「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」

                                西行法師  

 (願わくは 花の下にて 春死なん その如月の望月の頃)

大意は、出来れば桜の花が満開の頃、それも十五夜の月明かりに、その花の下で死にたいな。だろうか?

寒さが続いているのに桜の花の話題で恐縮です。

昨日深夜帰宅途中、月を見た。

上弦の月と言うらしいが、月の上にかかる弓の弦が「ぷくん」と膨らんでいるように見えた。

ちょうど、焼き餅が膨らんできたときのように見えて、あっ、だから満月のことを「望月」と言うのかと思った。

結局、語源は、餅月ではなく、満(みち)月がもちづきになったらしいのだが・・・・・。

それにしても西行さん、頼朝さんの時代、「桜花爛漫の頃、桜の花の下で死にたい」とはよく言ったもんだ。

野球ネタで言えば、低いセンターライナーをジャンピングキャッチでおでこに当てた新庄さん。

クロマティーに「素振りの鏡の前で自分の姿にうっとりする」と言わしめた原辰徳さんのような、すんげぇナルシストですね。

ある時、知り合いの学識経験者に、「ナルシスト・・・・」とは言わなかったが、西行さんて「格好つけ」ですね?って言ったら、「純粋な心の表現を、そんなふうに言う風潮、私は嫌いだ」と言われた。

チョッピリ反省しています。

「・・・・・若き時は腕を裂き、腿を突き、その道はた易く候(そうら)へども、今は世の笑い事になり候(そうろう)て、控え申し候・・・・・」  

                                                  正月九日   伊達政宗

衆道(しゅどう)・・・・男色の道。

森蘭丸と織田信長の例でもわかるように、戦国武将の間で、小姓との同性愛が流行したという。

政宗も時流に乗ったのか、小姓との愛を育んだこともあった。

腕を傷つけ腿を刺すこと、それが当時の彼らの愛の証明。

政宗は、作十郎という小姓が、他の男に熱を上げているとの注進を信じて、彼をなじってしまった。

それに対して作十郎は、自分の体を傷つけ、政宗に愛を誓った。

この手紙はそれに対する政宗の返信だ。

・・・・・「疑ってごめんね。若い頃だったら、お前と同じように腕を切り、腿を突いて愛を証明するんだが、今は立場もあるから、そこまでは勘弁して欲しい。作十郎愛してるよ・・・・・」

変わらないなあ。

人類進化の目で見れば、400年前は、まばたきも出来ない位の、ほんの一瞬。

「おんなじようなこと、やってたんじゃねーの?」みたいな発想で見た方が、かえって歴史が見えてくるかも?

「全(まった)けき 鳥海山はかくのごと からくれなゐの夕ばえのなか」   

斉藤茂吉

大意は鳥海山は完璧だ。あかね色の夕陽に染まり、そびえたっている。だろうか。

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2008 4.30 祓川より望む鳥海山 

鳥海山に初めて出会ったのは、19歳の夏休みだった。

単身で頑張っている父の仕事を手伝うため、仙台経由で羽越線の遊佐駅を降り立った時だった。

見上げると、鳥海山が圧倒的な迫力でそびえ立ち、日本海にその長い裾野を延ばしていた。

茂吉はこんな鳥海の姿を見て、「全けき」と詠んだのだろう。

この歌を読んで以来、ボクはずうーっと夕陽に照らされる「からくれなゐ」の鳥海山を見たかった。

月日は流れ、ゴールデンウイークの頃に5年ほど通って、ようやく一昨年、夕映えに染まる姿を見ることが出来た。茜色の鳥海山はやはり素晴らしかった。

5年のうち最初の年は、スキーヤー達と一緒に5時間ほどかけて子供用のソリを担いで登った。カメ仙人と一人悦に入っていたが、帰ってから子供に聞いたらカメ仙人はエロジジイだと言う。

一行は頂上の外輪から滑り始めた。ボーゲンがやっとの人もいた。

オレも滑りたい!

翌年から欠かさずその頃鳥海山に行く。

頂上を間近にした舎利坂で強風とアイスバーンで敗退した年もある。

運良く外輪山は二度ほど越えた。新山と呼ばれる山頂がある内輪へは、突き上げる風と垂直な斜面のため、アイゼンを着けて、慎重に降りなくてはならない。

降りると千蛇谷と呼ばれる長い斜面が北側に延びている。

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  夏 千蛇谷から見た山頂

千蛇谷に魅了されたボクは、いつしか、この谷で滑るためにテレマークと呼ばれる山スキーをしていると広言するようになった。

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 千蛇谷より外輪をのぞ鳥海山は茂吉だけではなく、ぼくにとっても「全けき」山になってしまった。



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2008.4.30 祓川小屋から鳥海山を望む