すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10426281677.html

・考察‐価値観は人それぞれという価値観

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10159270907.html

・考察‐共有と共感、その発端

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html

・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10422484912.html

・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10855081068.html

・映画評‐『キャリー』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10202697077.html

・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10372611010.html

・アニメ批評-侵略!イカ娘

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10803805089.html









バキ感想最新・刃牙道

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10079104494.html

 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10036290965.html

 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10016899943.html

 ・ピクル対範馬刃牙編

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10010553996.html

  



ウシジマ感想最新

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10094429374.html

 ・ヤクザくん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10085446424.html

 ・復讐くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10084090217.html

 ・フリーエージェントくん

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10074769118.html

 ・中年会社員くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10071550162.html

 ・洗脳くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10056764945.html

    

    



※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第110話/破壊







斬れないピクルを斬るために、武蔵が愛刀・金重を手にしたところだが、入れ違いで光成の家を本部が訪れている。いつもちょうど入れ違いだけど、たまたま遭遇したりしたらどうなるのかな、いきなり開戦なのかな。まあ本部のことだから、いつたたかいがはじまってもいいように準備してるだろうし、もしまだたたかうつもりがないとしたら、ちゃんと武蔵がいるかどうか調べているのだろう。


本部はピクルがワニ狩りをしてふたたび人間の世界にあらわれたことは新聞で知っているが、それに光成や武蔵が反応し、すでに途中までたたかったことは知らないはずだ。独歩やバキなんかはふつうに知っていたので、本部も途中のことまでは知っているのかもしれないが、今回は武器ありで仕切りなおしをしたことを問い詰めている。本部は光成をにらみつけ、光成のほうでもダメだといわれるのを予想しているようだ。

そんでもって本部はまた「理解(わか)ってない」という。光成は実戦者ではないという意味で本部たちとは立ち位置がちがうので、わからなくても不思議はないわけだが、それをいわれて光成はパイプに火をつけている。やはり不快ではあるのだろう。でも、光成が手を貸さなければ実現しなかった、結果として死人を出した試合とかもこれまであっただろうし(烈がそうだろう)、わかっていようがいまいが責任はけっこう重いものがある。そのことの意味を光成がどこまで理解(わか)っているのかな、というのは、たしかにある。

ただ、本部がいっているのは、いつものことながら武蔵の強さにかんすることだ。宮本武蔵が剣をもつというのがどういうことなのか、ぜんぜんわかってない、ピクルだからダメなのではなく、誰でもダメなのだと。

光成はそこでじゃっかん話題をそらす。「本部以蔵以外は――か?」と。これでピクルの件をどうするかという問題はどこかにいってしまっているので、光成はもう誰がなんといってもこれをサポートするつもりなのかもしれない。

武蔵の相手は誰もつとまらない、だからじぶんの出番だ、じぶんが出張っていかないともっと犠牲者が出る、みんなを守るのはじぶんだ・・・そういう理屈なわけだから光成もこういう言い方をしたわけだが、本部はそれをからかいと呼ぶ。勝算があるわけではない。というか、厳密に言えば、勝算があるかどうかは別問題であって、あるからやる、というのは、本部の行動の動機には含まれていない。武蔵の生きたあの時代を学び、それを追い、また現代につなぐものとして、宮本武蔵との対面は避けられない責務なのだと、本部は語る。本部の価値を再認識したばかりの光成だが、このかっこいセリフでまた本部の評価が上がるのだった。


そのころ武蔵は街に出ていた。さすがに刀はもっていないが、手の感じはイメージでぶら下げているふうな開き具合だ。

生き返った当初、武蔵を圧倒したビル群を、彼は見上げている。構造を分析しているようだ。どうやればこの巨大な建物を倒すことができるかを脳内で検証しているのだ。重心は縦一方。頂上近くの、ある程度巨大な塊を分離するように、建物の頭部にあたるぶぶんの四隅を断てば、それが肩のぶぶんに落下し、崩れた肩は今度は胸のぶぶんに落下し・・・と、最終的にはすべて崩壊することになる。たんにコンクリートでかためてあるだけではなく、内部にはいくつのもの鉄が通っていることであろうから、いくら金重でも刃こぼれは免れない、などといっているその背後に、ピタリとガイアがついている。

武蔵は少し驚いているような感じもあるが、いきなりうしろにひとがピタリとくっついてきたら、気配を感じていたとしてもびっくりするかな。ガイアは残念だという。武蔵がじぶんの接近に気づかず、背後をとらせてしまったわけで、殺そうとおもえば何度もそれができたと。

ガイアは戦場で銃殺されかかるという体験で超能力的なちからを身につけたかわりに体中の毛がぜんぶぬけてしまった。だからぱっと見は幼い。武蔵は15,6以上かなどといっている。そして、15分ほど前からつけているなとくちにする。どうやらその「15分」というのはかなり正確なようで、ガイアは少し焦るのだが、げんにこうして背後をとらせたことはまちがいないわけで、これはハッタリであると考える。気づいていたなら、どうして背後をとらせたのかというはなしなわけだ。それを武蔵は哄笑して「そりゃそうだ」と認める。危険がなかったからである。独歩なんかも、歩き方とかにおいとかで、通り魔が刃物を隠し持っていることを見抜いたりしていたから、武蔵だったらもっと高度なことができるにちがいない。武蔵の知らない武器もあるだろうけど、いろいろな情報から、危なくないなと武蔵は判断したのだ。

ガイアは焦り気味で拳銃を抜き出す。が、その手首は、おそらくイメージ刀で腱を斬られてしまう。武蔵の時代にも短筒はあったし、ピクル戦の前に現代の強力な銃も経験しているのだ。いきなりピンチのガイアなのであった。




つづく。





武蔵のビル破壊は、基本的には人間の知識欲とか、蓄積することを旨とする定住民族が自然にもっている成長意欲に反応したものだろう。武蔵ほど強大な自我をもっているものならば、そういう欲求はひとの何倍も強いにちがいない。要するに、じぶんの知らないことやできないことがあるのは我慢ならない、という感覚である。ときを超えていきなり現代によみがえったわけだから、科学の到達に圧倒されるのは別に自然なことで、武蔵じしんがじぶんに言い聞かせていたように、彼は人間とたたかうことを仕事としているのだから、それはそれで別にかまわなかったはずである。しかしたぶん、それではどうしても納得できないぶぶんがあったのではないか。じぶんを圧倒する建物の巨大さや、機械の機動力を、じぶんのちからで制圧できるという実感させあれば、ひとまず、それらに道を譲る必要はなくなるし、よければ「屈服させた」という感覚も味わうことができるだろう。ビルの巨大さが武蔵にもたらすものは、ひとことでいえば「遅れ」の感覚である。反撃してこない無機物を割ることについては、独歩とのやりとりを経由して、武蔵はあまり価値を見ていない感じがあった。まあ、武蔵のばあいは、ああいう会話でさえ虚実入り混じった戦術の一環であるところがあるから、言葉通りに受け止めることにはほとんど意味がないが、しかしいかにも実戦的な人物の発言という感じはあり、ほとんど武蔵の本音であろうとおもわれる。であるから、ビルを破壊することを通して、じぶんのちからがどの程度のものであるかをはかっている、ということは考えにくい。つまり、これは「試割」ではなく、どちらかといえば「実戦」に近いのである。ではなにとたたかっているのかというと、じぶんよりはるかさきをいっている「文明」だ。武蔵は、科学の到達に触れて、それに圧倒されることで、じぶんの「遅れ」、要はじぶんが過去の世界の人間であることを痛感したはずである。現実的には、武蔵がビルの建築や自動車の運転に長けている必要はない。しかしこの「遅れ」の感覚は、武蔵の宿す戦闘技術や能力が、あるいは相対的なものなのではないか、という可能性も芽生えさせる。たとえば、ある田舎の村にすごく絵のうまい女の子がいたとして、描いた漫画なんかをみんながほめてくれるから自信もあって、勉強を重ねて都心の美術大学かなんかに入学することができたとする。都会ではなにもかもが田舎とは異なっていて、絵がうまいことが村でじぶんにもたらしてきた恩恵がほとんど意味をなさず、世の中には「絵のうまさ」を経由しない価値観があふれているのだということを痛感する。ファッションや音楽など、じぶんが知りもしないそれらを前にして、彼女は強くじぶんの「遅れ」を認識したのである。その「遅れ」の感覚は、みずからが誇る「絵のうまさ」にもおよぶはずだ。あるいは、彼女の絵のうまさは、じっさいには都会でも誰もおよばないものかもしれない。しかし世界にはさまざまな種類の「絵のうまさ」がある。漫画だけではなく、油絵を描くものもいるし、建築の世界でそれを生かすものもいるだろう。じぶんでは描かず、漫画家の資質を引き出すことにそれをつかう編集者なんて職業もある。のちに漫画家になる彼女にはマンガがうまければそれでいい、という悟りがあるにはあるが、世間への「遅れ」の感覚はどうしても取り去ることができない・・・。へたくそな比喩だが、そんな感覚が近いかもしれない。

武蔵の感覚は、田舎町で女の子がマンガのうまさをほめられたように、さまざまな「絵のうまさ」が入り乱れる都会でも同様の評価をされたいというようなことだろう。とりわけ武蔵は「他人の評価」を非常に重視している。ここでいう他人とは現代のひとびとなわけで、戦国から江戸にかけては圧倒的な価値をもったじぶんの技能が現代でも通じるという予感でもなければ、これを動機にたたかうことは難しくなってしまうはずである。現代でもじぶんの技は通じる、評価されるという自身を得るためにおそらく、武蔵はみずからのうちに生じた「遅れ」を解消しなくてはならない。それをもたらした象徴的なものとして、武蔵は高層ビルを選んだのだ。ビルの巨大さが、じぶんの技能で相殺できるものなのであれば、彼の絶対性は回復し、「遅れ」の感覚もなくなるだろう。試割ではなく実戦であるとしつつも、ここにはいろいろ無理がある。四隅を切る際の足場はどうなっているのか、四隅をじゅんばんに斬って武蔵がその場をはなれるまでビルは倒壊を待ってくれるのか等、想定として不自然な点はない。ただ、厳密にいえばこれは、武蔵なんかがふつうにやっているイメージ斬りとはちょっとちがうのである。この想定の目的は、この、先をいった文明、その象徴としてのビルの巨大さが、果たしてほんとうにじぶんの手に負えないものなのかどうかということを試すという点にあるのだ。だから実現可能かということはさして重要ではない。目的は自信を回復することである。あるのかないのか、「切れないものなどない」というような確信が現代でも通用するのかどうかをたしかめているだけなのだ。


このタイミングで、現代的であるという点では全ファイター1とおもわれるガイアが出てきたのは、かなりガイアには不幸なことである。ガイアの技術や経験には、武蔵の知らないものがかなりあるだろう。しかし、たったいま武蔵は、それもこれもじぶんの剣で制圧できる、という自信を回復したばかりなのだ。腱を切ったということだが、たぶんイメージなので、その感覚を払拭できればガイアにも勝機はあるかもしれないが、そもそもガイアはなにをしにきたのだろう。じぶんがやらなきゃいけないとあれほどいう本部が、弟子とはいえまだ若いガイアを送り込むとはおもえないし、たぶんこれはガイアの意志と考えられる。ガイアは本部から多くを学んだかもしれないが、近代的な戦闘にかんしてはじぶんのほうが通じているという自負もあるかもしれない。たぶんこのガイアは、「近現代」の象徴の具体物としての意味合いがある。武蔵はビルを倒すことで自信を回復したが、その行動は「自信を回復するため」のものでしかなかった。しかし、じっさいに現代の武器や技術を使用するガイアを倒してしまったら、いよいよ世界は武蔵に制圧されてしまう。作品的にいえば、ガイアを経由することで、武蔵と現代の「時差」はなくなる。戦国ではこうだったかもしれないけど、いまはこうなんだよ、という文脈が、これをもって消滅することになるのである。

そう考えると、このガイア戦は武蔵の目的、つまり富と名声がじっさいに与えられるようになるための予備段階かもしれない。なぜそれをピクル戦のあいまにしなければならないのかは、まだわからない。けっこういろいろなひとがからんできてるし、衝動的な前回の接触以上に、次にピクルと会うときは、そうとうな大事になっているかもしれない。




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去る5月21日、『ヴァンパイア・サクセション』の午前と午後の部(それぞれマチネ、ソワレと呼ぶことをツイッターで知った)を連続で見たのち、僕と相方は華形ひかるのお茶会に出かけたのだった。

お茶会に行くのは生まれてはじめてのことである。いろいろ理由はあるが、個人的な理由としていちばん大きいのは、男性としての心理的抑圧だろうとおもわれる。空白の期間が何度かあるとはいえ、はじめて生で見た宝塚が真矢みきのザッツ・レビューで、これが調べてみると97年だから、だいたい20年くらい宝塚を観てきている。ということは、12歳くらいがはじめてということになるが、それ以前からビデオとかは見ていたので、体感的には「小さいころから」という感じがする。だから、観劇が生活に一体化した習慣のようなものとなっていたことはまちがいない。しかし、中学にあがって、思春期に突入したあたりから、宝塚に対する感情はおそらく抑圧されていったのである。どういうことかというと、宝塚は女性だけで構成されているわけですよね。見目麗しい、活きのいい女の子たちが、そりゃ生足ではないけれど、太もももあらわにロケットしたりするわけですよね。僕としては、宝塚が好きであることはまちがいなかったのだけど、思春期を経由して客観が身につくにつれて、これはひとにどうおもわれるのだろう、という恐怖というか不安みたいのがあったわけですよ。で、たとえば僕は当時姿月あさととか風花舞とかが好きだったわけなんだけど、その「好き」は、クラスメートが「優香を好き」なのとは断じてちがうとおもいたかったわけだし、げんにおもっていたわけですね。その結果、両方の視点を共存させるために、僕の無意識は淡白な、いまでいえばテクスト論的な読み方を、観劇の姿勢にデコレーションしたわけですよ。おわかりでしょうか。宝塚は観たい。姿月あさとは好き。でもそれはグラビアアイドルを見る目線とはちがう。ちがうはずである。そして、ちがうことを周囲にわかってもらいたい。そうした結果、僕は、「オレは別に宝塚を『女性』の集団としてみているわけじゃないんだぜ。あくまで個別の作品を、風変わりな媒体が表出している現場としてみているんだぜ」というスタンスを選んだわけですよ。風花舞を素敵だとおもう気持ちは、思春期男子のものではなく、ダンスを表出する美しい媒体としての風花舞を読書でいえば眼光紙背に徹するようにして読み込んだ結果出てきたものなのですよ。おわかりですか。

じっさいには、中学生、高校生の男子がひとりで宝塚を観ることはそんなに異常なことでもなかったはずだ。特に仲のいい友人には、そうなった人生のいきさつをはなしてあるし、そうでなくても、たいていの同級生たちは、男女ともに「ふーん」というリアクションで、別にだからどうということもなかった。おもうに、よく知らなかったということはあったとおもう。僕は同系統の中二病的なふるまいとしてジャズも好きだったが、これについては、特に小中ではよくからかわれたものである。いまおもえばあれは中二病以外のなにものでもなかったが、しかし、あの時代がなければ、僕はいまジャズを理解していないにちがいないし、オトナになってから理解しようとしてもたぶん遅い。そういう経験があるので、いま現在中二である子たちは、なにもおそれず、存分に中二病に罹ればいいとおもう。いまバカにされてるそれ、バカにしてる連中がオトナになってから教養として身につけようとしても手遅れになってるから。

で、たぶん「ジャズ」は、音楽の授業とかで聞くこともあるし、からかいやすかったとおもうのだけど、宝塚って、好きな女子もいるわけだし、興味ないものからしたらどうしていいかわからない対象だったとおもうのね。それどころか興味をもってくれるような者もいたし、たぶん、思春期の自意識過剰がそうおもわせていただけで、だいたいそういうことって本人がおもっているほど周囲は気にしていないものなのだ。


ともかく、僕のばあいはそうやって、作品を個別に見ている、というスタンスを周囲に示すことで、思春期的自我を確保していた。それはじつのところいまも持続している。前後の状況や、タカラジェンヌに対する知識抜きで、作品(脚本とお芝居の質量)のみから解釈を広げるという、いつもの観劇記事のスタイルのことだ。こういう読み方をするものは、決して誰かのファンになったりしない。そんなことをずっと続けてきたせいか、じっさい僕はタカラジェンヌ全員のファンである、みたいなところがある。まあ、蒼乃さんとか、ときどき例外もあったけど・・・。しかし、東園子「愛の読み替え」で指摘されていた典型的宝塚ファンの観劇のしかた、つまり、タカラジェンヌの重層構造を容れて、環境依存的に、タカラジェンヌの姿を役の姿に重ねることで独特の解釈を展開するという方法をとっていないかというと、もちろんそんなことはない。華形さんと桜一花がからむ場面にふたりが同期であることを思い出さないなんてことはないわけである。だから、20年にわたる訓練の結果、どうやら僕は観劇においてそのような分裂を自然に行う術をいつの間にか身につけてしまったようなのである。


僕は特定の誰かを好きになったりはしない。そうじぶんに言い聞かせ、信じ込み、じっさいにそうなっていったことで、いまの僕は確立していったわけであるから、当然お茶会などいったことがあるはずはない。しかしおもしろいのは、高校の同級生カップルと戦国バサラの会場で遭遇し、ふたりが宝塚ファンであることをそのときはじめて知った、ということがあったのだが、そのときの会話で、僕だけ贔屓がいないことが判明して、もちろんそれはわかっていたことなのだが、それを相方に話したときに、「いや、早霧せいなでしょ」と、当たり前のことであるかのように即答されたのである。僕はマジで気づいていなかった。そして、おもえば、僕は自分で金を出して、早霧せいなが企画してやっていた例の「名探偵SAGIRI」のDVDを購入し、ちまちま見ていたのである。そうか、オレは早霧せいなが好きだったのか・・・。自意識過剰な男性ファンのあわれな末路である。分裂が完璧に仕上がっているがために、誰が好きなのかじぶんでわからなくなっているのだから。


何度か書いてきたが、うちの相方は華形ひかるの大ファンである。しかし、『ヴァンパイア・サクセション』の記事で書いたように、最近の華形ひかるは関東での公演がぜんぜんない。今回の神奈川での宙組公演への出演は、ほんとうに久しぶりの東上だったのだ。ブログで振り返ってみたら、その前に華形さんを生でみたのは2013年の10月、風と共に去りぬのアシュレだった。2年半も、相方は好きなひとの芝居を観れなかったのである。そりゃまあ、遠征しろよというはなしなのかもしれないが・・・。しかし、だとしても、これはちょっと問題なんじゃないかとは、正直おもう。

そういうわけだから、ほんとうに久しぶりの華形さんなので、もうほとんどなにも考えずお茶会行きを決め、そして、なぜか僕もそれについていくことになったのだった。

ただ、行くと決めてからもいろいろてんやわんやだった。まず、お茶会の雰囲気というものを知らないので、じぶんらみたいなものがいってもいいのだろうかという、よくわからない不安があった。また、やっぱりみんなドレスとか着物とか着てくんだろうか、そんな服ないんだけど・・・みたいな具体的な不安も、もちろんあった。調べてみたところ、服装にかんしては、そのジェンヌさんに合わせていくのがふつうなようだ。合わせるといってもどの程度なのか見当もつかないが、たとえば大空さんみたいなひとだったら、ちょっとビシッとしていかなきゃなとか、娘役さんだったら、女性もちょっとファンシーにしていったほうがいいかなとか、そういうことだとおもう。華形さんのばあいは特殊で、毎回ドレスコードがある。その芝居や役に関係したなんらかの条件が、案内状に記されているのである。今回でいえば、舞台がアメリカなので、たとえばUSAとか、自由の女神とか、なんでもアメリカからイメージされるものを身につけてきてくださいと、そういうおはなしであった。このドレスコードについては、お茶会で華形さんにじしんによる言及があった。別にこれはぜったいの条件というわけではなく、できたらしてきてほしいという程度のもので、そもそもの目的は、こうしたことを機会にしてちょっといつもよりオシャレしてみようとか、そういう気持ちになってもらえたらうれしいと、そんなことのようだ。暑くもあり寒くもあるという、時期的に非常に微妙なこともあり、最後まで迷ったが、せっかくの機会なので、ふたりしてインターブリードやラルフローレンの洋服を新しく買って(もちろんアメリカに由来したなにかがついている)、勇んで出発したのである。


お茶会そのもののレポートは、熱心なかたがいくらでもやられているし、だいたい僕はもう細かいことを覚えていないので、全体の印象を語ろうとおもうが、今回つくづくおもったのは、華形さん(に限らずタカラジェンヌ全体)のいち社会人としてのタフネスである。僕らはまあ、それなりに朝早くおきて、午前の公演を見て、うろうろ劇場の周辺を歩いたり軽食をとったりして、午後の部を見て、そんで山下公園のあのあたりをのろのろ進んで会場に向かい、なんか席番の書かれた札みたいなのをもらって、写真とかを選びながら華形さんの到着を待ったわけだが、もう午前の部が終わったじてんですでにくたくたであり、これは、最後までもつのかと、真剣に不安になったのである。東京宝塚劇場とちがって、公演のあいだも施設内にいることはできるから、ほとんどつねに座っていたにもかかわらず、疲れはどんどん蓄積していった。そして、そこで思い当たるわけである。いやいや、俺たちこんな疲れてるけど、華形さんは一日に二回死んでからお茶会にきてくれるわけだよねと。しかも、疲れたらちょっと姿勢崩して、目を閉じたりして休憩できる僕らとちがって、ずっと神経張り詰めて、笑顔をたやさず、疲れなんか毛ほども感じさせず、みんなを楽しませてくれるわけだよねと。それはもう超人じゃないかと。

それから、これもつくづく感じたことだが、華形さんってほんとに優しいのよ。世界の彼氏と呼ばれるだけあるのですよ。ゲームのコーナーで、お客さんが3人か4人前に立っていたんですよ。お客さんの血液型を当てるゲームで、ひとりでも当てられたら華形さんの勝ち、全部はずれたら負け、というルールで、僕らははじまる前に華形さんが当てられるかどうかを○×で予想してあるんですね。で、当たれば写真がもらえると。こういうコーナーだったんですけど、それが終わったとき、じゃあせっかくだからと、プログラムにはない行動だとおもうんだけど、壇上にあがってくれたお客さんと写真を撮りはじめたのね。それを見て、僕は「華形さん優しいな・・・」とおもったんだけど、ほとんど同時に、うしろのほうにいたおばさんふたりが小声で「やっさしいねぇ・・・」みたいな感じで話し合ってるのが聴こえてきたんですよ。ということは、たぶん会場中のひとがそうおもったはずなんですよ。握手会のときも、相方は見るからに緊張していて、「すいません・・・」みたいなことしかいえなかったらしいんだけど、そのほんの数秒のあいだに、「緊張してるね~」と、あの笑顔で彼女の緊張をほぐしてくれたみたい。マジで世界の彼氏。


考察記事でたくさん書いたけど、今回のお芝居で、特に華形さんの役は脚本的にかなり説明不足なところがあったので、そのあたりの分析を華形さんじしんの口から聴くことができたのも、僕はうれしかった。まあ特殊ではなく、宝塚普遍といえばそうなのかもしれないけど、芝居中は一挙手一投足が考え抜かれているのだなということがほんとうに伝わってきたし、舞台では無駄な場面、無駄なしぐさなんてひとつもないんだと改めて了解した。あそこまで練り上げられているから、生のお芝居は何度見ても発見があっておもしろいのだ。


まだなんかあったとおもうけど、長くなってきたのでここまで。思い出したらまたまとめて書きます。




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第401話/逃亡者くん⑬






戌亥の策略で2時間後には丑嶋たちとぶつかることになるにちがいないマサル。客としての戌亥に会うのは3時間後ということだったが、ほかの仕事もあってか、マサルはもう外出している。

その足でマサルはパチンコしている細衣子(たえこ)という女に会う。ふうん・・・これでたえこと読むのか。田のぶぶんを「た」と読ませているのか?白川静の字解によれば、このぶぶんは音符ではあるけれどもともとは田ではない。セットでググッても該当名が出てこないので、かなりオリジナルな読み方だとおもうのだが・・・。なんでそんな不思議な名前なんだろ。

細布子は今日は大勝ちしているので融資は必要ない。マサルのほうに用事があって、彼女のいる場所にやってきたのだ。細衣子は鼻を固定するためか、テープみたいなのを顔につけている。まだ新しいケガのようだ。僕がむかし鼻を折ったときには、こういう感じの処置はせず、なんかぐるぐる巻いてかためた包帯みたいなのを両方の鼻の奥につっこんで数日固定する感じだった。あのときは痛さよりは鼻水のほうがひどくて、しかもかんでいいものかどうかわからず(あとできいたら別に問題ないらしかった)、延々とふき取り続ける苦しい数日間だった・・・。

細衣子のケガは旦那のDVによるもので、いまの前の旦那から逃げるときに被害者支援団体のシェルターに隔離してもらったことがあるらしく、要はそれを紹介してくれないかというはなしである。マサルはいろいろな面で行動を制限されている。のどかを助けたいが、ヤクザにはなしをつけてもらったり、なんなら自分で新城をどうにかしたりとか、したいだろうけど、大きな行動は慎むべきときである。だから、とりあえずのどかを安全なところに移動させたいのだ。

細衣子によれば、沖縄はせまいから、完全に関係を断ち切らないとまたすぐよりをもどして同じことをくりかえしてしまう。女のほうでもずっと暴力を受けていると慣れてしまうようなところがある。DVをする男のほうに変化は期待できない。だからやるならすっかり関係を断ち切らないといけない。そういう細衣子は、以前の旦那がヤクザの組長だったのだが、それから逃れるためもあってか、次の旦那にはもっとちからのある組長を選んだ。しかし、ひとが変わっても、けっきょく細衣子がDVを受けているという現状に変化はないのであった。そうなると、帰納的には、男ばかりでなく、細衣子のほうにも、あるいは沖縄という状況それじたいにも、なんらかの原因があると考えたほうがいいかもしれない。

細衣子はべつに悪い人間ではない。支援団体にはこの場で連絡してくれるそうだ。マサルはそのままどこかの事務所に向かい、説明を受ける。シェルターでは、ただ対象の人物を暴力から守るだけではなく、仕事や子どもの保育支援などもしてくれる。しかしそれだけに、本人にきてもらって、どの程度の被害なのか、どれくらいの支援を必要とするのかをはっきりさせなくてはならない。


そののどかは杏奈に誘われてお酒を飲んでいる。ふたりとも上機嫌で、のどかはもう杏奈をちゃん付けで呼んでいる。年はけっこうちがうとおもうけど、もうすっかり仲のよい友達みたいだ。椅子のうえにあぐらをかいている杏奈はパンツが見えていて、それをのどかに指摘され、「見せてるのだ」の懐かしいやりとりもある。「のだ」は杏奈の口癖だったが、今回はここでしか見えない。口癖が出たというより、モコとのあのときのことをちょっと思い出したのかもしれない。

杏奈はもともと、芳則の借金を肩代わりするようなかたちで鷺咲に沖縄に売られてここまでやってきた。お金じたいは、杏奈が移動した時点で店から鷺咲にわたされるので、鷺咲との関係はここで切れている。あとはお店に借金するかたちとなったはずだが、仲間のところはどう見てもそんな危ない感じの店じゃないから、それはすでに完済し、店を変えて生活しているということだとおもわれる。目標は一日5万で、ノルマを設けることで毎日が忙しくハードになったから、病んでるヒマもないという。昔は男に金を貢いで大変な思いをしたと杏奈は語る。この言い方だと、芳則が実はすでに中国に売られて、たぶん死んでいることをすでに知っているか、あるいはおもうところがあって沖縄にきたのを機会に縁を切ったつもりでいるか、少なくとももう杏奈の気持ちのなかに芳則はいないようだ。もともと杏奈はホストのツケくらいで借金らしい借金のない女の子だったが、いまでは貯金もしているという。お金で9割のことは解決できるという、どこかで偉いひとがいっていたことを杏奈は正しいと語る。理路整然としたしゃべりかたといい、落ち着いた表情といい、この杏奈には明らかに瑞樹の気配が感じられる。沖縄にひとりできて、時間はそれなりにあっただろう。杏奈なりにかなりいろいろ考えたにちがない。

のどかは、まず稼げてないし、そのうえ母親はパチンコで借金、元旦那からも日々大金をせびられている。仲間からもらったお小遣いでお昼ご飯を食べることさえためらってしまうような生活だ。仲間にもいわれていたが、のどかは美人だから、ホームページで顔を出せばすぐ売れるようになる。しかしそんなことをしたら狭い沖縄ですぐ噂が広まってしまうし、保育園の本業をやめたり、最悪息子の今後にまで影響したりしかねない。

そんなのどかに、杏奈はいっしょに東京に行こうかという。借金はもうないわけだから、杏奈が東京に残る理由も実はない。たんに、過ごしやすくて気に入ったというだけなのだ。しかし、機会があったら戻ろうかとは考えていた。仕事は紹介するし、いっしょに行かないかと、そういうおはなしだ。近くの服屋さんから伸びたトルソーの列を眺めながら、のどかはぼんやりと東京行きについて思案する。それでなにかがかわるのかなと、あまりにも漠然としすぎていて、不安も期待もごちゃまぜでかたちになっていない感じだ。でも、のどか的にもそれほど非現実的な未来というのではないっぽい。


マサルはのどかを呼び出して職員のところに連れて行きたいが、電話に出ない。マサルのまわりには、「死神」という落書きや黒猫が思わせぶりに表出している。しかしのどかのことであたまがいっぱいのマサルの目には入らないようだ。戌亥との約束の時間は1時間後である・・・。




つづく。





マサルはとにかくのどかを守りたい。以前のマサルだったら、獏木みたいな知り合いの強者の手を借りるなり、そういうのがなくてもじぶんの腕力でどうにかしたかもしれないが、いまは目立ってはいけないときであるし、金城との兼ね合いもある。イリーガルな方法はなるべく慎まなくてはならない。結果としては、一般的な方法として、そういう支援団体に手を貸してもらうほかない。シェルターというのがどういうものなのかわからないが、細衣子の場合は、次の旦那がもっと強い旦那だったから縁を切れたわけであり、逆にいえば、そうでなければ切れていなかった可能性がある。シェルターは一時しのぎにはなるし、合法的であるという点でどこに出しても問題のない方法なので、長い目で見たときは有効なのだろうけど、それだけに即効性とか融通性にかんしてもどかしいぶぶんがあるかもしれない。その意味でいえば、杏奈が提案した東京行きは、DVという視点からいっても、意味のある選択だろう。もちろん、そのことでたくさんの問題が生じる。母親を置いていくことになるし、息子はまだ小さいから転校とかいうことにはならないが、それだけに手がかかり、そしていま子育てを手伝ってくれている母親もそこにはいないわけである。まあ、だったら母親ごと東京に移っちゃえばというはなしかもしれないが、としたらけっきょくのどかへの母親の依存は変わらないだろう。しかし、のどかと子どもだけが東京にうつるというのなら、うまくいけばということだが、顔出しして売れっ子になってお金を稼ぐことものどかなら難しくないだろうし、いまより生活は楽になるかもしれない。

マサルとしても、重要なことはのどかを暴力(的なもの)から守ることなので、東京行きは望ましいことだろう。ただ、マサルは東京には行けない。東京から逃げてきた結果が、いまのマサルなのだ。つまり、のどかがもし本格的にじぶんの東京行きを視野に入れ始めたら、のどかの感情はよくわからないが、少なくともマサルにとっては、のどかを守るというふるまいとのどかとお別れするというふるまいが同義になるのである。愛とは、所有なのか、それとも相手の幸せを願うことなのか。あるいは今後マサルは、そういう二択に迫られるかもしれない。


マサルの周辺にはなにか黒くてまがまがしいものが満ち始めている。この1時間先にはおそらく丑嶋と対面しているであろうから、それは正しいサインである。しかし、マサルはどうやらそういう世界が発しているサインのようなものに気がついていない。もともとのこうしたジンクス的な、世界からのサインというのはおそらく、人間の無意識が、世界からそうしたサインを見出す、というところからはじまっているとおもわれる。今回でいえば、無意識が、この先にいやなことが待っているということを直覚しており、周辺からなにか不吉なものを見出そうとして、たくさんの落書きのなかから「死」という文字を拾いあげたり、あるいは何匹か前を通過したかもしれない複数の猫のなかから黒猫だけを抽出してしまったりするのである。要するに、マサルの身体・精神のあるぶぶんは、渋川剛気のように、未来を予測している。このまますすむと危ないよと、マサルの意識に警告している。しかし現実に機能しているマサルの本体は、のどかのことであたまがいっぱいで、これを知覚していない。戌亥は偶然が手伝ってマサルを発見することができたが、戌亥が存在していることを知らないマサルは、いまでも彼の接近を許さない。それだけ注意深く生きているのである。そんなマサルがそうした不吉な予感を見逃すとは考えられない。予感の原因となるなんらかの兆し、たとえば、彼を呼び出す聡子の声音などから、なにかあやしいと気づいてもよいところなのである。が、そうならない。それはのどかのことであたまがいっぱいだからだ。のどかを愛することが、いまマサルの身を危うくしているのである。


沖縄生まれ沖縄育ちの若い女性にとって、東京とはなんだろう。洋服を着て並ぶトルソーに、のどかはなにを見ているのか。なんの柄なのかよくわからないが(そもそもなんの柄であっても僕にはわからない)、どうも花柄とか、沖縄っぽい感じの服のように見える。商店街の先を歩く杏奈は影のように黒くなって、そこに向かいつつ、のどかが振り返っているような構図だ。たぶん、気持ちとしてはすでにのどかは東京に向かいつつあるのだろう。沖縄から離れるということは当然、沖縄的なもの、ゆいまーるからも離れるということだ。素朴で小さいが過ごしやすい沖縄的なものから離れ、互いに信じあわないことのみを原則とする東京に行こうとしているのだ。ゆいまーるの小ささは、自律しているあいだはよく働くが、新城のような東京的なものの侵入にはひどく弱い。沖縄的なものの象徴といってもよいようなのどかが東京に行くということは、イコール東京流に染まるということではないにしても、だから物語的にはけっこう大事なのだ。

マサルはたぶんのどかに本気でほれているわけだが、その好感度のあらわれかたが、タフな世界で生きてきたマサルだからということもあり、みずからを男らしく表現するという方向性になっていると見ることができる。愛しているから、相手のことを大切に思うということが、東京の現場で生きてきたマサルでは、「守る」というふうに読み替えられるのである。現状元旦那に支配されているのどかをもしじぶんのものにして「所有」しようとしたら、マサルは新城から彼女を強奪しなくてはならない。しかし、マサルの感情の機微には、どうしてかそういうものがない。結果としてのどかを「強奪」することがあったとしても、それが動機にはなっていない。「守る」ことが先決なのだ。そう考えると、マサルはのどかの東京行きを認める可能性がかなり高い。そうするとマサルは、のどかを愛するがために、のどかと別れ、同時に、そのことでスキをつくってしまっていることになるわけである。のどかはそんなことはおもいもしないだろうが、それだけマサルには決定的な存在なのだ。そしてさらには、このあと順調にいけばマサルは丑嶋と遭遇することになるわけで、のどかへの愛を知った結果、マサルは過去のじぶんと対面することになるわけである。こんなふうになっていくとはおもいもしなかったが、今後は「愛」がかなり重要なことばとなっていきそうだ。






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ミュージカル・プレイ 『ヴァンパイア・サクセション』
作・演出/石田 昌也
ヴァンパイアが、不幸な過去を持つ少女との触れ合いの中で命の尊さを知り、「人間」になろうとする物語。これまでの耽美でシリアスなイメージを覆し、様々な弱点を抱えつつ21世紀に生きるヴァンパイアの親近感溢れる姿を、コメディタッチでありながらもハートフルに描き出します。
現代のニューヨークに甦ったヴァンパイア・アルカードは、700年という時の流れの中で、「退化という進化」を遂げ、生血の為に人を襲うことも十字架を恐れることもなくなっていた。ヴァンパイア研究家の末裔であるヘルシング16世とも友情を育み、彼のゴースト・ライターとして自らが過去に見聞してきた出来事を「幻想ロマン小説」として執筆する日々を過ごしていたのだ。ある時、出版記念を兼ねたハロウィンの仮装パーティに「ヴァンパイア役(本人役)」で参加したアルカードは、歯科医を目指す大学生のルーシーと出会う。次第に彼女に惹かれていったアルカードに人間になりたいという欲望が高まるが、それは「永遠の命」を持つヴァンパイアにとって、「自殺」に等しい決断だった。






以上公式サイト より。







宙組『ヴァンパイア・サクセション』を観劇に神奈川芸術劇場に行ってきたぞ。今回はいちどに2回の観劇で、5月21日の11時と3時の開演だった。

前回観劇も宙組で、雪組のるろうに剣心を見損なうという、20年くらいの宝塚人生最大の失敗もあるけれど、それはたまたまで、今回についていえば専科の華形ひかるが出演するということで2回観劇の運びとなった。ファンでないかたのために書いておくと、宝塚は本拠地宝塚と東京にそれぞれ宝塚大劇場と東京宝塚劇場という専用の劇場を抱えており、ここで5組が交替に「本公演」を実施することで通年公演を可能にしている。要するに、時期によって例外はあるけれど、年間通して常にこれらの劇場に行けばどこかしらの組が公演を行っているのである。今回の公演はそういうのとはまた別で、本公演のあいま(ふつうに考えて4組ぶんは時間があくことになる)に行われる全国ツアーだとか、バウホールという小劇場での芝居と並んで行われるもので、本公演以外で、若手とか、トップ目前のひととかが主演をすることのできる機会ということになっている。

で、華形ひかるというのは、もともと花組所属の男役スターで、ファントムのアラン・ショレを観て以来、相方はすっかりこのひとのファンになってしまった。しかし蘭寿とむ退団のラストタイクーンを最後に花組から離れることになり、専科という、組には属さず、公的には「専門家集団」に配属されることとなった。僕が子どものころなんかは、専科というと一線を退いたようなすごい上級生だったり、組の最上級生がやることになる組長とかを辞めたひとが属しているようなイメージだったが、あるときからふつうに2番手とかをやっているようなひとが急に専科に飛ばされたりというようなことも増えていった。専科からトップとして組に戻る例などもないではないが、だから、どうやらトップ路線ではないらしいということがこころのどこかではわかっていても、やはり好きなひとがセンターに立って主役を張ることを夢見ずにはいられない、固定のタカラジェンヌファンからすれば、穏やかにいってそうとうにショックな出来事なのである。

しかしまあ、そうはいっても、逆にいえば、専科としての新しい活躍のしかたが可能になるということでもある。組所属では考えられなかったような、さまざまなひとたちとの芝居の交差が観れたりするし、組ファンの顰蹙を買うこともあるが、なかなか良い役をもらえたりもする。ところが、華形ひかるは、ぜんぜん本公演の出演がない。ぜんぜん、ない。それが端的になにを意味するかというと、あつかいが悪いということと同時に、東京にこないということである。専科としての仕事がないわけではない。しかしそれは、どれも博多だとか中日だとかの地方公演であって、宝塚大劇場(=東京宝塚劇場)ではないということである。いちどだけ、星組の風と共に去りぬの全国ツアーが神奈川にやってきたことがあって、それを観ることはできたのだが、そういう例外的な東上さえほとんどない。そもそも本公演がなさすぎるということが問題ではあるのだが、しかし、そんなに見たいなら遠征すればいいじゃんというはなしになるかもしれない。げんに実行しているひとは多いだろうが、われわれには難しい。というわけで、これで全組制覇ということになるが、ようやく華形さんがその星組以来久しぶりに東京に(神奈川に)やってくるということで、もう相方なんかはずっと楽しみにしてきたのである。あまりにも華形さんが東京にこなくて、つまり姿を拝見できなかったせいで、相方は傍目にもすっかり参ってしまい、何度か望海風斗に浮気しかけていたほどだ(宝塚ファンのかたならわかってくださるとおもう)


というわけで、実は今回は2回の観劇に加えて、予定していたわけではなくたまたま日程が重なっただけなのだが、華形ひかるのお茶会にも行って来たのだった・・・が、これについては、なにしろ人生初のお茶会であったので、またながーくなるにちがいないから、記事を改めて書こうとおもいます。


今回の演出は石田昌也、主演は宙組2番手の真風涼帆。真風さんは、現状望海風斗と並んで「明日からでもトップになれる」2番手スターであって、高身長を生かした、こわれやすいものでもあつかうかのような、娘役を大切にするしぐさが非常にセクシーな男役であって、じっさいのところ作品そのものもけっこう楽しみだった。しかも、ストーリーを読むだけでは内容がするする入ってくることはなかったが、とりあえずはヴァンパイアということなのだから、こりゃまあ、すごいんだろうなと、見る前から期待しているぶぶんが大きかった。しかしストーリーが入ってこないのは実は観てからもいっしょで、僕はたまたま連続で2回観ることになったけど、1回ではわからないところだらけになってしまうんではないかと正直感じた。演技者は悪くない・・・というかこれでいいんだけど、なにかこう、煮詰める前に提出してしまったというか、石田先生も不完全燃焼だったんではないかと、要するに時間なかったんじゃないのかと、プログラムのことばなどを読んでも感じる。

僕の場合はそのあとお茶会にまで出席して、華形さんというひとが非常に役柄を練って臨まれるので(みんなそうだけど)、いつどこで集めたのか、おそらく梅田での公演を踏まえた、芝居についての質問に華形さんが応えてくれたおかげで、だいぶ疑問が氷解したというぶぶんもかなりある。それがまた石田節だといえばたぶんそうなわけで、その「わからなさ」も込みで観劇であるということはいえるとおもう。とりわけ宝塚はそういう面でも現代的で、提出される作品と鑑賞者がすっぱりと断絶しておらず、入り乱れる解釈が、その入り乱れ方それじたいで作品理解を形成するというぶぶんがある。要は、現代では誰でも、難解であろうが簡単であろうが、鑑賞した作品の感想とか批評をネットで調べたり、ひとによって解釈が異なるということを踏まえたうえでいろいろリアル世界で議論したりということをするわけであるが、宝塚というのはずっとむかしからそういう様式をファンのほうに求めてきたぶぶんがある、というのはこのあいだ読んだ「愛の読み換え」の受け売りである。役柄のしたには芸名のタカラジェンヌがおり、その下には愛称の、「虚構の素の姿」があり、そのさらに下にまるでないものとされているかのような本名の領域があって、こういう多層構造が、「作品そのもの」のみを抽出して、技巧的に、テクスト論的に読むことを許さない傾向があるのである。

(役者や観客への)丸投げはよくない、ということは石田先生ももちろん理解している。しかしここでは、石田先生の理解の本態がどうであるかということ以前に、わたしたちの鑑賞スタイルにそういう傾向があるということから見ていったほうがいいだろう。そして、宝塚という機構はそういう解釈システムを踏まえたうえで構造的に作品を提出している。だから、よくわからなかったとか、脚本が穴だらけであるとかいう発言は、おそらくは、むしろしたほうがよい。解釈が一定である必要はない。しかし同時に、そうする以上、わたしたちは入り乱れる解釈の波それじたいも受け入れなくてはならないだろう。正解はない。わたしたちが受け止めたものが、わたしたちにとっての正解なのである(というようなことを華形さんもいっていた)


舞台は2015年のニューヨーク、700年にわたって眠っては蘇り、また眠るということをくりかえしてきたヴァンパイアのアルカード(真風涼帆)は、いつしか生きるにあたってひとの血を吸うということを必要としなくなっており、かつての宿敵の末裔であるヘルシング(愛月ひかる)と交友を結び、作家である彼に吸血鬼的なネタを提供する関係になったりしている。もともといいやつだったんだ、としかおもえないが、14年前の911でアルカードはひとりの少女を救っていて、成長したそのルーシー(星風まどか)と再会し、ある出来事から恋人を演じるようになる。ふつうはここで「恋に落ち」そうなものだが、アルカードが人間でないせいか、恋に落ちる前と後が断絶するような、デジタルな感情的落差はここには見られない。が、演技だった恋愛関係はいつの間にかかけがえのないものになっていたようで、アルカードは人間になりたいとおもうようになる。本作のひとつのテーマとしては、不老不死(厳密にはゆっくり老いている)のヴァンパイアと、死を人生のいちぶとする人間の対比があって、おそらく真風さんの役作りと、もともともっているやわらかい雰囲気もあって、アルカードの時間感覚は非常に独特で、実はここもまた、うまくあらわれているがために、細部を不明確にする原因となっているかもしれない。ひとことでいえば、わたしたち人間には不老不死のものの時間感覚というものに馴染みがないわけである。アルカードの立ち居振る舞いには、傍目には「あきらめ」ととれる、なんというか、貪欲さの欠如のようなものがあって、それが、あまり感情をあらわさないひとの真意を探るようなふたしかさを、観客に感じさせるのだ。たぶん、じっさい真風さんはそのつもりで、そういう時間感覚で演じられているとおもう。友人のヘルシングは、愛月さんの非常に聴き取りやすい発声のセリフで縁取られた饒舌なキャラクターで、バイタリティにあふれ、ある意味では俗物で、その意味でも、相対的にアルカードの低体温的なつかみどころのなさを強調している。というか、これもまた、愛月さんは意識されているとおもう。


本作をもっともわかりにくくさせているのは華形さんの演じられたサザーランドという科学者である。このひとはES細胞研究家ということで、ヴァンパイアにくわしい科学者として冒頭から政府の高官と会議したりしているのだが、華形さんによれば、別にヴァンパイアの専門家というわけではなく、本業は別にあるのだが、ある意味では趣味で、もっとくわしくいえば、ヴァンパイアはおそらく初期衝動ではあったかもしれないがそれで食べているわけではない、というところかとおもわれる。サザーランドはヴァンパイアの存在を信じており、どうにかそれを証明しようといろいろ調査を続ける。で、サザーランドは、物語のクライマックスで、アルカードの前でいきなり自殺をして、不治の病であったことを告白し、彼がすでに人間になっていることを告げて死ぬのである。アルカードにはもうひとり、カーミラという派遣の死神が協力者としてついている。余談だが、これを伶美うららが演じているのだが、あんなに特徴的なひとなのに、ずいぶん美人でうまい子なのに、ヒロインじゃないんだなとかおもっていて、2回目を見終わるまでそうだと気づかなかった。宙組のことをあまり知らないというのもあるとおもうけど、伶美うららはいつもそうなのだ。このひとはよく雑誌の裏表紙とかで広告に出ていて、顔はよく知っている。で、なにかこう、伶美うららのじっさいのふるまいと、スチールなどから受け取る印象のあいだに、落差があるのである。うまくいえないけど、写真からは滝川クリステル的な静性が感じられるのだが、じっさいの伶美うららはもっと動的で、さらにいえば美しいというよりキュートなのである。

このカーミラは、人間のなかに入ってなにを考えているかをのぞけるのだけど、彼女がサザーランドを調べたとき、冷たくてぞっとした、みたいなことをいうのであるが、これがいよいよサザーランドのキャラをよくわからなくさせる。また、サザーランドの説明書きみたいなものにはほとんどの場合「狂気の科学者」というようなものがあたまにつくのだが、これもよくわからない。というのは、華形さんのお芝居を見る限りでは、またじっさい脚本上でも、サザーランドは比較的常識人で、マッドサイエンティストなんかではなくただ理想を、作中のことばでいえばロマンを追っているだけの素朴な男で、そんな安っぽい、悪い意味で宝塚的な、定型的人物ではないのである。ここについては、うろ覚えなので話半分に読んでもらいたいが、華形さんの解釈を参考にすると、サザーランドのシャイさを踏まえて、じぶんでもよくわかっていない感情の層があって、たとえばそれは元妻への愛情表現だったりもするわけだが、こころのなかに入ったカーミラもこの抑圧された感情の前でおそらく立ち往生してしまったにちがいなく、それを、彼女はそう表現したのではないかと。これについては、たしかに思い当たるぶぶんがある。というのは、カーミラは実は死にかけの女の子で、だから「派遣」の死神なわけだが、うまく意識が回復し、ヘルシングといい仲になって最後に登場することになる。このとき、ケバイ化粧で気の強い印象だった死神のカーミラはすっかり気配を消して、深窓の佳人的な雰囲気になっている。最初アルカードのことも知らないようなので、なるほど、記憶はないのかと、わたしたちは了解するのだが、ヘルシングが席をはずしたすきにカーミラはかぶっていた猫をはずして、もとの調子でアルカードに話しかけ、わたしたちをホッとさせて、戻ってきたヘルシングの前ではまたふわっとしたからだの弱い美人に変身するという、たいへん楽しい仕掛けになっている。ここには、女性特有のしたたかさを感じないわけにはいかず、ああいうペルソナの使い分けというのは男性には非常に難しい。つまり、サザーランドにも死神的な解放的ぶぶんはあるはずだが、じぶんでも気づかないほどこころの奥深くに封印してしまっているので、決して出てくることはない。しかし、女性的なカーミラにはそういうことがよくわからないから、サザーランドのなかに侵入してもただ異様な壁が目の前にふさがって、こころのだいぶぶんを占めているとしか感じ取れなかったのではないだろうか。

サザーランドのヴァンパイアプロジェクトへの参加の、本当の動機は、大統領補佐官である元妻がこれを仕切っているので、彼女に会いたい一心でやってきたというものだった。これも、見事にそれが告白されるまでまったくその兆しがないので、かなり唖然としてしまう展開であった。しかしそう考えてみると、すべてはサザーランドのシャイさ、感情の抑圧に原因があるのである。サザーランドじしんからして、果たして自覚しているのかどうかという感情なのであるから、少なくともことばのうえにそれが表出することはまずない。それどころか、それを抑圧しようとするなんらかの原因(たとえば両親の教育だとか、夫婦関係だとか)によって、そういう感情が強まれば強まるほど、彼の理性はその存在を否定しようとして、感情を抑圧していくだろう。おもえば妻が大統領補佐官というのはなかなかない状況で、いくらサザーランドが優れた研究者であっても、劣等感を覚えたかもしれない可能性はじゅうぶんにある。それを、彼は研究に没頭する「狂気の科学者」としてふるまうことで解消していた可能性もある。しかし、本当はそんなことはどうでもよくて、ただ彼女といっしょにいたいだけなのである。

ヴァンパイアは誰かを愛し、愛されることで人間になれる。アルカードはカーミラによってそう教えられる。これも実は暗号的で、つまりヴァンパイアはひとを愛することがないということなのだ。このことと、ヴァンパイアの不老不死と人間の死の対比は、平仄があっている。京三紗が見事に演じるマーサおばあちゃんは、「人間」を生ききった、アルカードも敬意を払う人間であるが、彼女によれば、ひとは愛に包まれて死ぬことを望むのだという。つまり、「愛」と「死」は必ず同時にあらわれてくるものなのである。真に愛を獲得すれば、ひとはむしろそれに包まれたあたたかい「死」を求める。そしてまた逆に、死をそれとして受け止めることができれば、そこにはあたたかな愛が待っている。自殺をしたサザーランドが天国に行って報われるのは、宗教にかんするやりとりも多少エクスキューズとして用意されていることとはまた別に、こうした理由があったかもしれない。

ヴァンパイアは愛を知らない限りで不老不死である、つまりはそういうことになる。アルカードがどの段階で「人間」になったかは不明だ(華形さんもわからないといっていた)。最後に観客を混乱させるものとして、サザーランドがアルカードに、君はもう人間だと告げる場面だ。どうやれば人間になれるかという方法を、サザーランドは知らない。それなのにどうしてそれがわかるのかと。しかしこれはもっとその場の感情のゆらぎを含んだ繊細なセリフで、銃で胸を撃って死にかけているサザーランドをアルカードはかみついてヴァンパイアにすることで救おうとするのだが、ならない。サザーランド的にはそもそも、ヴァンパイアが「退化という進化」を遂げているという仮説があったわけである。つまり、いずれはアルカードも人間になると。だから、そうなってもおかしくないという予感はつねにあった。そのなかでかみつかれ、しかし痛いだけで変化がない。これを受けて、サザーランドは予感と現実が合致したことを見届け、アルカードに人間宣告をしたのである。


細部でいえば特にサザーランドが、その性格からしてはなしをひどくわかりにくくさせているわけだが、トータルで見ると、やはりヴァンパイアと人間の、愛と死にかんする理解のちがいが、ぜんたいのまとまりを損なっているのではないかと考えられる。その視点からいえば、これは作品としての不備というよりは、やはり物語的必然なのだ。ヴァンパイアとしての生き方と人間としての生き方の、どちらがより正しいか、というような議論が、作中にあるわけではない。もちろん宝塚だから、愛がいちばんにはちがいないが、それは視点をそこに置くという点で解消されており、じっさいには価値の大きさが比較されてはいない。アルカードは人間になることを選んだが、かといってヴァンパイア的ありようが否定されているわけではないのである。ひとことでいえば、愛や死について問いかけがなされて、アルカードなどの登場人物が各自こたえを出しながら、作品としては回答を保留しているわけである。それが、本作の「入ってこない」原因ではないかと考えられるのだ。それは、つきつめれば「個人の価値観」というような問題にも入っていく。ヴァンパイア独特の時間感覚のアルカードや、説明がなければわからないような難解な男であるサザーランドなどが、作品や作者の解釈を経由せず、素材のまま鍋に投げ入れるように表出されているのは、作品としてそういうスタンスにあるからだろう。わかりにくくて自然なのである。






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第109話/試し斬り






ピクルが(イメージ上では)どうしても斬れないということで、武蔵は愛刀・金重を光成に取り寄せさせた。金重は主人の復活を待ちわびていたかのようにみずから帯を解きだし、武蔵の腰におさまろうとするのだった。


光成の屋敷の、加納とかが稽古するというはなしのあの部屋だろうか。いくつかの頭つきのトルソーと巻き藁が置いてある。人型の粘土に服を着せたもので、一般人を想定したスーツのものと、防弾着ありの警察官、盾をもった機動隊に、迷彩服をきた自衛隊、そして、青竹に畳を巻きつけた巻き藁である。特に巻き藁はひとの頚椎に匹敵する耐久力というはなしだが、武蔵は物足りなそう。光成は、武蔵や、それに金重がうずいているのではないかとこれらを用意したようだ。


とにかく、武蔵が刀を抜く。以前いっていたように、腰を切って、腰で抜くすばやい抜き方だが、動作はそこでいったん停止する。抜刀は、抜く動作そのものがすでに攻撃になっているものとおもうが、武蔵は別にそういうつもりでやったわけではないみたい。抜いた感じの手ごたえを確かめているのだろう。いったん抜いた刀をくるくるまわして刃の様子を観察し、いまでもむかしの切れ味が残っているか確認するみたいに、ななめに巻き藁にあてがう。武蔵にちからを入れている感じはない。刀の重さに任せて、自然に滑らせているだけだ。しかし、人の首に等しいはずの巻き藁は豆腐のようにすっぱり切断されてしまう。


武蔵は光成に離れるように告げて、本格的な試し斬りをはじめる。武蔵は右足を地面に強く叩きつけて、機動隊のトルソーを宙に浮かせる。関係ないかもしれないが、高校生のとき受けた剣道の授業で、こうやって右足を地面にたたきつけて、踏み込むときに大きな音を出す練習をした記憶があるけど、あれかな?武蔵は真上から金重を振り下ろして楯ごと機動隊の人形を一刀両断する。金重に限らず、刀を思い切り振るのは烈戦以来か。
振り向く動作から流れるように、次は自衛隊員が両腕もろとも横向きに分断され、ほとんどひと呼吸で今度は警察官が前後に真っ二つだ。刃を上にして狙い済まし、スーツ人形の胸の中央に刀を突き刺す。そしてそこから、どうやるのかよくわからないが、刀を上下に動かし、刃の向きを変えてまた真っ二つ、崩れる前に横向きに刃を走らせ、スーツ姿の人形は文字通りばらばらになってしまうのだった。
いつの間にか光成がけっこう近づいている。武蔵の刀さばきが気持ちよくてしかたない光成だが、ちょっとした悪戯心か、武蔵はその光成の首にイメージ斬りを投げかけて、光成を当惑させるのだった。






つづく。






光成は光成で、なにかこう悪代官みたいなところがあるけど、イメージとはいえ、ペインの自我を崩壊させかけ、ひとによっては気絶することもあるイメージ斬りを「冗談」で行う武蔵には、生臭い違和感を禁じえない。珍しく顔いっぱいに笑っているけど、煽りにもあるように武蔵はやっぱり「ヤバイ人」なのであって、ぜんぜん落ち着けない感じがあるのだ。
以前から、たとえば勇次郎なんかが、じっさいのところ光成をどうおもっているのだろう、ということはよく考えていた。たしかに光成は、これまでの人生で数え切れないくらい名勝負を見てきて、しかもそのほとんどをプロデュースしてきて、観戦者としては一流なわけだけど、いつか本部が指摘したように、観戦者は観戦者に過ぎず、実戦者ではないわけである。現実にはともかく、とりわけ実戦者側の視点からしたら、特にその気持ちは大きくなるのではないかとおもわれる。それが駆け出しのファイターなら、たたかいの環境をつくってくれるひとなわけだし、表面だけでも敬意を払ってふるまうのは別に自然なことだが、バキ世界に登場するほとんどのひとたちは、もうそういうレベルにはないわけである。勇次郎なんかはもう、光成のほうが震えちゃって、逆に気の毒にもなるのだけど、そういう意味合いで、バキや独歩なんかに光成を「利用している」という感覚が少しもないかというと、断言はできないだろう。もちろん、老人として、またじぶんより多くのたたかいを見てきたものとして、そして徳川家を継ぐものとして、彼らもひとりの社会人として敬意を払ってみせはするだろう。けれども、それだからといって闘争にかんして上から目線で語っていいことにはならないし(基本的には光成もそのあたりのことを了解しているので、ファイターに敬意を払っているのだが、まれに説教くさくなることがある)、気の強いものであればいい感情もたないという可能性もある。


では武蔵はどうなのかというと、ああいうひとなので、暗黒部分があっても不思議はないよなと、直感的にはおもわれる。武蔵は相手の強さを計測するときに、僕世代がドラゴンボールの影響下で行うようにそれを数値化したりはしない。「じぶんになにをもたらすか」という点を身体のセンサーがイメージとして現前させ、それを再び受け止めることで理解するのである。ここで重要なのは「じぶんにとっては」というところだ。たとえば、ドラゴンボールの世界で戦闘力1万のものは、誰にとってもそうである。じっさいには、戦闘力1万のものにも多元的な価値がある。はなしを闘争に限ったとしても、たとえば本部は金竜山に負けたが、ときとばあいによってはジャックに勝つこともあるわけである(同様にして、対ジャック時と同様の路上ルールで金竜山とたたかったとしても、本部が絶対に勝つとは言い切れない)。ひとにはさまざまな面があり、それが、闘争の流動性の原因ともなっている。しかし、武蔵の強さの把握のしかたは、こうした、なにか各自固有のものを汲んで行われるわけではない。もちろんある程度はそれをしないと測定もなにもないわけだが、武蔵はそれを「じぶんにとっては」というブラックボックスに通過させることで、イメージとして明瞭にする。相手の強さ、つまりバキ世界でいえばひとことで相手の価値ぜんたいに触れる行為において、武蔵は「じぶん」というものさしがすべてなのである。
こうしたことを踏まえると、武蔵が光成とのあいだに一般的な意味での「人間関係」とか、あるいは敬意や友情のようなものを感じるとは、とてもおもえないわけである。武蔵にとっては、バキたちが意識しない程度に、ごく微量におこしていたかもしれない、光成を「利用している」という感情を、かなり自覚的に抱えているのではないかと想像されるのだ。そうしたとき、あんまり親しげにする光成をどうおもうだろう、というようなへんな心配が、以前からあったのである。あまり調子にのるな、とかいって、いつか叩き切ってしまうのではないかと。今回は武蔵のそういう面がじゃっかん見れた気がする。あのすごみのある笑顔は、作り笑いではない。武蔵はほんとうに冗談でやっている。けれどそれは、金重がいまでも抜群の切れ味であることを喜んでいたからだろう。光成は相手が宮本武蔵であることをくれぐれも忘れないほうがいい。








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