すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10426281677.html

・考察‐価値観は人それぞれという価値観

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10159270907.html

・考察‐共有と共感、その発端

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10126726054.html

・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10422484912.html

・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10855081068.html

・映画評‐『キャリー』

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10202697077.html

・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10372611010.html

・アニメ批評-侵略!イカ娘

http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10803805089.html









バキ感想最新・刃牙道

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10079104494.html

 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10036290965.html

 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10016899943.html

 ・ピクル対範馬刃牙編

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10010553996.html

  



ウシジマ感想最新

http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10099471132.html

 ・逃亡者くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10094429374.html


 ・ヤクザくん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10085446424.html

 ・復讐くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10084090217.html

 ・フリーエージェントくん

 http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10074769118.html

 ・中年会社員くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10071550162.html

 ・洗脳くん

 →http://ameblo.jp/tsucchini/theme-10056764945.html

   

    



※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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ミュージカル・ロマン
『私立探偵ケイレブ・ハント』

作・演出/正塚 晴彦

舞台は20世紀半ばのロサンゼルス。探偵事務所の所長を務めるケイレブは、共同出資者である探偵仲間のジムやカズノと共に高級住宅街に住むセレブ達の浮気調査やトラブル対応に奔走する日々を送っていた。スタイリストとして働く恋人イヴォンヌとの関係も良好だったが、互いの生き方を尊重する二人は、新たな段階に踏み出す機会を見出せずにいた。そんなある日、行方不明となった娘アデルの捜索依頼にやって来たメキシコ人夫婦が直後に事故死するという事件が起きる。ケイレブは夫婦の願いに応える為、早速調査を開始。やがて、とある会員制の超高級クラブでアデルらしき女を発見するが、別の調査を進めていたジムとカズノが追う人物も、このクラブの関係者であることが判明する。果たしてそこは犯罪組織の隠れ蓑なのか。クラブのオーナーであるマクシミリアンと接触する為に彼の屋敷を訪れたケイレブは、そこで思いがけずイヴォンヌの姿を見かける…。仲間達と力を合わせ敵に立ち向かうケイレブと、その身を案じながらも彼を支えるイヴォンヌとの大人の恋の行方を描くミュージカル。粋な都会的空気感の中で、雪組トップコンビ早霧せいなと咲妃みゆが恋する男女の心の機微を繊細に演じあげます。



ショーグルーヴ

『Greatest HITS!』
作・演出/稲葉 太地

人々の心を酔わせ、躍らせる名曲の数々で構成するショーグルーヴ。熱いエネルギーを放つソウルミュージックに乗せて繰り広げるプロローグに始まり、誰もが知っているクリスマスソングで綴るシーンなど、時に甘く、時に切なく、それぞれの時代に燦然と輝き、今なお愛され続ける数多の楽曲に乗せて、クールでありながらもホットそしてセクシーな魅力を持つ早霧せいな率いるグレイテストな雪組出演者が、煌めくハーモニーと情熱的なダンスをお届け致します

 

 

 

以上公式サイトより

 

 

 

 

 

 

雪組東京公演、『私立探偵ケイレブ・ハント/Greatest Hits!』観劇。12月2日13時半開演。

 

 

前回るろうに剣心を見逃しているので、1年以上ぶりの雪組観劇だぞ!

早霧せいなにかんしては金髪もけっこう好きなので、前回るろうに剣心、その前が芝居は星逢一夜だったから、そういう、ごく標準的な白人男性の役も楽しみだったりした。加えて望海風斗が悪役・敵役ではなく主人公の味方というはなしも聞いていたので、ものめずらしいことばかりやってきた雪組では意外と見たことなかったような作品っぽくて、楽しみだった。

『私立探偵ケイレブ・ハント』の演出は正塚晴彦先生。ちょっと振り返ってみたのだけど、かなり名のある演出家の先生なのに、びっくりするくらい見ていない。古いものだと「ブエノスアイレスの風」とか「FAKE LOVE」とかは見てるけど、最近は全然作品を拝見していないのである。ハードボイルドな世界観で、男の友情とかダンディズムを追求する・・・という強いイメージがあるのだけど、現実としては作品をほとんど見ていないので、一般的なイメージをそのままうのみにしていただけとおもわれる。あとあの独特のヴィジュアル・・・。

 

 

いつもなら相方の感想を聞いてじぶんの考えを相対化するのだけど、今回は彼女の体調が非常に悪くて、よりにもよって複雑なサスペンス仕立ての作品であったため、まだあまりはなしができていない。なので僕的にもまだつかめていないところがある。じっさい人間関係や事件の内容などけっこう複雑で、ようわからん箇所もかなりあった。が、はじまってすぐに感じていた不安感というものはまあ信用ならないもので、細かいところ追おうとしたらそりゃ何回も見ないとだめだけど、大筋を理解することはしばらく見ていれば別に難しくない。ここでいう大筋というのは、誰が主人公で、このひとがなにを目的にしていて、それを邪魔するのは誰かと、そういうことです。で、細かいところの理解をあきらめてしばらく眺めているとどんどんおもしろくなっていって、サスペンス的材料に引き込まれるようになっていった。じっさいそういうふうに見ることができるようにつくられているとおもう。はなしとしてかなりおもしろかったです。

早霧せいな演じるケイレブ・ハントは、望海風斗のジム、彩風咲奈のカズノとの共同経営で探偵事務所を開いている。基本的には、現実の探偵事務所同様、危険な仕事ということもなく、地味な作業をくりかえしている感じなのだが、担当していた映画監督の撮影所で女優が死亡するという事件に遭遇する(いまさらふと気づいたのだけど、このひとの死因はなんだったのだろう)。事務所に戻って恒例のミーティングを行うと、ジムやカズノが担当している事件にも、女優が所属していた「マックスアクターズプロモーション」が関与していることがわかる。いかにも臭うわけである。そうしてケイレブは、誰から依頼があるわけでもなく、この会社について調査をはじめ、ひとつひとつ謎を解いて、核心に迫っていくのである。

物語のスリルは申し分ない。線の細い早霧せいなも、これまでとはまたちがう発声のしかた(ルパンからユーモアを取り払った感じ)で正塚作品に対して襟を正している感じがある。望海風斗はその実直な人柄が役に反映されているようで、「じぶんはけっこうユーモラスな人間だとおもっている真面目なひと」みたいな役柄が、こういってはなにだが実にぴったりだ。

ケイレブの恋人である、咲妃みゆ演じるイヴォンヌはスタイリストで、やがてマックスアクターズプロモーションにも仕事でかかわることになる。ここのボスがマクシミリアンといって、月城かなとが演じているのだが、これが仰天するほどかっこいい。このひとは異動が決まっており、雪組での出演はこれが最後となるが、強烈な爪あとを残したとおもう。かっこいいし、裏表ある人物として、しれっと嘘をつきながらも機に応じて態度を変えるさまは実に素晴らしかった。もっとも先が楽しみな男役のひとりである。

 

 

脚本については、細部を理解できていないのでなんともいえないが、では正塚作品らしさというのはどういうところにあるだろう。個人的にはやはりイヴォンヌとのやりとりである。とりわけマクシミリアンをめぐっておこる喧嘩の場面は最高だった。男と女が、どちらかの過ちではなく、見解の相違で喧嘩するときって、ぜったいこうなるよね・・・。つまり、「いまそんなこといってもしょうがない」とか、そういうやりとりのことです。あそこは笑っちゃうほどリアリティがあった。

このイヴォンヌとケイレブは、ケイレブが女々しい男ではないので、それなりにうまくいっている。というか、表面上はそうなるよう、たがいに努めている。しかし、ケイレブは「危険な仕事ではない」としつつも今回現にこんな危険な目にあっているし、事務所じたいも繁盛しているから忙しい。イヴォンヌも仕事が軌道に乗り始めているようで、なかなか、すれちがいのぶぶんがあるようである。印象的なのは、じっさいに危険な目にあってはじめてマクシミリアンが悪党だと納得したイヴォンヌが、それでもまだ仕事を続けようとするケイレブをとめる場面である。彼はいうのである。意地とか価値観ではなく、これがじぶんにとっては当たり前で、じぶんがやるしかないのだと。つまり使命感である。

正塚作品にくわしくないので、本作にかぎっていうともうひとつ、このふたりには、仕事をしている最中にばったり出くわす、という状況が2度訪れる。“ばったり”出くわすということじたいが、ふたりの関係において共有しているものの大きさを示してもいる。マクシミリアンはどうあれ豪腕の実業家なわけで、そこで彼女がケイレブにそういうはなしをしていないというのが、「仕事をしているときのイヴォンヌ」と「ケイレブの前にいるときのイヴォンヌ」との距離をあらわしているのである。現代人においては、仕事とプライベートをわけて考えるのはごく当たり前のことかもしれない。しかし、だとしたら、1日が24時間で、人間の生も限界である以上、仕事の占める時間が増すほど、プライベートはおろそかになっていくのである。イヴォンヌが最後まで問題にしているのは、まさにこのことだろう。最後のほうで、パリに旅立つことをいきなり告げるイヴォンヌは、じぶんたちの関係を考え直すいい機会だ、的なことをいい、選択肢はふたつだという。ケイレブは三つ目があるといいな、というようなことをいうのだが、ここは謎めいている。なんのことだかわからないのだが、こうして考えてみると、おそらく、イヴォンヌがいっているふたつの選択肢というのは、要は仕事とプライベート、ひとりの人間としてどちらをとるべきなのかということだとおもわれる。しかし、ケイレブからしても、イヴォンヌに仕事をあきらめてほしいわけではない。三つ目というのはそのふたつをあきらめないなんらかの方法ではないかとおもわれるのである。

それと同時に、この「ケイレブの調査している場所で実はイヴォンヌが働いていた」という反復には、タナトス的なものも感じられる。タナトスとは、不快な記憶を悪夢などで反復することで、次に同じ状況がやってきたときにショックを受けず対応できるよう準備をする欲動である。厳密には作品の構造的にということになるが、これをもしケイレブじしんの無意識のあらわれだとすると、彼は、ああはいっても、イヴォンヌを仕事に奪われることを恐怖している可能性がある。だが彼女ができるスタイリストであることは疑いなく、またじぶんじしんの仕事も繁盛している。だから、部分的に彼女を仕事に奪われることは回避できない。それが、彼に彼女がかかわっていそうな職場を無意識に探させているのである。

人生を仕事とプライベートにわけて考えたとしても、ケイレブにとってイヴォンヌはほかのなににも変えることができない。だが、両者をわけて考えている以上、仕事に傾けば傾くほど、彼女についてはおろそかになる。彼に悪気はなくても、デートに遅刻し、彼女に「2回目の記念日だ」と厳密なことを指摘されるのも、そうしたことのあらわれである。しかしそれは避けられない。なぜなら、ケイレブにとっても仕事は使命だからである。見たところほかにそれをやるひとがじぶん以外いない、だからやる。じっさい仕事というものはそうやってはじまっていく。それはイヴォンヌにおいても同じことだろう。言い換えれば彼らは、神から与えられた使命と、個人の欲望のあいだで揺れ動いているのである。

 

 

パリに行くというイヴォンヌを前にして、ケイレブは恐怖が実現したと感じたかもしれない。しかし、彼は彼女を行かせる。仕事のためもあるし、彼女が選択するのを待つためでもある。が、もういちど彼女に会いたくて、彼は空港まで見送りにいくことになる。もうひとり重要な登場人物として、香稜しずる演じるナイジェルという、優れた狙撃主であったがいまは落ちぶれている戦友がいる。彼はピンチのケイレブを救ってもくれるのだが(僕は最初からナイジェルはピンチのとき助けてくれるとおもっていたよ)、空港には旅立つナイジェルの姿も見え、車が故障したせいで走ってきたケイレブをびしょ濡れだと指摘して去っていく。そのあとあらわれたイヴォンヌと抱き合って、彼女がパリ行きをやめるところで幕なわけだが、ここで不思議なやりとりが見える。イヴォンヌもまた、ケイレブがびしょ濡れであることを指摘する。それに対して、ケイレブは雨は好きだと応える。君の事も、君の髪もと。髪、なのである。

まず状況として、天気が悪いせいで飛行機の出発が遅れているということが要求されてはいる。しかし、ケイレブの車の故障は果たして必要だったろうか。それがなくても、たんに出発の遅れで混雑したロビーを探し回るだけで、この場面は成立するようにおもわれる。つまり、この場面におけるケイレブは、はなしの展開のためという以上に、濡れていなくてはならなかったのである。じっさいには舞台上の早霧せいなはびしょ濡れではない。しかしナイジェルとイヴォンヌの両方から続けざまにそう指摘されることで、わたしたちには彼がびしょ濡れに見えるようになっている。そこに、「髪」の発言である。観客はここでなにを連想するだろう。僕はすぐさま、イヴォンヌの、びしょ濡れではない、かわいたいいにおいのする髪の毛が想像された。びしょ濡れであることは、むろんたんじゅんにケイレブの「着の身着のまま」なあわてぶりを示してもいるだろう。それを含めてもよい。おそらくこれは彼の現況そのものなのである。戦友のナイジェルは、彼を捉えていた彩凪翔を含めても、ケイレブ以外の人物とはほとんど会話をしない。彩凪翔との場面がなかったら、ケイレブのオルターエゴなんじゃないかとすらおもえていたかもしれない。じっさい彼はそういう役回りである。危険が感じられても使命感から突っ走らずにいられないケイレブの前に頻繁にあらわれては、「危険だぞ」とわかりきったことを告げて去っていくのである。いわば彼はケイレブにおける客観、もっといえば超自我なのである。彼が狙撃手であるというのもなにか象徴的である。ナイジェルは、スコープ越しにケイレブの周辺を見張り、安全を図ろうとする、父親的な存在なのだ。

そのナイジェルは、最後にケイレブをびしょ濡れだと指摘して、おそらく永久に去ってしまう。彼が去っていくのは、ケイレブがもう大丈夫だと判断したからだろう。精神分析的にいえば、克服された父性は超自我となって内面化される。つまりこれは、彼の行動を外部の規範をもとに戒める存在としての父を内面化した瞬間なのである。

そんなナイジェルが残した最後の客観が、「びしょ濡れ」であるということなのだ。着の身着のまま、突っ走るから、ケイレブはびしょ濡れになる。危険を顧みず、使命感から、命まで危険にさらす。そのさまが、「びしょ濡れ」なのである。そして、ナイジェルが去っていくとともに、ケイレブはじぶんの状態を確認できるようにもなったはずである。もう、びしょ濡れかどうかを確認するために、ナイジェルの指摘を必要とはしない。そうしたとき、目の前にあらわれた美しい恋人のかわいたボリュームのある髪の毛が目に入る。つまり、彼が髪の毛のことを唐突に持ち出すのは、おそらくそれが「びしょ濡れではない」という意味においてなのだ。

ここで少し遡ると、ケイレブは仕事にイヴォンヌを奪われることをおそれていたふしがあったわけである。それが、彼に「仕事中にばったりでくわす」ということを反復させていた。しかし「彼女を仕事に奪われる」とはどういう意味だろう。彼女は彼の「もの」なのだろうか。所有物なのだろうか。たぶん、父としてのナイジェルは、ケイレブがそのレベルを乗り越えたということを見て取ったのである。彼女は、彼とは異なる存在なのだ。イヴォンヌとしても、びしょ濡れになってあらわれた彼を見て、こころを動かさないでいることは難しい。それは同時に、使命をまっとうしようとする彼の不器用な生き様に心動かされるということでもある。かくして、彼らは「仕事とプライベート」というたんじゅんな二元論を乗り越える。彼女の生き方は、彼のものとはまたちがうのだし、彼女にとっての彼も同様であり、そしてそれが愛おしいのだと、たがいに気づくためのよすがとして、ここでは濡れた髪とかわいた髪が対比されたのである。

 

 

 

なぜだかむりやりな考察をしてしまったが、話半分に読んでもらうとして、ショーは稲葉先生による「Greatest Hits!」である。だれもがよく知るポップスを中心とした音楽で練り上げられたカラフルなショーだ。通常こうしたコンセプトのショーを組み立てると、本作でいうサマータイムみたいなスタンダードナンバーが中心となるのだが、そうではないのがなかなか斬新かもしれない。齋藤先生くらいになると個性的すぎるし・・・。個人的には「You can’t hurry love」が大好きなので、いかにも現代っ子っぽいうたいかたをする咲妃みゆがうたってくれたのは観劇だった。なかでも望海風斗は圧倒的というかあたまひとつぬけている感じがしたが、ほかにも香稜しずるや舞咲りんなど、非常にうたのうまい組子が多いので、通してうたいまくりでもむりがない。ただまあ、季節だからしょうがないとはいえ、クリスマスの場面がんばりすぎじゃないかとはおもった。いや、みんなきれいな曲で楽しかったのだけど、もう少し別のうたも聞きたかったかなと。それはまあ、雪組のうたのレベルが高すぎて、たんにもっと聴きたいとおもっただけなのかもしれないが、でも全国ツアーでもこのショーをやるみたいなのだけど、クリスマスとかゴーストバスターズの場面はどうするのかな・・・。

 

 

 

 

 

 

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第136話/騒乱

 

 

 

 

 

 

 

バキアニメ化ッ!

 

それも、今度出る限定版についてるOVAじゃないぞ。テレビアニメだ!

時期等は不明だが、死刑囚篇をやるらしい。限定版についてるやつが、死刑囚たちの登場シーン、つまり『バキ』1巻をやるということだったから、実質アニメの第1話が収録されてる感じになるのかな。それとも、そこから先をアニメでやることになるのか・・・。

ブックオフでの立ち読みからバキに入った僕では、死刑囚篇が最初の衝撃だった。多くのひとが熱く語る最大トーナメントを読んだのは、じつは第2部バキの死刑囚篇を一通り読んでからだったのである。それでも、バキたち白格闘士と死刑囚たちが対面するシーンでは血液が沸騰する感じを強烈に味わった。あそこに並ぶバキや烈や花山や独歩や渋川剛気がどういう人物か知らないのにもかかわらず、である。キャラの孕む意味を知らずして、起こっていることの意味を体感しているとしたら、その原因はもう、絵の迫力としかいいようがないとおもう。この漫画はすごいと強く感じた瞬間だった。

 

 

さて、本編では、おそらく予定になかったトラムプ大統領の描写をはさんで、武蔵がテレビに出ているというはなしに戻っている。背景は暗くなっていて、どういう感じの映像なのかよくわからないが、ミヤネ的なひとが椅子に座って武蔵と対面しているのである。なんでこんなことになっているのかはさっぱりわからない。ともかく、事実としてミヤネ的なひとの前に武蔵が座っていて、それが中継されているのである。

ミヤネ的なひとも、業界人なので、これまでさまざまな人物を取材してきた。そんな百戦錬磨の彼が、顔中から汗を噴出して緊張するほどの迫力だ。中継であり、テレビは、というかこのひとの番組はというべきか、ただ事実を事実として伝えるだけでは足りない、形容詞でかざりたて、必要以上に誇張し、煽りに煽らないと、番組はおもしろくならない。緊張しつつもミヤネ的なひとは仕事をまっとうしているようである。

武蔵じしんを前にしつつ、「ものすごい迫力」「まるで猛獣」「経歴が醸す威容」「つ・・・強そう」等の慇懃無礼な表現を、自覚があるのかないのか、謝罪しつつくりかえす。そして視聴者に「宮本武蔵さん」と紹介するのである。

ミヤネはどういうつもりでこれを行うのだろう。ふつうに考えて武蔵が生きているわけはない。じぶんは武蔵だと名乗っているちょっとおかしいひと、しかしたぶん番組的にはおもしろくなりそうなひと、そのくらいの認識であろうとおもわれる。それが、たぶんこの慇懃無礼というか、パフォーマンス的な表現になって、武蔵に届いていると考えられる。

 

 

テレビを見ているのはバキと本部と紅葉だ。バキの「あっちゃあ~」というリアクションが自然すぎておもしろい。事情を知ってるものからしたら「あっちゃあ~」としかいいようがないよね。本部は真剣な顔で画面を見つめている。武蔵と多少でも認識を共有する唯一の人物である。これからなにが起こるかを予想しつつ見守っているのだ。

 

 

武蔵の映像は街の巨大なテレビ、武蔵じしんが「板」と呼んだものにもうつされている。動画サイトとかで武蔵の顔は知れ渡っている。しかしネットをやらないひとというのもこの国にはまだまだたくさんいるのだ。そもそもパソコン、携帯をもっていないひとというのも、若いひとでもけっこういるのである。それを考えれば、テレビの影響力というのはいまでも絶大だ。

 

 

ミヤネは緊張しつつ、宮本武蔵さんですかと、大事なことを確認する。武蔵は、何故いまさら名前を聞くのかという。武蔵だからここにいるのだろうと。ちょっとよくわからない返答である。武蔵本人であることを疑われている、そのことにいらいらしているのも、あるが、この言い方だと、武蔵ということでじぶんはこのわけのわからん場所に呼ばれている、それをなぜまた確認するのかと、こういうことにおもわれる。つまり、まあ当たり前だけど、武蔵はテレビというものを、中継というものを理解していないのである。ミヤネと武蔵は、番組の前にいちど顔を合わせている。武蔵としては、ミヤネとの、あるいは番組、この状況とのコミュニケーションはそれで完結している。ミヤネは、それをテレビを通じて全国に説明しなければならない。だから同じことをもういちど聞く。しかしテレビを理解していない武蔵は、この人物は(あるいはこの番組、状況は)、なぜ先ほど告げたことをもういちどいわせようとするのか、ということになるのである。

ミヤネは視聴者の代弁もしなければならない。いやいや、武蔵が生きてるわけないじゃないですか、そうおもうのがふつうじゃないですかと、こういうことを勇気を出していわなければならない。

そのミヤネの左手を、武蔵がイメージ刀で落とす。バキたちは画面からそれを見たようだが、一般人の反応はない。この時点ではまだ伝わっていないのかもしれない。ミヤネは斬られたことを認識している。こんなことは宮本武蔵でなければできないことである。しかと受け止めたかと、武蔵はくりかえす。

手を斬られたことを説明するミヤネの、今度は首を、武蔵がイメージで斬る。まだミヤネは、手を落とされた結果、武蔵と信じるかどうかということに応えていない。どうもやはり、「視聴者に説明する」という冗長な態度が気に入らないようだ。命の危機を感じるでもなく、ふざけているように見えるのだろう。

もし本当に刀をもっていたら、いまじぶんの足元には首が転がっているのだとミヤネは説明し、「武蔵さんて 斬るのが好きなんですか」と明るく訊ねる。常識人ミヤネとしては、400年前の剣豪が生きているわけはない、という確信がある。つまりこの人物はへんな人物である。しかし、そうではあっても、どうやら武蔵並みの技量をもっていることはまちがいないようである。つまり危険人物なのである。そうした結果が、彼により番組的な「笑い」を求めさせたのだろう。武蔵を名乗るへんなひとが、イメージでじぶんをすぱすぱ斬ってくるのだ。まずそれを事実として、あなたは斬るのがお好きなんですねと、こういうのである。

 

 

そこで武蔵が立ち上がる。それを映像を通してみている通行人たちは、バキたちと同じく、異状を感じ取る。腰に差している刀が、彼らにもうっすら見えるようになっているのである。

 

 

 

 

 

 

「斬り登ること

それが業だ

 

 

貴様のその無礼――

 

 

さき程から極まっとる

 

 

目的が俺を憤怒(おこ)らせることなら

 

 

もう十分果たされている」

 

 

 

 

 

 

この人物が武蔵であろうとなかろうと、ヤバそうな感じであるということは、ミヤネもわかっていたはずだ。そしてその人物を怒らせてしまった。しかも腰には刀が見えている。ミヤネは激しい緊張で、ろくなことがいえなくなってしまう。

そうして、武蔵はイメージの刀を抜いて、彼を一刀両断したしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

(全世界に映像配信されることとなる

 

「『生放送』エア惨殺事件」

 

 

武蔵の命運を決定付ける事となる)

 

 

 

 

 

 

きぶんを害した武蔵は、どこかにいるらしい付き添いの光成を呼びつけ、倒れたミヤネをあとにスタジオを去っていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

どうやらこの件で武蔵の存在が全世界に知れ渡る、という展開のようだ。とすると新キャラもあるか?あるいは、ゲバルとかアライジュニアとか、いまなにしてるのかわからないかつての強キャラの参戦もあるかもしれない。特にゲバルは忍術を基本とし、素手で武器と渡り合ってきた経歴もあるので、期待できる。胆力やカリスマ性も申し分ない。ガイアがああなっちゃって、本部戦も終わってしまった以上、もはやそれなりに勝負できそうなものというと彼以外いない気がする。それをいったらオリバもそうかな。あのひとは、武蔵登場以前から、なにかに突き動かされてトレーニングをしていたようだが、武蔵じたいにはいちども関与していなかった。これで存在を知ったらなにかリアクションをとるかもしれない。でも、オリバみたいにからだで技を受ける系のキャラは武蔵に対しては圧倒的に不利なんだよなあ。ピクルレベルの肉体でも最終的にはずたずたなわけだし・・・。まだ加藤のほうがまともな勝負をしそう。

 

 

スタジオには光成もきている。武蔵がどれだけ偉大な剣豪でも、ひとを殺していいわけではないし、警察がそれを見逃したのも、光成パワーと、ことがまだ内々で片付くレベルのものであったからだろう。しかし大衆がそれを知ったとなればはなしは別である。警察は、暴かれる前にじぶんからもみけしを認めてしまうかもしれない。だいたい、倫理的にタブーであるクローン技術が実行されているということが明るみになることもまずい。この件がバキ的に滞りなく運ぶとしたら、そういう問題はとりあえず無視されて、世界の強者たちが武蔵に挑んでいくという展開になるだろうか。でも、光成的にはやはり武蔵の存在は秘密にしておきたいはずだ。大衆が武蔵を「武蔵と名乗っている、武蔵並のちからをもつへんなひと」と、うまく誤認してくれたとしても、である。ではこの出演は武蔵が望んだものなのだろうか。しかし武蔵はテレビというものを理解していない。いや、仕組みは理解したのかもしれないが、それが世間に中継されるということの意味までは把握していないようである。いったい誰が望んでこんなことになったのだろう。

考えられる展開としては、武蔵は不特定多数へのメッセージは望んだが、テレビというものを特に把握してはいない、ということだろうか。もっと強者と出会いたいと武蔵が言い出して、悩む光成に、あの板に出るにはどうしたらいいか、というようなことを武蔵が言い出し、しぶしぶ光成が段取ったと。

 

 

ともかく、いずれにしても、武蔵の修羅の道はこれからさらに厳しいものとなっていきそうである。これは本部の守護道と照らし合わせると、どういうことになるだろう。本部は武蔵の孤独を共有することで解消した、と、少なくとも本部は感じている。みんなのイメージする「宮本武蔵」を破壊することで、相手が武蔵の実力を見誤ることも、また「宮本武蔵」という価値を求めてこれに向かっていくことも、なくなったとはいわないが、効果を弱めることには成功したはずである。バキの謝罪がそれを示している。

ただ、このはなしは武蔵がほんものの「宮本武蔵」なのだ、という信憑があってはじめて成立することである。バキたちは光成の財力を知っているし、クローンでよみがえったといわれたら、そうなのだろうとおもうほかない。だから彼らは、武蔵と対峙したとき、そのあいだに各自抱える「宮本武蔵」というイメージを重ねてしまっていた。そのことが、武蔵を孤独にし、また武蔵と、それに対する相手をともに危険にさらすことになっていた。本部の達成はこのイメージを取り払うことだった。

だが「大衆」はどうだろう。彼らは、この武蔵が、クローンでも奇跡的長寿でもあやかしの類でもなんでもいい、ほんものの「宮本武蔵」だと認識するだろうか。たぶんそうはならないのではないかとおもわれる。くりかえすようにおそらく、彼らは武蔵を、「武蔵と名乗っている、武蔵並のちからをもつへんなひと」認識するにちがいないのである。

これなら、とりあえず本部が問題にした武蔵の孤独や、見誤りはなくなる。この「武蔵っぽいひと」に対峙するひとは、彼が強いから対峙するのであり、「宮本武蔵」の価値におぼれているのではない。もし彼が武蔵の実力を見誤ったとすれば、それはたんに実力不足であるのだし、孤独という観点からしても、相手は目の前にいるその「武蔵っぽいひと」を見ているにちがいないのである。武蔵の宿す技術は、本部にだけ共有される現代と断絶したものではなく、それに対するものと地続きの「高み」としてとらえられるだろう。かくして、武蔵は「イメージ」から解放され、かみ合わないたたかいや孤独のとらわれから逃れることはできた。そしてそれと同時に、この状況は武蔵が存命だった時代に近いかもしれない、たんに「強いひと」としての武蔵を強者たちが求めるという、そういうふうに事態が変化していくのではないだろうか。

これは武蔵の名声欲的に見ても、現代であらたに武勇伝を積み立てるという意味では、それなりに有意だろう。ある意味武蔵は、これで現代人になったのである。まあそれもこれも、光成が世間から糾弾されるとかいう事態にならなければのはなしなのだが・・・。お金パワーでなんとかしてください。たぶんそれならトラムプとかも協力してくれるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『女のいない男たち』村上春樹 文春文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」「独立器官」「シェエラザード」「木野」他全6篇。最高度に結晶化しためくるめく短篇集」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

エッセイとかその手のやつは出るたびに読んできたが、すごく久しぶりに村上春樹の小説を読んだ。短編集だけど。

村上春樹の小説にかんしては、『海辺のカフカ』あたりからその状況ははじまっていたのかもしれないが、とりあえず社会現象レベルでバカ売れした『1Q84』と『多崎つくる』以外の小説はすべて読んでいる。全集にしか収録されていない短編まで、図書館などを使ってということだが、ほとんど隈なく読んでいる。だから、いちおう村上春樹ファンといっていいとはおもうのだが、肝心の(と社会的にはおもわれるかもしれない)『1Q84』とかを読んでいないのは、じぶんでもよくわからない。これらは実は買ってあるものだ。床に積んである未読本のタワーのどこかにまぎれているのである。だけど読んでない。

よくわからないといいつつ、理由ははっきりしているのかもしれないともおもう。というのは、要するに、僕は村上春樹が好きだから、しっかり読みたいわけである。その上、ブログをはじめてからは、読んだものについては必ず書評を書くようにしていて、それは10年近く実行されている。とすれば、『1Q84』を読んだ僕はそれを書くことになるにちがいない。しかし、全国の読書家のほとんどが読んだといっても過言ではないこの本について、僕はどれだけのことを書けるのか、好きであるはずの村上春樹についての浅い理解が露呈してしまうのではないか、そして自分自身認めたくないその事実に直面することになるのではないか、などなど、非常にたくさんのことが気にかかるのである。くだらないといえばくだらないが、それに加えて『1Q84』なんかはやたら長いということもある。そういう感情がごっちゃになって、結果「まあ今度でいいか」となっているのではないかと自己分析している。

 

本書は短編集なので、その意味でいえば手に取りやすかったし、あんまり難しいことをちまちま考えなくてもよいぶぶんもあって(それはどちらでもかまわないわけだが)、さらっと読むことができた。ほんらいの読書はこういうさらっとした、斜め読みさえ含んだ、食べ物を消化するような読み方が資本になっていくものなので、ほんとうは、毎回書評を書くというような読み方は、どちらかというと不自然なのではないかとも感じている。でもこれは、僕が自分自身の訓練としてはじめたことなので、しかたないともいえる。というわけで、ファンであるぶん、村上春樹の本にはどうしても構えてしまうが、そこはあきらめて、なるべく短く、さくっと記事を済ませるよう努めたい。

 

村上春樹はじっさいかなり几帳面な性格でもあり、大長編をほとんど定期的といってもいいペースで発表しつつ、あいまにまとまった息抜き的短編小説を書くということをくりかえしている。本書は『1Q84』や『多崎つくる』のあとの休息期間ということになるだろうか。最近作でなくても、『羊をめぐる冒険』以降の長編は非常に緻密な構成で編まれたハードな作品が多く、近頃は社会情勢に反応した発言も多くなってきているので、これほど内向的というか、ナイーブというか、個人的な小説が、まだ書けるのだということにまず驚いてしまった。世界的な大作家になりはしたけど、村上春樹は村上春樹で、あくまで個人の人間から文学を出発させるという点で、変化はないのである。

 

短編集としては、『回転木馬のデッドヒート』からはじまり、『神の子どもたちはみな踊る』とか『東京奇譚集』もそうだったかもしれない(うろ覚え)、作中で作者らしき人物がある人物の奇妙な、また個人的なはなしを聴いて、それを文章にするというスタンスを定着させているようである。もちろん例外はあるが、中心となる長編小説が語り手である「僕」の物語であることが多いのに比べて、「僕」がはなしを聞いたり、あるいは作中の人物として「僕」は登場しないが三人称的に語られたりという形式が多いようにおもわれるのである(『アフターダーク』あたりから一人称からの脱却を図っている感じがあり、聞くところによると『1Q84』では完全に三人称で書いているようである)

本書ではみな、なんらかの事情で「女」を失うことになった男たちのその後の顛末を描いている。これじたいが実に村上春樹らしい比喩的な状況であり、若いころの作品についてはさかんにいわれていた「喪失感」の表現にぴったりしたものにおもえる。が、もう村上春樹はそこにはいないようでもある。

 

 

どれも非常に深い作品ばかりだが、特徴としては、どの主人公、つまり語られる人物も、家福(かふく)や渡会(とかい)や木樽(きたる)など、変わった名前であるということがあるだろう。これらの名前になんらかの暗号が隠されている可能性もある。加藤典洋ならなにかあっと驚くような法則を見つけるかもしれない。しかしここではその探索はしない(できない)。このことについては、村上春樹のいままでの作品と比べてみたほうがよいかもしれない。たいていのばあい、村上春樹の作品では名前が重要ではない。重要な場合もあるし、それじたいが文学的韜晦である可能性もあるが、ある人物の名前が、読み終えてから振り返って探さないとわからない、ということは、まあよくあることである。名前がわかっていても、カタカナだったり、あだ名みたいなものだったり、その人物の実存に直結するようなものではなく、ひととひとの関係性における呼称に過ぎないものとして、名前が扱われているようなところがあったのである。そうしたことを踏まえてみると、これらの特徴的な名前はいかにも思わせぶりである。これらは、語られる物語が、その人物固有のものであることを強調しているようにおもえるのである。

そうした一連の「女のいない男たち」を描いた最後に、単行本書き下ろしで、総括的に、もっとも抽象的で短い表題作が収録されている。これは語り手「僕」じしんにおける女を失う経験であり、物語の動性よりも、その事象がもたらすことがらについての感想のような、短いが難解で、そしていかにも重要そうなものになっている。そして、村上春樹には珍しく、「一角獣」という、あきらかにペニスを比喩である事物について、その意味を問うというぶぶんがみられるのである。メタファーをメタファーのまま放置して浮かせるのではなく、主人公が「一角獣」をある状況で選んだその意味を、要はそういうことなのだろうと、主人公じしんに推測させているのである。想像だが、おそらく、作家として「女のいない男たち」という状況についての直観がまずあり、いくつかのすばらしい短編が誕生した。そしてそのあとに、それはなにをあらわしているのかという問いがようやく立ち上がったのである。「女のいない男たち」がなにを示すかが最初にあってから、物語が立ち上がったわけではないのだ。

 

 

そうしたわけで、最後にその抽象的な、物語といっていいのか、短い一篇が挿話されることで、文字通り本書は一冊の作品として総括される。「女のいない男たち」というのは、ある特定の男たちに訪れた特定の状況なのではなく、ある意味では普遍的な状況であり、男たちは普遍的に女を失っているのである。しかし、かといってその各自における「女を失う物語」は、どれも似通っていない。それぞれが、それぞれのしかたで、女を失う。それが、例の特殊な名前の設定にあらわれているのではないかと考えられるのである。

「女のいない」という状況がどういうものか、ひとくくりにするのは難しいわけだが、最後のその短編においては、14歳のとき、生物の授業で、消しゴムを忘れた語り手がエムという女の子に貸してくれないかと頼んだら、もっていた消しゴムをふたつに割って渡してくれた、という状況に集約されているようにおもわれる。この「14歳」のエピソードも、エムという女性との関係の、本来あるべき出会い、という、複雑なしかたで仮定された状況であって、じっさいに語り手がエムとそういうやりとりをしたことがあるわけではない。なぜこんな遠回りな比喩をする必要があるのかというと、語り手がそれ以降その消しゴムを持ち歩くという状況がなければならないからである。うまくいえないのだが、彼は、エムと出会う以前から、エムについてかつえている。エムという存在を知る前から、エムについての欠落が、そこにはあったのである。エムというものが、失われる女というものについての仮説みたいなものだ。「女のいない男たち」は、ある時点から普遍的なものと感じられるようになるが、じっさいにはそうではない。ある女性を深く愛し、それを失わなければ、「女のいない男たち」は生じない。それはまちがいない。けれども、おそらくは、「男」というものが、実は最初から潜在的に「女のいない」存在なのではないだろうか。

 

 

 

本書タイトルに影響を与えたヘミングウェイの「Men Without Women」は、高見浩の訳では「男だけの世界」ということになっているようである。もし本書の英語タイトルが同様のものだとしたら、そこに「喪失」のニュアンスはどれくらい含まれるだろう。とりあえず、まえがきによればヘミングウェイのほうはせいぜい「女抜きの男たち」というところのようで、失うという響きはなさそうである。直感的な感想になるが、おそらく、ここで重視されているのは失うことそのものではないのではないだろうか。じっさい、男たちの孤独や傷をそこに見出すことはできても、あの『ノルウェイの森』のような繊細な「喪失感」は、それほど強くはない。それよりも、そのことによって男たちがどのような反応をして、どのようなふるまいをとるのか、そういうことのほうに目線があるようにおもわれるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説なのだから、エムの消しゴムの件について、それを仮説であるとする必要はないはずである。じっさいにエムとのそういう思い出があり、彼女を失い、消しゴムのかけらが彼自身におけるエムのためにとってあった場所を表象していると、そういうふうになっていればよいはなしである。しかしそうならず、わざわざこれがまわりくどい(というかほとんど“わかりにくい”)仮定のはなしになっているのは、大人になってから出会ったエムという象徴的な人物との関係性が、過去の記憶を遡って改竄させるほどの必然性を「男たち」に感じさせたからではないかとおもわれるのである。しかもその必然性は、たぶんエムにかんして満ち足りているときには知覚することができない。「男たち」は、エムを失って、二度と手に入らないと悟ったときにはじめて、じぶんの内側にエムのためにとっておいた場所があったことを知るのである。それが、仮定の次元で消しゴムを半分分け与えてもらう、という、体験の改竄につながっていく。そうとしかおもえない、つまり、エムと出会う前から、エムの場所がとってあったのだとしかおもえない、そう考えたとき、「男」は「女のいない男たち」という複数形に回収される。最初から「男」は“つがい”をもたない一角獣である。が、そのことに気がつけるのは女を失ったあとなのだ。だから、忘れた消しゴムを、じぶんのものを割ってまで「女」から渡してもらうという経験が、仮定されなければならなかったのである。

 

 

「蛍」という短編はのちに膨らんで「ノルウェイの森」になったが、本書では「木野」なんかは、長編に膨らむ余地があるように感じた。このじてんではまだ緻密な構成というほどではないし、即興的なぶぶんもかなりあるようである。男が女を欠落しているというのがどういうことかというのは、ひょっとするとこのあと、長編のかたちになって語られることになるかもしれない。というかそれは期待している。

 

 

 

 

 

 

 

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第420話/ウシジマくん⑥

 

 

 

 

 

 

 

熊倉を殺したのは丑嶋だと見抜いている滑皮は、熊倉の三回忌の香典に3億を要求する。丑嶋なら払えなくもないのかもしれないが、法外すぎる額である。とりあえずその場を流すために出すような金額ではない。彼がどう返事をしたのかは不明だが、あやしい戌亥に連絡をとり、丑嶋は滑皮のいまの状況をくわしく知るのだった。

あくまで噂程度の情報だが、滑皮は通常のクスリとかオレオレ詐欺とかいう細かい仕事以外に、半グレを脅して金をとるということもしているらしい。そのなかには獅子谷という、丑嶋とも因縁のある男がいたのである。獅子谷は見るからに凶暴そうな男であり、表向き警備会社などを経営しているぶん、あたまも働きそうだ。肉蝮と鼓舞羅を足した感じだろうか。半グレの完成形みたいな男である。その獅子谷が、鳶田と梶尾の待つキャバクラに呼び出されてやってきたところである。

 

 

丑嶋や獅子谷のような凶暴な不良がヤクザにならないのには、それぞれの理由があるはずである。丑嶋はたんにヤクザが嫌いということがあるだろうし、その搾取のシステムも認めていない。では獅子谷はどうなのだろう。調子にのる鳶田たちと険悪な雰囲気にならないか心配だったが、威圧的ではあってもそれはこのひとたちなら当たり前なことだし、獅子谷もいちおう敬語をつかって、クールに話している。まあまあ最低限の常識はありそうでよかった(三蔵タイプでないだけマシ)

 

 

獅子谷は近くで警備の仕事をしていたからすぐこれたようだ。いまは優秀な部下に任せてあるという。梶尾が、すでに頼んであったなにごとかについて訊ねる。羽田という者をシメてくれという依頼があったらしい。いわれるまで忘れているというのがすごいな。

獅子谷は切ったというよりもぎ取った感じの羽田の耳を焼いている動画をふたりに見せる。鳶田もドン引きする拷問である。とりあえずそれで羽田は音をあげて、屈服したらしい。で、今回はもうひとつ依頼が追加されるというはなしである。いま丑嶋を3億わたすよう脅している。もし逃げたら、あるいは払わないようなら、身柄をさらうことになるだろう。そのときに何人か貸してくれと、こういうことである。

まだ描かれてはいないが、丑嶋と獅子谷にはなにか因縁があるらしい。獅子谷も敏感に丑嶋の名前に反応している。丑嶋は重要でないひとの名前とか顔をあまり覚えない人間である。獏木なんか、一回金属バットフルスイングされてるのに「眼帯野郎」呼ばわりでしかも若干すでに記憶が薄れかけている雰囲気だったからな。あたま目がけてバット振りぬいてきたやつのことなんてふつうは一生忘れないとおもう。

それは、じっさい眼中にないものはすぐ忘れてしまう、ということに加えて、覚えているということはそれがそれだけ印象深い出来事だったということを示してしまうから、アウトロー的に小心を表現することになりかねないので、覚えてないふりをする、ということでもある。そんな丑嶋が、獅子谷のはなしが出てきたときに「忘れるわけない」というような反応をするのだから、相当のことが過去にあったのだろう。しかも、丑嶋の名前を聞いて少し獅子谷のからだが硬く緊張していることからして、ただなんか喧嘩とかして、どっちかが負けて、というような単純なことではないっぽい。互いに忘れられないということなのだ。

 

 

どこでどうはなしが転んだか、戌亥の実家のお好み焼き屋には柄崎だけが来ている。戌亥と会う前に丑嶋が集合をかけていて、中止を柄崎に連絡しなかった感じだろう。なんか前に柄崎が店にきたときもこの席だった気がするなあ。

 

 

ホテルの自室に帰った滑皮は、例のバカ高いルームサービスなのか、カレーをがつがつ食べ終えて、夜景を背後にビールを飲みながら風呂につかっている。そんな滑皮が想うのは熊倉の兄貴である。これは重要な描写だ。周囲には誰もいない状況で、いかにも感傷的になりそうな装置に囲まれながら滑皮が想起するのは、亡くなった熊倉理事長なのである。滑皮が熊倉を慕う気持ちは「構造的なもの(ヤクザは上を立てるもの、という原則)」ではなく、本心であった可能性がこれで一気に高まったとおもう。

 

 

そして熊倉の三回忌である。なんというか、子分も含めた関連するヤクザ数十人が集合する感じを想像していたが、幹部レベルの偉いひとたちが集まっているだけのようだ。鳩山と猪背は、暴排条例でどこの店も出禁だから、熊倉の奥さんがやってる店で香典がわりにたくさん飲もう、なんてのんきなことをいっている。

滑皮に歩み寄るのはヤクザくんで地下にもぐったきりだった豹堂である。本部長と呼ばれている。なんとなく、滑皮と同世代か少し下の、筋肉要員のようにおもっていたが、今回見るとけっこうベテランのヤクザのようだ。熊倉とは兄弟関係で、滑皮も敬語だ。その豹堂は、滑皮に対してなんとなく感じが悪い。熊倉が死んで、その理事長の枠に入るはずの鹿島も行方不明。しかし、最近組長になったばかりの滑皮はどうやらもうそのあたりのポジションにつきそうな感じのようだ。やたら羽振りもよい。裏でなにをやってるのかと、実態がつかめないから、あやしんでいるのである。滑皮は墓の前だから勘弁してくれとごまかす。

熊倉と鹿島は、当初は鳩山のポジションにつく候補だったはずだ。トップの虎谷がどうやらまだ引退していないようなので、この順繰りの昇進は行われていないようだが、ここで豹堂がいっているのは要するに、たとえば熊倉が鳩山のポジションにつくのだとしたら、今度は熊倉のポジションがあくわけで、そこには鹿島が入るちがいなかったということだろう。鹿島が昇格したら、熊倉はきっとそのままだったんだな。で、そのふたりが一気に消えて、ほぼ同時に滑皮がなんだかわからない躍進をしていると。まああやしまれてもしかたないのかもしれない。

 

 

自宅に戻った丑嶋はまたいつかみたいにラットプルダウンをして、滑皮への怒りをぶつけている。あとで部屋も描かれるのだけど、以前までとまったく変化がない。丑嶋がいない2年間、自宅はそのままだったということだろうか。警備が厳しいということだから、滑皮たちも部屋にまでは入れなかったのかもしれない。

丑嶋は高田に電話をかける。高田は地元で金融屋をやっているらしい。元気かときかれて高田はうれしそうにするが、丑嶋が聴いているのは高田に預けたうさぎの状況である。が、そのあとすぐに高田も元気そうでよかったと付け加えもする。丑嶋は新宿に戻ってきたわけだが、まだ面倒な事態は続いている。だからうさぎはまだ預かっていてくれと。うさぎの画像を送るという高田に、珍しく丑嶋は「ありがとう」といって、できたら動画を送ってくれともいう。丑嶋は部屋のなかでひとり、もそもそ葉っぱをたべるうーたんの動画をさびしそうに眺めるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

次号より休載、再開は6号、2017年1月7日発売号ということである。1月7日号ではなく、1月7日発売である。というわけで、今回は今年最後のウシジマくんなのだった。

 

 

とりあえずは獅子谷が「あ!?」とか鳶田にいうタイプでなくてよかった。

彼は滑皮ともめていたということだが、おそらく集団で襲いかかるか、なにかして、どうもボコボコにされたようである。そういうことをこの手の人間は(いわゆる面子問題をぬきにしても)非常に根にもつので、獅子谷にもその危険性はある。特に彼の場合は組織を抱えている、ある意味ではヤクザよりも厄介なタイプなのだ。しかしまあ、暴力に屈服したのか、滑皮のアウトローとしての姿勢になにか感じ入るものがあったのか、それともたんにじぶんの利益を考えてか、それは不明だが、とりあえずいまのところ反抗的な感じはなさそうだ。

獅子谷についてはまず、なぜ半グレなのかということもある。作中で具体的な説明はなかったので、考慮にいれるのは逆に気が引けるのだが、彼らのふるまいの背後には暴対法というものがある。彼らはもはや街で喧嘩することさえできない。それで警察がくれば、はなしが組長やさらにそのうえにまで及ぶので、結果としては「上」に迷惑をかけてしまうことになるからである。銀行口座もつくれないし、部屋も借りれないし、今回描写があったように、ふつうの店が出禁になったり、ほとんどまともな生活も送れないような状況なのである。よほどうまく、それこそいまの滑皮のように、身内にさえ手段がよくわからないようなルートでもつくらない限り、ヤクザをやっていて稼ぐことはもうできない。それどころかまともな喧嘩さえできない。そうして、若い不良たちのヤクザ離れがはじまっていった。稼げないし暴れられない、それでいて上納金はしっかりある、そんな組織に属するより、気の置けないむかしからの仲間と好き勝手にやっていたほうがよほどよいではないかと。それが数人規模のものであれば、かんたんにつぶされたり吸収されたりしたかもしれないが、おそらく獅子谷が抱えているような集団はそんな小さなものではない。稼ぎかたも、いまならともかく、以前までの滑皮とは比較にもならないはずである。

つまり、この意味でいえば、彼らは「稼げない/暴れられない/組織に属したくない」というような理由で、業界入りを拒んでいたわけである。獅子谷もたぶんそのあたりを理由に半グレのままでいたのではないかとおもわれる。これが滑皮に取り込まれた。「取り込まれた」というのがなにを意味するのかわからないが、今回、羽田の拷問や丑嶋拉致について依頼していることから考えると、半グレは半グレでヤクザからすれば使いでがある。むしろ半グレのままでいてくれたほうが、獅子谷くらいの実力者なら、じぶんから暴力をふるうことが非常にリスキーであるヤクザ的にはよいわけである。ただ、この依頼だが、これは金を払ったりはしていないのだろうか。このあたりはけっこう重要な気がする。ヤクザに顎で使われることも、仮にこの依頼が金でなされているとしても、獅子谷的には不満なのではないかとおもわれる。稼げて暴れられればそれでいいというはなしではないのである。報酬がないのであればなおさらである。やはり、不良としてヤクザを目指さなかったことが、獅子谷の半グレとしての台頭につながっているのだとすれば、やはり彼が暴力への屈服か滑皮へのポジティブな感情からヤクザ入りを認めるようになったとはおもえないわけである。梶尾や鳶田は絶対にこの男に油断しないほうがいいだろう。

 

 

だが、そういうリスクはもちろん滑皮も了解しているはずである。豹堂があやしんでいる点にかんしても依然として不明である。滑皮の熊倉への感情はほんもののようだ。彼はヤクザ組織という組織のありかたそのものを認めるものである。下のものは上のもののかっこいい姿を見て、そうなりたいと願うことで、ヤクザ業にはげむ。だから、根本的に滑皮の態度は半グレのものと相容れない。滑皮のありようは、この時代の「世知辛さ」へのアンチテーゼとして機能してはいるが、彼自身の認識としては、そもそもヤクザとはそういうものであって、稼げない苦悩や法律による縛りは、二次的なものなのではないか。稼げても稼げなくても、彼が知っている熊倉がかっこよかったことはまちがいなく、だから彼も、稼げても稼げなくても、梶尾たちに対してかっこいい兄貴でいようとするのである。

これは構造的なはなしである。じぶんの属している場所ではそれが当然のものであるから、そうしているだけである。朝の弱い人間でも、それを理由に遅刻を正当化しようと、またそれによるペナルティに文句をつけようとはせず、等しい出社時間について疑問にもおもわないことと同様である。ヤクザとはそういうものなのであって、滑皮の真意とは無関係なのである。だが、どうやら滑皮が示しているふるまいと、彼がこころの底に抱えているおもいは、どうやら一致しているようである。

問題は、それでいて、いくつか不可解な点がないでもないということである。いちばんは丑嶋である。彼には熊倉殺しの犯人が丑嶋だという確信がある。だとするなら、たいした証拠がなかったとしても、彼が丑嶋を殺そうとするほうがずっと自然におもわれるのである。しかしそうではなく、滑皮は3億という法外な金を要求する。戌亥のはなしでは、これが払われないようだと、丑嶋は殺される。少なくとも、獅子谷のように「取り込まれる」ということのようだ。これが、今回梶尾たちが獅子谷に依頼していた「攫う」という状況に該当するだろう。要するに攫ってボコっていうことを聞かせよう、なんなら殺してしまおうと、こういうことのようだ。金を引っ張れるだけ引っ張って、最後に殺せばよいと、そういう発想も、ヤクザならするかもしれないが、滑皮の熊倉への感情はほんものである、そういう発想にはどこか違和感が残るのである。

それから、このヤクザ組織の構造がもたらす「かっこいい兄貴」たろうとしている彼が、稼ぎにたいして非常に熱心になっているようである、ということもある。そりゃもちろん、稼げないよりは稼げたほうがいいに決まっているし、この状況で稼ぎまくるヤクザも、それはそれで「かっこいい」だろう。しかし果たしてこの状況は、熊倉が存命であったとしたときにも同じように発生していたものだろうか。滑皮の顔にはときどき、なにか悲壮な覚悟をしたもののような表情が浮かぶことがある。熊倉にかんしての感情とヤクザとしてふるまうべきものは、いままでは一致していた。しかしここにきて、それが反発しあうような、アンビヴァレンスな動機が生まれてきているのではないだろうか。

 

 

丑嶋のなかで滑皮への怒りとラットプルダウンはセットのようである。以前このトレーニングをしていたときに考察したように、引きの動作で背中を鍛えるこの種目は、事態の受容を示している可能性がある。丑嶋の部屋にはベンチもあったはずだし、押しの動作によるトレーニングも可能はなずだが、それはされない。怒りを発散するという意味でも、内部に蓄積した負の要素をはじき出すという意味でも、ここでは押しの動作が適切であるとおもわれるが、丑嶋は執拗に滑皮とラットプルダウンを共存させようと努めるのである。丑嶋がどんなに拒否感情を抱えていても、この仕事をしていたらヤクザとの関係は断つことができない。丑嶋はラットプルダウンを通して滑皮という存在を反復し、これをしかたのないもの、やむを得ないものとして馴染ませようと無意識に努力している可能性があるのである。

続けてうさぎの動画を見てなにかを回復しているのも印象的である。うさぎという存在は母親の形見であり、無垢な時代の表象でもある。それは、関係性のなかにおける責任とか重圧とかとは縁のない、守られた時代である。ここに回帰しようとすることは、一種の現実逃避でもある。人間の身体はいつまでも緊張し続けることはできないので、そうした時間は誰にでもあるものだが、丑嶋ではそれがうさぎなのだ。しかし、たんに緊張とそれがもたらす疲労から逃れるためにそこにすがるのではなく、解決の難しい問題を抱え、どうやらそれを受容するしかないらしいという事態で彼がうさぎを眺めるのは、なかなかショックなものがある。要するにこの瞬間の丑嶋は思考停止しているのである。丑嶋は、嫌で嫌でたまらないヤクザとの関係をタナトス的に筋トレで反復することで、受容しようとするが、今回はいよいよそれが受容しきれないものになりつつある。それが、彼にうさぎを求めさせたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第135話/偉大さ

 

 

 

 

 

 

 

本部戦を終えた武蔵がテレビに出ている・・・というところ前回は終わったのだけど、今週は毎回、というほどの頻度ではないが、描かれていないところでも必ず行われているはずのアメリカ大統領と範馬勇次郎との友好条約更新の様子が描かれる。

現実のアメリカでも次期大統領が決定したが、厳密にはまだ大統領ではない。あちらではオバマ大統領からトランプ大統領にかわることになるが、こちらではオズマ大統領からトラムプ大統領にかわる。就任まで待ってもよかったんだろうけど、たぶん、板垣先生的になにかおもうところがあり、本部戦という区切りがちょうどついたところでもあるし、本流の展開を中断してでもいま描いておこう、ということになったのだろう。煽りには「特別緊急掲載」とあるので、やはり予定にはなかったはなしのようである。ヒラリーがなったらなったで、勇次郎がどういう反応をするかみたかった気もするけど。初の女性大統領ということで敬意を払い、いままでには決してありえなかった対等な関係になったりして。まあバキの展開のためにアメリカ大統領を決定するわけにもいかんし・・・。

 

 

 

特徴的な髪型はモデルが誰であるか明確にしている。モデル通りの人物であればビジネスマンから多くのひとの予想を覆して大統領になった人物で、相当のクセモノとおもわれる。

アメリカが個人と条約を結ぶと、オズマからくわしくはなしをきいて、トラムプはフリーズしてしまう。生き馬の目をぬく業界で生きてきたトラムプからしたらおとぎばなしみたいなものだろう。それを、いかにも優等生風で誠実そうなオズマが語り聞かせる。

アメリカ合衆国が、オーガこと範馬勇次郎という一個人に対し、聖書を片手に友好と不可侵を宣誓する。オズマは落ち着いてそうくりかえす。意味がわからず、トラムプはふたたび静止する。

どうやらオズマは本気でいっているらしいと、そういうことがわかりかけてきてから、トラムプは次に細部を確認しはじめる。アメリカが、一個人に、ということでまちがいない。となるとその人物はアメリカ以上のなにかをもっていることになる。ビジネスマンらしく、トラムプはまず「金持ち」なのかと訊ねる。常識的な反応かもしれない。げんに大金持ちの光成は総理大臣以上の権力をもっているわけだし。オズマは、ある意味リッチマンといえるだろうけれど、そのことは関係ないとする。リッチといえば、ふつうは金銭的に豊かであることをさすが、それ以外にも広く、たんに豊かであることも示す。だから最初、これは腕力家としての勇次郎が抱えているものの豊かさを指しているのかとおもったが、「無関係」といっているので、ここでオズマがいっている「ある意味リッチマン」というのは、例の強さ=ワガママを通すちから、という公式から考えられたものだろう。現象として世界一強いのだから、やろうとおもえばどんな強奪も可能であり、それを制御する方法もないのである。

アメリカは銃社会で、戦争経験も豊富である。通常、こちら側の譲歩を必要とする条約というものは、複雑な利害関係が背後にあって、探りあいと国力の拮抗のなか結ばれるものだろう。金ももっていない一個人がなんだというのか、ということは誰だって考える。ましてやアメリカ人ならなおさらかもしれない。トラムプは逮捕してしまえばいいではないかと、「なんでそれを思いつかないのか」といわんばかりにいう。

しかし勇次郎は一国の軍事力に比較されるちからをもつ。FBIだって、ふつうはそういう形容のしかたをされないわけである。

ここではじめて、勇次郎がなぜそれほどケアすべき人物であるのかということが、「強いから」だということが告げられたわけだが、トラムプはその点についてはなにもいわない。なぜかいちばん信じがたいその点については、すんなり了解してくれたようである。そういう、胸糞悪い慣例がほんとうにあるらしいということは、もう納得した。それはいつからなのかというと、第40代「ノラウド・ウィルソン・リーガン」だという。トラムプはそこで「なるほど」とさらに納得する。まさにわが国から「偉大さ」が消えたタイミングだと。

オズマはリアリストっぽさを見せるトラムプに、「匹夫の勇」ということばの存在をつきつけて、間接的に諌める。「媚びるべきには媚びろ」というのが、オズマが在任中に得た結論だという。

 

 

当日、トラムプはこの慣例を終わらせる気で、勇んで勇次郎の部屋に向かう。トラムプの建てたホテルなのだろうか、いずれにせよアメリカなので、勇次郎じしんが出向いてきたことになる。いくら勇次郎でも、大国アメリカを全面的に敵にまわすのは賢くない。友好条約は勇次郎としてもある意味望むところではないかともおもわれる。だから、表面には出さなくても、必要なら足を運ぶこともやぶさかではないだろう。だいたいストライダムがいるので、彼なら平気でタクシーみたいにヘリとか飛行機とか出してくれそうだし。

 

 

じぶんで最後、終わらせる、そういうつもりでやってきたトラムプだったが、部屋に立つ勇次郎の背中を見ただけで、その感情の昂ぶりは嘘のように消えてしまった。勇次郎はなぜかパンツ一丁で、タバコを吸いながら窓の外を眺めている。全身に血管が浮いており、なんらかの理由でパンプしているようである。それを見てトラムプは、どんな兵器よりも彼のほうが「上」だということを実感してしまった。「闘争」というのは、ある二者の関係性とか、それが巻き起こす状況をさす概念であるが、勇次郎の肉体は闘争を形状にしたようなものなのだ。近寄り「3分で終わらせろ」という勇次郎のことばを受けて、トラムプは失禁してしまう。が、念のため・・・万が一に備えて徹夜で暗記した宣誓を読み上げることで、無事最悪の仕事を終えたのであった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

いってしまえば「いつもの描写」で、とりたてて騒ぐ点もないようだけど、オズマが学生時代から都市伝説的に勇次郎のことを知っていて、最初の会見では緊張と興奮からやたらしゃべりまくることになったことと比べた今回のトラムプの反応や、あるいは勇次郎がなぜパンプしていたのか、パンツ一丁だったのか、などということから、「九マイルは遠すぎる」ばりになんらかの結論を導けるだろうか。ムリだな。

 

 

このはなしがいつのことなのか、本部対武蔵戦とほぼ同時期と見ていいのか、そのあたりもわからない。トラムプのせいで本部戦を見れなくて、勇次郎はイラついているという可能性もあるが、それだと勇次郎はアメリカに意志をくじかれていることになる。たぶん、そういう問題ではないのではないか。

アメリカにも、新任の大統領についてもくわしくないので、フワーっとしたイメージの次元でのはなしになるが、トラムプはビジネスマンなわけである。それが、現状ではまだまだ超大国であるアメリカのトップに君臨することになるわけである。直接的な描写はないが、トラムプは、政治思想とか信念とかいうことの以前に、現実的なビジネスマンであることが、ひとつの大きな特徴であるにちがいないのである。一国と比較される個人ときいて金持ちなのかと訊ねたことからもそれはわかる。トラムプからすれば、ほかの大多数のひとがそう考える以上にちからとは金のことなのである。そういう身もふたもない現実から思考を出発させる男が、世界有数の大国の、最高権力者になったわけである。トラムプはまちがいなく世界を金で解釈するだろう。国力とは金のことであり、人物的魅力とは金のことであり、そして腕力とは金のことであると、そう考える可能性が高いのである。

オズマはよかった。最初からそれなりに敬意を払ってきたし、不遜な態度をとることもなく、基本的には条約を必要なものと捉えてきた。しかしトラムプはそういう人物ではない。少なくとも勇次郎はそう考えたのではないだろうか。金が腕力に代用されるのは、周囲のすべてのひとが「金は腕力に代用される」と信じているときだけである。それを使用するすべての国民が、ある紙切れに1万円の価値がある思い込まないことには、1万円札はそれにふさわしい価値を宿して機能することができない。たとえば、勇次郎を含む世界中の全ての人間が、「金をもっている人間が最強である」と解釈すれば、その瞬間に世界一金持ちの人物が世界最強となる。お金とはそういうものなのだ。

しかしもしお金にそうした価値を見出さない人間が存在し、しかもその人物が、国家予算並みの金をつかって攻撃をしかけても倒せないほどの腕力家だとしたら、これも成立しなくなる。勇次郎はトラムプにまずそのことをわからせる必要があると判断したのではないだろうか。だから、前もって筋肉が見えやすいよう服を脱ぎ、みたところ器具等はないが、からだをあたためて、筋肉をパンプさせ、迫力を倍増させていたのではないか。げんにそれを見てトラムプのうちにおける常識はあっさり覆り、金より強力なもの(兵器は金で買うことができる)があることを理解しているのである。

 

 

ではなぜ勇次郎がそういうことをしたかというと、それは勇次郎としてもアメリカを敵にまわすことは望ましいことではないからだろう。勇次郎のちからが一国に匹敵するというのは、一種の「表現」であって、彼のパンチが、アメリカに存在するすべての兵器を同時に動かしたのと同じだけのエネルギーを宿している、というような物量的な意味ではない。ルソーによれば戦争とは相手国の憲法を書き換えようとするものである。アメリカと勇次郎が対立することになれば、それはまさに勇次郎の内における憲法的な意味でのルール、つまりわがままをはばむということにほかならないが、もし国と個人が対立することになっても、通常の戦争状態にはならないだろう。勇次郎が国と比べれば物理的に小さい存在だからである。ゴキブリ一匹を退治するために家を焼き払うひとはいない。わたしたちはけっきょく、殺虫スプレーをもって、単独で、ゴキブリ目線に立って勝負するほかない。そのゴキブリも、隠れられてしまえば手のうちようがないし、それでいてゴキブリのほうにはできることがたくさんある。これはたとえが悪かったかもしれないが、勇次郎はじっさい機動隊100人を突破して総理大臣のもとまでたどりついたことがある。それでいいわけである。ホワイトハウスに侵入し、ガードを突破して大統領を倒せば、それでもうある意味勝利なわけである。もちろん、ベトナムで見せたように、勇次郎にはそれ以上のことが可能である。ただ、あれにしても、本部の刀を親指でぺきぺき折るようにたやすいものではなかった。いまより若く、劣っていた可能性があるとはいえ、やはり個人でできることには限度がある。しかしそれをいえば、大国が個人を射抜く行為にも、方法を限定する条件があるわけである。いつか誰かも作中でいっていたが、砂漠をひとりで歩いているならともかく、ふつうに街に生きる勇次郎を爆撃するわけにはいかないのである。だから、当たり前に考えると勇次郎とたたかおうとしたら武装した個人の集団ということになるが、それは通用しない。いちばん有効なのは遠方からの狙撃だろう。これはげんに勇次郎も、最大トーナメントで暴れ出したとき実行され、不覚をとっている。そしてここで、勇次郎を殺すことで世界はどうなるか、という想定が必要になる。勇次郎は暗殺者ではない。正面から機動隊やSPを突破し、国の最高権力者を獲ることのできる人物である。どの国の責任者も、勇次郎にかんして無関係で済ますことはできず、勇次郎の組み込まれた世界のパワーバランスに関与しているわけである。そして、第40代大統領がどういう経緯で友好条約を結んだかはわからないが、とにかくげんにそういう条約がある。勇次郎とアメリカは友人関係であり、勇次郎のやることなすことにかんしてアメリカはいっさい口出ししない。そして、この条約にそれは含まれてはいないし、勇次郎の大統領への態度は傲慢なものばかりだが、ここには同時に勇次郎のアメリカへの不可侵ということも、言外に約束されている可能性がある。「約束」ということばが強度として強すぎるとすれば、「含み」くらいだろうか。勇次郎としては、じぶんの生活や趣味が邪魔されない限り、アメリカがなにをしようと知ったことではない。若いときはそうでもなかったろうし、アライパパのことなど考えるとそうひとくくりにはできそうもないが、常識的な範囲であれば、勇次郎がアメリカの国政にくちを出すなどということは考えられない。つまり、アメリカは、というか第40代大統領は、ひょっとするとみずから積極的に勇次郎に働きかけたのではないかと考えられるのだ。どんな人物も確実に殺すことができる勇次郎と友好条約を結ぶことは、宣言さえがんばり、かつげんに不可侵を貫徹しさえすれば、アメリカにとってはそう悪くないはなしなのではないかということなのだ。

そうしたわけで、勇次郎は不本意かもしれないが、彼が含まれるパワーバランスは、アメリカの意志がまずあって、そのうえで成立した可能性がある。この大統領の宣誓は一般には機密事項なのだが、ひょっとすると各国の最高幹部にはそれなりに共有されている情報なのではないだろうか。もしそうであれば、アメリカ以外の国が勇次郎に手を出さない理由にもなる。彼はアメリカが国賓としてあつかう友人なのである。

そしてじっさい、勇次郎としてはそれでいいというぶぶんもあるかもしれない。ベトナムでの修行時代はあのように戦地で暴れていたわけだが、いまの勇次郎はもはや誰にも制御できない存在になっている。求めるものといえば、バキや武蔵のような、じぶんを超えうる単独の個人の出現のみである。大国アメリカが個人に対抗しうるちからをもっているのは当たり前のことであるし、いちいちそんなものを相手にするのも面倒なはなしである。もし同レベルの国が総力をあげて攻撃を開始したら、勇次郎も、負けないまでもバキだ武蔵だといっていられなくなることはまちがいないのである。そういう意味で、そっちがそういうのなら、というような条件つきで、勇次郎としても友好条約はそれなりに望ましいのではないか。

 

 

というようなことだとすると、勇次郎としてもこの条約を、スムーズに、それにふさわしいありかたで成立させたいという気持ちがあった可能性があり、それが、勇次郎に、やってくることを理解していない新大統領に向けてパンプした超肉体を披露せしめたのではないだろうか。とはいえ、形式上、あくまで勇次郎はアメリカのほうからの提案で、このはなしを受けている。おもえばあの傲慢な態度も、条約締結に際してのマナーなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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