古伝琉球武術伝承会/TSKjapan(西横浜)
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師は昭和40年頃に当時アメリカ統治下にあった沖縄へ渡り、徳田安文先生の流儀の唐手を学びました。

徳田先生は近代空手の祖と言われる糸洲安恒先生の直弟子で、「糸洲門下の三羽烏」と呼ばれた達人の一人です。

お恥ずかしい話ですが、私は30年近くも師は直接徳田先生に直接唐手を学んだのだと勘違いしていました。

自分が強くなる事だけに関心があった若い頃の私は、師が語る唐手の歴史や精神論をいつも半分しか聞いていなかったのです。

40歳を過ぎ、自分の技術のルーツに関心が出て調べてみると、徳田安文先生は昭和20年の沖縄戦で亡くなっていました。

師が直接習った先生も徳田という姓だったらしく、徳田違いだったようです。その徳田先生が安文先生の血縁者だったのか単なる同姓だったのかは、今となっては知る由もありません。

 

さて、徳田安文先生は中学の事務長をなさっていたそうで、課外活動の一環として生徒に唐手を教えていました。

 

糸洲安恒先生直伝の平安(ピンアン、チャンナン)の型が稽古の中心でしたが、この型の捉え方が現在の本土と当時の沖縄では全くの真逆です。

初心者用の基本型というのが現在の本土ですが、当時の沖縄では唐手の極意を体系化したものとされていました。

そもそも糸洲先生は唐手を学校教育の項目に採用される事に尽力されましたが、それはスポーツの奨励というよりは、軍国主義の高まりに応じて徴兵制度に対応する為でした。

つまり、糸洲先生は強い軍人を育てたかったのだと思います。

そんな糸洲先生の教えを継いだ徳田先生ですから、当然極意としての平安を指導されていたそうです。

戦争と隣り合わせの時代です。昔のようにじっくり修行して、何十年も掛けて強くなったのでは意味がありません。

糸洲先生は、平安の型は2年でそこそこの唐手家を育成すると語っていらっしゃいます。

TSKjapanで稽古されているヌンチャクは、「辻(チジ)ヌンチャク」と呼ばれる現在の那覇市辻村に伝わったとされるヌンチャクです。

戦前の辻村は何百年と続く遊郭で、他に類のない独特の女性社会を形成していました。遊女はもちろん、経営者にいたるまで、ほとんどが女性で運営されていたそうです。

辻村ヌンチャクは、そういった女性達の自衛の技でした。

 

辻村ヌンチャクは、通常の沖縄ヌンチャクより短いものを使用します。

 

昔は赤い紐で黒く塗られた棒を繋いだヌンチャクを使用したそうですが、TSKjapanでは市販の鎖で繋がれた普通のヌンチャクを使用しています。

技術的には、コンパクトな振り技を連続で行うところに特徴があります。

女性のパワー不足を遠心力で補いつつも、狭い室内での使用に有効だからでしょう。

 

今TSKjapanでヌンチャクを稽古しているのは男性ばかりですが、ぜひ女性に伝承したいと思います。

 

「空手と琉球古武道(武器術)は車輪の両輪、合わせて修行するべし」と唱える空手の先生がいます。

筋トレと有酸素運動の組み合わせのように「一緒にやったほうが運動効果は高いよ」程度の意味でしたら賛成しますが、武術の根源的な意味から言っているのであれば大変な間違いです。

そもそも、空手(当時は唐手)は士族階級に伝えられ、武器術は農民や漁民に伝えられたものです。この2つの技術が交流を持つのは近代に入ってからです。

補足すると、18~19世紀の琉球士族のメインとなる武器は槍や弓、そして刀などです。本土の武士とそれほど違いはありません。

多数対多数が殺し合う戦場では、トンファーやヌンチャクは明らかに殺傷力不足ですよね。しかし、一般人のトラブル回避用としては効果的です。

 

中国では拳法と武器術を包括して伝承している流派が多く、その事を知った先生方がこんな事を言い出したのだと思いますが、多少勉強不足です。

 

TSKjapanで唐手と武器術を同時に稽古しているのは、このように体系的に必要だからではありません。単に伝承の為です。

そもそも琉球の武器術は個人芸の域を出るものではなく、唐手のように体系付けられてもいませんでした。明治12年の琉球処分や昭和20年の沖縄戦を経て失伝しなかった事自体が大変な奇蹟なのです。

現在、空手道場で稽古されている武器術の多くが近代の空手との交流から創られたものである事を考えると、偶々学んだとはいえ、この古伝の技を何とか消さずに伝えて行きたいと願っています。