『鶴/シベリヤ物語』長谷川四郎 | すっぴんマスター

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『鶴/シベリヤ物語』 長谷川四郎著 みすず書房


小説でも音楽でも、ある好きな創作者がいるとして、その人間がすすめるもの、影響を受けたとするもの、あるいは影響を受けたとされるもの、そういうものをこちらからも進んで見てみようとすることは自然なことだし、悪くないと思います。僕はそうやってたくさんの素晴らしきに出会えたから。

最初にこう書いて正当化するわけではないけど、最近読みすすめている『第三の新人』やその世代の人々は、主に村上春樹の本で知ったものです。第一次、第二次戦後派に対してこう呼ばれるわけですが、僕は高校のころの国語の授業をあまり真面目に受けていなかったので、そういう括りすら知りませんでした。これは完全に僕の不真面目が原因なわけですが、村上春樹が『短篇小説案内』という本で彼らを取り上げたのはすごいよくわかります。小説に対する姿勢というのが非常に近いもの。


いま僕らが、「終戦直後」というのがどういうものだったのか考えるとき、当然それはすべてが想像なわけだけど、単純に考えて、こういう、なんというか「自分小説」(「私小説」というとなんかちがうんだよな…)とでもいうべきスタイルが出てきたのはすごく自然だとおもう。ちょうど現在の僕らが、「時間」の理不尽、わがままにうんざりしたり、あるいは納得してあきらめてみせたりするみたいに、規模や質はちがえど、多くの人間たち(「操作」されていた側の人間)は「戦争」に接して、進んで大義のもとにのってみたり、ぶつぶつ言いながら仕方なくのってみたり、あるいはのってみなかったりしたはずで、それが終結したとなれば、それは外的な世界が別のものに変わるということにほかならなくて、「時間」や「空間」、「現実」、「生と死」、そういう抗い得ない力に我々は規定されているもので、内的表現というのが常にこれを最低条件に生じるものである以上、外力の変化は新しい表現を生み出すのだとおもうのです。特に「戦争」という理不尽す
ぎる力が消えうせて、当時の「普通」の青年たちがこういうものを書き始めたというのは、だからとっても自然な気がします。



厳密にいえば、長谷川四郎は、文学史的「第三の新人」には含まれないようです。その区別がどういうものなのか僕にはよくわかりませんが、率直な感想をただ書けば、いやすばらしかった。この世代の、この括りの人たち、みんなすごいです。これも、なんか、村上春樹が推してるからだろ、みたいに思われちゃうとアレなんですが…。短編小説って、以前も書いたことだけど、即興演奏みたいな、肉体的な感触がとても大事で、いわゆる「文学」よりもずっと文学的だとおもっているのですが…。このへんの人たちはみんなすごい上手いです。それというのが、戦争という外力を経験したからなのか、わからないけど、いずれにしても短編小説のお手本みたいな作品がこのように連発されていることを考えると、僕が考えていた以上に、外部からの自己規定(自分の置かれている環境や状況から受けるもの)って内部に影響するんだな、という感じです。考えたら当たり前なんですがね。いや、当たり前というより「一般的」か…。自分を成長させるために、いい学校に入ったり、リ
スペクトできる上司から学んだり、まねしたい小説家を研究したり、みんな意識しなくても自然にやっていますもんね。


長谷川四郎は長谷川四郎で、非常に独特な小説を書いています。まず誰もが感じるにちがいない、無責任なくらいの筆者の不在…。シベリア抑留というすさまじい経験が彼の小説の素材・原動力となっているわけですが、まちがいなく辛く厳しい、過酷な毎日であったはずなのに、そういう塩辛さは微塵も感じられない。描いていないというわけではない。しかし筆者は、あくびをしながら紙芝居でも読み上げるように、さらっとした物言いでおはなしを読み上げる。


「解説」で、小沢信男はこう書いています。

「作者は、おのれを被害者とみることを、徹底して禁じている。三十五歳で二等兵にとられたときから、足かけ七年の辛苦をなめて、栄養失調でがりがりに痩せて復員してきたのだけれど、被害の泣き言物語を一行たりとも書く気がなかった。
加害者としての懺悔も禁じる。謝ってすませようとめそめそしてみせるのは、裏返しの被害意識なのかもしれません」


僕も、一種贖罪的な物語のようには、まったくとりませんでした。読めばわかります。だからもちろん、戦争の記録、客観的な描写というふうにも読めるんだけど、僕はやはり、この人にも表現の冒険を見たい気がします。長谷川四郎の場合は「シベリア抑留」や、つきつめれば「戦争」だったわけだけど、どんな人間にも、このように生きていくその真上を、抗いがたい力が貫いている。最初にも書いたことだけど、それは小さいところでは国家だったり社会だったり、究極的にはすべての存在物は「時間」に貫かれている。さらにはあるのかないのか、「真理」なんてものも人は考える。「支配」とは少しちがう。被支配はストレスのたまるものだから。これらは、たとえば僕らが心臓がひとつしかないからといっていちいち日常的に疑問をもったりはしないように、 宿命的なもので、ぶつぶつ文句をいいながらも、普通の人間は、気にしないで生きている。というか、気付かないで生きている。長谷川四郎が描くロシアの街の人々…誰も彼も、「戦争」に翻弄され、理不尽に辛いおもい
をしながらも、生きている。もちろん語り手も、淡々と重労働に従事する。「生きるって大変なんだよ」とか、「戦争って辛いんだよ」とか、そういう教訓が書かれているわけではなく、なんていえばいいのかな、外部から「戦争」のように巨大な力が働いて、人は規定され、生きるわけだけど、ここではそれが、たまたま、見えやすい、理解しやすい「戦争」というものであっただけで、筆者の描いているものは「戦争」そのものなのではなく、「戦争の真下にいる人間」、人間と外部との関わりなんじゃないかと…。この「戦争」という部分は、仮に時代がちがっていたら、だから「時間」とかに置き換えられてもいいわけです。僕はこういうところに長谷川四郎の表現を感じました。


なんかムズカシイこと書いて、自分でもよくわからなくなってるみたいだけど、戦争下でも、人はきちんと生きるし、それはどのような「××下」でも等しいのだと、そういうことです。そういう筆者の姿勢から、このようにニュートラルな文体が生まれたのではないかな…。

うん…言ってるそばからウソくさいぜ。