「ホームランアーチスト」田淵幸一の魅力(今月の「ベースボールマガジン」) | 尾林衡史のクイズブログ

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月刊「ベースボールマガジン」に関する書評です。

今月号の特集は「田淵幸一と阪神タイガース」です。

 

田淵さんは法政一高から、法政大学を経て1968年ドラフト1位で阪神に入団、法政大学時代は当時の東京六大学最多記録となる22本塁打の実績をさげて鳴り物入りでの入団でした。

 

ちなみに田淵さんは東京生まれの東京育ちであったことから巨人入りを希望していたもののドラフトでは阪神が交渉権を獲得、田淵さんは入団を迷っていたものの、巨人サイドから会いたいという連絡があり、会いに行ったところをマスコミに見られ、その様子を報じられたことからバッシングをあび、阪神入団を決意したといわれます。

 

その後は捕手兼主軸として活躍、特に当時V9時代の巨人相手に強く、1973年には巨人戦で「同一カード7試合連続本塁打」を記録するなど巨人キラーとしても鳴らしました。

この1973年は、最後2試合残してひとつ勝てば優勝という状況だったにも関わらず連敗、最終戦の甲子園の巨人戦で敗れた後は、暴徒となった観客が巨人ベンチを襲うという後味の悪い結末でした。

 

また、天性のプレイヤーという印象が強いですが、努力の人でもあり、一例を挙げると、阪神入団時のエースの江夏豊投手のストレートを江夏さんから「キャッチャーミットが流れるとストライクと判定してもらえなくなる」といわれたことから、猛練習の末にミットを動かさずにとれるようにしたことから江夏さんの信頼を得られ、「黄金バッテリー」と呼ばれるようになったのは有名な話です。

 

田淵さんは10年間阪神でプレーし、本塁打王1回(王貞治さんの14年連続をストップさせる快挙です)、ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ2回という華々しい活躍をあげるも優勝には届かず、そして1978年11月15日、深夜に急遽呼び出され、新球団の西武ライオンズへのトレードを通告されます。

 

しかし田淵さんのキャリアはここでは終わらず、西武でさらにもう一花咲かせますが、それは別のお話にします。

 

クイズにまいります。

テーマは「田淵幸一」です。

 

【問題】

 

1 田淵幸一、山本浩司とともに「法政三羽烏」と呼ばれた、1968年ドラフトで南海に指名された選手は誰でしょう?

 

2 プロ野球で耳あてつきヘルメットが義務づけられるきっかけとなった、1970年8月26日に田淵幸一が頭部に受けた死球で、この死球をぶつけた広島の投手は誰だったでしょう?

 

3 田淵幸一は「2000安打を達成していない選手で通算最多本塁打」を誇りますが、通算本塁打数は何本でしょう?

  (なお、現役の中村剛也選手が2024年に抜く可能性が高いです)

 

 

【解答】

 

1 富田勝

 

2 外木場義郎

 

3 474本