになる。それは別にいい。というか、専科には組のしばりがないから、一時期の北翔海莉のように、あらゆる公演にひっぱりだこという状況もありうるのである。問題はそうならなかったことである。それどころか、このくらいは当たり前だろうとおもわれるような出演さえないような期間がかなり続いたのだ。それでも、本公演以外の公演ではいくつか出番があった。大劇場で公演していないときも、それぞれの組は遊んでいるわけではなく、全国ツアーで日本中の劇場をまわったり、トップがディナーショーとかやってるのの反対で大劇場のそばにある小さなバウホールという劇場で若手の芝居をやっていたり、ほとんど常に仕事をしている。そういう公演には、華形さんもときどき顔を出していた。去年は横浜で宙組2番手真風涼帆主演の「ヴァンパイア・サクセション」に出演されていたが、それもそのひとつである。しかし本公演の出演がない。2014年5月の蘭寿とむ退団公演が最後で、ほんとうにぜんぜんないのである。こんなことってあるかというくらいなかったのだ。それがようやく、珠城りょうトップ就任のお披露目公演である今作で果たされたのである。

 

 

 

ということでうれしすぎる今回の公演の初日である。初日というのは千秋楽と同じくらい宝塚ファンには意味のあるものだが、僕はその意味を身体的には理解できていなかったかもしれない。劇場の外までもれでる熱気にあてられて、いまも頭が痛い。とにかくお客さんのテンションの高さが尋常ではない。あんなのは僕もはじめての経験だった。とりわけ今回は珠城りょうのお披露目ということもあっただろう。お客さんがそれぞれに抱えている(むろんわれわれも含む)わくわく感が体温になって空気に混じり、相互に作用し合って高揚させている感じなのだ。

説明したように、東京公演は宝塚で千秋楽を迎えてからこっちにやってくる。宝塚ファンは東京住まいでも日帰り乃至一泊で宝塚大劇場に行くなんてことはふつうなので(僕もむかしはやっていた・・・)、初日にくるようなひとたちはだいたい向こうでそれを見ているはずである。にもかかわらずこの熱気は、どうしたことだろう。いったい、初日とはなんなのだろうか。

映画ファンにも封切された当日に見に行きたいという欲望はあるかもしれない。しかし、それはなんというか、早さの問題であるように感じられる。早くその映画を観たい、シリーズ作なら早く先の展開を知りたい、そういう知的好奇心であるのではないかと考えられる。その点でいうと、特に今回の東京公演ということになると、早さはあまり問題ではない。たんにそれを観たいだけなら、すでに宝塚で公演は行われているわけだし、映画のように、たとえばダースベイダーの正体がなんなのかというような、展開それじたいに意味があるということもあまりない。そこにはやはり芝居固有の一回性があるとしか考えられない。宝塚のようにくりかえし公園を重ねていくような場合、そのたびに芝居の解釈が深化し、役に馴染んでいくことで、後半になるにつれて完成に向かっていく、というようなことがあるのは自然なことである。いつかも書いたように、聞くところによれば劇団四季などではむしろ、いつ観劇しても同じものを観客に届けることができるよう徹底しているようだが、それはそれで劇団の方針としてじゅうぶんありえるものである。たとえばふつうの商売でいったら、電気店にいってよくわからないパソコンかなんか買おうとしたとき、右も左もわからない新人よりベテランの落ち着いたおじさんとかから説明を受けたいとおもうのは人情である。口うるさいタイプのひとはそういうアンフェアを見逃さないし、店舗側もなるべく公平なサービスが行えるよう努力を重ねていくのは、そうした習慣があることじたいへの批判はとりあえず封印したとして、ふるまいとしては論理的だし自然なのだ。芝居にかんしても、同じチケット代を払っているのに、ある日とある日で行われていることがちがう、場合によっては質的に差異があるというのでは、消費者的目線からすればアンフェアなわけである。しかし宝塚ファンはむしろその不公平感に一回性を見出す。そのときにしか観れないもの、日程に座席まで条件を広げて、じぶん以外のありかたでは目撃することのできないものを、体験として受け取ることが喜びなのである。初日の熱気はそう説明すれば納得できるし、僕じしんもそう考えている。そして、そういう深化する出し物の、少なくとも東京における手付かずの状態、原状態のようなものを見ることができるのが、初日なのである。

 

 

以前から聞き及んでいたこととしてもうひとつ、初日独特の緊張感というものがある。これはたぶん宝塚大劇場のほうで顕著な現象なのかもしれない、観客がいる場所ではじめて行うという、より台本の意識された、張り詰めた緊張感である。芝居はナマモノなので、緊張感じたいは常にけっこうある。出演者が盛大に噛んだり転んだりしても当然誰も笑わずに芝居は続行するし、地震などのトラブルがあれば速やかに中断する。しかしこれは、今回はあまり感じなかった。というのはやはり東京だったからかもしれない、すでにすべてのメンバーが役をモノにしている感じがあって、そういう種類の緊張は特に感じられなかった。

 

 

今回はそういう華形ひかる的事情があるので、あと2回観に行く予定になっている。なので今回は内容についてはあまり触れない。というか、実はまだグランドホテルのほうの物語をちゃんと理解できていないところがあって、物語の分析どころではないのだ。グランドホテルはオリジナル作品ではないので、非常に特殊なストーリー展開であり、空気感としては蘭寿とむが退団後に主演したユイットという芝居にも似て、妖しく薄暗い雰囲気のホテルに、それぞれの事情を抱えたものたちが集まり、主人公の物語にからんでくるという筋書きである。しかしこの「それぞれの事情」がそれぞれに複雑であり、その「それぞれ感」を演出するために、その説明はあえてポリフォニックなものとなっている。じゅんばんにひとつひとつ片付けて、という感じではないのだ。加えて今回、芝居中に、同じ列のひとが急に立ち上がってトイレかどこかに向かわれたのだが、そのときにだいぶセリフを聞き逃してしまった。具体的には美弥るりかが株をどうのといっているところだが、けっきょく株がどうなったのかよくわからないのである。まあルサンクに載ってる台本を読めばいいかとおもったのだが、今回はルサンクに台本が載っていないパターンなのだった(輸入ものはたまにそういうことがある)。というわけで、ググって調べてもいいけど、やはりそれは劇場で体感したうえでしゃべらないといけないとおもうので、まだ保留にしておこうとおもう。

 

 

今回華形さんが演じられたのはかなりHENTAI的な意味でヘビーな実業家のおじさんである。おなかまわりにいっぱい巻いていて、相方はかわいいと喜んでいたが、芝居を観つつぜんぜん出てこないので、あれれ、これは、ひょっとするとひょっとするのか、すごいちょい役なのかと、あとで相方をどうなぐさめようかと心配になってきたのだが、たしかに出番は少なかったが、おいしい役といえばまさにそうで、若い娘役をむりやり脱がせてなにしてんの、という役なのであった。海乃美月が服を脱がされたとき、観客はちょっとした危機感を覚えるとおもうが、それでいて不潔感を出さないのはやはりタカラジェンヌである。華形フィルターを通さず見ているひとはたぶん腹が立つ種類の、悪役というかなんというか、HENTAIだが、この役の勘所は潜在している男性的不潔感を表出させずにふるまいとして立体化するバランス配分であるとおもわれるので、もしこれがHENTAI的な意味で不快に感じられつつも不潔感がないのであれば、それは成功しているとみていいだろう。とりあえず僕にはそう見えた。

 

 

役替わりがいくつかあるのだけど、今回は朝美絢と愛希れいかがよかった。とりわけ愛希れいかは、もう娘役トップとしてもベテランだけど、40代の役というのは初めてじゃないだろうか。それで、不思議なことに、愛希れいかは依然としてあんなに、活きのいい魚みたいにぴちぴちしているのに、しばらく見ているとほんとうに40くらいの、美しいがくたびれている、しかしそれが転じてある種の魅力になっている女性に見えてきたのである。ちょっと低くコントロールした声もすばらしい。朝美絢はその愛希れいかの付き人役で、たぶん女性なんだけど、表面的には中性的なつくりの役で、まあこのひとはいつもこんなことやらされてるから慣れているといえばそうなのかもしれないが、作品の薄暗い雰囲気を作り出している中心人物といってもいいようなポジションで、バランスよくこなしていたとおもう。このかたは鋭利な刃物みたいなビジュアルで、まだ若さがそれをもてあましているような感じさえあるひとなのだが、その先入観で、なにかこう、「ビジュアルのひと」みたいに思い込んでいたぶぶんもあったかもしれない。

 

 

恵まれた体型の珠城りょうは、今回みたいな衣装がほんとうに似合う男役で、かっこよくトップの仕事をこなしていた。きれいで鮮明な声質ではあるのだけど若干通りにくいぶぶんがあり、それが音量を一定にして抑揚を欠いている印象もある。しかしそれは包容力に転じうる。包容力は、相手に先回りして未知の場所に立ち、(大丈夫じゃなくても)大丈夫だと示す落ち着きが生み出すからである。劇団もこのひとには非常に期待している印象なので、これからどんどん豊かな役があてがわれてめきめき成長していくだろうから、楽しみに見守っていきたいです。

 

 

次は来月の10日。美弥るりかのところ聞き逃さないように気をつけないと・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第426話/ウシジマくん⑫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丑嶋が獅子谷弟一派に包囲されている現在からおよそ10年前、少年院を退院した丑嶋が竹本を呼び出したところである。

竹本は前回車の後部座席からおりてきたが、運転手つきの車ということらしい。なんでも祖父が生前贈与してくれたお金を元でにして服のブランドを立ち上げたというのだ。いったいどういう経緯だそれは。まあヤミ金くんで出てくる前に竹本がそれなりに稼いでたとしても不思議はないわけだが・・・。

用事としては丑嶋が預けていたうさぎである。鰐戸にさらわれた加納を救うために柄崎と出発した丑嶋は、現場に向かう前に竹本優希に大切なうさぎを預けていたのである。預けていたうさぎはなぜか2羽に増えている。優希はそれをうさこと呼ぶ。うーたんがさびしいとおもって嫁を入れたらしい。二人仲良く並んで、もそもそ葉っぱ食べてる。丑嶋は特に感想を述べず、黙ってそれを見ている。これがいまのうさぎだらけの丑嶋邸につながっていくのだとしたら、この子たちが彼らの始祖だということになる。丑嶋はうーたんを母親の形見として大事にしてきたが、それをつがいにするとか、繁殖させてうさぎを飼うということじたいを持続させようとかは、考えてなかったのかもしれない。というか冷静に考えるとうーたん結構長生きだな・・・。

今回のウシジマくんというおはなしは、丑嶋馨がいかにして現在のウシジマくんというものになっていったのかということが描かれるとおもわれる。しかし、そんなウシジマくんでも、生活のうさぎがかかわるぶぶんは聖域であるようだったし、ハードな日々もうーたんたちの動画を見るだけで癒される。丑嶋がウシジマであるために生じる必然的な齟齬を微調整するのが、うさぎたちなのである。けれども、もし丑嶋がうーたんという個別のうさぎに母親の面影を見出すのみで、繁殖をさせなかったら、この微調整を行う構造は現在なかったかもしれない。とすると、ウシジマが成立していなかった可能性もある。

竹本優希もまた、ウシジマと丑嶋の共存にかんしては重要な人物で、当ブログでは丑嶋はおそらく優希にシンパシーを感じていたのではないかと推測してきた。ひとことでいえば、丑嶋と優希は似ているところがあるのである。その優希が丑嶋には無断でうーたんに嫁をあてがい、のちのうさぎ王国の準備をしたというのは、なかなか感慨深いものがあるのである。

うさぎを家において、ふたりはしばらく散歩したようだ。また連絡してといって、優希は去っていく。

 

 

 

闇金の海老名店長に連れられて、柄崎と加納はグループの社長である獅子谷の待つキャバクラにむかうところである。だがその前に海老名は、獅子谷のことをまだあまり知らないふたりに注意をする。くれぐれも社長の前で失礼のないようにと。社長もそうだし、今日はいないみたいだけど、弟の甲児も変なタイミングでブチギレるから注意しろと。海老名もそうとう悪人だけど、まだはなしのわかる人物のようである。前回も罪悪感を抱えているらしい柄崎に、割り切るようにいっていた。だが、人格的にどうこうというよりも、これはそれだけ獅子谷が怖いということでもあるだろう。

 

 

待っていた獅子谷兄はぱっと見好人物である。細部は現在の獅子谷弟とよく似ている。というか、まったくいっしょだ。黒い半そでの服で、同じネックレスをしていて、たぶん入れ墨の柄もいっしょだろう。ただ、(現在の)弟よりかなり小さい、というか細い。腕っ節でどうこうというタイプではないのかもしれない。そんで目がぱっちりしていて、入れ墨や服の趣味をふつうにしたら仕事のできる営業マンみたいになりそう。

獅子谷のグループはシシックという社名らしく、海老名の店はそこで今月の売り上げ1位になったらしい。同時に弟が格闘技の大会で優勝したらしく、ご機嫌な兄はみんなをお祝いするつもりだ。空腹なら寿司をとればよいし、女の子を持ち帰ることができたらホテル代まで出すと、気前のよさを見せている。が、それまでのハイテンションがすっと落ち着いて、正面あたりに座っている鯖野という別の店長にからみだす。売り上げ最下位は床に正座だろ、なに座ってんのと。ということは、このお祝いの場所には売り上げ1位と最下位の店長が呼ばれているわけである。柄はちがうが、鯖野は現在の獅子谷たちが着ているものと同じくモンモンモンスターと書かれた服を着ている。獅子谷グループのユニフォームなのだろうか・・・。

売り上げが先月の半分だという鯖野のところもそれなりにたいへんなようだ。鯖野は鯖野なりに手をつくし、新しい名簿屋からリストをもらったりしているが、貸付も回収もうまくいかないと。獅子谷は鯖野にむぎ焼酎を二回も一気させる。

獅子谷は鯖野にとっての客とは誰かと訊ねる。もちろん、鯖野は金を借りにくる連中と応えるが、獅子谷のこたえはそうではない。金主だという。サラ金は銀行から低利で融資を受けて10倍の金利で貸し付ける。高利貸しは小金持ちの地主や医者から借りる。そして闇金は、なにか違法なことでもうけている金主の汚れた金を借りる。そういうシステムになっている。だから、鯖野は獅子谷のために必死にならなければならないし、鯖野は、従業員たちが鯖野のために必死になるよう教育しなければならないと。

鯖野は言い訳をする。口をすっぱくして教育してるけど、優秀な店員はすぐ独立していなくなっちゃうから、店にはろくなやつが残っていないと。ふーん、アウトローでもそういう事情は同じなのね・・・。

しかしいかにも言い訳くさいこんなことを獅子谷の前でいうべきではなかった。獅子谷はうまいというなにか食べ物を箸でで出して、鯖野に食べさせようとする。こんな状況で餌でもあげるみたいに食べ物が出てくるわけないのに、鯖のは反射的に舌をだして口をあけてしまう。それを真下からアッパー。鯖野は舌をかんでしまう。ちなみにこのときの獅子谷の殴り方は、素手のものではない。もともとアッパーにあたる下突きという技は空手などの技術にはなかったのだが、それは、素手の場合基本的には人差し指と中指の根元の関節にあたる拳頭をつかって殴るからである。他にもフックなどのパンチもグローブありきの技術で、フックやアッパーの軌道で拳頭を当てようとするとかなり接近しなくてはならないので、素手の技術としてはあまり合理的ではないのである(そのかわりに、似たような軌道のものとして空手には手刀や孤拳などの古い技術がある)。ケガを予防し、正確にちからが伝わるよう、手首がまっすぐになるようにしようとすると、たとえばフックだと掌側を体に向けて打たなければならなくなるし、そうするともうほとんど密着したような距離になる。フックの場合はほとんど裏拳をつかうような角度で用いられたり、顔面殴打禁止などのさまざまなルールによる競技化を経て、素手のフックやアッパーも洗練されていき、いまではふつうにつかわれているが、とりあえずもともとはそうだった。で、獅子谷のアッパーはグローブをつけているときの殴り方にかなり近い。戯れに伸びたような拳とはいえ、逆にいえばそのぶん反射的な打撃だろうし、獅子谷はボクシングかキックボクシングのような重いグローブをつけた格闘技の修練者なのかもしれない。

言い訳ばかりで聞く耳もないなら耳もいらないなと、同時掲載の肉蝮伝説と同じようなことを言いながら、獅子谷はマドラーを鯖野の耳にいれようとする。獅子谷からすれば、鯖野はじぶんのために言い訳なんかいわず必死にならなければならないはずだし、鯖野の部下がどれだけ使えなくても、鯖野はそういうふうに教育をしなければならない。それを理解していないということなのだから、聞く耳がないというのである。鯖野は必ず1位をとると約束するのだった。

 

 

それから一ヶ月がたったということだろうか。獅子谷からの着信に鯖野が震えている。しかしそれは祝福の電話である。鯖野が売り上げ1位になったからお祝いをしようというのだ。よくがんばったらまめに誉めてお祝いをするというのは、獅子谷もよくできた上司なのかもしれない。よくできた上司は不出来な部下にアッパーをくらわせたりしないとおもうが、それはまあアウトローなので・・・。

獅子谷がいるのは現在の獅子谷道場によく似ている場所だ。近くには海老名もいて、鯖野が約束を果たすことができてホッとしている。海老名が意外と気の利く人物ということもあるし、先ほどと同様、それだけ獅子谷がおそろしく、明日はわが身という感覚があるからだろう。

しかし、鯖野が震えていたのは獅子谷が怖かったからというだけではなかったようだ。売り上げを上げるために従業員を追い込んだら、事務所で自殺してしまったのである。よく見えないけどどうなってるんだろう、上のほうから伸びている電気のコードを首にぐるぐる巻いてしまっている。

獅子谷は即座に指示を下す。応援に人を出すから、携帯をすべて破棄し、帳簿等の書類を持ち出して事務所を空にしてから警察を呼べと。鯖野はどうなるのか、通報だけしていなくなるということなのか、残るとしたらなんと説明するのか、よくわからないが、とりあえずそれで大丈夫なようだ。獅子谷は死んだ従業員に保険金かけとけばよかったな、などと笑いながらいう。そして、この教訓を生かし、海老名の前で、柄崎や加納にもかけとくか、などというのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

だいぶはなしが進んだが次号は休載。3月6日発売号から再開ということです。

 

 

まだ獅子谷兄のイメージは輪郭を結んでいない感じだが、とりあえず抜群に仕事ができる人間であることはまちがいなさそうだ。

獅子谷のいっていた、闇金の真の客は金主というのは、どういう発想だろうか。これは、債務者も含めて、彼らは金主からはじまる金の移動のシステムに組み込まれているということかもしれない。債務者が必死で闇金に金を返すように、闇金は金主に必死で金を返す。また、獅子谷グループのいち店舗の店長である鯖野は、獅子谷から借りた金で店を運営しているのだから、この流れでいえば同様にして必死に獅子谷に金を返さなければならない。この金の運動ぜんたいで見れば、獅子谷は真の客は金主であるとみずからがとらえて実践することで、鯖野に売り上げアップを要求することができるし、また債務者から容赦なく取り立てることが論理的には可能となる。清貧を社是とする会社の社長が豪華な生活をしていたら説得力がない。しかし社長みずからがそれを実践するのであれば、会社に所属する以上、社長がそれを部下たちに求めることに矛盾はないし、部下たちもそれに応えるようになるだろう。そうとらえるとこれは、獅子谷が暴力で鯖野を屈服させたり、間接的に理不尽な取立てをくりかえしたりすることを正当化する文脈であるといえるかもしれない。しかしだからといってそれは、金主が真の客であるということにはならない。客とはなにかというと働く人間の数だけ定義がありそうだが、広い意味でとらえればそれは「ゲスト」である。テレビのバラエティ番組やディズニーランド的な響きでとらえてもよい。つまり、やりとりが成立しているときにその場を訪れている、常在ではないもののことである。通常の意味では、客というものはなにか必要があってホストを訪れるものであり、ホストはそれに応えようとする。たとえばこれが小売店だと、競合店などの文脈もかかわってくるから、そこにはサービスも発生し、ゲストの意味は最初のものとはかなりずれてくる。まずゲスト側の必要があって取引ははじまるのだが、競争の場面ではゲストはそのホストでなくてもかまわないことになるので、立場はずいぶん変わってくるのである。そうしたあとで、ホストはゲストを「それがなければじぶんたちが成り立たないもの」ととらえる余地が出てくる。現実には、個々のゲストにかんしてはそうともいえないのだが、ゲストという概念全体にかんしていうと、それは当然そうなる。客がひとりもこない小売店は、存在を持続させることができないのである。もともとのゲストの概念でいえば、そもそも客がぜんぜんこないということは、「必要」が生じないということなのだから、取引の発想じたいが出てこない可能性が高い。誰も必要としないもの、消しゴムのかすとか、抜け毛とか、そういうものを集めて商売を始めようとするものはいないし、いたとしても、なぜ客がこないのだろうとは疑問におもわないだろう。まず「必要」があり、そののちに、それで商売をしようという発想が出てくる。そして、「必要」がある以上、ゲストは必ずいる。だから、ゲストにかんして「なくてはならない」という感想が出てくるという状況は、そこに競争の原理が組み込まれたあとなのである。

獅子谷のセリフにかんしていうと、銀行や高利貸しの例を引いたあと、じぶんたち闇金が出てきて、だから闇金は必死で金を返す、というふうにいっているが、この「だから」というところが微妙によくわからない。闇金の金主は、悪いことをして儲けている連中で、そこから借りる金は表に出せない金だ。“だから”、そういう汚れた金ははやく返してしまいたいと、そういうふうにも読める。しかしそれをいったら、闇金じたいが違法であるわけで、仮にそういう意味だとしてもちょっとわかりにくい。丑嶋はおそらく、1巻に出てきた金主の金をすべて返済し、現在は社長じしんが資金を出しているのではないかと想像できるが、そういうことも踏まえると、獅子谷のいう「必死になって返す」というのが、丑嶋のように全額返して縁を切るということなのか、それとも債務者が延々と返し続けるような状況と同じようなことを指しているのか、そのあたりも混乱する。だから、獅子谷がほんとうにいおうとしたことは、実はよくわからない。だが金主を客と呼ぶ意味にかんしては、いま見たように、おそらくこの「それがなくては存在できない」ということではないかと考えられる。金主は資金を提供するが、提供しない自由もある。小売店のお客がその店をやめて別の店に行くように、金主は獅子谷に金をわたさないという選択をすることもできるのである。

 

 

闇金は金主がいなければ存在することができない。これは真理ではないが、獅子谷の真意はおそらく別にある。それは、最初に見たように、彼が金主を客と規定することで、彼は鯖野や債務者に対して客になることができるのである。彼が金主を言葉のうえだけでも客ととらえれば、鯖野は同じように獅子谷を客ととらえて必死で「サービス」しなければならなくなるし、債務者も同様に鯖野に「サービス」しなければならなくなる。なぜなら、獅子谷は別に鯖野でなくてもいいのだし、鯖野もその債務者でなくてもいいからである。ほかに金を借りることのできない債務者は、たいていの場合選択の余地がない。その闇金に見放されたらどこからも借りることができない、そういう連中である。しかし鯖野(獅子谷)はそんな、返ってくるかどうかもわからないものに金を貸す義務はない。選ぶのは闇金側であり、金主側であり、ホストはサービスを重ねて、具体的には返済を怠らないようにして、ゲストを引き止めるほかないのである。こんなおもしろい発想は僕もいままでしたことがなかったが、道徳的にどうであれ、こういう原理を考えつくことができるというのは、やはり獅子谷のキレものっぷりがあらわれていると見ていいだろう。

 

 

 

優希はほんの数コマで退場してしまったが、この感じはまだもう少し出番があるかもしれない。服のブランドを立ち上げたって、なにかハブの気配がある感じだが、数年後にはホームレスになっているのだから、激動の人生である。優希も丑嶋同様、ゆずれないものがあり、それは丑嶋との出会いを通して形成されたものである。うーたんは丑嶋が母親を好きだとおもうことの象徴であって、それを受け取ったとき、優希はひとを好きになってみようと決心したわけである。これが、なにがあっても揺るがない優希の思想を形成した第一歩となった。そう考えると、うーたんは優希にとっても重要なものだ。丑嶋にとってみればうーたんは、ウシジマであることを休憩できる、素の時間の表象であるが、優希では愛を語るあの竹本優希が生れたきっかけであるのだ。

 

 

今回は例の肉蝮伝説が同時掲載されている。本編はウェブ連載なので、本誌掲載は今回だけだろう。タブレットとかもってないし、パソコンもブログ更新するときくらいしか開かないので、ウェブ連載のほうを読むかどうかはまだ決めていないが、とりあえず2,3日以内に今回のぶんの感想は書くつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『一億三千万人のための小説教室』高橋源一郎 岩波新書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小説は教わって書けるようになるのか? 小説はどう発展してきたのか? 小説にとって重要なのは,ストーリーか,キャラクターか,それとも,描写なのか? こうした疑問に答える,刺激的で実践的な教室.さまざまな文体を比較して,練習問題も豊富.「先生」と「生徒」の対話を追ううちに,小説とは何か,が見えてくるだろう」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

僕が小説を書いて雑誌の新人賞に投稿していたのは22歳くらいのころで、時期的にはブログを始める直後から、ブログを始めて数年くらいの短い期間なのだが、そのときいろいろ声をかけてもらったことで、まわりのひとたちにもけっこう本を読むひとはいるのだな、ということを意外性をもって受け取った記憶がある。というのはうちは理系の大学だったし、人間関係といえば遊びでつながっているサークルのひとたちばかりだったから、そういう面は見えにくかったのである。

読書をするひとというのは、僕じしんもそうだが、たいていの場合じぶんの好みについて誇りをもっている。なぜなら、本を読むということは、じぶんのなかにある言語どうしのかかわりを豊かにするということであり、読んでいる本がすばらしいものであるということは、じぶんのなかにある言語構造もすばらしいものに(なるかもしれない)ちがいないからである。かつて内田樹は電子書籍に対立するものとしての紙の本の利点(のひとつ)として、本棚に並べたときそのひとの頭脳を開示したのと同様の状況になるからだ、みたいなことをいっていたが、たしかに読書家にはそういう面がある。それは認めざるを得ない。ブログや読書メーターなどの「読んだ」という誰も気にしていない備忘録という名のアピールもそういうふうに分析できる。なにを読んでいるかというのは、じぶんがどういう人間か、ということと本人的には等しいのである。

そのときに閉口したのは、押し売りされたことはないにしても、小説を書くという夢みたいな行動をとりはじめた僕を諌める意味もあったとおもうが、じぶんの読んでいる直木賞系のベストセラー作家をあげて、僕がそれを知らない、あるいは読んでいないと知ると、そんなレベルで小説を書くつもりか、というような言い方をされることだった。当時の僕はまだまだ狭量だったし、いまならそれなりの理屈を拵えて、技巧的にベストセラー作家の価値を語ることもできるとおもうが、とにかくそのときは、小説や小説家にかんして、よく売れている、よく知られているということは、勉強や成長のためにならないばかりか、むしろ「読まなくてよい」指標ととらえていた。それが「読んでも読んでもよくわからない」という意味合いで「売れている」のならよい。しかしたいていの場合、よく売れるということは、誰もがそれをおもしろいとおもい、つまり理解できるということである。そんなものを読んでどうするのだろう、少なくとも、小説を書こうとするひとにとってなんの意味があるだろうと、素朴に疑問だったのである。小説をひとりの人間だとしたとき、誰にとっても美人であるアイドルのような存在をテレビ越しに眺めるのと、あるひとりの女性をとことん知り尽くして、このひとの魅力はじぶんにしかわからないというところにまでいくのを、ほんとうにみんなは等価と考えているのだろうかと、不思議だったのである。

読書家はそれぞれじぶんの読書にプライドをもっている。だから、周囲のひとがそういうことを言い出したのも、僕への友人・先輩としての忠告の意味も含めて、いまでは理解できる。ただ、当時の僕としては、周囲で話題になるような小説は全然「小説」ではなかった。くどいようだがいまなら、そうした小説について書くことも別に難しくはないだろう。おもえば当時は大学生、社会人になろうとするひとで満ちていたわけだから、多くのひとが小説家というのをひとつの就職先ととらえていた可能性もないではなかったかもしれない。もちろん僕としても、ぼんやりとしたビジョンではあったけれども、文章でご飯を食べていけたら楽しそうだな、くらいの考えはあったわけである。そうしたとき当然、小説を書くのであれば、売れなければならない。就職活動中やその経験者からすれば、そうした発想もごく当たり前のことだ。ある仕事がしたいけど、別にお金なんていらないよ、なんていう言説は成立しないのだし、僕もそんなふうには考えていなかった。だとすれば、売れている本はそれじたいで成功例なのだから、研究するべきであったのである。たぶん、そんなことしても小説は書けないし、売れることもないのだけど。

 

 

 

 

ともかく当時の僕は、意外と読書家というひとはいるものなんだな、といううれしい発見とともに、なんというか、微妙にかみ合わない感じに歯がゆいおもいをしていた。たしかに、僕もみんなも、本という形状の紙の束を通して物語を読んではいるが、そうじゃないんだ、それじゃないんだというおもいが強かったのである。なにがどうちがうのかを、たいていが酒の席でもあったし、酔っ払ったあたまで説明することは至難であったし、だいたいそんなサムイことはできない。

当時の僕は高橋源一郎に傾倒しており、図書館に通ってとっくに絶版になっていた古い本を読みまくっていた。本書はもっと早い段階に出会っていたとおもうが、僕は僕のいう「小説」というのがどういうことなのかを理解してもらうには、この本がいちばんではないかと考えたのである。つまり、いつものように書評形式であげているけど、これは再読なのです。

そして、仲のよい友人の、読書家としてのプライドが形成されていないもののうち、いちばん“向いている”とおもえる男に、本書を貸したのである。向いているかどうかというのは個人的な感想だが、ひとことでいえばニュートラルであることが必要だろうと僕にはおもわれた。結論を保留できる人間、理解できないものもそのままに受け取って、理解できないまま宙に浮かせておける人間、そういうひとが「小説」には向いている。彼がどういう感想をもったか、というかそもそも読んだのかどうか、僕は知らない。というのは、そのころはもう20代半ばとかになっていたとおもうし、むかしみたいに週1で集まって飲み明かすことは減ってしまっていたからである。たぶん読んでないだろうな。それはいいんだけど、僕はそれを返してもらっていないのである・・・。強引に貸したようなところもあったから、返せよというわけにもいかず、まあ新書1冊くらいいつでも手に入るし・・・というわけでずっと保留してきたのを、今回久しぶりに手に入れて読み返してみたわけである。

 

 

そういう経緯で友人に貸したようなわけであるから、いまでも僕は、小説家になろうとしているひとに限らず、小説というものがなんのか知りたいとおもっているひとには、これがもっとも推薦できるとおもっている。この手の本は高橋源一郎じしんもたくさん書いているし、保坂和志なんかもすばらしい書き手だが、けっこう長かったりもするので、トータルでみてこれがベストではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あったのかなかったのか不明瞭な「小説とは」ということについてひらがなばっかりのあの文体で説明をしてもらえたことも僕には大きな経験だったが、なにより重宝したのはレッスン6のブックガイドである。小説を書く過程の最終段階として、「あかんぼうのようにまねる」ということが本書ではくりかえし出てくる。その、まねるべき本や作家が、ブックガイドとしてたくさん示されているのだ。僕じしんもまた読書家としてのプライドがあったぶん、視野はつねに限定されたものになっていたはずである。内容にかかわらず周囲のものの忠告を素直に受け取らなかったことからしてもそれは明らかである。しかしこのブックガイドは、僕がまだまだぜんぜん知らない本や作家が、ということは文体や世界が、この世にはたくさんあるのだということを教えてくれた。久々に読み返してみても、まだノータッチの作家がたくさんいることに驚いてしまう。本書を読む前から読んでいたものももちろんあるけど、このとき名前を知ってその後読み、定着したものとしては、たとえば吉田健一、金子光晴、田中小実昌、それに現代詩の詩人たちがあげられる。特に田中小実昌には強い影響を受けて、しばらくはなにを書いても田中小実昌みたいになってしまうという症状が続いて、逆に苦労した記憶がある。

 

 

批評的な散文形式に慣れてしまうと、小説の文章からは遠ざかってしまうようなところがある。もともとは、もっと小説について研究しようというつもりでブログをはじめて、文芸批評や、それに哲学書とかも読み始めたのだけど、小説の構造を解体していくにつれ、僕自身も解体されて、むしろ僕のなかの小説は消えてしまったのである。そうならないひともたくさんいるだろうけど(最初から批評的視座で小説を書くタイプなど)、とりあえず僕はそれからまったく小説が書けなくなってしまった。フロイトはヘルマン・ヘッセの分析を断ったことがあるという。ヘッセの小説家的霊感を、分析が損なってしまうからだ。さすがフロイトというか、じっさいそういうものだとおもう。いまでは、なにを書いても低レベルのあほらしいものにおもえてしまうのである。しかしやはり小説家の書いた小説教室ということか、ちょうど「パンピングアイアン」を見て筋トレのモチベーションをあげるみたいなものだが、なにか小説が書けそうな気分が戻ってきているのを感じている。そういう意味でも、小説を書いているひとは必携だとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第145話/どっちだ

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴム弾の次に警察が使用したのは放水車だった!放水はかつて植芝盛平を捕えなければならないとなったときに警察が考えた方法のひとつだったという。連続した動作のひとつという意味ではきっと意味のあるものだろうし、そうでなくても数台で包囲する感じだったら武蔵もかなり手こずったことだろう。しかし一台で正面からねらうだけでは全然だめだ。武蔵はこれを車ごと斬ってしまうのだった。

 

 

放水はもうとまっている。武蔵は100人のほうに向き直り、動かぬ彼らを「捕らえぬのか」と挑発する。そして、「バレたのか」という。逆立ちしても勝てない相手だということがわかってしまったかと、このようにいうのである。

まず岩間は、武蔵の剣の冴えをたたえる。「水を両断」はただの表現だが、一連の武蔵の動きのなにがすごいかをひとことでいおうとすれば、まあそういうことになる。それを剣ひとつでなしとげるのはたしかにたいへんなことだろう。しかし戦闘、しかもその勝ち負けということになれば、またはなしは別だろう。彼らの身につける武具はどれも最新のものであって、耐久性も軽さも戦国時代のものをはるかにしのいでいると。それにこの人数。武蔵には60人からの吉岡一門をひとりで倒したという逸話があるが、岩間はそれを「神話の類」だという。はったりだ、という意味ではなさそうである。おそらく、岩間を先頭にしたこの集団の、武蔵を前にした直感的な感想ではないかとおもわれる。まず、彼らは人数で吉岡を上回り、また装備もおそらく彼らを超えている。そうなってみれば彼らは、それがどうしたと、吉岡の件を「神話」として片付けることができるのである。それより、武蔵のほうこそ、この圧倒的現実をどうするのかと、彼らは現実側の人間、それもそれを制御する人間として、武蔵に対するのである。

以上の宣言を受けて、武蔵は笑う。いや嗤う。誰一人として動かんなと。そしてさらに、それを「動かぬ」ではなく「動けぬ」といいなおす。その理由を、武蔵はいくつかあげていく。余裕か、優秀な武具をもつ負い目か、それとも、勝てないという弱者ゆえの勘かと。どっちだ、という武蔵の一喝に一同は緊張するが、いつかのように、蜘蛛の子をちらすようにいなくなってしまいはしない。岩間は「こっちだ」と、銃のようなものを出す。テーザー銃というらしい。発射される弾頭がどうなっているのかはよくわからないが、ふたつのコードに結ばれた電極的なものが相手に刺さって電気を流す感じのようだ。

ゴム弾もよけるばかりか切り落としてしまった武蔵だが、これはくらってしまう。武蔵の悪魔的な頭蓋骨が浮かび上がる。それはどこか嗤っているようにも見える顔である・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

岩間の取り出したものがふつうの銃だったら武蔵はアウトだった。しかし武蔵は銃の威力を知っているし、あの距離でもかわすなりイメージ刀を投げかけるなりしてこれを回避することはできたはずだ。となるとやはりこれはいつもの様子を見た結果だろう。仮にこれが銃ほどの威力があったとしても、重傷に慣れていて、死ぬまで同じ運動量を保つことのできる武蔵では、さして問題ではないのかもしれない。いままで見た銃とは異なった形状で、どうも岩間のそれを扱う感じも銃とはちがう。そんなことからまた出てきた好奇心のようなものが、これを受けさせたのだろう。ただ、電撃となるとしばらくからだが麻痺してしまうだろうし、銃がもたらすものとはまた質の異なったダメージを負うことになる。これはけっこう、失敗なんじゃないだろうか。

植芝盛平を捕らえる作戦では、放水で意識が散漫になったところに網をかけ、動きを制限し、そのあと長い棒でめっちゃ殴る、という計画になっていた。おもえば順序としては岩間たちもそれを採用しているのである。水のあとにこれを行えば、武蔵の動きを速やかに抑えることができるのだ。ただ、武蔵は別に放水を受けて防御一辺倒になってしまっているわけではないし、そもそもくらってすらいない。もし武蔵が水をくらって丸くなっているような状態で電撃を受けていたら、水ということもあって、なんかもう、たいへんなことになっていただろう。しかし水にかんしてはもう終わってしまっている。たぶん、水のあとにテーザー銃を取り出すことは作戦の範囲だったのだろう。だがそれは水が決まっていなければ、作戦としてはまったく意味がない。岩間の限界というか、ブレインを欠いた集団がマニュアル通りにしか動けない現状があらわれていると見てもいいかもしれない。

その点にかんしていえば、武蔵の挑発にもいえることだろう。武蔵は100人を動かない、動けないという。しかしこれは武蔵の戦略的挑発だ。彼らは個人ではなく、100人の戦闘力を集約した一個の巨大な生物として危険に臨んでいる。そうでなければ、つまり100人の意志が岩間や大塚などのリーダーの命令を経由してあらわれるものでなければ、彼らはぱらぱらと個々の恣意に任せて動くことになり、それは武蔵レベルの武芸者からすれば1人ぶんの戦闘力が100人の列を作っている状況となにもちがわない。彼らは細胞のひとつとして脳にあたるリーダーの指示を待っているのであり、動かないのはそれじたいで戦略的な行動なのである。ただ、それは同時に、マニュアル通りにしか動けないという現実を示してもいる。細胞が個々の意志にしたがって勝手気ままに動けば、この100人の戦略は破綻する。それを避けるためには、彼らはマニュアルにしたがわなければならない。武蔵は彼らのそうした心情をついている。武蔵は、「動かない」という戦略的行動を、それは「動けない」というのだと、解釈しなおして、挑発する。彼らとしてはリーダーの指示がないから、「動かない」という選択をしているつもりである。このときの「動かない」は、それでひとつの動作なのである。しかし個々の隊員をひとりの人間としてとらえる武蔵の視点からすれば、彼らは「動けない」だけである。そしてそれはある意味図星でもあったはずだ。武蔵の強さは驚異的なものであり、仮に指示が出て100人でとびかかることになったとしても、そして最終的には武蔵をとりおさえることに成功するとしても、最初の何人かはまちがいなく死亡する。隊員たちは、細胞としての役割を果たすために、「動かない」という選択をする。と同時に、彼らがもし細胞ではなく、ひとりの人間だったとしても、「動けない」のであり、そこで起きる現象そのものにちがいはない。命令通りに動いて最大限のちからを発揮しようと努める細胞たちは、このひとことで急に本来もっていた自我を刺激されたかたちになり、結果としてじぶんはどちらの立場でこの場に臨んでいるのがよくわからなくなるのである。武蔵は「動かない」を「動けない」と言い換える動作ひとつで、あるのかないのかいまだに不明な彼ら100人の統率を心理面から乱しているのである。

 

 

岩間は武蔵の伝説を「神話」と呼ぶ。といっても、言い方からすると、吉岡一門との激闘がデマだとか、そういう意味ではなさそうである。武蔵は大勢を相手にして勝ったこともあるのかもしれない。そこから導かれる結論は、大勢をたのみに武蔵に挑んでも負けるかもしれない、大勢であることは武蔵についてはさして意味がない、などということだろう。武蔵の前では「大勢」が無効になるのである。だが岩間の皮膚感覚としてはちがう。少なくとも武蔵に表明している感覚はそうではない。吉岡一門を上回る人数、戦国時代の鎧よりおそらく丈夫で、なおかつ軽い防具。こういったものを備えてじっさいに武蔵の前に立ってみたときの感覚が、それを「神話」であるとするのだ。武蔵の伝説は「大勢」を無効にするはずなのに、じっさいに大勢で(しかも最新の装備で)武蔵の前に立ってみると、有効に感じられる。武蔵の伝説を実話であるとしながら同時に神話であるとする心理は、こういう実感覚がもたらすものであると考えられるのである。

このとき岩間はじぶんたちを「現実」側においている。武蔵の伝説、またそれを証明するような強さを目の当たりにしても、100人という圧倒的現実を備えてみれば、それも神話にしかおもえなくなると。何度も書いていることだが、これもまた岩間たちが武蔵を「あの宮本武蔵」ととらえていることの変奏だろう。それでは勝つことができない。ただ、今回の意味においては、武蔵を「神話」ととらえることで依然としてバキたちも犯した見誤りが残ってはいるが、じぶんたちを「現実」と規定するのは、もしかすると悪くないかもしれない。問題なのは「現実」の視野があまりに狭いということである。バキほどの実力者が、武蔵を神話の人物ではなく、現実の実在する人物だととらえることができれば、その姿はバキたちの現実の足元から地続きのものとなり、武蔵の孤独が解消されるとともにようやくその真の実力が見えてくるようにもなるだろう。しかし岩間たちの属する現実はたかだか100人の非超人の集合である。これはすでに勇次郎によって、戯れにちからで圧倒されている領域であり、それを、少なくとも「神話」に対置させた「現実」とするには、バキ世界ではあまりにナイーブすぎるのである。

とはいえ、電撃で獲得されたにちがいない少しばかりの優位は見過ごせない。100人で行う戦術的な動きというのがどういうものか見当もつかないが、このあと生じるかもしれない一瞬のスキを見逃さず行動に出れば、彼らが勝つ可能性も少しはある。「現実」に勝機を見ているうちは、100人いるという背後の安心感に緩んで、しびれている武蔵をぼんやり眺めている、なんて状況になりそうだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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