金剛禅門徒の少林寺拳法修行記 -8ページ目

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

誠にミーハーなことに、「武道のすすめ」という達人DVDを購入してみました。


15人の『達人』の映像が紹介されているDVDです。定番と言えば定番なんでしょうか。




『分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな』とよく言いますが、ここに出てくる方々はみなすでにその境地なんでしょうか?まだ分け登っている途中の僕にはよくわかりませんが。。。




DVDを見ていて、達人の方々が「技を隠さなければいけない」ということをおっしゃっていました。

技をかけようとしてもだめ。相手を包むように、と。



うちの道場の先生も「技をかけるな!」とよくおっしゃいます。


僕自身はしっかりがっちりと技をかけたいお年頃ですので、その意味するところはよくわかっていないのですが、これもやはり虚実の観点の話なのでしょうかね。



とはいいつつも、実は学生時代「技を隠す」というテーマで練習に取り組んだこともあり、個人的にもなかなか興味深いテーマではあるわけです。


今一度、この観点から技の練習をして・・・みようかな。


買ってみました。


前からYoutubeやらなんやらで散見していたのですが、やはりすごいですね。


塩田剛三の技を見たときに、何がなんだかさっぱり分からず、とりあえずすごいということしかわかりませんでした。


あまりのすごさに「この人は自分の師匠を超えて、当然合気道の歴代1位(という表現がいいかどうか分かりませんが)の実力者なんだろうな」と勝手に思ってました。



しかし、開祖植芝盛平はその想像のはるか上を行ってる存在ですね。。。。



特に棒を振ってるとき。あの速さは何が何やらわからない。



人知を超えた域に僕も達してみたいものです。

とりあえず連日更新を目指して、取りとめのないことを。



意識の置く場所について、常々思うところがあります。


自分の意識の所在、これを自分の動作の中心に置きたい。


感覚的な中心(意識の所在)と動作の中心がずれると、どうも動きがちぐはぐになるそうです。




例えば猫背の人。これは意識が前に前に行って、ほぼ前面の表面にまで達してしまっているのかな、と思ったり。


そういう人は動作の中心が背骨だとしたら、それよりもだいぶ前に意識があるので、内受けとか下受けとかするにしても、体捌きが不十分で、「受けては出るけど当てられてしまう」と言ったことになりがちなきがします。


一方あまり意識が後ろにある人は見たことないですね。

『目』が前方についていて、視覚が五感の中で重要な位置を占めている以上、意識が前の方に偏るのはある程度仕方のないことなのかもしれません。





とりあえず、いい動作を行うために、意識を後ろへ後ろへ。。。(後ろすぎてはダメだけど)




そんなことを考えてみた。



長期ほったらかしてしまいました。いつも通りです。


最近道場に新たな高校生が来るようになりました。



僕も少林寺拳法を初めて気がついたら13年。

今思うと半ば冗談に先生が「黒帯になったらもう指導者だ!」とおっしゃっていたこともあり、なんだかんだで結構な人数に教えてきたと思います。

(先輩としてです。当然。指導者って言うのは本当に冗談だと思います)


なので、大体初心者がつまづきそうなポイントや、そもそも体の動かし方として「初心者の動き」みたいなものは大体わかっているつもりです。



最近来た高校生なんですが、どうにもスジがいい・・・気がする。


もちろん直すべきところはまだまだまだまあるけれど、呑み込みの速さがちょっとおかしい。



逆小手も(形はともかく)『どうしたら相手が倒れるか』ということを意識してるし、まぁまぁ出来てる。


昨日なんて、突天一で通常の

「肩腰をしっかり返して受けつつ同時蹴」

のみならず、虚実を使った

「相手の突きを誘い出しつつ同時蹴り」

もノリに任せて教えてみたら、なんとなくできてるし・・・



ちょっとした不公平を感じつつも、そういう才能に触れるのは楽しいものです。


ただ、老兵は死なず、ただ去るのみ・・・・なんていう年齢ではないので、僕も負けじと練習しなければ!



彼は今白帯(練習開始まだ2カ月ぐらい?)。いつぐらいに抜かれるんだろうか。


こんなことを考える日が来るとは(笑)



お久しぶりです。


最近更新が滞っておりました。もとより定期的な更新はあきらめていたのですが、それにしてもひどい放置っぷりでした。



さて、最近は運用法の技術論にはまっております。


今まではかわし方について、あれこれ考えていたのですが、現在のマイブームは「反撃への切り返し」です。



そもそも少林寺拳法の技術論としては、

①相手の攻撃をしっかり受け、相手の体勢の崩れたところを反撃する(後の先)

②相手の攻撃を受けつつ、同じタイミングで反撃する(対の先)

③相手の攻撃意欲を感じ、相手が攻撃に移る前に反撃する(先の先)


と3つの反撃タイミングがあります。


何がよくて何が悪い、という話ではないのですが、初学の際はまず後の先をしっかり学び、その後対の先・先の先へとつないでいくというのが一般的なようです。



この後の先、上では何とはなしに「相手の体勢の崩れたところを」と書いたのですが、それはおそらく今の悩みが反映されてのことでしょう。


少年部の運用法を見ると面白い。


自由攻防であったとしても、攻撃・反撃が順番こに、同じリズムで行われる。

そういった光景を何度か見たことがあります(というかほぼすべてそんな感じかと思います)。


それは、当人と相手との間に知らぬ間にルール作りがなされている、とも考えらますし、技術的要因からそうせざるを得ない状態に陥ってしまっているとも考えられます。


・受けと同時の反撃ができない。それゆえに受けてから攻撃になる。(後の先一択)

・受けの際に相手の体勢が崩れていないため、後の先としても成立せず、相手に受けられる。

以下ループ。



恥ずかしながら、僕もこのレベルから脱してません。


乱捕(運用法)という自由攻防の中で、きれいに相手を崩すこともできず、カウンターのようなタイミングで反撃もできない。


そして、今までかわし方をいろいろやってきて、相手の攻撃はかわしやすくなったものの、反撃ができないことを最近痛感し、「かわしつつ」攻撃をするということを今鋭意練習中です。




先はまだまだ長い。


練習内容には全く触れてませんんが、今日はこの辺で。

とあるところで、表題のような疑問が上がっていました。


僕も以前より幾度となくこの疑問を抱いたことがあります。



大まかに結論は2点あるのかと思います。


①いらない。なぜなら少林寺拳法の目的に沿っていないから。

②いる。


②については理由はいろいろあると思いますが、「目標設定のため」「審査されることにより自己の改善点を発見する」「他拳士との交流のため」「少林寺拳法の普及には必要」、などが主流かなと思います。


もちろんこれらの理由については反対意見もあるようです。


◆反対意見

目標設定のため:

 勝ち負け云々に関わらず、大会などというものを目標にしないといけないのはそもそも違うのでは?


審査~改善点発見

 勝敗を定めず審査会で足りる。


他拳士との交流

 合同練習会で足りる。


普及のため

 普及を前提として形骸化させるのは、そもそも順番が逆なのでは?




残すについてはいろいろ理由はあれど、反対意見もあって、結局良くわからない状態になってるのが現状なのではないでしょうか。



大会の是非について、僕個人がいろいろ考えたこととしては、

『少林寺拳法の目的は確かに大会での優劣にこだわるところにはない。しかしだからと言って、制度として『大会』を無くした場合、そのような人間性の醸成に果たしていい影響を及ぼすのか?』


ということです。


いらないものは排斥し、そもそも認識できないようにする。

たしかに認識できないのでそれにこだわることはなくなるでしょう。

でも、必要なのは、「勝ちだ負けだというこだわりが蔓延している現代社会において、そうでない価値観のもと支えあう人間性・人間関係を養う」ということだと思うわけです。

なので、「元々ないからこだわりません」というスタンスはちょっと違うのではないかなと。



なので、僕の結論を言うと

『少林寺拳法の目的は大会の勝ち負けにこだわらない人間の育成にある。だからこそ大会は必要』

ということになります。



わかりづらいので補足すると、以下のようになります。


 大会で良い成績を残すと優越感があったり、周りからちやほやされるなど、魅力的です。

 しかし、本当に大切なことはちやほやされることでしょうか?もっと大切なことがあるのでは?と考えてほしい。

 大会がなければそういうことすら考えずに徒に時を過ごすでしょう。

 その「思考の起爆剤」として、大会を残す必要がある。



本部が本当にそこまで考えて、大会を存置し、かつ大会をあれだけ盛り上げようとしているのであれば、個人的にはうれしい限りです。



道場で、乱捕練習をしていたら怒られた、という件については以前書きました。


今回も、同様の練習をやっていたら以前と同様に、否、以前より明らかに嫌悪の念を示されてしまいました。



曰く、僕が受けに徹するあまり、相手(高校生)がやみくもに攻撃をしていて、攻撃的な側面の成長ばかりを助長している。それが少林寺拳法にはあまりにも似つかわしくない。とのことでした。


こちらとしても、考えのあってやってることではあるので、今の練習方法を禁止されたらたまらない。

そこで話し合いをしました。


こちらの練習の目的:

・乱捕というものにそもそも「慣れる」

・寸止めではなく「当てる」ということに対する体感を身につけ、有効打撃を行えるようにする。

・突き蹴りの攻防の中での平常心を身につける。


これらは「実際に攻撃をしてくる」というシチュエーションではないと身に付かないもので、組手主体の思想にも適ったものだと思います。


また、演武や術科の練習では、すでにある程度できる人間であれば有効的な練習が可能とは思いますが、そうでない人がなあなあな雰囲気を脱却し、有効的な攻撃対する効果的な受け→反撃の練習を行うことは、ほぼ無理だと思っています。これは世の道場の大半を見れば、火を見るより明らかなことではないかと。


つまり、多少荒いかもしれないけども、今やっている練習は(最も効果的とは思わないが)必要不可欠な側面を有していると言えると思います。



ですので、こちらは引けません。


しかし、どうせやるならみんなの理解・助力を得られる形で行いたい。



なので、次のような提案をしました。


・この練習はあくまで『乱捕の導入』として、効果を期待しているもの

・問題となっていた高校生は、その効果を十分に果たしていると言える。

・なので、この高校生については、次のステップ(高校生は受け主体で乱捕を行う等)に移行し、一方的な攻撃スタンスの練習は少なくする。

・しかし、他の乱捕慣れしていない子たちには、(この練習方法の効用を説明したうえで)今の練習方法を引き続き行い、ある程度慣れてきたものから次のステップに移行する。



高校生にも、今の練習方法はもう卒業であること、今後は後輩の指導も視野に入れた練習をしてほしいこと、そのためには受けを身につける必要があること(今まで僕がやってた立場で乱捕をする必要があること)を説明し、納得を得ました。

(とりあえずは、この子に防具をつけさせて、僕の攻撃を受けてもらおうかと思ってます)


例の指導者ともすり合わせを行い、今後の練習方針について了承を得ました。


結局彼も僕も「自分の身を守れる力量と、それに伴った人間性を養ってほしい」という最終目的は同じで、彼が気にしていたのは後者の「人間性を養う」という観点から、ある程度攻撃ができる人間が、一方的に攻撃をし続け、それを楽しんでいるように見えたところに危惧を感じた、とのことでした。

(他の、そこまで乱捕になじんでいない子が一方的に攻撃しているところを見ても、あまり危惧は感じないとのことです。ちょっと主観的ですが。言いたいことは何となくわかります)



ですので、当初は「乱捕の練習方法」ということで言い合いになりかけたのですが、結局は「練習方法」そのものよりも、「練習の目的に応じた方法になっているのか」という点についての話だったのかと思います。


問題となった高校生は、練習の目的をすでに達成していた上で、通り一辺倒に同じ方法をしていたために、その本来の目的から外れた内容になってしまい、それゆえにこちらの意図が見ている人に伝わらなかった。


なのでその点を説明しさえすれば、練習方法そのものを否定されるものではなかったわけです。


今回の件から、以下のことを学びました。


・目的に応じた練習方法、という意識をしっかり持たねばならぬ。

・衝突を避けるのでなく、衝突するのではなく、お互いに話し合うことで、ともに納得できる答えは見つかりうる。

・少林寺拳法の道場では、やはり誰もが後輩の成長を願っている。



冗長ですが、結局のところ、いろいろ言われたけど、引かずに理性的に話し合うことでいい解決ができそうですよってことです。さて、今後の練習方法を考えねば。

昨日の道場で、怒られました。



術科を高校生に教えていて、「次は何の技がしたい?」と聞いたところ、高校生から「久しぶりに乱捕をしたいです」との回答が。


自発的な乱捕要望は僕の待ち望んでいたものでもあり、喜びこそすれ断るものではありません。



最近高校生も乱捕になじんできたので少しずつこちらも手を出して、自由攻防でやってました。



一通り終わった後、指導員の方に「どちらの練習をしようとしているのかわからない。相手の受けの練習をしているのか、自分の練習がしたいのか。正直見ててただの自己満足に見える」と。



こちらの意図としては、(少林寺拳法の練習はぬるく、武歴は詰みあがっても実戦では足がすくむ人が多いと僕が思っているという前提でいいますが)相手がホントに攻撃意欲を持って自由に攻撃を仕掛けてくる中で、それに対峙するということにまずは慣れてもらうというのが第一の目的。


慣れると、相手の攻撃の応酬の中でも意外と安全なところとか、そういうものが見えてくるので、そういった勘を養ってもらいたいというのも目的です。


指導者の人が、その後提唱した空乱を練習しましたが、その方法・目的は「相手を攻撃しようと思わなくていい。とりあえず手を出して、手を出された方はとりあえず何らかの反応をすること。そして即座に反撃をするように。もし、相手が居ついていたりしたら、そこを指摘するように攻め立てるのはOK」というもの。


ぼくはこの練習方法も素晴らしいと思っています。



切り返しを学ぶこと、相手との呼応を学ぶこと、リラックスした姿勢で乱捕を行うことなど、そういった目的での練習方法としてはいうことありません。


でも、やっぱり当てないことを前提とした道場の中のきれいな稽古だけでは身に付かないことがあるのも事実。



高校生には「どちらの練習も正しいと思ってる。もちろん「正しさ」は、練習の「目的」をしっかりとらえたうえで定まるもので、逆にいえば練習目的がぼけていると、何をしても正しい練習とは言えない。君らがどういう風になりたいか、どういう能力を伸ばしたいか目的をはっきり持って、それに応じた練習をしてくれたらいい。なので僕は今日怒られた練習方法自体を全くやめるということはしない」と言っておきました。



でもまぁ、全体との調和も考えて、もう少し受け入れられやすい方法に変えることも検討が必要です。


まだまだ甘めにやってるつもりなんだけどなぁ。

物事は基本に立ち返れば立ち返るほど難しい。


正しい運歩とはなんなのでしょう?正直僕にはまだまだ全然わかりません。




ここでいう「正しさ」とは、

『通常道場で教えてもらう一般的な方法』や


『教範に記載のある方法』


という意味ではなく、



『人体構成上もっとも合理的な方法』であるとか


『他の技を活かし、少林寺拳法の思想をもっとも反映させた動作』


と考えています。




『少林寺拳法的正しさ』を形式主義的に考えるのであれば『教範に記載のある方法』が唯一の解になるんでしょうけど、僕自身はそういうスタンスではないので・・・あしからず。



以下、蟹足で右に動くとした場合の動作について。



まずはさまざまな方法について列挙してみようと思います。


・『通常道場で教えてもらう一般的な方法』では「左足で地面を蹴って右に移動」でしょうか。


・『教範に記載のある方法』によると『横に差込足で動く。例えば右足を右横に踏出して、左足を寄せ又右足を右側に出す。』とあります(通常の方法と違いますね)


※ちなみに初版の教範にはそもそも蟹足の記載はありません。


・講談社スポーツシリーズの『少林寺拳法』(絶版)によりますと

「横に差込足で動く。例えば、右前の逆丁字立ちの場合、右足を右横へ踏み出し、すばやく、左足を引き寄せ横に転位する。」(左右を実際の記載と逆にしてます)とあります。最後の部分が教範と違うようです。


・「はじめよう!少林寺拳法!」では・・・・あれ?運歩自体の記載が・・・ないです。初心者向けの本にこそしっかり書いていただきたいのに。


・『秘伝少林寺拳法』は明快ですね。『横に差し込み足で動く。』です。


ここまで来ると、「じゃあ差込足は?」と思うのが通常ですが、話が脱線してしまうのでやめておこうかと思います。


要は、同じ団体の出している書物でも書きぶりは違うし、したがって示している動作も違う。

そして物によっては道場で教えている形とやっぱり違うように思える。

さらにさらに、道場での教え方は道場によってまちまちなので、一貫性はない。


「本部での指導方法」というものをこの比較の中に入れたとしても、結局結論は変わらず「何が正しいのかわからない」となるのだと思います。


開祖が生きていれば開祖に聞くというのが「少林寺拳法的正しさ」の一番の答えだったのかもしれませんが。

(開祖自身が、自分のイメージしているものが体現できていないという可能性もあります)



さて、人体構成的に正しい方法ってじゃあなんだ?



それは僕にはまだまだ検討もつきません。

それこそ、

「大きく動くにはこの方法が一番」

「速く動くにはこの方法が一番」

「力を使わずに動くにはこの方法が一番」

「相手に意識されずに動くにはこの方法が一番」

「次の動作にスムーズに移行するにはこの方法が一番」

「もっとも突きの威力を上げるためにはこの方法が一番」

・・・・



と、さまざまな価値基準での一番があり、これらを同時にこなすことは不可能です。


となると、TPOに応じて『正しい』運歩法は変わる、ということかもしれません。

もしくは、「少林寺的思想」にのっとり、合理性からは離れつつも、一つの価値基準を採用し、無理やり「少林寺拳法の正しい運歩」を決めてかかるのかもわかりません(僕はそんなものに興味はないけど)。



少なくとも今練習している運歩は、踏込足を行い(地面は蹴らない。重心も移動しない)、そこに重心を移動し、最終的に寄足を行うというものを練習しています。

これは、重心移動を伴うので「突き蹴りがスムーズに行える」「相手がこちらの動きを捉えづらい」というメリット(とくに後者がおいしい)がある一方で「地面を蹴らないので移動範囲が狭い」というデメリットを抱えています。


接近した状態、相手の攻撃を捌くための運歩としては有用だと思っています(そんなに大きく動く意味がないので)。



しかしこれも方法のうちの一つ。これも学んだ上で、あとはTPOをわきまえた「運用法」の世界の話になるのでしょう。先は長い。

道場で、後輩に「少林寺拳法基礎論」と称して、物の掴み方を教えて見た。


掴み方。一言に言ってもいろいろある。



野球のボールを掴む時と、棒を掴む時。


また、指先に力を入れるのか、第二関節に力を入れて指先は力を抜くのか。


物によっては技の中で「この技はこう握るのがポイントで・・・」と言われたり、最初から「少林寺拳法の握り方は・・・」と大枠をざっくり説明されたり、と説明の方法はさまざまでしょう。



問題は、「きちんと習ったからそのようにしている」というスタンスではなく、「握り方には様々なものがあり、それぞれちょっと特徴があるようだ。ではどのような場合、どの掴み方が適しているのだろうか」ということを自ら考えることだと思います。



すべてを教えることを良しとは思わない、というスタンスと、伝えるべきところはきちんと伝えないといけないというスタンスの微妙なバランスが難しいところです。



導入として、掴み方には種類があること。相手への力の伝え方をスムーズに行うには○○な方法が良さそうだということ、これを技に応用するならば、この掴み方はこういう技に適しているだろうと思っていること。逆に敵がそう掴んできたのであれば、必然的に抜きの形も変わってくる、ということ


あたりを伝えたつもりです。


後はこれを応用して、自分でさまざまに考えてくれるかどうか。いや、さすがにもう少し誘導してあげないと厳しいか。



僕はマニアなスタンスなので、こういうことは気になりだしたら止まらないんですけど、普通はスルーしてしまうものかもしれません。大事だと思うんだけどなぁ。。。