すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10426281677.html

・考察‐価値観は人それぞれという価値観

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10159270907.html

・考察‐共有と共感、その発端

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html

・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10422484912.html

・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10855081068.html

・映画評‐『キャリー』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10202697077.html

・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10372611010.html

・アニメ批評-侵略!イカ娘

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10803805089.html









バキ感想最新・刃牙道

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10079104494.html

 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

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 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

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 ・ピクル対範馬刃牙編

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ウシジマ感想最新

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 ・ヤクザくん

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 ・復讐くん

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 ・フリーエージェントくん

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 ・中年会社員くん

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 ・洗脳くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10056764945.html

    

    



※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第122話/火山

 

 

 

 

 

 

 

 

どこをどう斬っても切断できず、致命傷にはならないピクルなのだが、武蔵はそれをむしろ喜ぶ。斬り放題だと。

 

その意味を武蔵がひとりで語りだす。ピクルはことばを理解できないわけだが、武蔵はこれを誰に向かって言っているのだろう。富と名声を主な目的としてたたかっているわけだから、俗物的な面が肯定的に備わっている人物であり、たたかいにおいても観客を意識しているぶぶんはあるのかもしれない。ただたたかいに勝つだけではなく、それがどのように周囲から見えて、また噂として広まっていくのか、ということも、武蔵にとっては重要だ。劇場型というか、ただ直線的に「観客に向けて」というわけではないとしても、演出として、こういうことを自然とやってしまうのかもしれない。

武蔵の欲望はひとことでいうと「斬るのが好きでたまらない」ということだ。ひとを斬れる機会を得ると、いつもつい余計に斬ってしまう。斬ることができたのであれば、それはひと太刀で済むはなしであって、勝負には不必要だ。前に生きていたときも、真剣をつかった勝負はたくさんしてきて、そのすべてに勝ってきたわけだが、そのどれもが、最初の一刀で沈んでしまう。「真剣」とはそういうものだからである。普通人なら、死なないまでも、手首を、いや指を切り落とされただけでももう戦闘不能なのである。

しかし武蔵はそのたびにおもっていた。立ち上がってくれと。もう一度立ち合ってくれと。斬りたいからである。

やがて武蔵は斬っても斬っても屈しないからだはないものかと夢見るようになる。竹だって切れば落ちてしまう。しかし世の中というものは広く奥深い。ついに武蔵は、何度斬っても、血も出るし、放っておけば死んでしまうだろうが、少なくとも切断されたり、倒れたりしない、ピクルという男に出会うことができた。それがもううれしくてたまらないのである。

 

 

ピクルには武蔵がなんといったのかわからないだろうが、最終形態にまでなって、ティラノサウルスとたたかうレベルの覚悟で挑むじぶんを前にしてうすく笑うような武蔵に、汗を流して動揺している。そのときピクルは武蔵になにを見たのか? ピクルじしんが、じぶんがいまなにを見ているのかを考える。これは比喩表現をしようとするときのあの感じだな。じぶんは、この印象を知っている。以前同じように感じたことがある。ふつうに考えると、いまこうしてたたかっているわけだから、たたかいの相手の印象かとおもわれる。そうしてピクルは記憶を検索し、かつての強敵たち、恐竜から、バキや烈までをすべて思い返すが、そのどれでもない。雷のような速さと、デイノニクスの爪がもたらす鋭い痛みも備わっているが、それのみでは的確とはいいがたい。その痛みについて考えたとき、ピクルはなにかをおもいつく。そして「あッ」という。これ、この「あッ」は、ピクルがいったんだよな。普通のフォントの吹きだしでピクルが声を発するのって、ひょっとするとはじめてじゃないかな。

ピクルが発見したイメージは、巨大な、人間サイズの蜂である。ただの蜂ではなく、二足歩行で、尻以外に、自由になっている四本の足にそれぞれ毒針がついている。少年時代、とらえた蜂を食べて、ピクルはひどい目にあった。「口が火山した」。ピクルにはトラウマ的経験で、気絶しても、死んでも攻撃してくるおそろしい相手として記憶された。ピクル的には、倒す、つまり殺すより先に打つ手はないのである。それは現代ではジャックの姿に重ねられた。気絶した状態で貫手をかまし、倒しても倒してもゾンビみたいに復活してもどってくるジャックである。結局は、ピクルとジャックは同タイプであるぶん、ジャックは量で負けてしまい、保存食とされて、バキにはファイターとしておしまいだ、とまでいわれてしまったわけだが、しかしピクルとたたかった烈、克巳、またバキを含めても、あれほどピクルを混乱させ、何回か退散させた相手はジャックしかいないだろう。おもえばジャックは、多少戦略をねって、プライドを捨てれば、もう少し善戦できたんじゃないかな・・・。

さらに加えて、武蔵はなかなかとっつかまえることができない、蝶の軽やかさまで備えている。ティラノサウルスの噛みつきに耐え、これを打ち倒すピクルだが、蝶の一匹が捕えられない。どちらもピクルには胃が痛くなる種類の記憶なのである。

ピクルには倒す以上のことができない。しかもそいつは、捕まえることもできないから倒すことさえできない。そういう姿を、ピクルは武蔵に見出してしまった。ピクルのからだからは徐々に傷跡が消えていき、それに伴って筋肉の緊張がほどけていき、傷口が開いて血が噴き出してしまう。蜂を、だろうか、武蔵を、だろうか、ピクルは「もう食べたくない」と判断し、呆然とした表情で背中を向けて、去っていこうとするのだった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

ピクルは戦意を喪失したが、武蔵のほうはようやくめぐりあえた斬り放題の相手ということで、気持ちを切り替えたばかりである。なんかこれは、うしろから切りかかりそうな感じがする。もしこのままピクルが退散してしまったら、ドーム前で煙草を注意された本部はなんだったのかということになるので、あるいは逃げるピクルを斬ろうとする武蔵を、本部が止める流れになるだろうか。

 

 

斬り放題の件は、人斬り佐部京一郎もドン引きするほどの発言である。回想場面では、相手を斬り殺したあとの武蔵が、険しい表情で硬直している。まわりで見ているものも、また武蔵の武勇伝を語り継いできたものも、武蔵にそんな欲望があったなんて知らなかっただろう。たぶん、武蔵はこの欲望を隠していたのだ。富と名声を得るにあたって差し障りがあるからだろうか。

ともかく、武蔵がたたかいの目的とする富と名声が、いってみれば理性的なレベルでのものだとすれば、もっと深い、本能的なレベルにおいて、たたかいの動機は「斬りたい」ということにあった。しかしそれは、たとえばだれも観客のいない決闘とかで、しかも相手が小物で、別にその勝利をみんなに知られなくても問題ないような相手だったとき、死んだ相手をずたずたに斬ったところで満たされるものではないようだ。斬りたいという欲望だけをとりだすと、まるで肉を斬る手応えや、ひとを斬るという事態の大きさがもたらす背徳感とか、そういうものこそが求められているようにも見えるが、どうもちがうっぽい。そうではなく、一撃でかたがついてしまうという「“真剣”勝負」のふつうのありようが、武蔵には不満だったのである。たんに肉を斬る手応えが快楽であるなら、肉屋にでかければ済むことかもしれない。大山倍達のように牛の屠殺場に出かけるなんていうのもひとつの手だろう。また背徳感、もっといえば殺人衝動ということであれば、ひとりの人物にこだわる理由はあまり感じられない。その結果は、むしろ大量殺人という方向性になりそうである。しかし武蔵は、ひとりの相手をもっと斬りたいと願う。この願望は、むしろ現代的なものかもしれない。当時の、またそれ以前の素手の格闘術がどのようなあつかいだったのかはわからないが、武士の真剣勝負は、ごく当たり前に考えて、一撃必殺なので、一瞬で勝負の決まるものである。勝負とはそういうものである、という前提が、当時のひとたちにあった可能性は高いはずだ。たほう、「一撃では勝負が終わらない」というのは現代では逆にふつうのことで、一撃必殺を標榜する極真空手でさえ、技術が発達し、からだを鍛え上げることで、それは難しくなっていく。データをとったわけではないが、印象レベルでは、世界大会などの大きな大会は初期ほど一本勝ちが多い。ひとびとが一撃必殺の技術をみがくことで、むしろ一撃必殺を大会で見せつけることは難しくなっていくわけである。それというのは、人間の拳は、刀のように、身体の硬度を無効にしてしまうようなものではないからである。

こうした視点は、現代人にはむしろふつうにある。勝負とはそういうものである、「一撃では終わらないもの」である、という前提が、ふつうにある。それをいったん忘れて、勝負というものがふつう一瞬で決まるものだということが常識であることを踏まえたら、武蔵の発想は相当斬新なわけである。かといって刀を竹刀にもちかえたりして弱化させるのは、実戦的とはいいがたい。相手が真剣を持ち出す真剣勝負で、なるべくたくさんきりたいからと、竹ベラとかをもってきてもそれはなにかちがう。少なくともそれを常備するのは、勝敗や生還といったこと、また武蔵では富と名声が優先される勝負の局面においては、矛盾したものになる。じっさい、武蔵では、剣を極めるにあたって、必要以上にその振りを強化するトレーニングが採用されていた。剣それじたいの強度を上げつつも、つまり斬るという行為の価値を保存しながらも、全力の勝負を持続させる方法はないものだろうか。こう考えると、武蔵のこれまでの理屈に合わない(ように見えたこともある)イメージ刀や、あるいはまだ輪郭の判然としない奥義・無刀の正体も、少し見えてくるかもしれない。イメージ刀は微妙としても、無刀は、たしかに実在の剣の先にあり、からだを切ることができる。しかし、ひょっとするとこれは剣のように一撃で胴体を両断するようなものではないのではないだろうか。

 

 

 

ピクルは武蔵の姿に異様な蜂を見出した。蜂はピクルの口内に小さい火山を爆発させた。今回のタイトルも「火山」となっているが、ピクルは武蔵の姿にいちど、ほんものの火山を重ねたこともある。だがもちろん、その火山とは異なった種類のものだ。前回、危険を表現する比喩においても、火山は使われていた。ティラノサウルスの口の中は、火口付近なみに危険であると。だから、火山爆発そのものが重ねられた武蔵に向かっていくことは、英雄志向のピクルには自然な行動である。ピクルは、行かなくてもいいところにあえて向かうことをよしとする。素手であることについての矜持も同系統の自尊心からくるものだろう。英雄それじたいは、自然の営みのなかにはないもので、人間の解釈、原始の世界ではピクルじしんの自尊心のなかにしか存在しないものである。自然のうえを行こうとするピクルの英雄志向は、彼の知的レベルの高さもあらわしているかもしれない。ピクルじしんは、原始の世界にいながら、自然物ではないのである。

「危険」も、それにのぞむ「英雄」も、自然を超越した人間の解釈のなかにしか存在しない。武蔵の存在は、その意味では自然物ではない。刀ははじめから危険たることを目的としてつくられ、それを操る技術と武蔵じしんも、それを旨として存在している。解釈を経由せず、存在それじたいに「危険」のタグがついている、自然界ではありえない様態なのだ。

ピクルがジャックに蜂を見出したのは、ジャックが気絶したまま攻撃を仕掛けてくるのを彼がどこかで感じ取ったからだった。世の中には死んでも攻撃をしてくるやつがいると、そのことをピクルは思い出し、直感にしたがったのである。ではピクルは武蔵のどのような面を「蜂のようだ」と感じたのだろう。ひとつには、「死んでも攻撃をしてくる」という、際限のなさがもたらす不気味さが、勝負の行方にかかわらずただ斬ることを喜んでいる武蔵のものと似ているということがあるだろう。

さらに、存在それじたいの危険さである。武蔵のなかにはみずから危険であろうとする志向性がある。突発的な災害を除くと、火山が危険になるのは、そこに人間が向かって「危険」であると解釈するときだけで、山のほうから出向いて人間を襲ってくることはない。そうしたことを踏まえてか、前回ペイン博士が出した「危険」の例は、基本的に「行ってはいけない」ものとしてあつかわれていた。

ピクルの行為が達成されたとき、倒れたティラノサウルスはピクルに屈服し、ピクルはそれを超越し、「危険」は克服され、彼は彼にとって「英雄」となる。けれども、まれに克服できない「危険」がある。ピクルの「倒す」という方法だけでは消し去ることのできない危険さだ。ピクルにとっては蜂がそれだった。克服できない「危険」というのは、制御できない「危険」のことだろう。ピクルにとって蜂のおそろしさは、じぶんの手ではどうすることもできないというところにあった。火山には近づかなければいいの、そういう選択をすることのできない強さがあったのである。そしてその本質的な危険性というのが、武蔵が宿している技術的、また本能的危険性によく似ているのではないだろうか。

もうひとつはその不自然さだろうか。ピクルは蜂の毒を「攻撃」と解釈したかもしれないが、別にこれはそういうものではない。蜂はもう死んでいるし、それを食べたのはピクルの勝手である。であるからこれもまたピクルの解釈ではあるのだが、いずれにしても、ふつうの生物は死んだらそれでおしまいのところ、ピクルの勝手でそうなった結果、蜂の毒は自然を超越した不自然なものとしてピクルの脳裏に登録されたはずである。自然の文脈では回収することのできない、不自然な攻撃。事実はピクルのドジなわけだが、ともかく、ピクルにはそう感じられた。

そしてまた、くどいようだが、武蔵のように危険たろうとする存在というのも、ピクルからすれば不自然なわけである。行かなくていいところに行くから、そこは「危険」になる。どっか遠い惑星でこのいまの瞬間爆発している火山を危険だととらえるひとは誰もいない。いや、もっといえば、人類が存在していない遠いむかしにそこを危険だととらえる脳は存在しない。自然の営為としては認めることのできないものとして、死んでもたたかう蜂と、意味もなく危険たろうとする武蔵は、等価なのではないだろうか。

 

 

「食べたくない」がなにを意味しているかは、ちょっと微妙でわからない。「もうあんな目にあうのはごめんだ」というようにも見えるし、見たまま、たたかいの原動力となっていた武蔵を食べるという欲望が失せてしまったともとれる。いずれにしても、蜂を思い出してしまったピクルが食欲を失うのは自然なことだろう。もういい、そのままピクルはおうちに帰ろう、あとは本部に任せよう・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第410話/逃亡者くん22

 

 

 

 

 

 

 

 

マサルが丑嶋に水責めされているころ、村田仁(マサル)は大金をもっているにちがいないとにらんだ安里はマサルの隠れ家にまで到達していた。おもえばマサルが大金をもっているということは安里の推測でしかない。そしてそれは正解なわけだが、安里はじぶんの推理に相当な自信があるようだ。つまり、これはまぐれではないのである。この手の推測では、論理だけではどちらともいいきれないぶぶんについて経験的な「勘」をつかわざるを得ないときがある。安里はじぶんのその「勘」が優れたものであるのを知っているのである。だからこそ、あるかないかまだはっきりしない大金について、ここまで踏み込んで行動ができるのだ。

しかし金の隠し場所には罠が仕掛けてあるというはなしである。マサルはそれで丑嶋を殺すつもりのようだが、一足先に安里が到着してしまった。そして、ほとんど一発で、風呂場の天井裏に隠してあると当ててしまう。

安里は天井をそっと空けてスマホで照らし出すが、しかしなにもない。金も罠もない。これは奇妙である。マサルはたしかに風呂場の天井に金をしまっていたのだ。

別の場所で新城と金城が待機している。金城は新城に貸した金の催促をしている。正確に利息を発生させているような感じではなく、ひょっとすると口約束のようなものかもしれない。新城はいちおう先輩だが、しかしいい加減返してくれと金城はいう。先輩だからっつって許さないぞと。次のコマで新城は汗をかいているが、同時に安里からの電話にも出ているので、この汗が金城の冷ややかな対応についてのものか、たんに安里からの電話で緊張したものなのか、微妙なところである。

安里はフローリングをはがすから丸ノコとバールと金槌をもってこいと新城に指示。金があることについての確信は揺らがないが、風呂場にはなかった。だから床とか全部引っぺがして調べてみるつもりのようだ。

 

 

のどかと杏奈はまだ市場にいる。まだ、というか、いますぐ行くからというマサルからの連絡を受けたばかりなので、いまかいまかというところかもしれない。のどかは地元のおばさんから島ごぼうもらったりして緊張感なく待っているが、杏奈はそっぽを向いている。杏奈がのどかを東京に連れて行く件については、最初はじぶんが得をすることについて隠していたとはいえ、嘘はついていなかったし、どちらも得をするいい話のはずだが、それでも、多少気まずくなっても不思議はない状況のはずである。しかしのどかは、もらったごぼうを半分あげるなどとふつうにいっている。いますぐ、なにもかも捨てて東京に行くかどうかというところでごぼうが差し込まれるというのがいかにものどかの空気感である。沈んだ表情の杏奈は、やっぱりひとりで東京に行くと言い出す。のどかがあんまりのんびりしてるから、東京に行っても足手まといになりそうだと、杏奈はそういって、去っていく。その表情はとてもさびしげだ。強がってはいるが、複雑な感情がめぐっているようだ。その様子を、物陰から柄崎が見張っている。柄崎はあれが杏奈だとわかっているだろうか。ひょっとしたら柄崎は、そして杏奈も、互いのことをいちども見たことがないかも。

 

 

車の二台でマサルが安里が金を見つけられなかったことについての種明かしをする。マサルは角でとなりあっている部屋をふたつ借りているのである。安里は14号室に入ったが、金があるのは13号室だ。13号室はパイプ的なものが結ばれてピッキングではあけることができない。体当たりでもしたら別かもしれないが、静かに入ろうとしたら、14号室からベランダを伝うしかない。14号と同じ間取りの13号室風呂場の天井に金は隠してあり、そこに例の罠もある。金の入った袋にはひもがくくりつけられていて、それを引っ張ると、カッターナイフが洗剤の入った袋を切る仕掛けだ。漏れでた洗剤は下の浴槽に流れていく。浴槽には盗んだ農薬がためてあり、合わさることで化学反応が起きて毒ガスが発生する。債務者にじっさいこの手の自殺をしようとしたものがいるらしく、それで細かなことを知っていたらしい。浴室程度の広さなら洗剤・農薬それぞれ2リットルずつで致死量のガスが発生し、吸えば30秒で死ぬ。どうやったのか知らないが、浴室のドアは自動で鍵がしまって、外からしか開かない仕組みになっているそうだ。さらに、風呂場には生ゴミの袋が大量に敷き詰められている。部屋の空気の容積を減らして殺傷能力を高めるためと、農薬のにおいを消すためだという。たしかに、風呂場に入って、なかに入っているのが農薬だといきなり気づかれてしまえば、なにかの罠だと誰でも考えるかもしれない。しかしマサルはいくらなんでも生ゴミを敷き詰めすぎではないだろうか。侵入者が丑嶋であることを想定して、丑嶋が超人であるという強い思い込みが、念を入れさせてしまったのかもしれない。ぜんぜん、足の踏み場もない。いくつかゴミをどけないと、これじゃ中に入れない。なかは猛烈なにおいだろうから、侵入者は生ゴミをストッパーにしてドアを開け放しておくかもしれない。それもつぶしてドアがしまるような仕組みでもないだろうし・・・。

 

 

とにかく、マサルの計画としては、そこに丑嶋を誘い出せれば、殺せる。しかし・・・、電車のつり革さえ素手で触らない丑嶋が、こんなくっさい浴室にじぶんから入るだろうか。仮に、ベランダを伝って、13号室までつれてくることができたとしても、これはぜったい、「とってこい」ってなるんじゃないかな。マサルは罠の仕組みを知っているから、あきらめてカッターの刃をしまったり、洗剤の袋の位置を変えたり、途中でつかっているクリップを別のところに挟んだりすれば済むことだが、安里がいなかったとしても、かなりの確率でこれは失敗しそう。

 

 

 

そんなことを考えているマサルに、丑嶋が話しかける。

 

 

 

 

 

「前に教えた言葉、覚えているか?

 

 

一度なくした信用取り戻すのは、

最初に信用作るより大変なんだ。

 

 

俺は、お前を信用しようとしてた。

 

 

もう俺を裏切るな。マサル」

 

 

 

 

 

いったい、どう受け止めればよいセリフだろうか。マサルも混乱する。隠れ家は目の前だが、ここまできて、マサルは「本当に丑嶋を殺していいのか!?」と考え始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

「もう俺を裏切るな」とはまた、微妙なセリフである。

ふつうにとらえれば、今後裏切るなというはなしであるから、裏切るか裏切らないかの選択ができる状況が今後のマサルに訪れるということであり、まるでマサルのことを許したかのように見える。しかしいまはふつうの状況ではない。マサルの死は丑嶋にとって確定事項ではあるが、金が手に入るまで、マサルには若干の時間が与えられるわけである。その間の、残りの短い人生のことを、丑嶋がいっているようにも見えるのである。これからマサルは金を出して丑嶋にわたし、ある程度の時間を与えられて、のどかを支援センターに届けることになるはずだが、その短い時間について、たとえば逃げるなり、たとえば用意してあるトラップをつかった攻撃しようとするなりして、裏切ろうとするんじゃないと、丑嶋はいっているのかもしれない。

とにかく少なくともマサルはこれを聞いて混乱した。つい数秒前までの丑嶋への殺意が揺らぐほど混乱した。その混乱のしかたは、本当に丑嶋を殺していいのか、というものである。丑嶋だろうと誰だろうと、ひとを殺していいわけはないが、そういうことではなく、じぶんの「丑嶋を殺す」という行動は正しいのだろうかということである。これは瞬間的な混乱のわりには射程の広い悟りである。なぜなら、マサルは別に、このトラップではじめて丑嶋を殺そうとしているわけではないからである。ハブに情報を流し、肉蝮と関係を結んだときから、どこまでリアルに想像できていたかわからないが、マサルは丑嶋を殺そうとしてきたにちがいないのである。あの危険なハブや肉蝮と組むというのはそういうことである。つまりこのじぶんへの問いかけは、丑嶋を農薬のトラップにはめていいのか、といういまこの瞬間についてのものであると同時に、ここまでの復讐劇は本当に正しいものだったのかという、いまさらな気づきでもあるわけである。

なにがマサルにそれを気づかせたのかというと、やはり丑嶋のほうでもマサルを信用しようとしてきた、というところだろう。また、もう裏切るな、ということは、「今後裏切るな」と解釈したとき「今後」がなにを指すのか、許されて解放されたあとを指すのか、いまから数時間後に死ぬまでの間を指すのか、不明であるとはいっても、少なくともこのいま、丑嶋はマサルのことを信用するといっているのである。現実問題、丑嶋は悪魔のような男であるから、これを言葉通りに受け取ることは長年の丑嶋読者としては難しいが、少なくともマサルはこれにショックを受けているのだ。ショックを受けるからには、マサルにはびっくりのセリフだったわけであり、それはつまり、丑嶋がマサルのことを信用しようと努力していたなどとは、マサルは想像もしていなかったということなのである。

なぜマサルがその構造に気づけなかったのか、それはまず、彼らの関係が対称的なものではなかったということがある。丑嶋とマサルの関係はまさしく父子のものだが、子どもというものは、親がいったいなにを考えてじぶんに厳しくするのか理解できないものである。そして、理解できないような小さな存在だからこそ、親は子どもに厳しく接するわけである。

フロイト的にいえば、エディプス(オイディプス)・コンプレックスは去勢不安によって克服される。まだ社会を知らない、それどころか他者というものを知らない乳児においては、母親との関係がすべてであり、父親はそこに他者を強いる第三者として権威的に介入するものの象徴である。その関係に浮かぶエロス的なものを保持するために、子どもはふたつの可能性を考える。ひとつは、父親の位置になりかわり(殺し)、母親の愛を独占すること、そしてもうひとつは、母親の位置になりかわり父親の愛を享受することである。しかし、父親の権力は強大であり、この行動には去勢不安が伴う。また同時に母親になる、つまり女性の位置に立つということも、同時に去勢を意味している。ソポクレスの描き出したオイディプスのような立ち位置は成立しない。そこで子どもは父親を超自我としてとりこみ、社会のなかであるべき姿を照らし出す審級としてこれを位置づけ、エディプス・コンプレックスを克服する。父親の姿は内面化され、絶えず接近すべき目標とされ、倫理とか道徳とか、行動の基本となるような前論理的な道筋を規定していく。

エディプス・コンプレックスの理論ではまず母親への愛があり、そこに父親が介入するというかたちをとっているが、あまり描かれないが、いちおうここにおける母親とは、マサルの例の実母そのものを組み込んでもいいかもしれない。ただ、マサルはいまここにのどかを見出しているぶぶんもある。“のどか”というか、もっといえば“沖縄的なもの”である。たんじゅんにこの理論を、ヤンキーくん当時のマサルの周囲にあてはめるとどうなるだろう。マサルの母親はいつも借金漬けであり、マサルには見向きもしない。となれば、金が、そして金を司る存在としての丑嶋が、愛沢の件を経ずとも、「母親への愛」を経由するエディプス・コンプレックスの観点からすれば、いずれにしても父的なものということになるかもしれない。「丑嶋のような存在」になることができれば、金を司るわけだから、母親の愛をうけることもできる。そうとらえれば矛盾もないが、マサルの心理はもっとはるかに複雑である。なんども書いてきたように、愛沢の件を経て命の手綱を丑嶋に握られた、ということが、マサルには大きいのである。文字通り丑嶋が(高田が)いなければマサルは生きていないという意味で、子どもが親に対してそうであるように、返すことのできない借りをマサルは作ってしまっているのだし、そこからアウトローの世界で生きるすべを超自我的位置から授けたのも、丑嶋なのである。

マサルは丑嶋に勝つことができない。小さな子どもが、父親を殺して、ひとり母の愛を享受することができないように、マサルはこの権威を打ち払うことができない。しかし、マサルは、この複雑すぎるエディプス・コンプレックスを克服しようとはしなかった。“小さな子ども”のまま、強い味方をあつめて、殺そうとしたのである。

これは失敗したわけだが、そのことによってマサルがどのように変化したのかは、いままでよくわからなかった。しかし今回のショックが、彼が依然として“小さな子ども”であったことを示している。父殺しを実行に移したことはとりあえずおいておいたとしても、その時点で、マサルは父越えをあきらめ、父としての丑嶋を内面化してよかったはずである。しかし、それはされなかった。父が体現するのは、両親との関係の外にある、社会的な関係性の網目の、末端である。丑嶋の信用云々のセリフがちょっと説教くさいのもそのせいだろう。しかし、“小さな子ども”である息子は、小さいがゆえに、社会を知らないがゆえに、なぜ父親がそんなことをいうのかまったく理解できない。そしてそれは、父親を内面化し、そこを足がかりにして社会に踏み出すまで、決して理解されることはない。両親との三角形の関係のうちでは決して生まれることのない発想だからだ。

マサルと丑嶋の関係は対等ではない。少なくとも、エディプス・コンプレックス的視点からすれば、対称的ではありえない。しかしマサルはそうは考えなかった。みずからの思考法、アウトローとして生きるすべ、それらもまた父から授かったものでありながら、どれもオリジナルの作法であるととらえてしまったのである。

とはいえ、マサルが丑嶋のセリフにショックを受け、揺らいだのは、丑嶋の真意がわかったからといえばそうだが、マサルのほうでそれを受け入れる準備があったからだ、ということはいえるだろう。エディプス・コンプレックスの克服には、去勢不安がもたらすあきらめが必要である。ヤクザくんでの失敗は、マサルにある種の反省とあきらめを加えたはずだ。ただ、用意されたかもしれない超自我の器にはまる父親が、沖縄にはいない。そうして、いまこの瞬間、マサルははじめてこれを克服したのではないだろうか。

 

マサルはのどかにも母親を見出しているわけだが、それはのどかの息子である航平に自己を投影してのことだ。以前考えたように、のどかは、そして沖縄は、善なるものの象徴である、それを侵食する「東京的なもの」は悪そのものである。この想定は、マサルじしんにとってのエディプス的なものとはまた別の次元の景色だろう。沖縄にきた時点で、その失敗があきらめを呼び、マサルが自身のエディプス・コンプレックスを克服する準備は完了した。ただ、航平を通してみた景色において、みずからの過去の葛藤が呼び起こされるのをとめることはできない。マサルはそれを守ろうとする。そこに、清らかな沖縄を侵食する東京的な金と暴力、という図式が採用される。ただ、この図式から見ても、今回の丑嶋の発言はショックなわけである。東京の象徴といってもいいような丑嶋が、ひょっとしたら殺すべき存在ではないのかもしれないと、こうなってしまっているわけである。沖縄にきてから自覚したことだろうが、マサルは闇金を醜い仕事だと考えている。そうであれば、あるいはまちがっていたかもしれない、ヤクザくんでのじぶんの行動も、正しかったことになる。でも、もしじぶんの復讐心が的外れで、闇金も完全な悪ではないとなったら、いったいなにをよすがにあの行為を正当化し、のどかを守ればいいのだろう。のどかにかんしては、現実的に問題なのは新城とかなわけだけど、たとえばこれからすきを見て逃走したり、あるいは丑嶋を殺すつもりだったとしたとき、やはりこの気づきはショッキングなわけである。マサルはどうしても、丑嶋に完全な悪でいてもらわないと困るのである。もし丑嶋を殺すべきでないとしたら、これまでの行動はすべてまちがっていたことになり、のどかを守れない、少なくともこれからさき一緒にいることができないこともまた必然となるのだ。

 

 

 

あの仕掛けも、すごいのかなんなのかよくわからないが、微妙なものである。特に生ゴミにかんしては、うえで少し触れたように、マサルのちょっとした無意識が見て取れる。風呂場程度の広さなら2リットルでいい、というはなしを理解していながら、殺傷能力をあげるために部屋をせまくしているのだが、そのせいで、丑嶋が風呂場に入る確率や、侵入者がドアをしめきる確率を格段に低くしてしまっている。つまり、それらに気づかないほどに、殺傷能力をあげることに意識が向いてしまっているのである。そもそもにおいのする農薬をつかったトリックで、しめきることが前提となっている時点でちょっと難しいものがあるが、細かなところがまだわからないのでなんともいえない。ともかく、マサルは侵入者を確実に殺そうとして仕掛けをつくっている。彼が誰を想定してこんな大掛かりな仕掛けをつくったのかはわからない。というか、これは誰でもありうる。マサルは向こうで誰が生き残ったのか知らないし、カウカウじゃなくても、薮蛇か猪背の誰かがくる可能性もあったし、たんに空き巣という可能性もある。げんにいま、マサルとは面識のない安里がそこにたどりついているわけである。そうした無数の可能性のなかで、金に触れようとするものをマサルは確実に殺そうとする。たよるもののない沖縄の地で、最後の手札なので、それも自然なのかもしれないが、やはりここには、侵入者として丑嶋を想定している気配が感じられる。ヤクザくんの結末をマサルは見ていないが、あんなにおそろしいハブや肉蝮でも、丑嶋を殺すことはできなかった。その不死身具合をマサルは知っている。丑嶋を倒すことはできないと、ここにも、マサルがエディプス・コンプレックスを克服するための準備が完了していたことを見出すことができるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第121話/傷跡

 

 

 

 

 

 

 

ペイン博士が「危険」を語る。

「危険」とは我々を脅かすもの。我々の肉体、精神、あるいはその両方を脅かすもの、それが「危険」なものであると。「危険」は、なんらかの現象や物体の状態を形容するときにつかわれるのがふつうで、「危険」というものの実体があるわけではない。たとえばペイン博士は台風で高波が寄せる埠頭や溶岩に煮えたぎる火口をあげるが、それじたいの別名が「危険」なのではない。人間がそこに行くことによって身体が脅かされるというその状況を、ふつう「危険」と説明するのである。

「危険」は人間やそれに類するものがかかわらなければ発生することがない。しばしばひとは、そういう危険なところから生還したものを英雄視することがあるという。ペイン博士がいっているのは、Tレックスの口のなかから生還したピクルのことである。台風や火山に負けず劣らず、Tレックスの口のなかも「危険」である。当たり前に考えると、台風や火山が宿しているエネルギーと、巨大ではあっても単体の恐竜がもっているエネルギーでは比較にもならないが、くりかえすようにここでいっているのは「危険」の度合いである。それは人間がかかわって、感想を述べることで、はじめて発生する形容なのだ。人間の身体が脅かされるという点でいえば、Tレックスの口の中は火口付近なみに「危険」なのだと、こういうおはなしである。

博士の想像図かとおもわれるが、描かれるのははじめてかもしれない。ティラノサウルスに噛まれている際のピクルの絵だ。さすがのピクルもティラノサウルスにバクンといかれたら即死だろうとおもっていたが、どうもこれは、ふつうにイッたらしい。だが、一撃では死ななかった。顔を含む状態の左側斜め半分が口のなかに入っている状態で、ピクルは噛まれている。だがそこから、足をねじこみ、手をつっぱり、スクワットでもするような要領で顎のなかにからだを入れてティラノサウルスの口をこじあけていったのである。ティラノサウルスにまともに噛まれて死なない・致命傷を受けないばかりか、そこからこんな力技をしていたのね。しかも、おそらくピクルはこのあとティラノサウルスに勝利しているはずなのだ。さらに加えていえば、たたかいの最中はダメージを無視できても、病院も治療薬もないこの時代に、ピクルがこの傷を完治させているということである。やはりターちゃんばりの回復力があったとしかおもえぬ。

 

 

 

武蔵の前にいる現代のピクルは、バキ戦でのみ見せた、関節をくみかえる最終形態に変わったところだ。このからだになるとき、ピクルのからだにはそのティラノサウルス戦で受けた傷が浮かび上がる。前回考察したように、この傷跡は、他者を内面に蓄積しないピクルにとっては、それほどの危機を乗り切ったという自負心のあらわれである。バキ戦でも、相当危機的な場面でこの体型になっていた。つまり、これはピクルが追い詰められているということでもある。ティラノサウルスに捕えられたときなみの危機が訪れたとき、それはすなわち「じぶんは同等の危機を乗り越えたことがある」ということを思い出してみずからを鼓舞しなければならないときだ。その記憶が、なんでもなかった古傷が意識しはじめた途端にうずいたりかゆくなったりするみたいに、上体の傷をよみがえらせる。そして、その危機を乗り越えるための、ピクルがもっともパワーとスピードを発揮できる体型が、これなのである。だから傷跡と最終形態はセットなのだ。

 

 

この体型を知っているのはこの場ではバキと光成だけだ。その他のひとたちはみんな理想的なリアクションをして驚いている。たんに姿勢が変わるだけでなく、ロボットの変身みたいに大きい音をたてて変化してるっぽいから、そりゃあ、はじめて見たひとはびっくりするだろう。目の前にいるひとの首がいきなり音をたてて前に落ちてジャミラみたいになったら、とりあえず数歩は下がって距離をとるだろう。

その変化で傷口もとじはじめる。治っているわけではないようだが、筋肉の緊張で傷口もしまっているのだ。

武蔵は感想を述べつつも、しかしあまり驚いてはいない。「忍び」でもここまでは化けんと。いちおう比較になる程度には、現実の忍びもこんなようなことができたということだろうか。武蔵はピクルはもはや人間ではない、妖怪(もののけ)であると判定する。が、戦法に変化はない。刀で切れることに変わりはないし、血も出る。やることに変わりはないのだ。

武蔵は「飛騨の大猿」のことを思い出している。むろんこれは夜叉猿である。武蔵のような超メジャーな侍以外のたいてい武士の最期がよくわからないのは、みんな夜叉猿に挑戦してやられてしまったからである、というようなはなしが、当時されていた。てっきり武蔵は夜叉猿とはたたかっていないということかとおもっていたが、冷静に考えるとそうはいっていないわけである。それどころか、武蔵はふつうに無傷で夜叉猿の首を飛ばしていたっぽい。夜叉猿も、安藤さんがふりおろすサーベルをはねかえすほどに頑強なからだではあったわけだし、骨を断つことのできないピクルはやはりふつうではないとおもわれる。それとも、夜叉猿もやっぱりからだのほうは斬れなかったのかな。そういえば今回武蔵はピクルの首を斬るつもりでいるはずだし。

 

 

左手をふりかぶって襲いかかるピクルを、武蔵がすばやくむかえうつ。両手首と左足首を一気に斬ってしまった。しかし傷は浅く、切り落とすことはできない。というか血もほとんど出ていない。筋肉の硬直が出血を抑えているのだ。そのことに武蔵も気づく。だが、むしろ武蔵はそれを喜ぶ。それはつまり「斬り放題」だと。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

武蔵の表情を見てピクルの顔に汗が流れる。ピクルが筋肉で傷口を閉じてしまっても、ターちゃんレベルの回復力でもないかぎり、出血は完全にはとまらないだろうし、「放っておけば武蔵の勝ち」ということは揺るがないだろう。だが微視的にいえば、まだピクルは元気に動いており、武蔵は決定打を欠いている。ピクルも死ぬかもしれないが、ピクルが武蔵を死なせることも、まだ不可能にはなっていないわけである。

しかしその状況を武蔵は笑う。いや嗤う。「嗤」という漢字みたいな顔して笑う。ピクルのほうは、侮られていると感じて、ティラノサウルスさえ倒したじぶんの身体のポテンシャルを思い起こし、奮起したところである。つまり、それくらい本気の本気で武蔵に襲いかかっている。しかし相手は、まだまだ斬れる、つまりこのたたかいを続けることができると、喜んでいる。ピクルはその温度差に引いているのである。

 

 

武蔵は前回、もうこれだけ頑丈だと、首を斬るしかない、みたいなことをいっていた。だから、じぶんのあたまに喰らいつけと挑発した。そうすることで顔を差し出させて、これを切り落とすつもりなのかとおもったが、そうならなかった。というか、ピクルじしんが今回噛みつきにいっていないということもある。武蔵はその瞬間を狙っているのだろう。また、今回の最終形態は、挑発をした武蔵も予想していなかったものであるから、今回はとりあえず様子を見たということもあるかもしれない。ふつうの接触でからだの内側をねらうのは危険が大きい。じっさい武蔵はそれで肩を食われている。余裕ぶってる感じを見せつつ、戦略的に行動しているようだ。

 

 

前半のペイン博士の説明は、このひとはいつも科学者のわりに感情的なことをいうから、あまりあてにならないが、しかし武蔵の「危険」性がどのようなものかをむしろ際立たせているかもしれない。火山や台風が「危険」なのは、「人間にとって」という但し書きつきである。酸素のない宇宙空間は生身の人間にとってそれ以上に「危険」だろうけど、ふつうのひとが宇宙空間にパジャマのまま放り出されるなんてことはないので、誰もこれを「危険」なものとは認識しない。宇宙空間それじたいに「危険」という「性質」が、科学的な形容として添えられることはないのだ。台風も火口も、ティラノサウルスの口のなかも同様である。それらがそれじたいで「危険」であるということはない。人間がいけば、人間にとって危険になる。

それに対して武蔵の危険さというのはどういうものだろう。ひとつには、彼のつかう技術、そしてそれが表現される刀という道具が人工物である、みずから危険たろうとした結果だということである。現代では刀に美術品としての価値を見出すことも可能だが、それはものさしで背中をかくようなもので、価値としては副次的なものだろう。基本的に刀などの武器は、ひとを殺傷することを目的として作られている。だから、これらのものは存在のなかにひとの身体をおびやかすなにか、つまり「危険」が含まれていないと、存在する意味がないのだ。どっからどうすべらせても髪の毛一本切れない、そんな刀は存在することができないのである。武蔵の技術も同様である。それは、ひとを殺傷し、みずからは生還する、そのためだけに考案されてきたものなのである。

ティラノサウルスの口のなかは人間にとって非常に危険であり、もしそこから生還することができたなら、彼は英雄となる。それはまちがいない。だがそれは、ある意味では、存在しなくても済む英雄である。台風や地震は自然の災害だから、免れることはできない。そういう予期せぬ事態としての危険はここでは除かれる。とりわけピクルの場合は、みずからティラノサウルスに挑むような男なわけなのだ。台風も火口もティラノサウルスも、人間がそれを回避することさえできれば、「危険」になることはない。この意味での「英雄」は、物事がそれじたいとして存在しているかぎりではあらわれてくることのないものである。物事が、その役割のみを果たしている一種の自然状態においては、「英雄」はあらわれない。「そんな危険をおかすなんて」という人間の解釈が入り込まないかぎり、英雄は存在することができないのだ。しかし武蔵は最初からその存在が危険なのである。みずから積極的に接近して、英雄たろうとするまでもなく、武蔵はすでに危険なのである。ピクルにとって同程度のダメージを与えるものであったとしても、武蔵の刀とティラノサウルスの牙はそこが異なっている。

 

そして、ティラノサウルスの牙を克服したピクルが武蔵に勝てないとしたら、原因もそこにしかない。それは「不自然さ」というような形容もできるかもしれない。要するに、武蔵はふつうではないのだ。ティラノサウルスは、自然的必要があって、強力な牙をもっている。それは人間にとって危険なものである。だからピクルはそれに挑む。しかし武蔵の刀の強力さは自然の要求するものではない。さらにそれを楽しんでしまうその心性は、もっと不自然なものである。そんな感情は、勝利するという意味においても、またたんに生還するという本来的な闘争の意味においても、必要のないものだからである。現代的な武道の感覚でいっても、せいぜいむかしの勇次郎がそういう衝動を見せていたくらいで、こんな心性はなかなか見られない。勝つなり生還するなりすれば、それで闘争の目的は達成される。しかし存在そのものが危険な武蔵はそうではないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『戯作三昧・一塊の土』芥川龍之介 新潮文庫






戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)/新潮社
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「江戸末期の市井の風俗の中で、芸術至上主義の境地を生きた馬琴に、自己の思想や問題を託した「戯作三昧」、仇討ちを果した赤穂浪士の心理に新しい照明をあてて話題を呼んだ「或日の大石内蔵之助」などの“江戸期もの"。闇空に突然きらめいて、たちまち消えてゆく花火のような人生を描いた「舞踏会」などの“明治開化期もの"。ほかに本格的な写実小説「秋」など、現代に材料をとった佳作を網羅した」Amazon商品説明より







芥川龍之介を読むのは何年ぶりなのかなあ・・・。ブログ内検索をしても記事が出てこないので、少なくともこのブログをはじめた2007年よりあとには読んでいないっぽい。

それもそのはずで、僕はべつに芥川龍之介にぜんぜんくわしくないし、よく読んだという気持ちもない。ただ、僕は中学受験をした口なので、その時期に有名なやつはほぼ読んだということがある。当時通っていた予備校の国語の先生が影響力のあるカリスマ的なひとで(いまでも現役のようす)、はなすと長くなるが、僕はそのひとの影響で読書のおもしろさに開眼し、こういう人生を歩むことになったのだ。

その先生からは、特になにを読むべきかというようなことではなく、とにかく本を読むことの大切さを学んだとおもう。思い返してみても、本を読みなさいとか、本を読むことで国語の成績があがるとか、具体的なことをいわれた記憶はない。ただ、そのひとの授業を受けるだけで僕は自然と読書家になっていたのである。文学作品に限らず、ナルニア国物語みたいな少年文学や赤瀬川源平の貧乏自慢のエッセイや筒井康隆の残酷童話などを、授業で部分的にとりあげて、先生が朗読したり、ところどころ読解したりするだけだったはずだが、僕はそれだけでいつの間にか一日に1,2冊読むような読書家になっていたし(当時はけっこう読むのが速かった)、国語の成績もみるみるあがっていったのである。吉村作治の本でピラミッドの作り方を学んだり、ファーブル昆虫記で蜂の生態を研究したり、いったいそれが国語となんの関係があるのか、というような授業もあったが、おもえばどれも効果的だったし、げんにそれでこうして少なくともひとりは読書に目覚めているわけだから、教師というのは偉大な職業である。

基本的にはテキストを使わない先生で、漢字の練習なんかも見るからにいやいや、上からいわれるからしかたなくやっているという感じで、もう時効だとおもうからいうけど、よく漢字の書き取りノートの、先生が記す日付のところを書き換えてズルをしていたものである・・・。ぜんぜんちゃんと見ないから余裕なのである。いやだって、完全に理解している文字を100回も書いたりすることになんの意味があるのかって感じだったし・・・(言い訳)

そんな先生だから、傾向を研究して塾が用意したような「必読書100冊」みたいなリストにもぜんぜん、まったく興味を示してはいなかったはずである。すすめられた記憶もない。全国にある私立中学で2度以上取り上げられたことのある作品、あるいは作家というのは、やはり次に取り上げられる可能性も高いから、そういうのを分析して、読んでおけというはなしなわけである。先生はそういうのはぜんぜん興味ないから、なんの感興もなく、「仕事だから」という感じでプリントだけ配ってすぐ井上ひさしの読解とかをはじめていたはずなのだけど、僕としてはなにか読むものの指標がほしかったということもあり、重宝してそれを片っ端から読んでいった。当時入試で流行っていたのは、ねじめ正一とか椎名誠とか井上靖とか、あと「四万十川」とかそのへんで、そういうのはぜんぶ読んだ。そしてあとは、やはり明治期では漱石・鴎外、昭和期では太宰、そして大正期では芥川を読むということは、ごく当たり前のことだったのである。ぼんやりとした記憶だが、このなかでは漱石だけがかろうじて理解できた・おもしろかった、という感じだったとおもう。鴎外はいま読んでもちょっと難しいし、太宰はよくわからなくて、むしろ大人になってからのほうが楽しく読んでいる気がする。

なかで芥川は短編小説の名手というか、短編小説でも文学的達成は可能であると示した最初のひとりであるから、受験にも非常に取り上げられやすく、またテキストとか模擬試験、過去問なんかにも頻出していた記憶がある。ぜんぜん芥川の本を読んだことがなくても、国語の授業で蜘蛛の糸とか羅生門とかトロッコを読んだことはある、というひとはかなり多いだろう。僕も、なにかを読んで、気に入った記憶がある。それで、ちくま文庫の芥川全集の、タイトルも魅惑的な地獄変というのを手に入れたのである。しかし、いま考えると馬鹿げたことだが、その本の表紙が、なにかこう、炎のなかで悶える女の人みたいなやつだったのだけど、それがすごくこわかったのだ。


↓これだ・・・


芥川龍之介全集〈2〉 (ちくま文庫)/筑摩書房
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本じたいは、短編がみっちりつまったお徳用だったのだけど、なんだろう、心霊写真的な、もっているだけで呪われるような気持ちにさえなって、読んでいても表紙の絵がちらつき、どうしてもこれを長い時間読むことができなかったのである(そういうことは子ども時代にはけっこうあって、書店で手に入れた有島武郎のなにかの本、角川文庫だったとおもうが、これが、たぶん当時すでに絶版で返すに返せなかったのだろう、いまおもうとありえないくらい焼けていて、しかもへんなにおいまでして、気分が悪くなってしまって、以来有島武郎のことを考えるだけでにおいがよみがえってきて気分が悪くなってしまう、というような経験もあった)。で、記憶を遡ってみると、どうもこれ以降芥川を読んでいないような気がするのだった。

と、ここまで書いてじぶんの書棚をひっくり返してみると、何年かまえ一念発起して本を作者順に並べてみようとした形跡があり(すぐ挫折したが)、芥川の本がまとまって置いてあるのが発見された。比較的新しく見える新潮文庫の『羅生門・鼻』の奥付を見ると、平成18年の73刷とある。ブログをはじめるかはじめないかのぎりぎりのころ、どうもこれを読んだっぽい。記憶にはないが。

しかしその有名な羅生門だって、気持ちのいいおはなしではない。死体のにおいがこちらまで伝わってくるし、服を剥がれる老婆もあわれというかおぞましいというか、なかなか、どういうつもりで読めばよいのか難しい作品である。つまり、じっさいのところ、ちくま文庫の表紙に感じたおぞましさは、芥川の作品にたしかに底流しているのである。

本書でも、「お富の貞操」なんかにそのおぞましさの片鱗を見て取ってもよいかもしれないが、それでもずいぶんすっきりした読後感なのは、本書の編集上のまとめかたのせいなのか、僕の人間的成熟のせいなのか、不明である。ところが、冷静に考えてみると、推理小説を少年時代に読みふけっていた僕は、死体がそこらへんに転がっていたり、老婆が全裸になったり、田舎娘が犯されそうになったり、そのくらいの描写でショックを受けるようなタマではないはずなのである。いったいなににそんなに恐怖したのか、厳密には僕は表紙の絵にビビっただけなんだけど、でもそれは作品にインスパイアされた関連図だったはずだし、その本にかんしても一字一句読まなかったというわけではないのである。芥川のいったいなにが、僕に異物感のようなものを植えつけたのか。考えてみると、それはその圧倒的な技巧にあったのではないかとおもえる。本書は読み物としては「江戸期もの」と「明治開化期もの」、それに現代を舞台にした3種類の作物が収録されている。そしてそのどれもが、まるで見てきたかのように、松尾芭蕉の弟子や大石内蔵之助に取材したばかりかじっさい憑依してみたかのように、そこにある茶碗も手に取れそうなほどの立体感で描かれている。

それというのは、もちろん芥川龍之介は天才ではあったのだろうけど、それ以上に博覧強記だったわけである。戦前くらいまでは、文学で生活しているようなひとの教養というのは、作品を見ればわかるように、それはたいへんなものであった。いまでも文学の畑で小説を書いているひとはたくさん勉強しているのはまちがいないだろうけれど、とりわけ明治期ともなると、小説を書くという営みの前にまずは海外から文学を輸入し、翻訳し、それがなにであるかを分析する批評の仕事を経由していたわけである。羅生門は今昔物語に由来した作品だそうだが、このあたりは、ヒップホップにおけるサンプリングの概念をつかうと理解しやすいかもしれない。すべて想像だが、明治期における文学が教養を必要としたのは(といういいかたは順序が逆だが)、そうでなければ近代文学は成立しなかったからである。しかし、漱石や鴎外が並外れた努力と持ち前の知性でほぼ完成させた日本近代文学を受け取り、弟子として小説を紡いでいく芥川たちは、どうやって小説を書いていたのだろう。そこに、一種の衒いがまったくなかったかというと、そういうことはなかったのではないかとおもわれるのである。いまでも文壇には教養主義的なものがよくもわるくも瀰漫しており、賛否わかれるところかもしれないが、教養がなければはなしにならなかった時代をじかに見ている芥川の世代では、仮に(そんなものが存在するとして)才覚だけで小説が書けるような時代が訪れたとしても、そういう作法は邪道であるというようなぶぶんもあったのではないだろうか。

芥川龍之介は日本の古典を出典として小説を書いていく。僕なんかがぼんやりと羅生門を読んでも、「ああ、これは今昔物語のアレね」とはなりようもないわけだが、ここに、サンプリング的なものを見て取ることができるのである。たとえば、ラップの背後でかかっている音楽のことをトラックというが、トラックのもっとも原始的なかたちは「2枚使い」といって、レコードの特定の部分を抽出してくりかえし流し続けることをいう。たいていのヒップホップのトラックは、すでに存在しているレコードのあるぶぶんを抽出して、再構築することでつくられており、そのことで、いまでは誰も聴くことのなくなった古い音楽の価値が再発見されるというようなことも起こるわけである。だから、基本的にトラックというのはループしていて、何小節かの同じ演奏が延々と続くのであり、それが独特の中毒性を生むのだが、故D.Lによる名曲「CRATES JUGGLER」のように、あるピアノソロをまるまるつかって、まるで伴奏のように響かせてしまったりとか、抽出のしかたもいろいろである。

フリースタイルダンジョンの人気で火がついた即興ラップのMCバトルでも、サンプリングは客をわかせるのに有効な手法で、あの番組では既存の名曲のトラックを流用してかけているが、それが有名な曲だと、冒頭の一節をくちにしただけで盛り上がるし、トラックとは無関係に、あるひとの名フレーズをからめてライミングすることで、「わかるひとにはわかる」高度な応酬をすることも可能なわけである(チコ・カリート対R‐指定のように、レベルが高くなってくると、あるバトルのフレーズを引用したのを受けて、その過去のバトルでくちにされたアンサーのフレーズを相手が使ってきたりして、逆に相手のサンプリングを利用してしまったりもするわけである)

サンプリング文化に見え隠れするのは、蓄積と隠語の感覚である。ひとつには、それ以前までの、いまのこの瞬間にいたるまでの歴史への敬意のあらわれである。そして、ヒップホップの場合は黒人文化ということもあってか、外部のものにはメッセージの本質が容易には伝わらないような、ある種の暗号化もほどこされている。それが音楽的な方法に転じているのが、サンプリングというものなのではないかと考えられるのである。トラックにかんしていえば、レアなレコードを掘り出すことを「ディグる」というが、みんなが忘れ、また見逃している宝石のような音楽を探し出す、という意図もここにはあるようである。がそのいっぽうで、該当曲をリスナーが知っていることを前提で、「わかるひとにはわかる」というものとしてつくっているぶぶんもあるようだ。ラップとなるとその傾向は顕著で、トラックになりうる音楽というのはそれこそ世界に存在するすべての音楽ということになるから高度すぎるとしても、ラップなら、素人にも追うことは可能だろう。たくさん音楽を聴いて、たくさん会場に足を運んでいれば、自然と「通」になっていくということである。表出しているもののみから分析を開始するテクスト論的な読み方とは相容れないもので、ビギナーがヒップホップについてつまづくのはまずそこだろう。聴いて、感じたことがすべて、という限りでは、引用し、引用されることによって生じる歴史的な時間のうねりのようなものは感じ得ない。そこはまた、作り手と同様に、歴史への敬意と、またくわしくなるにつれ見えてくるものを楽しむ心構えができれば、僕みたいに無知でもたいして気にならなくなるが、そこに排他性を感じるのはふつうのことで、げんにもともと、隠語は排他的なものとして成立しているわけである。



隠語は、そもそも権威的な「教養」ということばの響きとは相容れないが、ついていけるものだけがついていける、独自の制度を内に宿しているという点でいえば、それこそ「権威的かどうか」というぶぶんのみが異なっていて、排他性と裏表の、そこに属することができたという喜びが、サンプリングのもたらすもののひとつであることはまちがいないだろう。ただ、それだけではない。動機や発祥の原点はそうであっても、それだけでは、音楽的な(また文学的な)方法とはなりえない。それは、ラップにせよ小説にせよ、そこに至るまでの歴史がなければ、それは存在しなかったという敬意の意識が、そのまま方法に転じているのである。芥川の古典への取材は、漱石の時代からの必然的教養主義を受けての、そうした結果のように見えるのである。


ただ、本書のカラフルな文体や取材の対象を見てもわかるように、芥川の興味はひとつのところにはとどまらない。それがよりいっそう、その方法を「技巧的」に見せる。おもしろいのになにかトラウマ的なものを僕が感じてしまうのは、その徹底的な技巧への傾きからきているものなのではないかとおもわれたのである。服を剥かれる老婆が、無慈悲に放り捨てられるだけなら、それほどのおぞましさはなかったかもしれない。しかしどこかに、別の目的、つまり技巧の表出が、そこに感じられてしまうのである。



なにかおもわぬ方向にはなしが展開してしまって、まるで芥川が嫌いな理由をどうにか説明しようとしているような文章になってしまったが、そうではなく、本書はすばらしいものだったし、むしろたぶんこれから好きな小説家になっていくんじゃないかとすら感じている。たんに、少年時代のトラウマを説明しようとしたらこうなってしまった・・・。








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第409話/逃亡者くん21

 

 

 

 

シリーズの番号を、①とか②とか、記号で記してるんだけど、それが⑳までしかないので、記号がなくなると長くなってきたなーと感じる。しかしヤクザくんとかフリーエージェントくんとかに比べると逃亡者くんがあんまりすすんでないように感じるのは沖縄的時間感覚のせいだろうか。


 

丑嶋につかまって水の中に沈められたマサル。いちおう、丑嶋の価値観はすべて金からはじまり金に終わる、というような直感がマサルにもあって、その交渉をしてみたが、こうなった。しかしその悟りはどうやらまちがっていないようである。しばらく様子を見てから、マサルは引き上げられる。顔にカバンをかぶったままなので、表情はいっさいわからないが、少しの間反応がない。本当に死にかけていたのかもしれない。

だがすぐに勢いよく呼吸をはじめ、悪態もつく。苦しみはしたが、とりあえずまだ元気なようだ。

水の中で呼吸ができなくなる感覚というのはおそろしいものである。もう一回やろうという丑嶋に、マサルはあわててやめてくださいという。もちろん、丑嶋は本当に殺す気はない。いや、マサルの命のことなんていまさらなんともおもっていないだろうが、その、マサルのいう金が手に入るまでは殺すつもりはない。

そして、加納を殺して奪った金のありかを吐けという。んんっ?!「加納の」といったぞ。ということは、丑嶋は、マサルのいっている「金」というのが、じぶんが加納にわたした退職金だとわかっていたということか。いったいどこでそれを知ったのだろう。かんたんに前の巻を読み返してみたが、やはりそれっぽい描写はない。加納を襲った家守たちは、丑嶋と加納を尾行していた最上が、なにかをわたしていたと証言したことで、加納を選んだ。カウカウのほかのメンバーはうまく身を隠し、加納は住所が変わっていて見つからない、というところで、最上が加納のいまの住所をじぶんが知っていることを思い出したのである。それで、加納を拉致するついでに、袋に入ったままの大金をアジトに持って帰った。金は最上が金庫にしまおうとしたが、そこをマサルが襲って逃げ出したわけである。つまり、その金がハブ組のもとに“ある”ことを知っているのはハブ組の連中とマサルだけである。だが彼らが丑嶋にその情報をくちにした様子はない。ただ、加納の家に金が“ない”ことに気づけるものはいる。嫁ちゃんの麻里である。彼女なら、家に帰ってすぐ気づく。危ないのですぐ柄崎や戌亥たちに保護されたようだが、少なくともいちどは家に帰っているので、袋がないことにはすぐ気づき、誰かに教えたかもしれない。もしそうだとしても、マサルが持っているとは限らない。丑嶋はあのたたかいの時点では金のことを知らず、アジトに置いてきてしまったと考えるかもしれない。ハブはどこか別のところに金をしまったかもしれないし、家守がおなかのなかに隠していたかもしれない。丑嶋にはたしかなことはなんともいえないのである。マサルが金を持っているというのはあくまで「その可能性もある」くらいのことでしかない。しかし、あとで触れるが、丑嶋独特の思考法が、おそらくマサルの言い方から、彼のいう「金」というのが「加納の金」であると断定させたのである。

丑嶋はさらに、のどかを呼び出せという。マサルがかぶっているかばんのあたりからスマホを取り出しているが・・・。ふつうに考えてこれはマサルのだってことだよな。最近の携帯電話は水のなかに落ちても大丈夫なのか?!

マサルは電話でのどかの居場所をきく。のどかは、以前散歩した市場のあたりにいる。丑嶋たちはマサルを積んでそこに向かい、さらに細かく入口付近にいるということを聞き出して、近くのビルの屋上からのどかを視認する。影がふたつみえるので、まだ杏奈も一緒にいるようだ。丑嶋の目的はのどかという個人を認識することである。彼女が担保だと。妙なまねをしたらのどかを殺すと、こうマサルをおどすのである。これくらい「2時間」の自由時間にこだわるマサルであるから、そのほれっぷりも相当のはずで、のどかを人質にしようとするのは自然だろう。ただ、目視というのはいかにも適当な感じもする。僕なんか遠くから一回見たくらいじゃ次に会ってもぜったい思い出せない・・・。いまでも宮崎あおいと二階堂ふみの区別がつかないし・・・(どっちもかわいいんですけど)。だから、そういうポーズをマサルに向けてとって見せただけで、本当にのどかをどうこうしようというのはないんじゃないかな、という気もしないでもない。


 

車のなかでマサルは考える。金を手に入れるまで丑嶋がじぶんを殺さないことはわかっていたが、じっさい死ぬかとおもったと。死ななくてよかったが、金をわたして自由時間を手に入れるために、のどかを人質にとられてしまった。唯々諾々としたがっているようだったが、内心やむを得ずという感じだったようだ。のどかをそんなふうにあつかわれたことはマサルの丑嶋への憎しみをさらに強化したようである。金の隠し場所には仕掛けがしてある。それは、どうやらうまく決まれば死んでしまうほどの威力のある罠のようだ。だから、丑嶋が金のありかに行けば、丑嶋は死ぬ。彼にとっては神聖なのどかを侵され、マサルも心おきなく隠し場所に丑嶋を案内できるのである。

しかし丑嶋より先に金にたどりつきそうなのが、丑嶋ばりの洞察力を見せ続けている安里である。ヘアピンでドアの鍵を開け、あっさり部屋に侵入。じぶんならどこに金を隠すかと、なにもない部屋をうろうろしながらプロファイリングを開始する。そして、見事に一発で風呂の天井裏を引き当てるのだった。




 

 

 

 

つづく。




 

 

 

安里の開けようとしている天井裏にはたしかに金がある。しかし今回明らかになった仕掛けも同時にある。それは、ペンキ爆弾が爆発するとか、バケツがひっくり返って水が降ってくるとか、そんなものではなく、命にかかわるもののようである。ここまでミスなしにマサルのガードを破ってきた安里は、果たしてトラップに気づくことができるだろうか。


 

今回、マサルのもっている(いっている)「金」というのが、「加納の金」だということを丑嶋が知っていたことが判明した。うえで考えたとおり(僕が見落としていなければ)、「マサルがもっているかもしれない」と考えることは丑嶋の洞察力なら可能かもしれないが、断定はできなかったはずである。それを今回、ひょっとしたらカマをかけるという意味合いもあったのか、丑嶋ははっきり「加納を殺して奪った金」といったのである。それというのはおそらく、丑嶋の思考法に関係している。マサルはのどかを送り届けるために、どうしても2時間だけほしい。そのかわりにじぶんの金をわたすと丑嶋に説明した。これに関して、たんにマサルがじぶんの金で2時間の自由を買うというはなしになると、マサルの推測した「けっきょく金がすべて」という丑嶋の人格についての見立ては、正しかったことになるだろう。丑嶋の立場からすれば、かえがきかない社員である加納、そしてそういうものたちで構成されていたカウカウ、これを失わせたのがマサルなのである。かえがきかない以上、どれだけ金を積んでも、加納に似たひとを連れてきても、かわりとすることはできない。万物を金に読み換える丑嶋が、「金に換えることのできないもの」として集めたのが、カウカウメンバーだったわけである(それだけに丑嶋にとっては同時にアキレス腱ともなったわけだが)

だから、加納の死についてケジメをとる、マサルに責任をとらせるということは、「加納」という価値になりかわる金なり物なりと交換する、ということではない。加納が復活するような世界ではない以上、できることといえば、感情レベルで報復をすることと、二度と同じことが起こらないよう、アピールも兼ねて面目を保つことくらいなのだ。かえのきかない、たとえば家族や恋人を殺されて、犯人に対し「金を積まれても、死刑になっても、戻ってくるわけじゃないから、別にいいよ」とはふつうはならないだろう。長い苦痛と葛藤の果てにそういう気持ちになることもあるかもしれないが、まずはやはり強い憎しみと報復の感覚が全身を支配し、暴力衝動に耐えなければならない。社会的にそれらの感情についてケジメをとるのが、要するに刑法である。誰もが暴力衝動に任せて報復していたのでは、社会は成立していかない。報復の権利はいちどすべての人間から没収され、法律の文脈で再解釈されて、判定がくだされる、それが僕の理解である。

なんでも金に計算する丑嶋、という人物像からすれば、「かえのきかないもの」というのは要は0円なのだから、失ったところでどうしようもないともいえる。しかしもちろん、「かえがきかない」とは無価値であるということではない。通常が計算高いものであるがために余計、丑嶋はどうしても報復をしなければならないのである。

そして、ヤクザくんから続く面子の問題もある。今後のカウカウがどうなっていくかわからないが、とりあえず仲間を殺した原因のひとりであるものを生かしておくことは、裏社会の面子的にプラスになることはない。

だから、加納の死についてマサルに責任をとらせようとしたとき、丑嶋はそのいちぶぶんでも金に換えることができない。逆にいえば、もしそれをするようなことがあったら、丑嶋の加納のあつかいが汚れてしまうのではないかと、そのように考えてきたのである。


 

今回の発言でわかったことはふたつある。ひとつは、過程はともかく、丑嶋はそれを「加納の金」と認識しているのであり、受け取るとしてもそれを「加納がもつべき金」として受け取るということである。これも、なんでもないようだが、丑嶋らしからぬ思考法である。というのは、もっているのが丑嶋であろうが加納であろうがマサルであろうが、金は金だからである。わたしがもっている1万円札とあなたがもっている1万円札のあいだにちがいはない。ちがいを気にするのは銀行や警察だけである。もし、あなたのもっている1万円札が2万円の価値があるとしたら、それは貨幣の意味をなさない。両者が同じ価値であると、全国民が合意しなければ、お金というのはなんの意味もないのである。

だから、たんに金の移動ということにかんしていえば、2000万くらいだったかな、それを丑嶋が受け取れば、彼はその金でたしかにマサルの時間を売ったことになる。それがもともと誰の金だったのかは関係ない。本屋にいって闇金ウシジマくんを買うとき、「ああ、この1万円札は、真鍋先生が取材のときに経費で落とした1万円札のうちの一枚なんだな・・・」と考えながら払うひとはいないのである。

にもかかわらず、丑嶋はそれを「加納」の金と呼ぶ。それは、マサルの時間を売っているわけではない、という宣言でもある。マサルのもっている金は、同額のほかのお金と交換することができない、いや、物理的にはできても、マサルがそのぶんのお金を抱えているという事実だけは消すことができない、一種の負債として認識されているのである。丑嶋は、金を貸す際、じぶんの金とおもって貸せ、みたいなことをいっていた記憶があるが、そういうことともまたちがうだろう。その金は加納がもっているべき金であり、ということは少なくともマサルがもっていていい金ではない。現実にはそれは丑嶋の金となるのだろうが、とりあえずは取り返さなければならない。なぜなら、それは取り返すことのできる数少ない加納の部分的価値だからである。加納にわたし、加納のものとなったこのお金は、同時に「かえのきかない」加納の一部となったはずである。加納は生き返らない。しかし物体として残っている金は取り返せる。


 

もうひとつは、丑嶋がそれを「加納の金」だと断定した思考過程である。丑嶋がどれだけホームズばりの推理力を働かせても、「あの金はマサルがもっている可能性がある」以上のところまでは踏み込めなかったはずだ(たぶん)。しかし、つかまったマサルが金のことをくちにしたとき、おそらく丑嶋はそれが加納の金であると断定した。

マサルはいま、金をつかって丑嶋をはめようとしている。しかし丑嶋の側からしたらどうだろう。こいつは金をもっているのかな、いないのかな、というところで、金のはなしをしだしたわけである。それは同時に、丑嶋の逆鱗にも触れるものだ。というのは、マサルはここで金をえさに丑嶋をコントロールしようとしているからだ。それは丑嶋の仕事である。丑嶋こそが、万物を金に読み換え、それを求めるひとびとの行動を制限し、自由自在に操ってきたのである。丑嶋からすれば、「それをするのはお前じゃない」というはなしであって、だからこそ、あんなふうにあまり丑嶋らしくない、余裕のない行動も飛び出たのである。しかし、マサルは「金なら払う」というような言い方はしていなかった。理屈からして、丑嶋はこのときに、「これは加納の金のはなしだな」と断定したにちがいないはずなのであるが、それはどのようにされたのか。それは、もしマサルが金をもっていたら、いまそのはなしをするだろう、というような推測があったからだろう。いきなりなんの用意もないところで金の話をされても、よほどマサルが加納の金をもっている件について確信がなければ、それとこれとは結びつかないのではないか。

こう考えると、丑嶋には「マサルは交渉に際して加納の金を持ち出してくるにちがいない」という考えがあったはずなのだ。その理由は、ややこしいがふたつ考えられる。ひとつは、丑嶋にとって加納はかえのきかない社員である、という以上の過程をマサルじしんが推測するにちがいないと、丑嶋が考えたからである。丑嶋は「ただの金」は受け取らないかもしれない、でも「加納の金」は受け取るのではないか、そういうふうにマサルが考えるにちがいないと、丑嶋は考えたのである。だったらすぐ「加納の金」だといえよというはなしだが、じっさい、その言い方はけっこう微妙だった記憶もある。

もうひとつの理由は、マサルが丑嶋の鏡であるからである。アウトローとしてのマサルの思考法は、丑嶋が授けたものだ。ひとを「生きる価値なし、死んでよし」と判定する丑嶋を「生きる価値なし、死んでよし」と判定するのがマサルである。沖縄に来て、村田仁と名乗り、のどかと出会い、マサルは変化していったが、基本的な思考法は変わらないだろう。そのことをどこかで丑嶋も知っているのである。だから、かえのきかない社員である加納の、償うことのできる部分的価値である「加納の金」は返すべきであるとマサルは考えるにちがいないと、丑嶋も考えるのである。両者は同じ思考法を採用しているから。もしこの推測が正しければ、それはひとつのことを示している。それは、マサルじしん、加納がかえのきかない、カウカウにとって大切な人物であったことを認めていることになり、丑嶋はマサルが、加納の死について本当に反省していることを理解していることになるのである。


 

 

今回合併号のため来週はお休み。次は22日発売号です。




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