すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10426281677.html

・考察‐価値観は人それぞれという価値観

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10159270907.html

・考察‐共有と共感、その発端

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html

・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10422484912.html

・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10855081068.html

・映画評‐『キャリー』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10202697077.html

・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10372611010.html

・アニメ批評-侵略!イカ娘

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10803805089.html









バキ感想最新・刃牙道

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10079104494.html

 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10036290965.html

 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10016899943.html

 ・ピクル対範馬刃牙編

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10010553996.html

  



ウシジマ感想最新

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10094429374.html

 ・ヤクザくん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10085446424.html

 ・復讐くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10084090217.html

 ・フリーエージェントくん

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 ・中年会社員くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10071550162.html

 ・洗脳くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10056764945.html

   

    



※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第408話/逃亡者くん⑳






 

 

 

ついに捕まってしまい、いよいよ殺されるかというところのマサルだが、丑嶋の思考を想像し、すぐ殺さないのはじぶんの金をねらっているからだと推測して、やや無防備に金のはなしを持ち出す。が、それを受けた丑嶋は、勝手にはなしを進めていることを咎め、マサルのあたまを踏みつけるのだった。


 

最初からマサルがいってることはひとつだけだ。少しだけ時間をくれと。そのあとどうなってもいいから、2時間だけほしいと。さすがになにか具体的な目的があるらしいことはそれだけでもわかる。そう訊ねられて、マサルは、どうせ殺されるなら、最後にかわいそうな母子を助けたいのだと説明する。

いままで黙ってたのが不思議なくらいだが、柄崎がそれにつっかかる。一人前の金融屋に育ててもらった恩を忘れて裏切った人間をどう信じろというのか。加納はむごい死に方をしたのだから、マサルもそうならないと気がすまないと。柄崎はだいたいいつも一般論をいうので、意外と作中では誰も指摘していなかったようなことをいったりすることがある。「恩を仇で返した」っていうのはまさにそうなんだけど、この事件にかんしてそれをいえる人間って実は限られている。高田は沈黙しそうだし、丑嶋もじぶんではそんなことをいわないだろう。柄崎は、じぶんがいうべきことを、表層の感想にとどまる一般論のレベルでくちにしているのである。

マサルはどうぞそうしてくれという。じぶんはたいへんなことをしてしまった、償いたい気持ちはあるが、それをするには、柄崎がいうように、同じ方法で、同じように苦しんで死ぬ以外思いつかないと。ふーむ、顔が見えないのでマサルがなにを考えてるのかぜんぜんわからないな。というか、マサルじしんにかんしてはむしろ顔が隠れているから、すらすら流暢に言葉が出てくるという感じかもしれないが。

そしてマサルが、ちょっと前に「醜い」を連呼して悟った闇金業の虚ろさについてじっさいに口に出して初めて語りだす。人を不幸にして、金以外なにも生み出さない金融は無意味で空虚だった。それを埋めるために女やギャンブルに没頭しても、渇きがいやされることはない。なにも生産していない。なにも救っていない。それどころかひとを不幸にして金にしている、そんな無意味な人生。だから最後に人の役に立ちたいのだと。まあ、そらそうなんだけど、マサルの見方は極端に一面的かもしれない。ひとを救ったこともたまにはあるでしょ。ちょっと思いつかないけど。

その、のどかを救う時間をくれたら、金の場所をいう。それで足りないなら沖縄の闇金の情報も教える。マサルは丑嶋社長に、世の中は奪い合いだといってましたよねと確認する。これは丑嶋社長のルールのはずだと、マサルはいうのである。

丑嶋が、マサルのいう「金」というのがなんのことなのかわかっているのかどうかは不明である。前回考えたように、加納の金をマサルがもっていると丑嶋が推測するためには、かなりの飛躍をしなければならないのである。丑嶋の認識としては、誰の金とかではなく、たんに大金をわたすから、というところ以上のものはなさそうである。


 

そこで、丑嶋が不気味な確認の作業をはじめる。要求に応えないと金は渡さないということか、絶対逃げないのか、信じろというのかと。マサルはそのすべてに「はい」と短く即答する。しかし丑嶋は、マサルを前傾させ、血まみれになっている手首を示す。逃げる気満々じゃないかと。縛っているものをほどこうと抵抗したために血が出てしまっているのだ。たぶん、足で踏んづけて前のめりにしたときにちらっと見えたのだろう。うーん、そりゃあ、げんに沖縄に逃げてきているわけで、マサルがこんな提案をするのは捕まってしまったからなわけだし、マサルがいっているのは別に、沖縄にきてからずっと反省していて、丑嶋たちがきて罰をくだすのを待っていた、というようなことではないはずである。捕まって、観念したからこんな提案をしているわけで、理屈っぽいことをいえばこの血は「観念」する前のものである可能性もあるわけである。げんに逃亡していたひとが捕まったら、そりゃあ逃げようとあがくわけだから、丑嶋のこの理屈だと、いちど現実になったそのひとの行為は、そのあとの言動で覆ることはないということになってしまう。

マサルは前回チャンス云々といっていたし、解放されたら逃げるかもしれない。しかし同様にして、逃げないかもしれない。ほんらい等価であるそのふたつの可能性について、しかし丑嶋からすれば、げんに沖縄に逃げてきているマサルが逃げる可能性は非常に高いわけである。それを、当然といえば当然な抵抗のあとが証明してしまっているわけである。


 

外に連れ出され、両足にそれぞれコンクリートブロックを結ばれたマサルが、排水溝みたいなところに落とされる。なんだろうこれは、なかの水は流れている様子はない。雨が降っているのに水に動きがないのだから、排水しているわけではないようだ。消火用とかに雨水をためている施設なのだろうか。マサルは深く沈み、呼吸の泡がちょっとずつ減っていくのを丑嶋たちが見ている。


 

安里はマサルのもうひとつの家にきていた。例の探偵がもらしたのである。しかし、探偵はマンションに入るところまでしか見張っていなかったので、部屋はわからない。

安里はドアを観察し、生活感のなさからあたりをつける。ドアにはセロハンテープがいくつか貼ってあり、侵入があったかどうかがわかるようになっている・・・が、どうやらこれは二重のトラップのようである。安里はめざとくドアの前にあるマットをめくって、かわいた素麺が何本かしいてあるのを確認する。マットの上にのれば、それが折れる。セロハンテープにはたぶん誰でも気づくから、侵入し、出て行ったあとなおすかもしれないが、それに気をとられているぶん、素麺に気がつく確率は低くなるだろう。また、侵入までいかなくても、ドアの前に立っただけで素麺は折れてしまう。つまり、今回の安里のように金目当てでなくとも、マサルのことを調べているようなものがいればすぐわかるようになっているのだ。つけられていないか、監視されていないかよく注意していたマサルらしい、入念なトラップなのである。


 

捕まっていてマサルはのどかとの約束の時間に間に合わない。杏奈がせかすようにそれを指摘する。のどかとしても、貧困やDVから逃れたい気持ちがないわけではない。いろいろ決定的なことが起きているいまのタイミングで行動を起こすとしたら、マサルがこない以上、のどかは杏奈と一緒に東京にいく以外やりようがないかもしれない。杏奈はのどかの迷いを見透かして、東京に行こうとくりかえし誘うのだった。





 

 

 

つづく。





 

 

 

マサルがあらわれ、杏奈があらわれ、のどか的には「いまなにが起こってるんだろう」という感じはあるにちがいない。たぶん、このふたりがあらわれなかったら、のどかはじぶんの貧困を相対化することもなく、それが自然なことなのだとあきらめて、いまの生活を続けていっただろう。それは、よくも悪くも沖縄的な感覚で、厳しい東京の相対化社会のなかでは、ひとびとは神経をすりへらし、足をひっぱりあい、なにが正しいかを見失うかもしれないが、助け合いの精神を基本にする沖縄では、個人の勝ち負けのような概念がないだろうし、仮に生活が苦しくても、そんなもんだとして小さな幸福を感じることも難しくないだろう。その精神性それじたいには、落ち度はない。しかし、現状の貧しい沖縄では、東京の金属的流儀に対抗できるすべをもたず、しかもその侵食を自覚することがないから、ちょっとずつ弱い酸で溶けていくみたいに、眠るように堕落していく状態が続いている。それは杏奈のところにきていたアフロの男が示していたことで、排泄物を食べるように、外部からのなんらかの刺激ではなく、ほんらいであれば拒否しなければならないような、「売っちゃいけないものを売る」風俗とか、軍用地借地料とかで生計をたてるスカトロ的負の循環である。

しかし、ともに東京出身であるふたりの登場で、のどかの生活は一刻もはやく改善されるべきものとして相対化されつつある。のどかには、その悟りと同時に、もちろん不安もある。だから杏奈にマサルを待つともいえないし、マサルにじぶんは東京に行くと宣言もできない。どうすればいいのかわからないのである。

そしてマサルは、のどかがきっと「どうすればいいかわからない」であろうことを理解している。じぶんがついていて、少なくとも入口まで手引きしてやらなければ、というほとんど使命感のようなものがマサルを支配しているのは、たしかだろう。金融が醜く、虚無的なものであるという感想も、たぶん本音だ。たしかに、闇金が、というかカウカウが、客の無知や弱さにつけこんで金を貸し、そして回収していたぶぶんはあっただろう。しかし、そもそものところに立ち返ってみれば、あくまで1巻の丑嶋いわくということだが、闇金が高利であるのはそれで利益をあげるためではない。相手も、カウカウが違法だとわかっていて踏み倒そうとする連中や、あたまのおかしいものたちばかりで、非常にリスキーであるから、高利なのである。つまり、個別の状況を見ればそうとも言い切れないが、全体でみわたせば、じっさいに借りにくるものがあとをたたないことからしても、貸す側の醜さは借りる側の醜さでもあったはずである。

マサルはおそらく、そのことを無意識に見落としている。そして、度重なる自己否定の結果、すべての悪を闇金という業態そのものに求めようとしているのだ。

そうしたとき、マサルの脳裏には、無垢な人々の世界を汚染する、東京中の闇金、という図式が浮かんできたはずである。マサルの丑嶋への復讐は、もうなんども見たのでくりかえさないが、ひとことでいえば自己否定にほかならなかった。加えて、その復讐を実行したことについて、マサルにもおそらく、反省か、少なくとも後悔の感情が生じてきたはずである。彼が名乗る村田仁という偽名は、もちろん旧友の村上仁の名前を借りたものである。マサルは復讐を開始するにあたって、仁と訣別してしまっている。村上仁は、復讐を実行する主体である「愛沢以後」のマサルと連続する「愛沢以前」の、無垢なアドレッセンスな時代を象徴する人物である。本来であれば、失われたこの時代こそを足場にして、「ほんとうのじぶんはこんな生き方はしたくなかった」というふうに「愛沢以後」の、丑嶋に授けられた生を否定すればよかった。しかし、マサルは、背水の陣を敷くという意味があったのだろうか、これとわざわざ訣別の電話をして、ことにのぞんでしまった。かくして彼は、帰る場所をなくしてしまう。マサルが偽名に仁の名前を選ぶのは、後悔とか郷愁とかあきらめとか、いろいろな感情がごっちゃになって、行く場所がなくなったことの結果なのである。

いずれにせよ、「愛沢以後」である、丑嶋に授けられた生は、みずからの手で否定され、さらにおそらく、マサルはそのことを後悔している。そんな選択をしたじぶんを含む「東京の闇金」を、諸悪の根源(の象徴)であるとさえとらえているかもしれない。じぶんの行動を媒介にして、闇金の行為が悪であると、村田仁は解釈しなおしたのである。

ほんらいであれば闇金が成立しているということじたいが示しているように、業態そのものが悪ということはないはずであるにもかかわらず、一方的にそちらを悪と規定することで、マサルの脳内における図像では、彼らに汚染される世界のもとの様子の、その清浄さが際立つことになる。

順序として、マサルのそういう葛藤とのどかとの出会いのどちらが先かというのは、はっきりとはわからない。そんなことはいっても意味がないかもしれない。こういってよければ同時的に、マサルはのどかという無垢な存在に出会う。闇金を悪と規定したとき自然と浮かび上がる、清らかな善の世界、それの象徴のような人物として、のどかがマサルの前にあらわれたのである。


 

マサルのいいかたを借りていえば、たしかに、金融には生産性というものはないかもしれない。ある商品を、価値以上の額で売れば、手元に利益が入ってくることにはなる。しかし、そうなると、それを買ったほうの人間は損をしていることになり、国のような大きな規模で見たとき、総資本は少しも増えていないことになるから、海外との貿易などを通した外部の刺激を加えないと、やがて経済は停滞してしまう。しかし、大地や自然を経由させれば、一つの種子は何百もの新しい種をつくって、価値を増殖させていく。こういう思想を重農主義という。これを広くとらえれば、たとえば人間という自然を経由して、好奇心や虚栄心なんかによって価値が増幅していくことも、一種の生産性といえるかもしれない。生産というのは、その営みの最中には貨幣を必要としない。ただ、最初の種子を手に入れるためには、現状、わたしたちはお金を必要とするだろう。金融業はそういう意味では生産性に欠けるかもしれないが、別の意味では、生産性のある世界をきちんと循環させるための貨幣を司るのが、この仕事なのである。

ただ、マサルはそんな厳密なことをいっているのではない。もし彼が銀行員だったら、こんなことは考えないだろう。要するに、他人の不幸で飯を食っているというそのことが、1巻の丑嶋がいうような理屈をもってどう取り繕っても、いまのマサルには耐えられないのである。


 

じっさいには、加納の死はマサルひとりの責任ではない。マサルがいなくてもハブは丑嶋を追い詰めただろうし、そもそも丑嶋がハブをぶっ飛ばさなければ、こういうことにはならなかった。しかしマサルの感覚としては、まさに自然の摂理で子どもを生み、家庭を築こうとしていた加納の死に加担してしまったことは、おそらく言葉通り重く響いている。自由な2時間をマサルは金で買おうともしているが、これはマサルじしんがそう望むのではなく、丑嶋がそういう「東京の人間」だからである。

しかし丑嶋は信用しない。そしておそらく、マサルのほうにもまだあわよくばという気持ちがかなりある。しかしそれは、かなりのぶぶん、のどかのためだろう。支援センターでの手続きが済んだらそれでパーフェクト、というわけではない。マサルはまだのどかを見守りたいだろう。というか、ずっとのどかを見守りたいだろう。丑嶋がいま本気で殺す気なのかどうかはよくわからない。水のなかに沈めたのも、加納が水責めをされていたからなのかどうか、そういうことも不明だ。だいたい、丑嶋は加納への拷問についてどこまで見抜いているのだろう。この描写もまたなにかの比喩になっていきそうな予感がする。これまでの感じだと、マサルは死んだり生まれたりしてるので、また転生の描写がくるかもしれないし、キリスト教の洗礼的なものである可能性もある。とにかく、たぶん丑嶋は、引っ張り上げるとしてもほんとうのぎりぎりまで、死の恐怖を感じるまで、そうしないだろう。ひょっとしたらそうすることで、マサルがどこまで本気でいっているのか確かめようとしているのかもしれない。





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第118話/角





 

 

 

刀を胴体の筋肉ではさみこんでとめるという、考えられない方法で武蔵の猛烈な斬撃をしのいだピクル。が、それでも、人間のからだはでこぼこしているし、少なくとも鼻は真っ二つのはずだ。ピクルがからだの真ん中から血を噴き出す。殴り飛ばされた武蔵は動かない。その間、武蔵がつい手を離してしまった金重を、ピクルが拾い上げたのである。


 

ピクルに道具の概念があるのかどうかは、難しいところである。それこそ、人類史をたどっていかないと、そういう検証はできないとおもうので、いつもどおり大雑把なあてずっぽで推測していくが、ピクルの知能は低くない。というか、「原始人」ということばが含むような知能の乏しさはむしろほとんど感じられない。もしピクルの知能指数を調べることができたら、たぶん現代人と同じか、下手するとふつうより高いんじゃないだろうか。ただ、ピクルは現代人と比べるといろいろなものをもっていない。言葉がその最たるものである。そのことが、いつまでも彼を原始人のままにしているのである。

そう考えると、ピクルが道具を考案したり、使用したりする可能性はいつでもある。しかし、道具というものは、生身の身体では不可能なことを実現するためにつくられるものだろう。たとえば、石を割ったり、強力な猛獣を倒したりするために。けれども、例が悪いかもしれないが、これらのことにピクルは道具を必要としないだろう。ピクルの時代における彼の家族やなんかがどのようだったのかというのは、まったく描写がない。もちろん彼にも両親がいるわけだが、どちらもただの類人猿で、彼だけが突然変異で生まれてきたという可能性もじゅうぶんある。しかし、いくら「突然変異」という言葉が便利でも、ふつうに考えて(少なくとも知能の面で)猿レベルのものから人類に匹敵するものが生まれてくるとは、考えにくい。したがって、彼の家族もそれなりに知能は高かった可能性が高い。としたら、おそらく道具をつかっていたかもしれない。ピクルが「素手であること」に少なからぬプライドをもっていたらしいことからも、そのことは推測できる。選択肢として「道具」がなく、素手でたたかうことが当たり前の世界では、プライドを抱き得ない。現代人は誰でも服を着ているが、じぶんが服をちゃんと着ていることについてプライドをもつことは難しい。だが、つねに全裸でいることを誇りにおもうことは可能だろう。

とすると、ピクルは、じしんはまったく必要としなかったが、「道具」という発想じたいは知っているかもしれない。というのは、もし知らなければ、ピクルはこれを武蔵のからだの一部と認識する可能性があったからである。


 

仮にそういうことだと仮定しよう。刀を拾ったピクルが、しげしげとそれを観察し、表面をなでる。原理を調べているようだ。指先が切れることで、ピクルは、どうやらこの道具のこのぶぶんがじぶんから血を出させているということを認識したようである。

まだ倒れたままの武蔵から少し離れたところで、ピクルが刀を振る。バキにも見えない速度での振りだ。振りのパワーがすごすぎて、地面に垂直に刺したかのような図になってしまったが、そうではなく、地面を切ったのである。

ピクルがそこから顔をあげると、武蔵がいつの間にか立っている。周囲で観戦しているものたちもほとんど気づかなかったようだ。

武蔵はまずピクルの筋肉をほめる。武蔵も兜ごと相手を斬ってしまう剣を筋肉のちからではさんでとめたのだ。武蔵もはじめて見るという。さらにはその打撃。ほとんど手打ちに近いのに、気絶してもつかんだままの剣をうっかり離してしまうほどの衝撃。

 



 

「倒れ伏し待つも


 

次の一手はなし・・・


 

それもそのはず


 

ぴくるは剣士となっていた」



 

 

 

この言葉の前には、「しかし」が省略されているのだろうか。ピクルの攻撃にノーダメージということはさすがにないだろう。一瞬気絶していた可能性もある。が、武蔵の痛みとか気絶の感覚というのは、現代人とはぜんぜんちがう。瀕死の重傷でも、武蔵はおそらく通常時と同様の動きで反撃に転じる。だから、これをひとくくりに擬態とすることは難しいだろう。じっさい、武蔵はダウンした。が、追撃があるなら反撃するつもりでいたと、そういうことだろう。


 

迫る武蔵にピクルが刀を振りかぶる。ここで「作者」の体験したエピソードが挿入される。以前取材したある高名な空手家は、刃物をもった相手は危険ではないといったという。なぜなら、そのものは刃物しか使用しないから。これは餓狼伝で丹波文七に襲撃されたときに鞍馬彦一が陥った刃物の罠である。素手なら多彩な選択肢があるものでも、ナイフ一本かまえただけで、ナイフを使う以外の選択をしなくなってしまう。もちろん、その武器の使用に長けていればはなしは別だろうが、素人が刃物をもつとぜったいそうなると、こういうおはなしである。

ピクルの懐に入り込んだらしい武蔵が、手刀の先でピクルの左目を弾く。刀は先ほどのように地面にめりこんでいるので、ピクルの攻撃を防いだわけではないようだ。たぶん、ふつうにかわして、目を攻撃したのである。

そして武蔵が攻撃に転じる。いくらピクルの筋肉が優れていても、斬る箇所がないわけではない。肩、肘、膝・・・。武蔵はピクルの「角(かど)」をとりにかかったのであった。




 

 

 

 

つづく。




 

 

 

これは、肘の先とか、切り落としたと見ていいのだろうか。とりあえず血は、そう見えるように円形に吹き出している。としたら、たとえば肘に関して言うと、肘から先はもうコントロールできないんじゃないだろうか。

武蔵が「角」をねらうのは、ピクルの筋肉が谷間として作用して、刀を受け止めてしまったことを受けている。大胸筋のわずかな胸の谷間でさえ、ピクルはその圧倒的な筋力というか筋量で、刀をはさんでしまう。それに対応して、筋肉がそちら向きには作用しない箇所、すなわち「角」のみを選んで攻撃したわけである。

武蔵はピクルを「肉の宮」と呼ぶが、「宮」という漢字には建物のニュアンスがある。白川静によれば、うかんむりは屋根を示し、呂のぶぶんは、ふたつの建物が並んでいるのを上空から描いた平面的な図であり、それはつまり広さを示す。読みは「きゅう」であり、出典によっては数字の九をそえているものもあって、これは神聖な竜の形だという。広く、そして神聖である、というところから、おそらく王の居室という意味になっていったのだ。

そして、この語のニュアンスには、なにか一種の解放感のようなものもある。少なくとも武蔵は、ピクルを城とか要塞とかいうふうには形容しなかった。恐竜の皮膚や、戦国の鎧が武器を弾くようなかたさではなく、ある種の弾力をもって、広く構えている、それがピクルの肉体なのである。神聖な宮に侵入することは、城のように外敵を想定していないぶん、そう難しくない。しかし、そこにあるなにか霊的なものは、外部からもちこまれた敵意を包み込んでしまい、無効にしてしまうかもしれない。

そんな宮を陥落させるにはどうしたらいいか。そもそも、入口から侵入したのがまちがいだったのである。客としてなかに入るのではなく、宮そのものを破壊するように、外部からつるはしをもって攻めていけばよいのだ。武蔵がとったのはそういう思考法である。


 

最初にした考えからすると、ピクルは道具という概念をもっているので、おそらく、剣の構造を理解している。ところで、最初のひとふりはなんだろう。あとの流れを考えると、振った手応えをたしかめた、というのが自然な見立てだろう。じっさい、「作者」のいうように、ピクルは武器にかまけて武蔵の攻撃を受けてしまったし、武蔵もなんなくピクルの攻撃をかわしているようである。だとしたら、この時点でピクルが「これをつかってみよう」と考えた可能性はある。

しかし、気になるのはそれが地面にめりこんだことである。ピクルにとっては重い刀も枝とかわらないだろう。しかし、枝の振り具合をたしかめる少年時代のわたしたちは、はたしてそれを地面に叩きつけただろうか。たしかに、闘技場の地面はやわらかいので、ピクルはそうなることをわかって振ったのかもしれない。しかし、そんなに高い強度をもつものを手にするのはピクルも初めてのことのはずで、片手で持てる程度の木の枝かなんかが、あるいは恐竜の骨でもいいけど、そういうものが、ピクルの腕力で地面に叩きつけられて、無事であるとはどうもおもえない。要は、ピクルはひょっとして、刀を叩き壊そうとしてこれを振ったのではないかと、ちょっとおもえるのである。

まあその直後、向かってくる武蔵をこれで倒そうとしているので、こんなことは考えても無駄だろう。肉の宮には、ある種の包容力、相手を受け入れる用意があったから、武蔵の攻撃を血まみれになりながらもとめることができた。しかし剣は、そこらへんに落ちている棒と違って、最初から相手を殺傷することを目的として含んでいる。肉の宮が武装してしまったわけである。広い入口に巨大な兵器が置かれているのを目にして、正面からぶつかるものはいない。肉の宮であるかぎり、弾力をもって対応できたかもしれないところが、なんの気まぐれか、武器を手にしてしまったことで、ただの防御が手薄な好戦的な家になってしまったわけである。





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花組宝塚大劇場公演 UCCミュージカル『ME AND MY GIRL』 [DVD]/宝塚クリエイティブアーツ
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UCCミュージカル
『ME AND MY GIRL』
Book and Lyrics by L.ARTHUR ROSE and DOUGLAS FURBER
Music by NOEL GAY
Book revised by STEPHEN FRY Contributions to revisions by MIKE OCKRENT
作詞・脚本/L・アーサー・ローズ&ダグラス・ファーバー
作曲/ノエル・ゲイ
改訂/スティーブン・フライ
改訂協力/マイク・オクレント
脚色/小原 弘稔
脚色・演出/三木 章雄





1937年にロンドンで初演され、1646回のロングランを記録した大ヒットミュージカル。1930年代のロンドンを舞台に、下町で育った名門貴族の世継の青年ウイリアム(ビル)が一人前の紳士に成長するまでを、恋人サリーとの恋物語を絡めて描いたロマンティックコメディです。宝塚歌劇では、1987年に剣幸、こだま愛を中心とした月組での初演が大ヒットとなり、同年再演。1995年には天海祐希、麻乃佳世、2008年には瀬奈じゅん、彩乃かなみを中心とした月組で上演され、その後も度々再演を重ねて参りました。今回は、明日海りお、花乃まりあを中心とする花組が、このハートフルな名作ミュージカルの世界に挑みます。





以上公式サイト より








花組東京公演『ME AND MY GIRL』観劇。7月22日13時半開演。




僕は世代的には、花組でいえば真矢みきから愛華みれがトップだったころじっさいの宝塚を観劇しはじめたのだが、それ以前に実はビデオ時代があって、家にものすごい量あったそれを延々と見ていた。ものごころついたときから宝塚は生活のなかにあったので、そういうのも特に深い興味をもつことなく、熟視するでもなく眺めるでもなく、漫然と見ていたのだが、いちばん最初に、自覚的に好きになったミュージカルは、天海祐希のミー&マイガールだった。宝塚ファンにはそういうエピソードが必ずあるとおもうけど、僕はこれのビデオをもう、文字通り毎日見ていた。誇張の表現ではなく、その時期はほんとうに毎日見ていた。だから、セリフや音楽の美妙なアレンジやなんかもすべて完全に記憶していて、いま新しい脚色がされている箇所なんかをすべて言い当てることができる(そんなのはコアな宝塚ファンでは全作品にわたって当たり前のことなのだろうが・・・)

それからずっとミーマイは大好きで、英語版のCDを買ってこれも毎日聴いたし、ピアノが弾けるようになってからは「顎で受けなさい」(いまプログラムで確認したんだけど、むかしは「顎で受けとめて」というタイトルだったような・・・)の練習をすぐはじめたし、しばらく宝塚から離れていた期間があったのだけど、それでも、そのときに上演された瀬奈じゅんのミーマイはもちろん見に行った。なにが好きかというと、音楽である。僕はふつうにドラゴンボールとかが好きな少年だったから、サリーのけなげさをわずかに感知するようなことはあったとしても、登場人物たちの感情の揺らぎを細かく知れていたかというと、やや疑問が残る。となれば、やはりうたが好きだったとしかおもえない。ランベスウォークみたいな、いってみれば「パーティーチューン」ももちろん好きだったけど、いまもむかしも好きなのは、もっと小さくて愛らしい、「顎で受けなさい」や「私の手を握って」、「一度ハートを失くしたら」とかの、サリーのかかわるうただった。そういうわけで、僕が最初に好きになったタカラジェンヌは麻乃佳世だったわけである。けっきょく娘役か・・・。



主演は明日海りおだが、このひとのころをまだよく知らないころ、どことなく天海祐希と杜けあき的な新鮮かつ古風な雰囲気が感じられていて、またやわらかなうたごえを知るにつれ、このひとにビルをやってもらえたらなということをずっと考えていた。だってビルの衣装着てるところとか、うたごえとか、もうかんたんに想像できるんだもん・・・。明日海りおじしんもこの作品はそうとう好きみたいで、短いインタビューとか見てても、これにかかわれることがうれしくてたまらないということがことばのあちこちから感じ取ることができた。ふだんがじゃっかん無気力系であるぶん余計そう見えたのかもしれない。今回の公演でも、少しやりすぎでないかとおもえるほどのアドリブの連続も、あれはもう、たぶん台本を見るまでもなく全体を把握しているくらいこの作品をよく知っているからできたことなんではないかとおもう。そういえば新公もやっていたんだっけ。



流れとしては、貴族であることが発覚した下町ランベス育ちのビルが、恋人のサリーと、貴族の義務とのあいだで揺さぶられるというはなしだが、どちらかというと主人公はサリーであるといってもいいかもしれない。サリーは下町の平民で、ビルは貴族であるので、結婚できない。悪人のいないハッピーなはなしではあるのだが、マリア叔母様はビルを教育して貴族にすることは受け入れるけれども、サリーとだけは別れなければならないと宣告する。当初はビルさえも受け入れを拒否していたジョン卿は、誠実ではあるがシンプルな人間で、女の子に優しいので、サリーとはなしをしてころっと心変わりし、いや、そもそもふたりを引き離すことじたいがまちがっているのではないかと、「ビル追い出し」という行動には変わりなくとも、その動機を変えてしまう。マリアの教育の結果、ビルは少しずつ貴族になっていき、サリーはサリーでそこに劣等感を抱え、ビルのためを思えばこそ、じぶんはここにいてはいけないと、やがて行方をくらませてしまう。ビルは半狂乱になってこれを探すが、じつはこれはジョン卿の作戦で、だったらサリーも貴族にふさわしい女になってしまえばいいではないかということで、言動についてその間トレーニングをしていたのである。かくして、ふたりは幸せになりましたと。

貴族と平民のかなわぬ恋というのは、宝塚ではもう、韓国ドラマでイケメンが記憶喪失になるのと同じレベルの類型である。これをもっと構造的にいいかえると、「貴族」とか「平民」とかいう身分を作り出しているのは、社会をそれとして動かす秩序である。そういう、個人の意図からは遠く離れた、神やそれに類するものの判断としかいえない巨大な意志による社会の約束事、こういうものに、個人の意志、ここでいうと愛が阻まれる、というのがパターンである。この意味では、「異なる、そして対立する家柄」という、彼らの愛とはなんの関係もない事情が愛を阻むロミオとジュリエットとかウエストサイドストーリーとかもそうだし、「いろいろなものが邪魔をする」という意味ではベルばらも、オスカルについてもマリー・アントワネットについても同様である。要するにこれらの物語類型をひとことでいいあらわすと、「個人対システム」ということになるのである。

それについてどのような解決を与えるかは、作品によって異なる。たとえば落陽のパレルモという作品では、たしか平民格の主人公がじつは貴族だった、というような結末だった。サリーはべつに貴族になったわけではないが、構造的にはそれと同様で、貴族と平民が結婚できないなら、貴族になっちゃえ、ということだ。もっとも特異な結末はベルばらで、個人対システム、私と公の対立という視点でみたとき、ふつうは、弁証法的に、両者はそれなりの和解をすることになる。ロミオとジュリエットでは、ふたりのあいだにおける愛は現実世界では成就しなかったが、それを通して、ひとびとは過ちに気づき、和解する。しかしベルばらは、対立する相手を打ち倒してそれでおしまいなのである。平民からすればマリー・アントワネットは憎き存在かもしれないが、王妃様には王妃様の事情がある。そういうことを理解し、超えていかないと、「和解」はありえない。が、それは顧慮されることがない。そのことの原因は、まずこの物語が歴史的な事件をもとにしている、そしてそのためにはなしが非常に壮大である、ということがあるだろう。おそらくそれをフォローするために、宝塚では主人公をかえて、さまざまなバージョンのベルばらが上演されているのである。



こういう視点で見たとき、サリーが「貴族になった」場面で、複雑な気分にならないでもない。それではけっきょく、貴族と平民は断絶したままではないかと。貴族と平民が溶け合う場面もないではない。ランベスウォークがそれで、マリアがビルの帽子を、ビルがマリアのティアラをかぶる場面は、本作屈指の感動的な場面である。が、それでも彼らは夜が明ければ追い出されるし、サリーとの結婚が認められることもない。ビルのサリーへの愛があまりに強く、そこまでとは予測していなかったマリアは、サリーに出てきてほしいとまで願うが、じっさいに出てきたときにどうなるかはわからない。

そういうふうに考えることが多かったのだけど、今回おもったのは、これはふたりの愛の物語であるのだな、ということだった。要は、ふたりが幸せになってくれさえすれば、どんな結末だってかまわないわけである。そして、「愛が世界をまわらせる」。ロミオとジュリエットの不幸な結末が、未来に希望を残したように、秩序を超えて働く愛が存在することそのものが世界を照射すれば、あるいは世界も変わっていくかもしれない。対立解消という意味では、その物語はふたりがいっしょになってはじめてはじまるものなのかもしれないのだ。



明日海りおは最初から最後まで最高のテンションで芝居をしており、ビルという役がほんとうに好きなのだとくっきり伝わってくる。失礼なはなしだが、僕は、あののんびりした明日海りおが、あんなにきびきび、すばやくアドリブのできるひとだとはおもっていなかった。でも、じっさいここには、明日海りおじしんの好みもかなりかかわっていたのではないかとはおもう。好きで、よく把握しているから、自由自在に演じることができるのである。

花乃まりあは最近また痩せて、どことなくごつごつしてしまってきているのが不安といえば不安だったが、じぶんがちっぽけな存在であることを感じているようなサリーのあの、スカートをぎゅっと握るしぐさがせつなく、また声が非常に聴き取りやすい、かわいらしいものなのもよかった。

今回僕らが観たのはBパターンで、ジョン卿は瀬戸かずや、マリアは仙名彩世である。桜咲彩花が個人的に好きなので、そこは残念ではあったが、仙名さんのマリアにももちろん大いに期待していた。いったい、あの貫禄はなんなのだ・・・。そのひとが舞台に出ているだけでなにか安心感がある、というタイプのひとがいるけど(蘭寿とむ、霧矢大夢、北翔海莉・・・)、仙名さんはまだ若いのにすでにこの域に達している。帰りに購入したDVDもちょっとだけ見たが、桜咲彩花も同様の落ち着きを示しており、それなりに年齢を重ねたマリアを演じるにあたってあの低い、感情の上下のない発声をするのは、自然の選択のようである。

瀬戸かずやは、なにか華形さんをモデルにしたような気配を感じたが、気のせいかもしれない。けっこうな抜擢におもうけど、すばらしかったとおもう。もともと紳士的なかっこよさのあるひとだけど、ジョン卿はそれに加えてどこか抜けていて、憎めないのである。Aパターンの芹香斗亜をまだちゃんとは見ていないが、おじさんっぽさはともかくとしても、この憎めなさは、うまくやっているんじゃないかと期待している。

あとはまあ、鳳月杏の脚線美かな・・・。以前なんかで娘役やってたときも、僕らはふつうに最後までそれが鳳月さんだと気づかなかったくらいだ。顔つきはけっこうがっしりしてるんだけど、まあスタイルがいいってことなんだろうなあ・・・。うたもすごい自然だった。



ミーマイは、僕じしんみたいというのもあったけど、相方にもずっと見せたかった。最初に相方に宝塚の映像を見せたのは、じぶんもそうだからということで、天海版ミーマイで、相方もそこからすっと宝塚に入っていったのであるから、生で見せたいという気持ちはずっとあったわけである。オーバーチュアとか、羽根なしのパレードとか、宝塚の定式とは異なったぶぶんもたくさんあって、そういうのが持続しているのも本当にうれしい。とりわけ、パレードで、女性陣がみんな花嫁みたいな衣装で出てくるのが最高にハッピーですよね。世界の陽相ばかりを集めたような作品といえばそれまでだけど、やっぱり最高のミュージカルだなというのが、僕の感想です。

 

 

 

 

 

 

 


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第407話/逃亡者くん⑲






 

 

 

捕えられ、しばられて顔にカバンをかぶせられたまま放置されるマサル。

丑嶋によれば、こうすることで時間が長く感じられるそうで、恐怖心が増していくようである。

そして、じっさいマサルも時間の感覚がなくなっていき、これからどうなるのだろう、丑嶋はどうするつもりなのだろうと考えるようになる。ただ、どうもおびえてはいないようである。それよりも、マサルは考えを深める。愛沢に袋をかぶせられた二度目のとき、それまで泣き顔だったマサルは袋のなかで表情を変え、丑嶋への復讐を決意していた。丑嶋がマサルの人生を「袋かぶりっぱなし」といっていたのは、マサルがそうしてずっと丑嶋たちの前で本心を隠し、芝居をしていたことも意味している。つまり、袋の下では、マサルは本心でいることができる。比喩的な意味ではなく、じっさいに袋がかぶせられるとなれば、その下の表情や、じっさいの思考が、彼の本心ということになる。おもてに出る表情とか言動と本心が一致する唯一の状況が、じっさいに袋をかぶせられているときなのである。

恐怖心は身の危険にかかわるところで、それがどういう基準で行動しているものか不透明なときに生じてくる。おばけが恐ろしいのは、それがふつうの生活感覚では説明不可能な現象だからだ。心霊現象が科学的に説明されるようなときがくれば、きっとわたしたちはおばけをおそろしいとは感じなくなる。ゴーストバスターズがちっともこわくないのは、あくまでおばけを科学的に説明可能なものとしてあつかっているからだろう。このばあいでいえば、丑嶋がなにを考えているのかわからない、これからじぶんがどうなるかわからない、ということが恐怖心を生むはずだ。しかし袋をかぶったマサルは、むしろ落ち着いて思考することができる。論理的にそれしか考えられないという結論が導き出せれば、恐怖心もわいてこないのである。

まず丑嶋の目的だ。それは加納の死だろうか。たしかに、マサルの裏切りは、ハブの仕返しを強くサポートしたし、その責任の一端はマサルにある。仮に加納の死がなくても、丑嶋はこんな状況を呼び込んだ「裏切り」それじたいを見過ごさないだろう。もしこれについての復讐なのだとしたら、丑嶋はさっさとじぶんを殺すはずである。そうでないとしたら、こんなところでまで仕事をしている丑嶋のことであるから、マサルがもっている加納の金だ。始末するとしても、丑嶋はこの金を回収する気にちがいない。マサルはそう踏む。しかし、この思考は少し焦りすぎだったかもしれない。まず、復讐が目的だったとしても、丑嶋がすぐにマサルを始末するとは限らない。げんに丑嶋はこわがらせるためにマサルを放置している。加えて、うろ覚えだが、丑嶋は加納に渡した金の行方を知らないのではないか。もちろん、描写のないところで高田などから聞いたという可能性もないではないが(家にあった金がなくなっていることに加納のお嫁さんが気づき、高田に知らせる、など)、少なくともマサルは丑嶋がそれを知っているという確証をもっていないはずである。この逃亡にかんして、原因であるとともに今後も左右するかもしれない非常に重要な要素としてつねにあたまに入れていたからこそ、マサルはこんなふうに考えてしまうのだろう。


 

そのころ、金城のところにやってきた安里が、新城も連れてマサルの家にきていた。金城が案内したようである。金城は、携帯もつながらないし、こうやって安里も出向いてきてるわけだし、なにかやらかしたのかと聴いている。けっこう他人事っぽい感じだが、表情の描写などもないので、金城の心理は読み取れない。

マサルの部屋を廊下からのぞいて、安里は「生活感がない」という。布団みたいなものが使用感を出したまま敷いてはあるが、ほかにはなんにもない。というか、廊下から部屋が丸見えというのがよくわからない。ブラインドっぽいものも見えるが、窓は半分しか隠れないし、マサルはじっさいここでは生活していなかったのではないか。

安里は金城に、マサルはほかにも部屋を借りてるだろうが、知ってるなら言えという。マサルの部屋が、以前組の金を持ち逃げして沖縄に逃げてきた人間の部屋とよく似ているのだという。よそ者がやたら羽振りよくふるまっていたのでつけたら、部屋をもうひとつ借りていて、金が隠してあったらしい。たしかに、マサルはもうひとつ部屋を借りていて、そこに金を隠している。すごい洞察力だな。やっぱり一筋縄ではいかなそうだ。

金城は知らない。それで、安里は例の丸メガネの探偵に電話する。探偵は、新城や安里のことを調べる前に、マサルじしんを尾行し、彼をつけているものがいないかどうかを見張っていた。だから、マサルの隠れ家もおそらく知っている。安里は大金のにおいをかぎつけているのだった。こういう描写をみるといかにもヤクザっぽいけど、どうなんだろうな。


 

のんびりのどかは引き続き杏奈と街をうろうろしている。約束の時間に支援センターに行くためか、荷物をまとめて運んでおり、子どもも連れてきている。

ふたりは市場で雨宿りしているところだ。のどかはその市場について語るが、杏奈はさっきまでのにこにこ愛想のいい感じをなくして、興味なさそうな返事ばかりしている。のどかのおばあさんが野菜を売っていたそうで、もし生きていくのに困ったらここで野菜を売れといっていたそうである。しかし再開発が決まってこの市場も取り壊しが決まっているからさびしいと。

それを聞いて杏奈は間髪入れず「じゃあやっぱり東京行こうよ」という。生きていくのに困ったら野菜を売ればいいが、それもできないのだから、東京行こうと、こういう理屈である。東京にいけば、旦那も貧乏もすべてリセットできる。マサルはたよりにならないぞと。ずっと生返事だった杏奈は、こういう話題を待っていたのである。杏奈はのどかの前で、東京行きの真意をマサルに明かされてしまったが、べつにそれで彼女をだましていたわけではない。いっていなかっただけで、東京に行くことでのどかの生活がリセットされるであろうことは、杏奈の真意にかかわらず同様である。だから、へんな作り笑いとかをやめて、直球で誘いをかけるようになっているのである。


 

足音が聞こえたのだろうか、マサルが、目の前にいるであろう丑嶋に交渉しはじめる。目的が金なら、それはぜんぶわたす。ただ時間を少しくれと。じぶんはそれだけのことをしてしまったのだから、そのあとどうなってもかまわない。金について加わっただけで、基本的にはこれまでいっていることはかわらない。ただ、返事がないからだろうか、マサルはけっこう余計なことをいう。丑嶋も追われている身であるのだから、とっとと済ませませんかと。

それを受けて、丑嶋が重いブーツをマサルの顔が入ったカバンにふりおろす。そして、そのまま後頭部をふみつけるようにして、マサルを前傾させる。何を偉そうに話まわしてるんだと。




 

 

 

 

 

つづく。





 

 

 

おもった以上にキレモノらしく、安里が徐々にマサルに近づき始めている。

36巻を読み返してみると、マサルはたしかに、今回安里たちがやってきた部屋にいる(逃亡者くん②冒頭)。今回ブラインドみたいに見えたものはエアコンのようだ。その描写のすぐあと、別の家にいって、風呂場の天井裏に隠してある金を確認している。寝泊りじたいはこの部屋でしているはずなのだが、逃亡者としての緊張感が、部屋においても持続されるために、生活感がないのかもしれない。

探偵はおそらくマサルの隠れ家を知っているし、マサルに雇われていたことをすでに吐いてしまっていることからしても、すぐにこの情報もわたしてしまうだろう。安里ならすぐあたりをつけて風呂場の金を見つけるだろう。もしこのあと、丑嶋がそのマサルの金を手に入れようとしたら、安里たちと鉢合わせする可能性もある。丑嶋をいまの隠れ家に案内し、逃亡用の船まで用意した迷彩服の男は、ふつうに考えて新城か安里のどちらかなので、かなり気まずい状況になる。逃亡者として、丑嶋は新城()に弱みを握られている状況になるから、強くは出れないはずである。金どころか、その、捕まえたばかりのマサルもわたせというはなしになるかもしれない。

そのあたりも含めて、今後あるかもしれないこの金のはなしは、丑嶋がいまの状況をどう考えているのかということをおそらく示すものである。丑嶋は、加納にわたした金をマサルが持っているということをおそらく知らない。まず、金が加納の家に「ない」ことに気づきうるのは、加納のお嫁さんだけであるが、もし彼女が気づいて、高田なり柄崎なりに伝えたとしても、そもそも加納を拉致したのはマサルを含む「ハブ達」である。金が「ない」ことが判明するのはふつうに考えてハブや肉蝮とのたたかいが片付いたあとだが、仮に、どこかの段階で丑嶋がそれを知り得ても、そうした会話をハブたちとはいっさいしなかったし、彼らを倒してから丑嶋はすぐその場を離れているので、あの現場に金があったのかなかったのかということもわからない。だからこれについては、「あの現場に金がなかったとしたら、マサルかもしれない」くらいの推測しかできないのである。

だが、マサルがこのはなしを持ち出したことで、丑嶋はそれについてようやく知ることになった。マサルは「俺の金」「持ってる金」としかいっていないので、「あのときの、加納にわたした金」のことをいっているのだと、丑嶋が確信をもてる前後の状況があるわけではない。しかし、加納に金をわたしたあのとき、社長は尾行に気がついていた。加納を「丑嶋サイド」だとしたとき、この金はたしかに丑嶋社長のところにもどるべき金であるかもしれず、もろもろを合わせれば、丑嶋の洞察力をもってすれば、マサルの思考をトレースすることも不可能ではないかもしれない。

ただ、おそらく丑嶋は金が必要だ。仮にそれが「加納の、あの金」だとわからなくても、なんだか知らないがどうせマサルは死ぬのだからと、すべての金を奪おうとはするかもしれない。つまり、こんな反応を見せながら、丑嶋社長はマサルのはなしに乗る可能性があるということである。


 

金をわたしたとしても、マサルは始末されるだろう。だが、もしマサルの望みどおりにするとしたら、金のかわりにマサルを一時的に自由にすることになる。あるいは逃げられるかもしれない。このときなにが起こるか。丑嶋は、かえのきかない社員であった加納の存在価値を、部分的にではあれ、金と交換することになるのである。「かえがきかない」というのは、量化できないということである。値がつけられないということだ。それを、マサルから金を受け取って自由にした瞬間に、「交換可能」なものにしてしまうのである。


 

そもそも、マサルがいうように、丑嶋がけっきょくのところどうしたいのかということがわからない限り、こんなことをいっても意味はないのかもしれない。丑嶋はヤクザものではないが、それでも、「なめられたらおわり」という、裏稼業の人間には普遍的にある思考法をしている。だから、感情的なものをおいたとしても、加納の件をなんとなくで済ませるわけにはいかない。それが「ケジメをとる」ということのはずである。

そして、そのケジメの原動力となる感情的な機微は、加納が「かえのきかない」社員だったということからきている。もちろん、それ以上のことをマサルはした。したというか、加担した。げんにこうしてカウカウは崩壊しているわけであるから、ひとつの原因にひとつの結果を対応させるような単純な図式では、丑嶋の行動を説明することはできない。しかし、カウカウ崩壊、またあの事件の主犯としてのハブ組は、丑嶋がみずからの手で皆殺しにした。じっさいに加納を殺した熊倉も、多少のカマかけもこみで、丑嶋が殺した。それである面では「ケジメ」はとれている。では丑嶋はマサルからなにを回収しようというのか。それはマサルの「裏切り」以外考えられない。なにをどう裏切ったかは重要ではない。「裏切った」ことそのものが、今回の丑嶋の原動力なわけである。「裏切り」は、カウカウの紐帯を裏切ったことを意味している。丑嶋はマサルの裏切りの可能性さえこみでこれを雇っていたが、それはマサルもまた「かえのきかない」社員だったからである。ここには、丑嶋において父親的な忍耐の姿勢が見えていた。そんなセンチメンタルな表現はぜんぜん似合わないけど、おそらく丑嶋は、マサルもいつかそれがわかるときがくると、そんなふうに考えていたにちがいないのである。それもこれもカウカウのスタンスが「個の尊重」にあって、それが会社の絆を強めていたからにほかならない。ある求める利益をもたらすものだけを集める会社では、このようなことは起こらない。「個の尊重」は、たんに優秀であれば浴することのできる方針ではない。結果的にはそうなるのだろうが、じっさいには逆で、社員を「かえのきかないもの」として扱うことで、彼らは優秀になっていく。優秀だから「かえがきかない」のではない。能力を基準にするのでは、けっきょくはひとは量化され、交換可能になる。大きな企業ではそれもまた自然な選択なのだろうが、少なくともカウカウでは、個々のありようを認めることで、「この場所はじぶんが立っていなければならない」という自覚・無自覚を問わない責任感を各自に芽生えさせ、信頼関係を育んでいったのである。

マサルが裏切ったのは、その「信頼関係」にほかならない。丑嶋がマサルの二心もこみで彼を雇い続けたのは、原理的にいって正しいわけである。じっさいマサルは丑嶋の息子みたいなもので、だとしたら、反抗期の息子がオトナになるのを待つ父親みたいな感覚だったのかもしれない。ともかく、それもまた「個」のいちぶであるにはちがいない。カウカウの原理からして、それは必然だったのである。そう考えると崩壊もまた必然だったのかもしれないが・・・。

しかし、反抗期だからといって、そして父親がそれを大きな器で受け止めるからといって、刃物を振りかざし、腹を刺していいわけではない。それは、けっきょくのところ、息子が父親の大きな器を理解できなかったということにほかならず、息子は父親の「いつかわかるはず」という期待に応えることができなかった結果となる。「個の尊重」は、なにか権威的な、最終的にはそれがこたえであるといえるような真善美とはなじまない、ポストモダン的なありようだ。だから、息子の反抗期をだまってみている父親は、その意味では息子と対等であろうとしている。相手の個性を尊重しようとする意志は、相手にもじぶんの個を尊重するよう、ひいては「人間」の個を尊重するよううながすものなのだ。なにか大きな意志のもとで尊重される個は、ただ父親に甘やかされている息子でしかない。マサルはそれを乗り越えることで、カウカウの信頼関係にほんとうの意味で与することができたはずなのである。

しかしマサルは息子のまま父親に刃物を向けてしまった。これを認めれば、「個の尊重」は一方的なものとなる。それは対等でなければ、つまりみずからを認めてもらうかわりに相手も認めるようなものでなければならない。まだ続ける気があるらしいカウカウを復活させるには、マサルがもたらしたこの非対称性を解消しなければならない。それが「ケジメ」に含まれる感情的な動機だろう。問題はそれをどのように行うかである。


 

今回の丑嶋のカカト落としの描写からは、なにか余裕のなさも見て取れる。丑嶋の意図はなんでもわかるとでもいうように、勝手にマサルのほうではなしをすすめるのが気に入らないのである。ここには、くりかえすように東京を離れて全能性を損なわれた丑嶋のもどかしい気持ちが含まれているだろう。これまで、相手の考えを見透かして先回りするのは、丑嶋のほうだったのだ。

そして、この余裕のない丑嶋が、なにかを忘れようとするようにカリカリ電話で取り立てをする丑嶋が、加納の命や損なわれた「信頼関係」に値段をつけるのはかなり危険なことだ。ヤクザにさらわれた加納を金で助ける、というのとはわけがちがう。丑嶋はいま、「そうしなくてもいい」わけである。マサルが壊したカウカウを、丑嶋じしんがもういちど壊してしまう可能性が出てきているわけである。






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第117話/筋(きん)





 

 

 

 

6日間飲まず食わずで準備万端のピクルが、闘技場に姿をあらわした武蔵にとびかかる。

ティラノサウルスの肉が用意されても動かなかったピクルが武蔵の姿を見るなり攻撃に入ったわけだから、これまでの絶食が完全に「武蔵のため」、もっといえば武蔵戦のためであったことがまちがいのないものとなった。文明的な人間が筋肉の働きとかを研究して最高のパフォーマンスを引き出そうとするように、ピクルもそうすることで「最も強い状態のじぶん」を引き出そうとしているわけで、空腹が野生のベストコンディションであるとはいっても、それを選択的に行っているという点でみれば、きわめて知性的な行動である。それがピクルにとってどうなるか、つまり、彼は知的であるべきなのか野蛮であるべきなのかというのは、まだわからない。


 

そのピクルの突撃を見て、武蔵が抜刀する。腰を切る、というやつだとおもうのだけど、てっきりこう、後ろ足を引く動作と抜刀を同時に行うことで加速を増す、というようなことかとおもっていたが、今回丁寧に描かれている武蔵の抜刀を見ると、なんというか、軸足というものがないのである。ちょうど股間のあたりに例の徳川家の葵の紋が見えていて基準になるのだけど、上体の位置が動かさずに、腰を回転させることによって両足が同時に前後へ伸びているのである。さらにいえば、足を開くことによってからだの高さが低くなるので、それもおそらく抜刀に伝えられている。脱力の考え方でいえば、ちからを抜くことでからだが落下するのを、同時に足を開くことで受け止め、それらがすべて抜刀の加速に流れていく、というような理論だろうか。

抜かれた刀は、空中で柄を左手でとらえられ、例の右手人差し指だけで保持した上体から、そこを中心に回転するようにしてピクルに伸びていく。強く握りこむ動作がそのまま刀に乗っているので、武蔵がピクルに匹敵するほどの握力をもっているのも当然のことなのだ。だって、それは威力そのものなのだから。


 

見るからに強力な武蔵の一撃がピクルの顔面にめりこむ。これまで、独歩や烈なんかが同じ状態になったことはあった。しかし武蔵がいうには、刀はいくら強く押しても意味がなく、引かなければ斬れないということで、独歩なんかはそれで侮辱されたわけである。刀がめりこんでからも武蔵の腕の動きは続いているらしい今回の描写からして、おそらくその“引き”の動作は行われているはずである。武蔵はピクルを侮ってなどいない。真剣勝負である以上、手加減もできない。秒殺する気満々なのである。


 

しかし、そこでありえないことが起こる。ピクルのからだが空中で停止してしまったのである。“止まってみえる”というのではなく、じっさい数秒のあいだ止まっているのだ。だから、逆にいうと、200キロくらいあるとおもわれるピクルを、武蔵は刀で保持していることにもなるので、この不可解な現象より武蔵の力に驚愕している者もいる。

刀はたしかにピクルの顔面や上体に食い込んでいる。が、ピクルはそれを筋肉で止めてしまっているというのである。ただそれは、腕を刺してきた蚊を、筋肉をかためることで捕まえてしまう、というようなことではない。武蔵が刀をすべらせたのは、ちょうど正中線、ピクルのからだの真ん中である。見ているものはそれを「憤怒(いか)りの表情(かお)筋」と呼んでいるが、顔面の筋肉はともかくとして、上体に限れば、正中線というのはちょうど筋肉がなかったり、あるいは筋肉が継ぎ目のようになって薄かったりしている。ふつうに考えたらここはむしろ斬りどころなわけだが、しかしバキ界随一の筋肉の持ち主であるピクルのばあいは、むしろそこにはじゃっかんの空間があるとみなすこともできるわけである。要は、前腕と上腕二頭筋のあいだに瓶をはさんで粉砕する、というようなことと理屈としては同じだ。たとえば大胸筋にかんしていえば、究極に発達したピクルのばあい、そこには谷間があるわけである。そこにすべりこんだ刀を、ピクルは胸の筋肉で真剣白刃取りしてしまっているわけである。信じられないことを思いつくな板垣先生は。

これは武蔵の見立てちがいだったかもしれない。いかに分厚い筋肉であっても、筋肉それじたいを斬ることは、武蔵には難しくないだろう。たとえば腕なら、腕全体を切り落とすことはできなくても、とりあえず多少食い込んで切断されるくらいのところまではいくはずだ。おそらく、ピクルのからだの頑健さと獰猛さを考慮して、武蔵は一瞬でけりをつけるために、もっとも筋肉が薄いと考えられる正中線をねらったとおもわれる。しかしそれがあだとなった。胸の真ん中には筋肉はなくとも、そのすぐ横には分厚いものがあるのだ。

こんなことはこの現場の誰であってもできない。やろうとしてもできないし、ましてやその場の思いつきでは不可能である。筋肉操作のマニアであるオリバならできるかもしれないが・・・。

これには武蔵も驚愕である。手にじんわりと汗をかき、笑みを浮かべて、他にはおそらく勇次郎にしかつかったことがないとおもわれる「天晴れ」という言葉を用いて肉の宮ピクルを讃えるのである。


 

いつまでもそうやって浮いている理由はない。ピクルは間近にある武蔵の顔面に右の拳を叩きこむ。いままで、勇次郎に金的を蹴られたとき以外では刀をはなしたことのなかった武蔵が、半分気絶したような状態で吹っ飛び、これを手放してしまう。

パンチのとき、ピクルの足は地面についているが、いちおうさっきまで浮いていたわけだし、強く蹴り込んだ様子もない。だからほとんど手打ちとおもわれるが、それでもまともに受けてしまえばふつうの肉体なら一撃でアウトだろう。まさかこれで決着かと光成もあわてる。武蔵を殴り飛ばしたピクルが怒りの表情を少し解くと同時に、ちょっとずつ刀が落ちていき、ピクルのからだの真ん中から血が噴き出る。鼻はさすがに切れているだろうが、どうやら「表情(かお)筋」で止めている、というのも本当だったようだ。まあ、人間は怒れば眉間にしわをよせたりとかするわけだし、そういうのが極端に発達していれば、大胸筋ほどではなくてもある程度の“谷間”をつくって刀をキャッチすることも不可能ではないか。

だがそれでも皮膚は無事ではないし、だいたい人体はでこぼこしている。真っ二つに切られることは回避できても、無傷というわけにはいかないだろう。しかしこれくらいのダメージは恐竜とたたかっていたらよくあったことなんではないか。武蔵はいまだに動かないが、ピクルはなぜか落ちている刀を拾うのだった。




 

 

 

つづく。




 

 

 

ピクルは「刀」というものを知らない。知らないからこそ、武蔵のイメージ刀がしっかり伝わらなかった。だから今回ほんものの刀を使おうというはなしになったのだ。

だから、今回ピクルが筋肉による真剣白刃取りをできたのは、完全に“偶然”である。そもそも、上で見たように、武蔵がもし真上からでなく横に刀をすべらせていたら、ピクルはこれをとめることができなかったろう。大胸筋を中心に、その表情筋まで合わせて、すべての「谷間があってなおかつ寄せることのできる筋肉」を総動員することで、今回は止めることができたのであって、腹を横に切られたら、腹筋をかためることで致命傷は避けられたとしても、「止める」ところまではいかなかったはずである。

ピクルとしては、とびかかるじぶんに向けて、なにか鋭利なものが向かってくるという認識だけがあった。それはどうやら以前イメージを通して感じた、あのデイノニクス的なものに近いもののようである、くらいの直感もあったかもしれない。それで、ピクルはただぶち当たってきたそれにあわせて全身の筋肉をかためたと、ただそれだけのことだとおもわれる。そして、結果としては、ちょうどいい具合に刀をはさみこむことのできる筋肉がいっぱいある正中線だったために、とめることができたと、こういうことだろう。

 

自分の強いところで相手の弱いところを叩く、というのは基本的なことである。柴千春みたいな例外もいるけれど、目玉で相手の膝を粉砕しようとするものはいない。とりわけ武蔵の場合は、たたかいの目的がその後の「富と名声」にあるので、たたかいの美学というようなものも存在が薄く、勝ち方にかんしても、それが「富と名声」を損なうものでない限り(たとえば殿様の見ている前であるとか)、方向性を選ばないものになるにちがいない。瞬殺でも勝ちは勝ちであるし、特に刀をもったものどうしのたたかいではダメージの与え合いとかいうはなしにもなりにくい。ピクルも、その破壊力や「食う」という想像の難しい動機からして、そのように瞬殺すべき相手であると、武蔵が考えたとしても不思議はない。烈戦のときのようにいろいろ引き出そうとか、あるいは勇次郎と会ってより高みを目指そうとか、そういうこともない。ただ、じぶんのもっとも強いぶぶんを相手のもっとも弱いぶぶんに当てるという、当たり前のことを、速やかに実行しただけなのである。しかし、それが裏目に出た。くどいようだが、武蔵の斬ろうとしたのがそこでなければ、つまり「じぶんの強いところで相手の弱いところを攻撃」しようとしなければ、こうはならなかった。「とりあえず足を斬って様子を見よう」と、真剣勝負らしからぬのんびりした発想をしていたほうが、むしろよかった可能性さえあるのである。

 

どうしてそうなったかというと、そもそも「じぶんの強いところで相手の弱いところを攻撃する」という方針は、「相手にじぶんの弱いところをさらしてはいけない」という方針と同時に存在するものだからである。まったく素人どうし、「強いところで・・・」という発想が生まれようもないような対決についてはここでは考えないことにしよう。ふつう、正中線は、弱点が集中しているので、基本の構えをするときに守られるぶぶんである。半身を切るのはそのためであるし、男性の場合は金的もあるので、前の足をやや内股にするのも、これを保護するためだ。ある程度技術のあるものどうしでは、「弱いところは保護されている」というある種の常識が共有されているわけである。そうしたことの知識がないばあい、たとえば極端なはなし、金的を蹴られたときの痛みを知らないばあい、彼は大きく足をひらいて、全身をこちらに向けて構えるかもしれない。しかしそうであっても、「強いところを弱いところで叩く」ことと「弱いところは守られている」という常識の並存はかわらない。守るべき金的を前方にさらしていることには、なにかわけがあるはずであると、彼は考えるかもしれない。そうであれば、金的をさらしていようと保護していようと、現実的にはここで起こることに変化はないわけである。ただ、「保護されているからねらえない」のと「意図が感じられるからねらわない」という原因のちがいがあるだけで、彼がけっきょく金的を蹴ることができないという事実にちがいはないのだ。

 

ピクルは原始の世界と思考法のなかに生きている。もちろん、何度か考えたように、ピクルがサイズの異なる恐竜とたたかいぬくために、あのステップ以外にも、独特の防御法をとっていた可能性はかなり高い。それもまた「弱いところを保護する」作法の一種ではある。しかし、ピクルのばあいは相手が人間ではなかったわけである。たんじゅんなはなし、恐竜のもっとも弱いぶぶんを現代のふつうの成人男性が思い切り蹴ったってなにも起こらないだろうし、そんなことを考えても意味がない。ピクルのばあいは、「強いところで弱いところを叩く」こととそこから導かれる「弱いところを守る」という発想が並存せず、ただサイズがけたちがいの恐竜たちからすれば明らかに弱者である自分自身を守るという発想だけが自律しているのである。相手がじぶんと同様の身体構造である人間であれば、感情移入や客観の経験を通して、ピクルもしだいにそうした発想をしていくようになるかもしれないが、いまはまだそうはなっていないだろう。

ピクルにおいては、これまでの人生から、相手の弱いところを攻撃するという発想や、またそこから導かれる、じぶんの弱いところを守ろうとする意識が、あったとしても恐竜サイズの敵とたたかうという文脈においてのものであって、希薄なのである。ピクルが現代にきて相手の攻撃のほとんどをぽこぽこ受けてしまうのは、知能に問題があるからではなく、じぶんのからだの頑丈さに自信があるからでもない。頑丈さについては、後付けで考えてみればそうともいえるかもしれないが、おそらくピクルでは、一撃で致死的なダメージを受ける恐竜とたたかうという文脈においてだけ「保護」が働くのであって(それも推測で、あるいは働いていない可能性もある)、じぶんの神経作用を経由して、「感情移入」の結果反応をトレースする必要のある「人間のかたちをした相手」に、じぶんと同じ身体構造、「弱点の構造」があることなどわかりようがないのである(それができるようになるためには、ピクルはまず鏡を見て理解する必要がある)


 

武蔵は、ピクルの思考法がじぶんや、当たり前の文明人とは大きく異なっているとは知りつつも、おそらく身につけた技術が自然に選ぶしかたで、相手が攻撃をしかけた結果自然にさらされることとなった「弱点」をねらってしまう。けれども、ピクルはそもそもそのような文脈にいない。彼は正中線に弱点が集中していることなど知らないし、そうであるかもしれないともおもっていない。対恐竜においてはからだのどこのぶぶんもある意味弱点であり、と同時に、恐竜の身体構造を経由して弱点のしくみを理解するというようなこともなかったわけである。だからこそ、こんなむちゃくちゃなことができた。独歩だって、あんなふうに無防備に跳躍してしまったあと、正中線をおさえられて、まだ斬られていないのに、暴れて抵抗したりなんかしなかった。「やられた」と、それだけですべてを理解したからである。ここでは、武蔵が剣の技術を身体の底にまで内面化していたことと、ピクルがじぶんの弱点とか、あるいはふつうのたたかいにおけるそういう意図の交し合いとかを全然知らなかったことが協力しあうかたちで、驚愕の「筋肉による真剣白刃取り」を実現させたのである。ピクルには、武術的にという但し書きさえも必要としない「常識」はいっさい通じないのである。


 

 

そして、刀を手に取るピクルだ。克巳が例の「当てない打撃」を敢行してピクルにかつてない衝撃を与えたあと、破損したその手を奪ったピクルは、そこに詰まっている克巳の努力の結晶のようなものを感じ取り、これに敬意を払って、食わずに帰るというはじめての選択をした。武蔵の刀についてはどう考えるだろう。重要なのは刀の技術じたいは努力の結晶ではあっても、刀それじたいはそうではないということだろうか。ピクルが「道具」という概念を理解できるかどうかは不明である。だいたい、あれだけのパワーがあればできないことなんてないだろうし、道具を必要としない可能性もある。ピクルはあるいは、それを武蔵の身体のいちぶと認識するかもしれない。もしそうなれば、それは克巳のときと同じ状況ということになる。だが、現実的にはそれは道具であり、克巳の腕とは本質的に異なっていることをピクルも感じ取るだろう。もしそうであれば、彼はこれを壊そうとするのではないか。もしピクルに道具という概念があれば、ピクルはこれを使うかもしれない。そうなると、おそらく戦力としては素手で猛り狂っているときよりだいぶ落ちることになるとおもうが、それでもとりあえずピクルが斬られることはなくなるし、武蔵的にも、ピクルが不安定な持ち方で振り回す刀よりパンチのほうがよほど危険だろう。もしピクルが刀を「使用」したら、本部の出番はもうないかもしれない。・・・いや、でもいま武蔵ぶっ倒れちゃってるんだったな。





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