すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

・考察‐ネバーランドについてのまとめ

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・考察‐価値観は人それぞれという価値観

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・考察‐共有と共感、その発端

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・書評‐『機械・春は馬車に乗って』横光利一

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・書評‐『黄金の壺』E.T.A.ホフマン

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・映画評‐『キャリー』

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・アニメ批評-ピクサー・“デノテーション”・アニメ

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・アニメ批評-侵略!イカ娘

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バキ感想最新・刃牙道

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 ・範馬刃牙対範馬勇次郎

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 ・烈ボクシング、バキ対柴千春等、親子対決まで

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 ・ピクル対範馬刃牙編

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ウシジマ感想最新

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 ・ヤクザくん

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 ・復讐くん

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 ・フリーエージェントくん

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 ・中年会社員くん

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 ・洗脳くん

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※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。

(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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第127話/それでいい

 

 

 

 

 

 

 

 

酒瓶で頬を裂かれ、ピース缶を顔の真ん中に叩きつけられて、刀を抜ききることなく、武蔵が倒れる。本部はそこになぜか煙幕玉を投げつけるのだった。

加藤とか、観客のみんなは、「爆薬!?」という具合に驚いている。これだけ盛大に破裂しているので、近くで受けたら多少のやけどはあるとおもうけど、煙幕玉は基本的に視界を奪う攻撃で、じっさいにダメージを与えるようなものではないような感じがある。ただジャック戦とかの本部の反応を見ていると、破裂音とか、それこそ多少のやけどとか、総合的な武器のような感じもないではない。たとえば、花山がスペックに銃弾でやられたみたいに、口のなかにこれをいれられたら、それなりに大きな損傷をしてしまいそう。詳細は不明だが、破裂によって、その衝撃の外側にいる人間にダメージがいくことを前提として設計されてはいないが、決してないわけではないし、基本的な目的は視界を奪うことだとしても、そこにその他もろもろを含めて、煙幕玉という攻撃ということではないのかとおもわれる。

 

 

いずれにせよそれは爆薬で、とても危険な攻撃だ。まだすぐ近くにいた光成があわてて観客席のなかに退避する。

バキ的には、さきほどの毒も、この爆薬も、「ありか?」というレベルの、想像もつかないような技術のようである。しかしそれはもうどうでもいい。卑怯でもなんでもいい。とにかく生き延びてくれと、バキは願うのである。ふつうに考えて、相手の用意している武器がせいぜい日本刀であるという状況で毒や爆薬ということになると、ルール上制約はないとしても、ちょっと遠慮していただけないか、ということになりそうである。子どもたちが10円20円のレベルで苦心しながらなにを買うか迷っている駄菓子屋に、万券でぱんぱんにふくれた財布をもったクソガキがあらわれて「ここにあるのぜんぶ」とかいってる感じだろうか。いや、お金を払ってくれるんなら、規約のうえでなにも問題はないのだけど、ほかの子どもたちに少しは配慮してくれないかなと。ふつうはそうなる。が、相手を武蔵としたばあい、そうならない。けっこう展開を甘く予測しがちなバキでさえ、本部に「生き延びてくれ」と願ってしまう、つまりこれだけやってもまだ勝ちの兆しさえ見えていないのである。

 

 

本部が煙の中から、例の分銅のついた鎖で巻き付けて刀を取り上げる。本部にも武蔵の状況は見えていないはずだから、倒れた位置などを記憶しておいて、煙を出してからわりとすぐ鎖を放った感じだろうか。

かんたんに刀がとれたことに本部は疑問を感じる。「命」と見立てたハズの剣を・・・って、どういう意味だろう。五輪書とかにそういう文章があるのだろうか。検索してみたけど、映画でそういうセリフがあるらしく、しかもそれは原作である吉川英治の小説にはないものらしい。それともバキ作中でそういうセリフがあったかな・・・?

いずれにしても、武蔵は意外とかんたんに刀をはなしてしまうし、別にそれを気にすることもない。刀はそんな不便なものじゃないから・・・というのは登場したばかりのころの武蔵がいっていたことだが、武蔵にはイメージ刀もあるし、なんなら、いまだに正体不明の奥義・無刀もある。本部は刀をとったことによる見た目には明らかな有利を過信しないほうがいいだろう。

 

 

煙のなかから武蔵が咳き込みながら出てくる。ふたりが向き合うまで36秒、うかつなファイターならそこで武蔵に攻めかかってしまうかもしれないが、慎重に距離をとる本部は、どのような行動にも出ることができない。煙幕は刀を奪うためのものだったとしても、それも、近距離ではできない、あるいは危険であるという判断から、このようにおおげさな行動になってしまっているわけである。どんなにかんたんに見えることでも油断せぜ、大事をとって、全力で対応しているわけである。

酒瓶であんなに強く殴られ、ダメ押しで顔に丸いあとがつくくらい缶で殴られている。ふつうなら救急車ものだが、武蔵はせいぜい「やれやれ・・・」というところである。

武蔵はここでアキレス腱へのダメージを確認する。断裂したり痛めたりはしていないようだ。となると、あのときのあれは、やっぱり武蔵がじぶんから飛んだのだろうか。表情からはそう見えなかったが・・・。そして、だとすると、あれは本部のシナリオ通りではなかったということになる。もしあのとき武蔵の左足を壊すことができていたら、本部はかなり有利になっていただろう。でも、だとしたら本部はどこであの毒入りのタバコや酒をすすめるつもりだったのか・・・。アキレス腱切れてものすごい痛がってる武蔵は、果たしてタバコにつきあってくれるだろうか?

まあ、毒にかんしては、用意している無数の方法のうちのひとつに過ぎなかったのかもしれない。展開次第では、使わなかったかもしれないし、もっと使うにふさわしい場面が出てきた可能性もある。その場その場でいろいろ対応できるよう、本部も考えてきたはずだ。たまたま、あそこでいい具合に武蔵が座って、休憩するような感じになったから、出し惜しみせずやってみたと、そんなことなのだろう。

 

 

本部が刀を抜く。刀の使い手である武蔵がそれを奪われ、武蔵ほどではないにしてもそれなりに使えそうな本部がそれを手にしている。それなのに、本部は出ることができない。武蔵の占めている射程範囲というか間合いが、刀をもった本部を上回っているようなのだ。じっさいに刀を手にしていなくても、武蔵はそれをイメージで作り上げることができる。が、それだけではこういうことにはならないだろう。ふつうの素手の格闘技でも、体格で劣りながら、テクニックやスピードで相手を上回り、実質的には広い射程をもっている、というようなことはあるだろう。武蔵は、遠くにいても、そして刀をもっていなくても、こわいのである。

本部が刀を持ちかえて投げる。柳の太ももにふかぶかとささった痛そうな刀の描写が思い起こされる場面だ。が、武蔵は回転して飛んでくる刀をあっさり受け取る。続けて、いかにもそれらしく、鞘だけ残しておいても武器にもならない、とかいいながら、本部が鞘も投げて寄越す。ちょうど差込口が武蔵のほうを向いている状態で、鞘がまっすぐとんでいく。武蔵はこれを刀で受け止める。キャッチすると同時に納刀してしまったのである。この動きじたいはかっこよかったし、それまでの流れもあって、武蔵としては自然な行動だった。しかしこれは本部の罠である。鞘を投げる直前、背中に手をやっているようなコマがあるが、おそらくそのときに、鞘のなかに火薬かなにかを仕込んだようだ。納刀するなり鞘がこっぱみじんに爆発してしまったのだ。

武蔵もこれは擬態とかぬきでびっくりしているっぽい。ダメージを受けてもそれを表に出さず、余裕ぶるのは基本的なことではあるが、さすがにこれは予想していなかっただろうし、なにか叫びながら丸くなってしまう。

そこに本部の分銅鎖がとび、裂けてまだ出血している頬の傷口を襲う。興奮しっぱなしのガイアは、さきほどあたまに思い浮かべた「それでいい、ってかそれしかないだろ」という妙に上から目線なセリフをじっさいにくちにしながら歓喜するのであった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

武蔵は史上最強の刀の使い手である。少なくともわたしたち現代人はそう認識しているし、武蔵も、わたしたちがそう認識していることを知っている。本部が今回用いた戦略は、相手の認識の裏をかくけっこう高度なものだろう。武蔵としては、じぶんは近距離の刀をもったたたかいならぜったい負けないという自負があるだろうし(よく油断するけど)、本部たちもなによりじぶんの刀の攻撃をおそれているということを知っている。となれば当然、本部たち(烈もそうだった)のとる戦術は遠距離型、もっといえば投擲が基本になる。そういう前提がまずあって、どのような投擲も不自然ではなくなる。それに加えて、本部はたんに、たとえば手裏剣のような、それが目的となった飛び道具で攻撃するばかりではない。タバコの缶だって武器にする。なんだって投げてくるのである。武蔵は、それがどんなものであれ、飛び道具はほぼ無効であるということを当然示していくことになる。回転しながら飛来する刀を、横に跳んでよけるくらいのことなら、ほかのファイターでもできるかもしれないが、さすがにあれをキャッチするのは、リスキーでもあるし、なかなかできることではない。それをあえてするのは、そんな攻撃はなんの意味もない(それくらいじぶんはすごい)ということを示したいからである。げんに佐部はちゃんとそのことに驚いてくれている。

本部は、そうした武蔵の心理を把握している。とんでくるタバコを、よけるでも弾くでもなく、わざわざ人差し指と親指でつまんでみせるのは、そうした余裕の表現であるということを、本部は見抜いている。鞘の爆薬にかんしては、ふつうに鞘をキャッチして納刀しただけでも爆発した可能性はあるが、同様にしてある程度の衝撃がないと爆発しなかったのではないかともおもわれる。差込口を武蔵のほうに向けて投げているのは、武蔵がそうすると、あえて曲芸的なしかたでこれをとり、余裕を表現するにちがいないとわかっていたからではないかとおもわれるのである。

というわけで、心理戦では本部が一枚上手のようである。が、疑問なのは、そうして爆薬を仕込んだ目的はなんなのか、もっといえば、なぜせっかくうばった刀を返してしまったのかということである。

 

 

極端なことをいえば、刀を奪ったならすぐに警戒しつつも客席の最上部にでも駆け上がり、どうやるのかわからないが、ありったけの爆薬をいろいろアレして、刀そのものを破壊するようにしてしまえば、煙が晴れて武蔵が出てくるころには、金重がもうこの世に存在しないという状況にできたかもしれないのである。金重があまりにも「いい刀」すぎて、爆薬なんかでは壊れない、という可能性はある。現に、鞘のなかに仕込んでいた爆薬は、鞘を内側から木っ端微塵にする破壊力で、刀もそれに接触しているはずなのに、見たところダメージはなさそうなのである。しかしそれなら、隠すとか、ガイアに預けて逃げてもらうとか、いろいろありそうなものだ。

となれば、この刀を奪うという行動は、返すという行動こみだったことになる。奪って無力化する(丸腰でも武蔵はピクルに匹敵する強さだが)ことが目的ではなかったのである。とすると、合理的な本部の選択であるわけだし、「刀を奪って返すこと」は、たんに「刀を奪うこと」より大きな効果をもたらすにちがいないという算段があったことになる。論理的にそうなる。これが花山とかだったら、あのひとは勝ち負けとかいう以前の、生き方の美学があるから、別の理由が考えられるけど、本部ではそういう“非合理な”選択はちょっと考えられない。そんなことをいっている余裕もないだろう。

といいつつも、河豚の毒の件もあるし、本部の「守護」は自己実現のたぐいである、という見立ても、それなりに有効である。本部のいう「守護」は、目的ではなく、武蔵に対応できるものとしての使命感の結果である、ということは前にも書いた。だから、本部が丸腰の武蔵を「宮本武蔵」として認めない可能性はある。「宮本武蔵」が消失してしまえば、生まれてはじめて真価を発揮している「本部以蔵」という価値も消失してしまう。武蔵が刀を帯びてあらわれたから、本部の実戦柔術もほんとうの価値を発揮できるのだ。そして、身につけた技術をはじめて解放する、身体への祝福という点でいえば、「宮本武蔵」には存在し続けてもらわなければ困る。丸腰の武蔵では、勝とうと負けようと、どちらにしろ意味はない。そのとき敗北しているのは、いまの「強い本部」ではなく、横綱の小指をとってまけたわたしたちのよく知っている「強くない本部」なのである。

 

 

その見立ては有効だが、ここではそれを放棄して、本部を超合理的な人物として想定して考えてみることにしよう。つまり、刀を奪って返すことは、ただ奪う以上のものを戦局にもたらす、ということである。

くりかえすように、本部のこの爆薬攻撃は、武蔵の心理を読んだ結果である。武蔵がある種のパフォーマーであり、そんなぎりぎりのことをしなくても、というようなリスキーなことをあえてすることで、余裕を表現してみせていると、そういう解釈があって、本部の攻撃は想定されている。そしてこれが成功したことは、さすがに武蔵にそのことを伝えるだろう。一種の余裕の表現として、曲芸的に、タバコをつまんだり、鞘を刀で受け止めたりしていたということを、本部は見抜いていると。さらにいえば、これは武蔵の無意識であった可能性さえある。

ただ、そうすることで本部に有利な展開になるかというと、むしろ逆であるようにおもわれる。だって、要はこのパフォーマーとしての武蔵は、油断しているわけである。そして本部はこの武蔵に、油断するんじゃないと告げているのである。これはおもった以上の相手だ、油断はできぬと、武蔵が気持ちを切り替えることはあるだろうが、それが本部にプラスになるとはちょっとおもえない。

 

 

刀を壊すつもりはどうもないらしい、ということはいえるだろう。それが、金重が丈夫すぎて壊せないということか、あるいは本部の自己実現的なやつのせいかはわからないが、壊すつもりなら煙がまだあるうちにそれをしただろうし、やりようはもっとあっただろう。鞘を壊すことで、いつ抜くかわからない、抜刀の速度にものいわせた抜刀術はできなくなるが、これも、なにもあんなやりかたでやる必要はない。煙っているうちにすれば済むことである。

 

 

この行動がもたらしうる本部に有利なものといえば、考えられるのは「不気味さ」だろうか。武蔵は、その経験の豊かさから、戦術については大きな自信があるし、事実、たんじゅんに知見の量という点でみれば、いまのところ武蔵を上回るものはいない。物知りの烈も、「死」について考えが甘かったぶん遅れをとったし、勇次郎あたりも武蔵には敬意を払わざるを得ない。じっさいのところ本部とも、その知識とか、経験値ということでいえば、そう差はないだろう。現代人に有利な点は、技術が進歩しているぶん、武蔵の知らない武器を出すことができるということと、わたしたちが武蔵のことをよく知っているということがあげられるかもしれない。しかし前者にかんしては、くりかえし描写があるように、銃でさえ、その概念はすでに戦国にあったわけで、テレパシーで脳を破壊するとか、そういうレベルの攻撃が出現しない限り、それは武蔵の「想定内」である。なにをやっても、「ああ、それ知ってる、似たようなやつあった」となってしまうわけである。ただ後者にかんしては、武蔵はどうしようもない。本部も、これまでの観察も含めて、武蔵がどういう人間か知っている。しかし武蔵は、本部が解説王で、横綱の小指をとって負けたけど、柳には圧勝したとか、そんなことはもちろん知らないわけである(知らなくても問題ないが)。刀を返した件で本部が武蔵にもたらしうるものとしたら、とりあえずいまはこれしか思いつかない。げんに本部は武蔵がどういう心理でどういう行動に出るかを熟知しているようである。このことで武蔵が油断をなくし、もう余裕の表現はやめよう、ということになっても、そこからの行動を本部が把握しているかどうかというのは、武蔵にはわからないわけである。現代人ならそのくらい研究されているかもしれないと、そこまで深読みするかどうかはともかくとして、そうした警戒心が少しでも芽生えれば、武蔵の踏み込みは浅くなるだろう。この勝負をリードしているのはじぶんであると、それをつきつける意味が、この攻撃にはあったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第414話/逃亡者くん26

 

 

 

 

 

 

 

 

逃亡者くん最終話です。

解放はされたが、納得がいかず食ってかかるマサルを、丑嶋と柄崎は無言で殴りつけた。それがなにを意味するのか、丑嶋はなにも説明しない。だからマサルはそれを察しなければならない。どんな場合も、人間の行動には、個人の動機や、社会的要請がかかわってはいるが、それはこういうことなんですよと、但し書きが付されているわけではないし、仮に付されていたとしても、わたしたちは誰とも知れぬその但し書きの書き手を完全には信じることができない。大雨が降ってきてぬれて帰らなければならなくなったからといって「責任者出せ」と駅前で叫んでいるようでは子どものままなのである。丑嶋は黙(しじま)でもってマサルに解釈を強いる。幼児のように外部に根拠を求めるのではなく、みずからをこれを解釈せよと暗に命じる。それは、マサルがそれをできるようになっているはずだという期待をこめたものでもあったはずだ。かくしてマサルは正しい意味で丑嶋を乗り越え、「大人」になり、丑嶋から離れて自立することになったのであった。

 

 

あれから半年たったということだ。のどかを訊ねてマサルが沖縄にやってきた。父方の実家の庭で、のどかはパパイヤをもいでいる。いっしゅん妊娠しているように見えたけど、特にそのような描写はない。

あのあとマサルはちゃんとのどかのところに行って、DV被害者支援センターのシェルターに向かったようだ。新城とも正式に離婚した。のどかの母親・栄子は離婚している。その父の親の家ということだろう。新城はこんな場所をつきとめることはできないだろうから安心だ。しかし、そんな心配はどっちにしてもないみたいなことをマサルはいう。

 

 

マサルは家に寄って朝ごはんをもらうことになる。のどかたちはいちどご飯をご先祖様にお供えしてから食べるそうだ。なにを祈っているかと問われ、たぶん輪郭のはっきりしたものではなかったのだろう、のどかは迷いつつ、「家族が健康でいられていること」の報告だと応える。お祈りと聞けば、なにか希望をくちにして神仏にお願いするような状況を想像しがちかもしれないが、そうではなく、ここでは報告、そして潜在的に感謝の気持ちが祈られているのである。いまじぶんの占めているものを拡張しようとする欲望ではなく、占めていることそれじたいへの感謝である。

置いてある札束みたいなものは「ウチカビ」と呼ばれるもので、沖縄ではお盆や春分・秋分の日などに使われるもののようだ。といっても、法事とかで使われることもあるようだから、作中の時間がお盆や春分・秋分の日とは限らない。あの世でご先祖さまがお金に困らないように、焼いて届けるのだ。

今回は沖縄独特の風習がもりだくさんだな。のどかはさしみ屋で買った刺身をマサルに出す。さしみ屋って、読み飛ばしそうだけど、たしかに聞いたことないかもな。

のどかと、のどかの祖母?が台所でいろいろしているようだが、なかなか居間にやってこない。男は居間で、女は台所で食事をするものなのだという。これは沖縄だけの風習だろうか。僕が前働いていたところのオーナーの家でもこの習慣があって、ご飯を食べにあがったときにびっくりしたものだ。奥さんがずっと台所で立ったままはなしを聞いてるんだもの。あのひとたち沖縄出身だったのかな・・・。

 

 

この半年、マサルは沖縄で日雇いの仕事をしていたという。日雇いといっても範囲が広いが、とりあえず違法のものではないような感じがする。ごはんがおいしかったマサルは、のどかの旧い習慣を大切にするありかたに霊験あらたかなものを感じ取ったか、食べ終えてから手を合わせて、誰にともなく「とても美味しい家庭料理でした」というのであった。これはどうも、のどかにいっているわけではないようだ。こんな料理をここまで運んだすべてのものに感謝するような、じっさいそういう気持ちになっているようである。

 

 

ごはんを終えて、ふたりは、のどかが以前風邪でいけなかった遠足先のなんとか御嶽に行くことになる。慣れない言葉の連続だが、広辞苑にも「御岳」の字で載っているふつうの言葉だ。琉球時代の信仰のなごりで、沖縄各地にある聖地、多くは森を指すようである。沖縄ではもっとも神聖な場所とされているらしく、観光地として部分的に開放されながら、訪れるものにはそれなりのマナーが要求される、宗教的に非常に重要な場所のようだ。

姿の見えなかった航平は、外で見たことない男に抱っこされている。のどかの幼馴染で、ときどきご飯を食べにくるということである。のどかは5歳までここで暮らしていたということだから、そのときの友達ということだろうか。この様子だとのどかとは相当に親しいみたいだが、マサルとどこかに行こうとしているのを見ても特に反応はない。それを受け容れる器のある男なのか、それともそれを咎めるほどにはまだ親しくないということか、そこらへんは微妙なところである。マサルと男はやわらかい表情で会釈し合う。これは、ちょっと信じられないというか、ウシジマ読者には感動的な場面ではないだろうか。あのマサルが、カタギの大人みたいに笑みを浮かべて、カタギの大人みたいに会釈している・・・!内面がどれだけ子ども染みていても、「大人」というのはけっきょくただの表象なのだ、とすれば、マサルはじっさい、カタギの大人なのである。

 

 

マサルは男を「いい男だ」と評する。のどかの回答は、地元の同級生と朝まで飲んでる酔っ払いだということであるが、悪い感じの言い方ではないし、だいたい二十歳過ぎくらいの男ならそれくらい別にふつうだろう。そういう意味でも、これまでが新城だったぶん、相対的に「いい男」だし、おそらくマサルとしては、さきほどの会釈の件もある。のどかとどれほどの仲かはわからないが、とりあえずはマサルを一瞥して、まともな男だというところまでわかった時点で、なにもいわず笑顔でのどかを送り出しているわけである。新城はのどかを所有物としてとらえていたが、少なくとも彼はドライブにかんしてなにもいわなかったのだ。ただ、のどかは、恋とか愛とかそういうの越えちゃってるというか、やはり航平がいるせいか、そこらへんは誰に対しても距離が等しいぶぶんがあるので、じっさいのところただの男友達どまりなのかもしれない。ともかく、マサルは、のどかの今後にかかわるかもしれない彼を、「いい男」と評したのである。

 

 

さっきごはん食べたばっかりなのにまたマサルはゴーヤーバーガーを食べている。ほんとに今回は沖縄三昧だな。

次にふたりは、のどかが子どものころよくいった市場に向かう。これはあれかな、流れからして、杏奈とのどかが雨宿りしていたあの市場かな。ごぼうもらったりして杏奈にのんびりしすぎだとダメだしされたあの市場。ここにはマサルとも出かけたことがある。その市場が、なくなっている。再開発が決まっているからもうなくなる、というはなしはあったが、思い出深い場所がじっさいになくなっているのを目にするのは、なかなかこたえるものがあるだろう。「変わらないものなんてないんですね」とのどかはさびしげにいう。

 

 

車でそのどこかの御嶽に近づいてきたところだろうか。木が多くて自然が美しい感じなのだけど、のどかは苦手だという。まず、あまり「気」がよくないのだという。よくないというか、聖地だから、「普通ではない」というところかもしれない。加えて、このあたりは戦争のとき激戦区だったため、人の死について多くを聞かされたからかもしれないとものどかはいう。

 

 

 

 

 

「歴史や人の思いが重なると、景色の見え方が違うんだな」

 

 

 

 

 

マサルには自然が美しく見えたが、そこにある含みを感じ取るのどかでは、そう単純にも見れない。人生の数だけ異なった解釈がある。マサルはそんなことまで理解(わか)るようになったのである。

あるいて聖地に向かいながら、マサルは本名が村田ではなく加賀勝だということを告白する。東京で悪いことして沖縄に逃げてきて、偽名で闇金をやっていたのだと。その告白の流れで、マサルは新城のことを話す。沖縄のどこにいようと、もう新城のことを心配することはない、という先ほどのはなしの意味である。新城は金城に借金をしていた。それが膨れ上がったもうどうにもならなくなったから、詰められたと。とはいってもカウカウ的なとばされかたをしたわけではなく、たんに沖縄を追放されただけのようだ。新城は先輩だったわけだけど、金城もやるときはキッチリやるんだな。

ともかく、これで新城の心配はない。マサルがじぶんの秘密について告白する流れでこのはなしをしたのが、じぶんが借金でひとを追放したりするような、そういう側の人間だったのだ、ということでもあるだろう。というか、いま気づいたんだけど、ひょっとしてのどかは、マサルが金融だったことさえ知らなかった・・・?

 

 

のどかは前を向いたまま、無表情で、なぜここまでしてくれたのかと問う。まあ結果的には、新城を追放したのはマサルではないわけだが、いろいろ奔走してくれたことはまちがいない。マサルは、のどかに惚れたからだと、率直に応える。だからのどかと航平には幸せになってほしい。じぶんは犯罪者である。いっしょにいれば迷惑がかかる。のどかはその語調にお別れをいいにきたのかと訊ねる。そうなのだ。マサルは、のどかを愛しているから、彼女と別れなければならない。新城のようにのどかを所有物として独占することもできるかもしれない。けれどもそれではのどかは幸せにはならないし、第一、「大人」になったマサルは、責任を引き受けなくてはならない。捕まる気はないから、逃亡者ではあり続けるのだろうが、とりあえずのどかにかんしては、「のどかといっしょにいたい」という気持ちを封印しなくてはならないのである。

 

 

「今日でさよならだ」と涙を浮かべながらいうマサルの前に、同じく泣いているのどかが立つ。顔の距離からしてキスしているようだが、遠くから見た描写だとよくわからないなぁ。ともあれ、マサルのことばを受けいれたのどかもさよならを口にし、ふたりは別れるのだった。

 

 

 

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

逃亡者くん全26話完結。沖縄とのどかののんびりした時間感覚のせいか、26話もやったという感じが全然しない。

逃亡者くんはマサルと丑嶋の関係に決着をつけるためにどうしても必要なエピソードだった。バキでいうと、バキ対勇次郎みたいに、絶対に描かれなければならないはなしだったのである。ただ、バキでは、父親との関係がそのまま強さへの原動力になっていたから、勇次郎との決着はそのままバキ完結を意味した。現在では刃牙道として連載が再開しているが、父親との関係の結果強さを求める少年・バキの物語は、あそこでいちど終わっているのだ。

だが、丑嶋とマサルの関係は作中かなり重要な要素ではあったものの、物語を駆動する心臓のようなものかというと、そこまではいかない。というわけでまだウシジマくんは続くぞ。10月17日発売号から連載再開ということだ。

 

 

いつものように考察全体のまとめをひとつの記事として書く予定なので、今回はあまり長くならないようにするが、逃亡者くんとはひとことでいってマサルが大人になる過程の物語だった。というのは、マサルは父親である丑嶋と正面から向き合うことから逃げてきたからである。

超自我については毎回くどいくらい書いてきたし、まとめの記事でまたくわしく書くので省くとして、父親としての丑嶋の排除に失敗したマサルは、今度はそれを取り込んで内面化し、良心として宿さなくてはならなかった。ハブや肉蝮と連絡をとり、丑嶋包囲網に加担して、結果としては加納を死なせまでしてしまったマサルは、そこから沖縄に逃げてきた。逃げたマサルは現場でなにが起こったかを知らないので、気持ちとしては丑嶋だけではなく、誰が生き残っているのかわからないあの状況における生き残りから逃げてきたのだが、それはつまり、じぶんの犯したことのもたらした結果から逃げてきた、ということである。だからこの父親との対面ということに有責性というものをつけくわえてもいいだろう。丑嶋を裏切れば、丑嶋に怒られる(ほとんどの場合殺される)。それをわかっていながら、マサルは丑嶋のリアクションを受け止める胆力がなかった。その覚悟なしで、つまり責任をとる気なしで、行動に出ていたわけである。

そして、現実的には、父親と向き合って、これを認め、良心として内面化することと、じぶんの行動について有責的になるということは、ほぼ同義とみていいだろう。

 

 

冒頭で振り返ったように、丑嶋がくりだすパンチを受けて、マサルにおける丑嶋の内面化は達成された。ここで内面化されたものはひとことでいえば良心であり、「本当に丑嶋を殺していいのか」と自問したときにあらわれていたあの感情のことだ。あのときマサルは、丑嶋を殺すべきかどうか、じぶんのなかにある度量衡に照らし合わせて考えたわけではない。じぶんの外部に、「殺すべきかどうか」という尺度を求めて、迷ったのである。これこそ良心である。内面化された「父」は、わたしたちの行動を監視し、評価し、制限する役目を果たす。もともと、父の排除に子どもじみた「強そうなやつをいっぱい集める」という方法で失敗したマサルには、すでにそれを受け入れる器が完成していた。ただ、正面から向き合うことはなかった。現実的なはなしでいえば、目の前に丑嶋がいなかったからである。というかマサルは、その準備が完了した(排除が失敗した)ことに恐慌を来たし、逃げてきたのだ。父を内面化することは、その敗北を認めることに等しい。その事実から逃げるとともに、マサルはみずからの社会化、つまり「大人」化からも逃げてきたわけである。

 

 

しかしのどかとの出会いがその緊張感を緩和する。そして、のどかを愛することで、他者の幸せを願うというところにまで到達したわけである。その対照として印象的に描かれていたのは新城の独占欲である。新城はのどかをじぶんの所有物としてしか見ておらず、だからのどかの意志などもそこにはなかった。父親を内面化する前の幼児は、母親との閉じた関係性の文脈で世界を解釈するため、より詳細な意味での他者というものを持たない。フロイト的には「乳房の不在」という経験を通して、「快/不快」の視点から、海のように連続していた世界ははじめて分節されるのだが、超自我の芽生える前の世界はまだまだ粗い世界認識である。子どもたちには、「他人のもの」とか、そもそもそれが「自分のものではない」ということを認識するのが難しい。どこの書店にいっても児童書エリアがひときわ荒れているのはそのためである。

他者とは思い通りにならないものであり、原則的に不快なものである。世界とは、そういうものに満ちたものであると、それを発見したとき、わたしたちの社会化はほんとうの意味でスタートする。のどかを所有物とみなす新城が幼く見えるのは、のどかの意志をくむことのできない想像力の欠如、というはなし以前に、マサルの覚醒との対比でいえば、そうした不快さを受け容れることができない器の小ささがそこに含まれているからなのだ。

 

 

マサルはのどかを愛し、幸せを願うが、それが所有したいという欲望にはつながらない。人間の世界認識の原初が母親との関係にあり、すべてが快で満たされた状態から、不快を発見するごとに社会化していく、そのプロセスをおもえば、マサルにのどかを独占したいという欲望が皆無だったとはいえないかもしれない。いずれにせよそれは意識できない深い層まで抑圧されている。もちろん、愛するがゆえである。のどかにとっての幸せとは、のどかの判定することであって、じぶんの快/不快の原則とは表面的には無関係のことだ。あえて快/不快の文脈でいえば、マサルは「のどかを幸せにする」という快のために、「のどかと別れる」という不快を選ばなくてはならないのである。

いずれにせよマサルは、そういう選択肢、そういう生きる仕方があることを悟った。これが、有責性から逃げ続けてきたマサルの足を止めさせた。マサルはのどかを愛し、幸せを祈る。が、それを貫くためには、みずから不快を選択しなければならない。なぜそうなるかというと、じぶんが過去に犯した過ちが、彼を追いかけてくるからである。ここで不快を選ばなければならないのは、ほかならぬじぶんの責任なのである。

 

 

こうしてマサルのなかでの社会化の準備はすべて完了した。過去の過ちの責任を引き受けることは、そのままのどかの幸せを願うそのふるまいを正当化することにつながる。のどかのためにマサルは大人にならなくてはならない。そこにあらわれたのが丑嶋であった。事実は、マサルの葛藤はかなり前後しているが、全体的にそうとらえてもいいだろう。丑嶋はマサルを無言で殴りつける。それを受け、マサルは大人になった。丑嶋は殴ることの意味を説明しない。具体的には、そして身体的には、行動には責任がともなうということを、「お仕置き」のかたちで示したことになるだろう。だが説明はしない。いわなくてもわかるはずだと、丑嶋がマサルにおける「準備完了」を見て取ったからである。だからこのときの丑嶋の行動は、急にラジオ体操をはじめるとか、もっとなぞめいたものでもよかったのである(原理的には)。超自我を宿し、社会化の準備が完了したマサルなら、以前までのように丑嶋の考えていることがさっぱりわからないということもなく、トレースできるはずである。逆にいえば、大人がそのように信頼することで、子どもは大人になることができるのだ。依然としてマサルは逃亡者のようだが、少なくとも逃亡者くんとして沖縄に逃げてきていたマサルはこれでいなくなった。

聖地があまり好きではないというのどかの言を受けて、マサルはひとによって見えるものがちがうという、以前まででは考えられなかった発言をする。これは、「大人」になって、乱立する他者という状況に寛容になれたということに加えて、金にすべての価値観を預けるある意味狭量な丑嶋的ありようから離脱したことも示すかもしれない。丑嶋の超人性は、万物を金に読み換えるという、その界隈ではたしかにもっとも有効である方法に担保されていた。マサルもそれを受け継いでいたはずである。が、むろんそうではにひともいる。これも、マサルの大人化がしっかり果たされたことを示しているかもしれない。

 

 

今回ののどかが口にした「変わらないものなんてない」というものは、少し不思議なセリフだ。というのは、その直前まで、のどかは彼女じしんのふるまいでもって、沖縄の「変わらないもの」を呈示していたからである。しかし、げんにああして、思い出深い市場は失われてしまった。だから、いまのように当たり前にある沖縄の風習も、いつかはなくなってしまうかもしれない。御嶽は、いってみれば人工的に囲いをつくることで喪失が回避された聖地である。

なぜ失われるのか?これは当初からあった「東京に侵食されつつある沖縄」という図式に対応しているだろう。土地固有のものが失われるというのは、国レベルで見れば要するに標準化されるということである。言葉をはじめとして、生活に差し障りのない程度に、侵食はつねに続いている。アパートの隣に住むひとの顔すら知らない、金属的な東京流、「互いに信じあわないこと」のみがルールとして通用しているこれと対応するのが、のどかの象徴する沖縄であった。沖縄には相互扶助のモラルである「ゆいまーる」という“奇習”がいまでも根付いており、沖縄の人々の心性の基本になっている。弱いもの(航平)を守るために身を粉にする沖縄(のどか)は、強者としてエゴを行使する東京(新城)に勝つことはできない。そもそも勝つとか負けるとかいう評価基準じたいが東京の持ち込んだものなのだ。ゆいまーるは、そこに生きる住人全員が実行しなければ効力を失う。ズルをすればいくらでも奪うことのできるシステムなのだから、ゆいまーるの敗北は決定事項なのである。

「変わらないものなんてない」というのは、のどかを経由して語られた真理というよりは、そうしたほとんど必然の敗北を受けての、のどかのさびしさのあらわれだろう。のどかじしん、マサルのおかげもあって、新城から逃れて、平和な過程を守ることはできたが、そもそもこうしたごたごたは新城がいなければなかったことなのである。沖縄はたしかに世界の東京化に抗う最後の土地であり、それを持続しようという気持ちも強く、だからこそ、板橋からマサルまで、東京に疲れたものは沖縄を目指すのである。

 

 

だが、聖地は別である。沖縄でも特殊な場所としてとらえられる御嶽は、ひょっとしたら遠い未来には、大部分なくなっているかもしれないが、「いじってはいけないもの」というレベルで守られているぶん、沖縄の文化を芯みたいな土地であり、人工的に囲われて守られていくだろう。ふたりがそこでキス(抱擁?)をするというのは、なんとも象徴的である。ふたりは愛し合っていたわけではない。のどかもマサルのことを憎からずおもっていたとはおもうが、愛華が高田を好きだったように、狂わんばかりに好きだったかというと、そういうことはない。もともとどんなひととも距離が近く、等しくつきあうというのどかのゆるい気質もある。だがマサルの愛はほんものである。なにしろ愛のために、愛するひとの近くにいることを拒むくらいだから。それがわかるから、のどかも涙を流し、マサルの感情を受け止める。これが聖地で行われたのは、それが「変わらないもの」だからである。といってもくりかえすように、「ふたりの愛は変わらない」というようなことではなく、「愛」という感情が、東京の侵食だとか、経年変化だとか、そういう影響を受けない、不変の感情だということである。ロマンチックに受け止めなくても、それはたしかにそうかもしれない。だってマサルは、快か不快かに二分される「社会」を受け容れた結果、そのどちらでもある選択しているのだ。エロスもタナトスもそこにはない。だからむろん、欲望で駆動する東京流も、これだけは侵食することができない。

 

 

うっかり書きすぎてしまった。前半部分のこととか細かいことはまた別の記事にして書きます。真鍋先生お疲れさまでした。新章も楽しみにしています!

 

 

 

 

 

 

 

 

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第126話/守護(しゅご)

 

 

 

 

 

 

 

 

刃牙シリーズ25周年記念号ということで、今週のチャンピオンが企画が盛りだくさんだ。秋田書店系に限らない、他誌の作家からも祝福のコメントや絵が寄せられているのはいつものことだが、それでもやはりバキという漫画の影響力を感じずにはいられない。作家は、自分のキャラや世界観をからませつつ、バキの絵を描くが、そのチョイスで好きなキャラクターがわかるのもおもしろい。

今回なによりすごいのは、「嘘喰い」の迫稔雄と「テラフォーマーズ」の貴家悠/橘賢一のバキコラボ漫画が掲載されていることだ。どちらも、バキの強い影響が感じられる作品で、画力も高く、先週から期待していた。テラフォーマーズのほうはさらっとした感じではあるが、やはり強い愛が感じられたし、迫先生の描き込みはもうイベントのおまけ漫画とはおもえぬ仕上がりである。賭郎の夜行さんらしき人物もちょっと登場しているぞ。この続き読みたいんですけど・・・。嘘喰いとバキ両方読んでいるというひとは絶対読んだほうがいいです。

記念号とかかんけいなくときどきやってることではあるが、浦安鉄筋家族もバキネタで、はじめて武蔵のパロディキャラが登場している。それから、付録のポスターは、例の14巻限定版につくDVD作品のアニメビジュアルだ。やはり、以前発表された「アニメ化」というのは、このDVDのことを指しているみたい。楽しみだ。

 

 

 

さて、本編では、武蔵が先制をとって武蔵の片目をつぶし、投げ飛ばしたところだ。たいしたことではないが、今回のタイトルの「守護り」は、読みが「まもり」ではなく「しゅごり」となっている。界隈では「守護る」を、作品内で読み上げられている「まもる」ではなく「しゅごる」と読む向きがあり、そうした空気を受けて、何週か前の煽りでも「守護(しゅご)れ!!」というふうにルビがふられていた。板垣先生が漢字をふつうの読み方で読ませないのはいつものことであるが、今回こういう流れになったのは、本部のいう「守護」が、わたしたちがくちにするときの「守護」とあまりに異なっているせいだろう。これまでの本部の無活躍を知っているものほど、本部の発言には懐疑的にならざるを得ないぶぶんが、少なくとも数ヶ月前まであったことを認めないわけにはいかないし、場合によっては本部のいう「守護る」を嘲りをこめて「しゅごる」と読むこともあったかもしれない。で、じっさい本部の属している文脈というのはわたしたちの知っているなにかで解釈のできるものではないということは前回考察したことだし、彼のいう「守護」も、ふつうの意味ではないわけである。これはまちがった読みではない。守る守るといいつつ、それは「守る」とはどこかちがう、やはり「守護る」なのである。

 

 

おそらくダメージ回復のねらいもあって、すわりなおした武蔵が本部を「歓迎する」という。先週の本部はいきなりたばこに火をつけていたが、今回はちゃんと缶から出して吸っている。続けて、入場時に霧にして吹いていた酒瓶をつかんで武蔵に歩み寄り、あぐらをかく。いかにもバキ的な展開で、読者的にはむしろ違和感はない。こういう展開はありそうと予想していたひともいるはずだ。本部が缶を差し出し、タバコをすすめるのである。

だが、どこか様子がおかしい。渋川剛気などはそれを感じ取っているようである。一本タバコを抜いた武蔵は、それを観察し、長いこと嗅いでいる。そのときの武蔵の顔がヤバイ。左目はいまどうなっているのだろう。見たところ涙はもうとまっているので、ひょっとしてもう粉で見えなくなったぶんは回復しちゃったのかな。でもまだ完全に機能が回復したわけではない、というところかもしれない。散眼みたいに左右の目がへんなほうを向いており、非常に不気味である。

続けて武蔵は酒にも鼻を寄せる。そして、本部がしかけた罠をあっさり見抜く。タバコは、本部が吸っているもの以外は吸えない。匂いからするとおそらく河豚の毒が混ざっている。酒瓶にも塗ってある。「毒を盛った」のである。格闘技の試合とは馴染みにくい、アンフェアで、スポーツ的ではないという意味で卑劣な方法だ。渋川剛気や独歩なんかは、そういう方法がありうることはわかるが、ほんとうにやるとは、という感じかもしれないが、ほかのものはほとんど引いている。毒をもちこんだ本部の実戦性もさることながら、毒の種類までにおいで言い当てる武蔵の奥深さも底知れぬものがある。ガイアはこのひとたちの極端な実戦性に触れることでじぶんの未熟さをつきつけられ、日に日に若返っちゃってるな。もうなんか9歳くらいの見た目になっちゃってるよ。

 

 

本部の作戦は失敗したわけだが、しかし本部は特に落胆したり驚いたりせず、むしろ「堪らん」と喜んでいる。発表する場があるわけでも、とっさに使用すべき緊急の場面が現代ではあるわけでもない、本部が培ってきた技術が、あっさりと受け止められる。武蔵がすぐ指摘するように、それはいま見破られた。しかし本部はそれを否定し、じぶんの経歴(かこ)が日の目を見ているという。たたかいが本格化する前の一服に毒を仕込むのが別に異様なことではなく、しかもそれをあっさり見破るような人物は、かつて本部の前にはあらわれなかったのである。どんな仕事にも技術というものはあるが、たとえばダンサーが、前代未聞の複雑なステップを振り付けのなかに忍ばせていたとしても、それが複雑であると、実現の難しいものであると見て取ることのできるものがあらわれなければ、それは日の目を見ることはない。もちろん、それじたいがなんらかの効力を発揮して、素人目にもわかるダイナミズムとか表現力を生んだりするということはあるかもしれないが、それがどういう構造になっているかというのが誰にもわかってもらえないというのは、作り手にとってはそれなりに悲しいことのわけである。毒について、バキなんか「ありか・・・?」とかいっちゃってる。まあバキは観戦してるときとたたかってるときで人格がちがうからあまり参考にはならないかもしれないが、要は、ふつうの相手では、毒を見破るどころか、そんな戦略があるという発想すらないのだ。本部のやっていることの価値をそのままに理解することのできるはじめてのものが、宮本武蔵なのである。

 

 

また会話の流れのまま、本部がタバコを激しく噴き出して攻撃する。どうも右目をねらったようだ。しかし、蝿の羽を箸でつまみ、スペツナズナイフをしゃべりながらキャッチしてしまう武蔵である。彼はあっさりこれを指でつまみ、うまそうに吸う。結果としては攻撃ではなく、唯一吸うことのできたタバコを本部がパスしたかたちになったわけだ。

武蔵も本部と同様の実戦家である。この煙を、立ち合い再開の狼煙としよう、などと詩人っぽいことをいう流れのまま、タバコを指で弾いて本部の顔にとばす。そこからの描写は微妙である。タバコは本部の眉間のあたりにあたるが、この時点ですでに本部は動いているようだ。武蔵は脇に寝かせてあった刀をとり、抜刀の体勢になるが、そのときには本部の振る酒瓶がすでに武蔵の顔のすぐ前まできている。本部がくりかえし行っている、会話の流れからの不意打ちのような攻撃を、武蔵も行った。だが、たぶんこれは、それを本部が予測していて、それよりも先に動いていたということなのだろう。

酒瓶をもった右手がふりぬかれる。久々に強烈なダメージが感じられるバキらしい絵だな。顎がすっとぶような衝撃とともに、割れた瓶が武蔵の頬を裂いたような状態になっている。本部の手には鋭利な酒瓶の口が残っているが、それをかまえなおしてつきたてるにはポジションが悪いかもしれない。なにしろ本部は抜刀されつつある刀のまん前にいるのだ。

だから、というわけでもないだろうが、本部は今度は逆に体を回転させ、左手に握っていたピース缶をそのまま武蔵の顔面にめりこませる。『リディック』という映画では、ダークヒーローのリディックが、金属のカップで相手を殺すと宣言してから、それを胸にめりこませ、じっさいに殺すという場面があった。使おうとおもえばどんなものでも武器になりうるのである。

 

 

刀を半分くらい抜いたままの状態でダメージを受けた武蔵がうしろのぶっ倒れる。本部は間髪入れず、どこかから取り出した例の煙玉的なものを取り出し、連続で投げつけるのだった。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

予想以上に本部がかっこよくて何回も読んじゃうよ。横綱、見てるかな・・・。

 

 

毒を仕込んでいた、というのはなかなか強烈である。武蔵によれば、毒は瓶にも塗りこまれていたそうだが、だとすると、入場時に行った霧吹きのパフォーマンスはどういうことになるだろう。口に酒を含み、吹いているわけだから、飲んではいない。唇に少量つくくらいなら問題のない程度の毒なのだろうか。もし本当に瓶にも毒が塗られているのなら、げんに本部は具合悪くなったりしてないので、そういうことになる。だいたい、あの瓶はどこに置いてあったのだろう。霧吹きは通路でやっていたような気がするし、あのとき瓶を地面に置いていたような記憶があるので、柵の向こう側にあったはずである。瓶がふたつあるような描写もない。

ちょっとググッてみると、河豚の毒というのはだいたいテトロドトキシンというものを指すそうで、2,3mgくらいで致死量だそうである。ただ、青酸カリみたいに即死するような毒ではないそうで(ジョッキに入れてがぶ飲みしたら別だろうけど)、河豚を食べてあたった場合には、20分から3時間で中毒症状があらわれてくるというはなしである。

こういうことを踏まえると、なにかちょっと奇妙な気もする。もし武蔵があのタバコを吸っていたとしても、しばらくは症状が出ないのではないかと考えられるからである。経験豊かな武蔵なら、本部のふるまいから毒の罠があることを見抜くかもしれないが、もしそれが武蔵の知らない化学的な毒であったなら、そもそもタバコというものもキセルとはちがうという点で異なっているわけだし、もっと成功する確率も高くなるかもしれないのだし、しかもそれは成功したならすぐさま武蔵の息の根を絶てるようなものであったかもしれないのだ。

まあ、いまちょっとググッてみただけの推測なので、そんなことはないのかもしれないが、とりあえずその線ではなしをすすめると、タバコはともかく、酒を飲んでもおそらく即死はしない。だいたい、武蔵はこの状況で酒を飲むだろうか。以上のようなことからして、どうも本部は、この毒で武蔵を殺すつもりはとりあえずなかったのではないかとおもわれる。たしかに攻撃のひとつではあった。うまくタバコを吸ってくれれば、動いているぶんはやく、しばらくしてマヒとか痙攣とか、そういう症状が出てくれるかもしれない。それはそれでよい。だがそれ以上に、本部には確かめたい気持ちがあったのかもしれない。瓶が二本あるのでない限り、本部もこの酒を口に含んでいる。飲んではいないといっても、微量は唇につく。そうすれば、ちょっとくらいは本部も中毒症状を起こすかもしれないし、それとも本部は河豚の毒くらいは克服しているのかもしれない。ともかく、あの霧吹きのパフォーマンスには、肉体への祝福そのままの意味と、それが祝福用の酒であることをアピールすることのふたつの意味があったのではないかと考えられる。で、バキの文脈的にはごく自然に接近し、タバコと酒をすすめる。しかしそこで、武蔵が知らないかもしれない近代的な毒を用いたりはしない。そもそも化学薬品とかだと匂いが浮いてしまってばれやすいとか、実用的な意味もあっただろう。葉っぱや液体に混ぜるのだから、自然の毒のほうが馴染みやすく、ばれにくいという鉄則なんかもあるのかもしれない。ともかく本部は、武蔵にも通じる「昔ながらの」技術を、ここでは用いたのである。本部からすれば、葉っぱに毒をしみこませたり、ばれないように瓶に塗ったりするのも、古くから伝わる方法で、同時に、それが正しい方法なのかを調べる術はなかったわけである。文献なのか口伝なのか知らないが、いろいろ試行錯誤してはいるけれど、本当にこれであっているのかと疑問におもうこともあり、そしてそれを確認する方法はこれまでなかったのだ。古生物学者が骨だけから恐竜の姿を思い浮かべるようなものである。ライバルの学者といろいろ議論をたたかわせることのできる古生物学者のほうがまだましかもしれない。本部にはそういう仲間さえいないのだ。

 

 

そう考えると、そのあとの「日の目を見ています」というのもさらに納得できる。武蔵は、本部が教科書的に実践した毒盛を、きちんと見抜いてくれた。つまり、そのやりかたはまちがっていないということが、見抜かれることによって証明されたのである。

そして同時に、これは本部から武蔵へのメッセージでもある。じぶんはあなたと同じ文脈で、同じ方法でたたかいをするものであるというメッセージである。前回本部が繰り出した対術はどれも合戦の現場に存在した技術であった。ただそれらは、現代のファイターたちも使用している技術だ。これはむしろ、武蔵の側の、把握している範囲を示すものであった。しかし今回の毒は、バキのリアクションを参考にすれば、現代の格闘には存在しない、想像はできても誰も実践しない技術なのである。それを、武蔵は知っている。これは、今度は、本部のカバーしているものが、武蔵の時代にまで及ぶものだということを示すものである。両者の認識のいくつかの合致は、帰納的に相手について推測させるのである。この者はじぶんと同じ文脈でたたかうもの、たたかえるものだと。今回のタバコまでのやりとりは、互いの把持しているものの確認作業みたいなものととらえてよいだろう。

そして、唯一吸うことのできるタバコが本部から武蔵にわたることで、たたかいは本格的に開始された。あのタバコを最後に、ピース缶のなかから吸うことのできるタバコはなくなったのである。これは、前回の考察でいえば、管理者を設けることのできない合戦的状況に入る合図なのである。タバコは、文明的嗜好品であり、武蔵の知らない新しいものであり、ひとをリラックスさせるものだ。それが、この一本を最後に、すべてが毒に汚染された、武器になりうるものになってしまう。ふたりが同じタバコを吸い、それが両方の手によって武器となることでたたかいが再開されるのは、あの喫煙が両者の、そのことについての了解を示しているからなのだ。

 

 

両者は、互いに規定しあって、価値を明瞭にさせている存在だ。武蔵があらわれるまで、本部の培っているものの意味をほんとうに理解するものはいなかった。達人や独歩などはそこに歩み寄ることはできたかもしれないが、そもそも素手にこだわったりとか、護身が基本であるとか、思想が異なるので、交差することはなかったはずである。最初に書いたように、本部の「守護る」は、じっさいのところ「まもる」というよりは、この世界に存在しないふるまいであるという点で、「しゅごる」なのである。そしてそれは、武蔵が登場することではじめて出てきた本部の衝動でもある。いつかも書いたことだが、ふつうわたしたちは「なにか」から特定の誰かを守るのであって、特定の誰かから「なにか」を守るのではない。警察は危険な「なにか」から市民を守り、彼氏は危険な「なにか」から彼女を守る。すっかり忘れていたピクルのことを新聞で思い出し、そういえばあいつも守らなきゃ、みたいなことをいっていたのが印象的である。そんな「守護り」かたは、わたしたちの知っている世界にはない。

そしてその「守護」というのは、武蔵があらわれてきたことで成立するふるまいなのである。じぶんは武蔵に対応できる唯一の人間である。身の回りにいる親しいものたちはみんな拳でかたるものたちであり、そうなれば死に至る可能性もある。本部がちからを発揮し、武蔵に対応すれば、これは防ぐことができる。そう考えると、本部において「守護」は、目的ではなく、対応することによってそうなるという結果だったのである。武蔵に対応し、じぶんの技術を確かめたい、そういう衝動の結果訪れるはずのものが「守護」なのである。もちろん本部にはじっさいに友人たちを守りたいという気持ちはあっただろうが、ピクルのことを「思い出す」という描写が示しているように、じつはこの守る対象というのはけっこう漠然としていたわけだ。たぶん、あまりいい戦績のないことへの卑屈さとか、あるいは卑屈はいいすぎにしても周囲は信じてくれないだろうという予測とかが働いて、無意識に「守護」が前景化され、技術をたしかめたいという個人的欲望が後退していったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『ポエムに万歳!』小田嶋隆 新潮文庫

 

 

 

 

 

 

「書き手の「何か」が過剰に溢れた言葉。意図的に「何か」を隠すため、論理を捨てて抒情に流れた文章。そこに「ポエム」は現われる。感情過多で演出過剰な、鳥肌モノの自分語りは、もはや私生活ストリップだ。Jポップの歌詞や広告のコピーならまだ許せる。だが、いまやこの国では、ニュースや政治の言葉までもが「ポエム化」している! 名物コラムニストが不透明な時代を考察する」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

名コラムニスト、小田嶋隆による時事的考察集。「新潮45」と、「ビジスタニュース」というメルマガに連載していたコラムを合わせ、読みやすいよう順序を変えて再編成したもの。

 

考察のあざやかさとか、比喩のたくみさとか、いかにもコラム的な皮肉っぽいスタンスとか、学者でも作家でも、素人でも芸能人でもない、コラムという特殊な書き物の書き手として、ものすごいひとだとおもうのだけど、その作物のコラム的性質のせいで、嫌われることも多い。「歯に衣着せぬ」という表現はふつうそれが評価の文脈にあるときにつかわれることばで、おもっていることをそのままくちにするとか、そういうことだとおもうのだけど、このひとのばあいは評価ではなく、そもそも、その対象となるものじたいが、多くのひとがあまり考えたくない事柄だったりするのである。

おもえばコラムニストというのは特殊な職業である。小田嶋隆が書いているような考察全般を「コラム」と呼ぶとして、作家とか学者が、特に論証もなく、手遊びとしてコラムを書くことはある。それなりに影響力のある発言だとしても、学者にとっての論文、作家にとっての小説ではないぶん、それは派生的なものなのであって、なんらかの意見を述べるにあたって多少の独断が含まれていても、そう叩かれることはない。なにしろ手遊びだから。コラムニストというものは、それを本業にしてしまっているのである。ツイッターなどでも小田嶋隆は同じような調子だから、まあよく炎上している。で、そのディスリプをのぞいてみると、「コラムニスト風情が・・・」とか、要するに「誰なんだよお前は」みたいなものが多いのである。いってみれば、こう、テレビでニュースを見ながら、それについて感想をもつのは誰でも等しいのだが、コラムニストはそこにそれなりの考察とおもしろさを加えて、かたちにする職業なわけである。だから、叩かれるのも、そして嫌われるのも、ある意味しかたのないことなのかもしれない。コラムニストは、芸能人が麻薬に手を出して、「バカじゃん」とおもったその理路を説明して、それなりにスリリングに、笑いも含めた、一個の作品に仕上げるわけだが、つきつめればそれはただの個人的感想であり、「麻薬に手を出す芸能人がどれだけバカか」を統計学とか精神分析とかの見地から何年もかけて研究を重ねた論文でも、小説家が文学的信念に基づいてそこから社会的無意識を抽出しようとファンタジーに読み換えた作品でもないのだ。そしてさらにいえば、そうした研究を重ねている学者や作家のくちをふとついて出たような感想ですらない。「コラムニスト風情が・・・」というディスリスペクトは、要はそうした権威的裏づけのない発言を批判したものなのである。

 

 

ただ、これは逆に、だからこそ、洗練されたコラムニスト的文体が必要な事態であるということも示しているとおもわれる。権威的裏づけのない「個人の感想」が、匿名の無責任性に担保されることなく、実名のまま、有責的に発言されることは、ネット時代に入ってから難しくなってしまった。権威的裏づけがあってさえそれは困難なのである。本が見つからないのでじぶんの過去記事を参照するが、コラムについて語った「小田嶋隆のコラム道」では、コラムをコラムたらしめているものはコラム的状況だということである。それは、たとえば紙数であり、雑誌や新聞の抱えている思想であり、となりあっている文章である。そういうなかで、コラムは、誌面とはある意味無関係の文脈で、浮き上がるようにして読まれる。雑誌の方向性とはかかわりなく、合致することもあれば、正反対のことをいっていることもある、トリックスター的な価値を、コラムはもっているのである。どうしてそうした媒体がコラムのような危ういものをいつまでも抱えているのかというと、僕にはそれは知的良心のようにおもえる。書き手を変えながら、全文章がひとつの方向性、ひとつの思想に偏っている雑誌というのは、じっさい存在する。けれども、それは知的に建設的とは言い難い。知性は、反論を受ける準備を常に欠かさないことで賦活する。そうでなければ、その書き手は、じぶんの思考がつねに完璧であり、どんな場合でも誤りはありえないととらえていることになり、つまりなにも学ばないのである。知性というものは、現時点で抱えている量のことではなく、誤りや見落としを勘定にいれて、とりあえずいまはそうとしかおもえないと納得できる仮説を提示しようとする傾向のことである。人気・不人気にかかわらず、なにを言い出すかわからないコラムを宿す媒体というのは、その点では知的であるとおもわれるのだ。

ともあれ、コラムは、個人の独断にある程度までたよることで、むしろその価値を増すことになる。僕にはそうおもわれる。

 

 

偶然なのか、それとも時事的なはなしばかりを集めた必然なのか、本書では「昭和」のはなしが頻出している。要は、「昔と比べていまは・・・」的なはなしが非常に多いのである。この手のはなしは、前置きとして小田嶋隆が何度も書いているように、あまり建設的なものにはなりにくい。たとえば、むかしに比べていまの若者は覇気がないとかいわれても、むかしといまでは状況がちがうのだから比べようがないし、若者からすればおじさんたちの生き方もたいがいだし、だいたい覇気とはなんだということになってしまう。これらはたいてい、自信を喪失したものが他責的にものを語ることでプライドを維持しようとした結果で、ほとんどの場合読む価値がない。そして、現代の興味深いところは、そうした「昔はよかった」的言説があふれているいっぽうで、ほぼ同じくらいの量と速度で、「そうした発言には意味がない」という沈黙の言説も増していっているのである。わかりやすい例では世代論がある。団塊世代やゆとり世代など、世代でひっくるめて問題視する向きはいまでもふつうにあるが、それと同時に、「そんなことをいっても意味がない」と沈黙を決め込む向きも、同じくらいある。ゆとり世代にも才能あふれる若者はたくさんいるし、多少ゆとり世代的傾向が彼らにあったのだとしても、世代というのはただの環境がもたらす結果でしかないのだから、そんなことをいちいち賢しらにいってみたところで意味はない。だいたい、世代論は陰謀論にもつながる単純すぎる解法で、ある出来事の原因をそこに収斂させてしまうことで、その夜はぐっすり眠れるかもしれないが、そこで起こっていることは話者の思考停止でしかない。それはある性犯罪者が深夜アニメのファンだからといってアニメ全般に敵意を向けるようなものであり、解釈のしかたとしては単純すぎるのではないかと、こころあるひとほど考えるのである。本書で話題になるのはこのうち団塊の世代だが、しかしどうだろう、理論的にはそうであっても、わたしたちはほんとうに、世代でくくることにはなんの意味もないと、感じているだろうか。僕は接客業だから、こういうはなしはじぶんでしていてかなり耳が痛い。理性は、世代でくくることを禁止しているし、馬鹿げたことだと考えている。しかし身体としての「わたし」は、ほんとうにそうだろうか、それでいいのだろうかと、つねに疑問を抱えているのである。もちろん、ブログを書いている「わたし」は、理性が駆動しているので、いってみれば猫をかぶっている。しかし生身の「わたし」はそんなに分別のある人間ではない。ときには「あの世代はほんとに・・・」となることもあるのである。どちらも本当の「わたし」にはちがいない。しかしネットを介して理性で動かされる「わたし」は、いつでも沈黙しているのである。

 

 

小田嶋隆は、多くのひとが理性をもって沈黙している事柄をすすんで話題にする。もちろん、ただ身体の電気的感想だけを垂れ流しにしているのでは、これほど高度な考察にはならない。そこにはコラム的洗練が不可欠なのだ。けれども、行われることとしては、そういうふうにいってよいとおもう。なにしろコラムのコラムたる原因は、周囲から浮かび上がり、独自の小宇宙を形成することなのだ。それは、「昔はよかった」的素朴さと、「そんなことはいっても意味がない」というものわかりのよさの両方を踏まえたうえで出てくる、「個人の感想」なのである。こういうものがひとつの作品として自律するのはふつうのひとにはできることではない。とりわけ現代はネット社会で、些細なことでウェブサイトはすぐに炎上し、私生活まで崩壊することになりかねない時代である。理性あるひとほど「個人の感想」をくちにすることをおそれる。コラムニストはこうした「個人の感想」を“技術的に”公開する、しんどい商売なのである。

そして、誌面におけるコラムの価値がトリックスターであるのと同様、こうした「個人の感想」がそれなりの洗練さに支えられてくちにされることは、こちらの知性も活性化させる。いま「トリックスター」という言葉の使い方がまちがっていないか確認しようと広辞苑をひいたら、こういうふうに説明があった。

 

 

 

「①詐欺師。ぺてん師。

②神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担うような存在」

 

 

 

 

 

これはまさにコラムニストのことではないだろうか。くりかえすように、コラム的な文章を学者や作家が書くことはある。それは手遊びでありながら、権威的なものに裏付けられた信頼性の高いものだ。では、手遊びがそれだけで存在することは許されないのだろうか? コラムの要諦は、むしろそこにある。もちろん、なにかを書くにあたって、辞書を引いたり、ものの本にあたったり、ググったりということはあるだろうが、基本的にそのために参考文献を読み漁ったり実験をくりかえしたりということはしない。そうすると、コラムの手遊び感は損なわれる。いまこの瞬間、リアルタイムで浮かんできた感想を、説得的な考察と文体で公開してみせる、それがコラムなのである。だから、コラムに権威的裏づけがないことを言い立ててみてもしかたがないのである。コラムニストは、「裏づけがなければ黙ったほうがいい」とされる時代をかき乱し、活性化させるような存在なのだから。

 

 

 

 

しかしまあ、こういうタイプの言説が嫌いだというひとがいても別に不思議ではないわけで、とりあえず読んでみようかなというひとは2、3ページ立ち読みしてみればいいとおもう。おもしろさはそれでじゅうぶん伝わるとおもうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第125話/歓迎

 

 

 

 

 

 

 

ふつうではない武蔵の斬りたい衝動に逃げ出したピクルを抱き止めたのはわれらが本部以蔵である。ピクルがほとんど幼児のようなものであるぶん、武蔵の悪役っぷりは相対的に増すことになった。そこに推参した本部以蔵はまるっきり正義の味方である・・・。少なくとも僕の個人的評価のうちでは、本部を応援する気持ちはかなり強くなってる。こうした感想には影響ないとおもうけど・・・。

本部のことは武蔵も知っている。勇次郎とのたたかいを邪魔されたとき、ほんの一瞬の接触ではあったが、そのことで彼を評価しているのだ。ただ、今日は「ピクルの日」、こうして闘技場を用意して、観客にも連絡してやっている以上、ルールはなくても形式としては試合のものなわけだし(げんにピクルはこの日に向けて「調整」してきたようなものだし、武蔵にもそんなところはあったかもしれない)、なにも今日じゃなくていいのではないか、というのが光成の言い分である。しかし、これをみていた渋川剛気をはじめとした手練れのものたちは、本部の登場を拍手でむかえる。なにかを期待しているのか、こんな卑怯なタイミングを正確にねらってくる本部をたたえたものか、ともかくみんなはそれを認めているのだ。

 

 

その拍手に本部が礼をして応えているが、光成はまだこれを認めない。みんながよくても、肝心の相手がどうおもっているかはわからない。武蔵が断るとはおもえないが、光成的には武蔵はゲストであり、気持ち的にはマネージャーみたいなものかもしれない。それか舎弟とかかな。決定するのは武蔵だと、そのことに念をおす。それもそうかもしれない。仮にこれが路上で発生したことだとしても、今日はやりたくないからと相手が逃走してしまえば、たたかいは成り立たない。闘技場でやる以上、光成としてはしっかりした試合として成立させたいだろう。ひょっとしたら気分的にのらないとか、そういうこともあるかもしれないうえで、突発的なたたかいをすんなり認めるわけにはいかないのだ。

 

 

本部が光成の横をぬけて武蔵の前に立ち、かなり近くで顔をのぞきこむ。決めるのは武蔵じゃないと、本部はいう。やらないなら、背後から刺すと。厳密には決める決めないのはなしは光成が持ち出したことで、武蔵はひとことも発声していないのだが、ともかく、本部は武蔵には選択権がないことを告げる。相手にきちんと全力を出させたうえで勝ちたいとか、そういうフェアプレイ精神は本部にはない。たたかいから逃げるなら、不意をついて殺すだけだと。逆にいえば、ここできちんと試合を成立させることは、武蔵の命を救うことにもなるわけである。

 

 

おそらく会話のそのままの流れで、本部がポケットにつっこんでいた手を抜き、武蔵の顔面になにか粉の入った袋を叩きつける。はなしながら通常の攻撃に不意打ちでうつるとしても、まさかこんな至近距離でものを投げつけてくるとはおもいもしない、ということだろうか。ガイアはこの試合運びを「上手い」という。じっさい、動きとしては抜拳術に近く、よけるのはかなり困難であり、しかもそこからあらわれたものといえば拳ではなくなんか軽そうな物体だったわけである。基本的に現代にきてからの武蔵は好奇心で動いているので、不意打ちをくらいがちだが、それにしてもこれは失敗だったかもしれない。右目をふさぐのはぎりぎり間に合った。しかし左目にはこれを受けてしまう。

間髪入れず本部は武蔵の足のあいだに腕を通して帯の腰のぶぶんをつかみ、顔面に体重をのせて回転させ、地面に叩きつける。そこで武蔵の金的をつかんでパンしたら勝ちだったのでは・・・ともおもうが、勇次郎戦でのトラウマがあるから、金的への攻撃にはほかよりずっと敏感かもしれず、おとなしく技をかけて正解だったかもしれない。よく見えないが、受身はとれている?

 

 

観客のほとんどはこれを奇襲の成功ととらえている。すかさず本部は、倒れた武蔵の左足をとって、アキレス腱固めの体勢になる。そこからの描写はよくわからない。本部が後方に倒れるとともに、武蔵が飛んでいくのである。武蔵はされるがまま、驚きを含む表情でまっすぐ飛び、手で地面を弾いて大きなダメージを回避している感じだ。ふつうに見ると本部が投げているようだが、どうだろう、アキレス腱固めの体勢からひとを投げることは可能だろうか。アキレス腱がどうなったのかはよくわからないのだが、少なくとも投げるためには、上体が持ち上がらなくてはならず、膝が曲がるぶん、ふつうのきめかたではそうならないようにおもえる。よく見ると本部はアキレス腱といいつつも、けっこう深く、膝近くのあたりをとらえているようで、こう、太ももの裏あたりを前腕で押すようにしつつ、じぶんの上体を水平から90度以上そらせば、まあ、武蔵のからだが浮かないこともないかもしれない。しかし、こんなに飛んでいくためには、相当なパワーとかスピードが必要じゃないかな・・・。あるいは、そう見えないけど、アキレス腱へのダメージを軽減するために、武蔵が若干地面を蹴っているとか、そんなことかもしれないが。

 

 

横になった武蔵が右目をあけて、無事を確認する。左目は涙にまみれてほぼ見えないようだ。しかしつぶれて失明してしまったわけではないので、涙で粉がぜんぶ出たら、左目も見えるようになるだろう。つまり、奇襲の目潰しでつかんだ本部の優位は一時的なものであり、本部はなるべく早めに行動に出たほうがいいということだ。

 

 

武蔵の意志とは関係なく(実際は喜んでいそうだが)現代に復活させられ、会うひと全員が必殺の攻撃を仕掛けてくる武蔵は、なんだかちょっとかわいそうな気もするが、それをひどいことだと愚痴ったり、あるいは病んだりということもなく、いまも淡々としている。彼の時代では、そんなのは別にふつうのことだったのかもしれない。それは街に出るときはもちろん、家の中でもつねに緊張していなければならない生活になるだろうし、緊張をほどくためには、自然体で闘争ができる達人にならなければならない。スマホとかがない時代でほんとによかったな。

ダメージ回復の時間稼ぎということもあるだろう。本部は膝をついて正座になりつつ、はなしをはじめる。近間からの目潰し、逆落とし、足挫き、どれも武蔵の時代の、合戦の現場でつかわれていたものだという。武蔵の知っている「当時の」技術なのである。武蔵は本部を歓迎するという。そして本部は闘技場で煙草に火をつけ、また光成に戸惑わせるのだった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

アポなしで闘技場にやってきて参戦、説得する光成の横をすりぬけて奇襲、そしてタバコと、光成が小姑に見えるような感じの描写が続いているが、これは本部の実戦性を示したものだろう。

闘技場でも実戦によく似た、それこそちがうところを見つけ出すのが難しいくらいの状況をつくることは可能である。そうやって、武蔵と烈のたたかいは組まれた。ただそれは、武器なしの闘技場ルールに武器をつけくわえた、アクロバティックな実戦性である。本部や武蔵の知っている実戦というものは、もっと流動的で、その場限りで、環境利用的で、それでいて技術的に洗練されているものだ。決められたテーマ(原曲)のコード進行のうえでアドリブをするジャズ演奏者は、極端なことをいえば「適当」に弾いているだけである。しかし現実的には、相当な技術的洗練がないと、即興演奏というものはできないし、聴くに耐えるもの、また歴史に残るような名演ともなると、その楽器にかんしては世界トップレベルの技術と圧倒的な才能がなければ難しい。

ただ、このジャズの演奏にかんしても、テーマという、ある程度のルールはある(なんにも決めず演奏をはじめるキース・ジャレットみたいなひともいるにはいるが)。闘技場はいってみればこの即興演奏における、コードを示し出すテーマである。

光成はその闘技場の管理人だ。いくら闘技場で、武器を解禁し、「ルールなし」を宣言しても、それはその空間に「ルールなし」という約束事が設けられたというだけのことでしかない。場所も決まっていない、時間も決まっていない、そんなたたかいを「管理」することなど、原理的にはできないのである。

そういう葛藤が光成のなかにもあり、おそらくそれだから、作中では二度、前田光世方式という、ある指定した場所で参加者にうろついてもらい、出会ったときを開始とする方法が提案されている。あれは闘技場では管理しきれない本当の実戦性をどうにかそうしようとした結果の提案だったのではないかとおもわれる。だがこれも、時間と場所を決めている以上、闘技場の拡大解釈といえないことはなく、本部や武蔵の属しているものとは異なるだろう。さらにいえば、武蔵たちはそもそも社会というものさえ前提にしていない。街中で喧嘩が起これば、日本であればすぐ誰かが通報して警察がくるし、その通報をしたものを含む周囲の無関係な一般人への配慮も、「社会」人としては不可欠となる。どんなに「ルールなし」を追求しても、そもそも「ルールなし」という発想が厳しいルールのある試合を経験したうえで発想されているのと同じく、それはある秩序の内側でぎりぎり許される範囲を探すという人工的な領域を出ないのである。

 

 

武蔵や本部の体現する実戦性は、だからわたしたちがふつうの意味でつかう「喧嘩」とか、そういうものの延長にはない。人間どうしの約束事の一切が排除された、それはまさしく自然状態であり、もっといえば、「自然状態ではない世界」さえ経験していないような、原的世界である。前田光世方式をとことんつきつめたものを「ルールあり」の状態からの相対的自然状態だとすれば、武蔵のいる世界というのは、どんなばあいも通用する技法でなければ生き抜けない絶対的自然状態なのである。それはたとえばどんな状態かというと、つまり「合戦」である。ルソーによれば戦争とは、国民どうしの約束事である憲法への攻撃にほかならない。合戦というものが存在できる歴史的文脈でいえば、ある国が、自国のルールが正しいことを示すためにある国を滅ぼしたとか、そういうことになるから、勝利者の憲法はどの場合でも通用していることになる。しかし合戦の現場ではどうではない。殺人を禁じている法律も、こうしたばあいの行動は法理的には有事として解釈されて、無効になってしまうだろう。これがこの場合の自然状態の絶対性である。どちらの国の法律がなんであろうと、その現場ではすべて効力を失ってしまうのである。

 

 

光成が本部にちまちまと噛みつくのもだから自然なことで、本部が技法として帯び、いま解放しようとしているものは、光成が実現しようとする管理的姿勢とは無縁なものなのだ。

そして、その技法を、今回武蔵は合戦の現場でつかわれていたものだとした。本部は、アキレス腱の痛みをおそらく武蔵は知らないだろうとしていたが、どうやら武蔵は経験済みだったようである。ただ、こういうひとたちは戦略のために平気な顔で嘘をつくので、本部の真実がどこにあるかは不明である。ただ、いずれにしても本部がこれまで行ってきた鍛錬は誤りのないものだったことがここで証明された。本部の本心がなんであろうと、じっさい「足挫き」は現場の技術だったのだ。武蔵が知らないかも、というからには、あるいは戦国から伝わる種類の技術には、こうした技はなかったのかもしれない。しかしげんに本部は身につけ、こうして使っている。合戦的実戦性を旨とする本部が、必要であると判断し、身につけた技術は、武蔵が知っていようといまいと、たしかに戦国の現場でつかわれていたのである。本部はまちがっていなかったのである。

 

 

本部の隠し武器は主に上着のなかにある。この様子だと、軽いものはポケットにも入っているかもしれない。たったいまつけたタバコももちろん武器である。武器になる、のではなく、そのまま武器なのだ。アキレス腱のダメージは不明だが、とりあえず片目が見えないとかなり不利になってしまうから、武蔵は時間をかせごうとするだろう。本部はこのチャンスを逃してはならないだろう。彼らの武はえげつないから、本部はふつうにそのタバコで残った右目をねらうかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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