金剛禅門徒の少林寺拳法修行記 -7ページ目

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

毎度のこと、久しぶりの更新です。


スマホでアメブロを見れるようになったのはいいモノの、スマホからはブログが書けないようで、

更新意欲はあったもののなかなか更新できませんでした。



さて、以前書いたように、術科を後輩に教えることになりました。

すでに二回教えていて、崩しとか基本的な内容が終わりまして、次回は鈎手かなと思っています。


鈎手をテーマにすることを考えてる旨を後輩に伝えたところ、後輩曰く「鈎手というものをそこまで

意識したことがない」とのこと。


というのも、現状の段階で引っ張られることがないため鈎手に問題意識を持つ機会がないという

ことのようです。それもまぁ自然な話ですよね。



鈎手の最たる目標は「相手に引き込まれない状態を確立すること」だと思っていますので、

引っ張られない状態であることは、それ自体とても素晴らしい。

最悪の状態ではないことがわかりちょっとした安堵感です。


あとは「どういう理由で」引っ張られないのかというところをつきつめたいと思っています。

それが次回のテーマでしょうか。



いろんな状況があると思うんですが、

・足腰で耐えていて(結果として)引っ張られない。

 ⇒これは鈎手といえるのかはなはだ疑問

・相手がつかめないような状態にまで相手の指or手首を切っていて、引っ張られない。

 ⇒引っ張るどころかつかめてもない。

とかがよくあるパターンかなぁと考えてます。



龍王拳から龍華拳への連携があり、その大前提として鈎手があるのであれば、相手を自由にさせず、

なおかつ逃がさぬようにつかませることが必要になるのかと思います。


然るに上記の2パターンでは、相手を制することができてなかったり、相手を逃がしてしまいかねない

状況なのかと思います。


特に前者の場合は、結局力対力で耐えてるだけなので、相手が急に手を放してきた場合、綱引きの

綱が切れた時のように、後ろによろけてしまいすきを生じる可能性が高く、あまりいいものとも思えません。



そういう点を意識して、「ではどうするのか」ということを考えてもらえたらなぁ、と思っています。


・・・僕自身もう何年も鈎手にフォーカスを当てた練習をしていないので、うまくできるかどうか

とても自信がないですが。。。












こんばんは。


誠に喜ばしいことに、後輩に術科を定期的に時間をとって教えることができそうです。


術科に興味を持った者数名を抽出して、一緒に練習するというものでしょうか。



今までは単発で、思ったことを伝えるという形だったので、どうしても定着せず、なおかつ「今しかない」という焦りからか情報量過多というか、レベルに見合わぬことも言ってしまっていたというか、効率低下要素が多分に見受けられました。



自分でも認識はしつつも、少なくとも「こういうかけ方・考え方もあるんだよ」ということぐらいは伝えなくてはいけないという気持ちから、そうせざるを得なかったんですが、今後はそのような悩みもなくなりそうです。



今は、どういうトピックスをどんな順番で伝えていくべきか、それよりなにより、後輩のレベルを見定めたうえで計画を立てた練習ができるというのがほんとにうれしい。



今までの「言っても定着しないとわかりつつの指導」とは抜本的に異なることができそうで張り切ってます。

(もちろん「教えすぎて本人の自発的な学習を妨げる」ということが懸念されるのでそこは要注意ですね。)


今は自分の頭の中にあるいろんなポイントを整理している状態です。本当に頭の中が散らかっているというか雑多な知識の集合体でしかないので、これをトピックス分け・レベル分けをしないと。。。


まぁ時間もかかりますが、自分の技の見直しにもなりますし、いいことです。



早く後輩が成長して「先輩、それは違うんじゃないんですか?」と言ってくれるレベルになってもらえれば御の字です。


さて、今回は屈身突蹴です。


さて、と言ってみたものの、僕自身この技を全く知りません。



名前から容易に想像がつく半面、位置づけとしてひどく謎な技だと思います。



そもそも教範にその記載がない。



屈身突・屈身蹴であれば、屈身の際の体重移動をもとに突き蹴りを行うものと理解していますが、

屈身突蹴となると、屈身突で体重を乗せ切ってしまうと蹴りが足だけの蹴りになってしまう気がします。


それをクリアする方法はもちろんあるのですが、それは正中線を軸として回転するように突きを放ち、

その後、腰の突き出しで蹴るって形かと思いますが、これだと屈身とうまく連動するのか?という

疑問が若干あります。



まぁ屈身の仕方、そこからの攻撃への転換の方法は多種多様ですから、なんらかうまい方法はあるのかと

思いますが。。。


いまだ自分の中で納得のいく解がありません。




それにしても、内受突蹴などは作らずに、なぜこの技だけ切り出して屈身突蹴としたのか。。。

やっぱりよくわからないです。

どうも一つの日記が長くなりがちなので、細分化です。


『科目表改定にあたり、新たに追加された技特集①』とでも言いましょうか、内押受突です。



さて、教範ではこの技はどう書いてあるんでしょうか。あまり教範の内容をそのまま転記するのは

よくないので、ざっくり書きます。


教範を見ますと、そもそも「内押受突」などという技はない!!ということに気づきます。

それと同時に実は「外押受突」なんて技もなかった!!ということも合わせて気づくと思います。



教範としては「押受突(左右・表裏 四種)」としてあり、特段外押受をするのか内押受をするのか

なんてどうでもいいかのような記載になっています。


翻って、旧科目表を見てみても「押受突(外)」と記載があるだけで、どこにも「外押受突」なんて

固有の技はないのです。



つまり「『押受突(内)』なんて技は知らない!」と言うのは有段者であれば若干恥ずかしい話なの

かもしれません。(教範ぐらい読んでおけ、という意味で)



然るに今回の科目表改定ではこの記載について若干の疑念があります。


「押受突(外)」「押受突(内)」という技が科目表に記載されるようになったというのであれば、

教範との関係上全く問題はないんですが、「外押受突」「内押受突」という名前で記載されています。



まぁそれぐらい気にするなといえばそれまでですが、どうも固有名詞というものの考え方が甘いような

気がします。そしてまた「『押受突(外)』と『外押受突』は実は技が違うんじゃ」とか言い出す怪しげな

人も出てきそうで、個人的にはそこらへんはきっちり抑えてほしいと思ってしまいます。


技は「この技はこうでなくてはならない」という部分は実はほとんどなく、TPOに合わせて変化してしかる

べきものだと思っていますが、概念上のものとして技の名前(固有名詞)はしっかり一つにまとめて

おく必要があるかと思います。



久々の更新です。


若干今更感のある話題ですが、H23年4月より科目表が一新され、昇段・昇級システムが変更となりました。



見てみると、若干技の種類も変わっているなので今回はそのお話を。



◆科目表の新旧で・増えた技


 ○消えた

   ・(四段)中段返より内受突

   ・(四段)下段返より飛二連


 ○増えた

   ・(3級)内押受突

   ・(2級)屈身突蹴

   ・(二段)腕十字固より裏合掌固

   ・(三段)待ち蹴

   ・(四段)後刈倒




 消えた技は、「固有の技」というより「既存の技の組み合わせ」なので、

 個人的にはどうでもいいかなと思っています。

 (中段返・内受突・下段返は当然全部残っています。飛二連は技ではありますが、

  分類としては法形ではなく「段蹴」とかそういう「蹴り方」的な位置づけのものですので、

  そもそも記載ありません。)



 では、増えた技に関してはどうでしょう。


 そもそも少林寺拳法の技が「増えた」というには「どのレベルで増えたのか」ということを

 意識する必要があります。


 何を言っているのかと申しますと、少林寺拳法の技は、まず一義的には『教範』に記載され、

 そのうち(昇段・昇級の目安となる技が)ピックアップされて科目表に記載されます。


 科目表のレベルでの技の増減が、少林寺拳法の技(教範への記載有無)と同義では

 ないのです。


 現に三角固であるとか二人抜であるとか、科目表に記載のない技は実はたくさんあります。

 (補記:二人抜は教範でも特殊な書かれ方をしているようです)



さて、では「増えた技」を教範で探してみましょう↓↓↓





・・・・と思ったのですが、記載すると非常に長くなりそうですし、これからお出かけなので分割します。


最近所用であまり練習も指導もしてない気が。。。ダメダメですなぁ。

後輩に技を教えていたら「三角技法について教えてください!」と言われました。



三角技法とは、故森道基先生の考案した、「崩し→投げ」の一連のプロセスを

明瞭化させた技術体系だと個人的には認識しております。


ネット上にはその動画がいくつか上がっており、少林寺拳法界のトピックス

というか、一大ムーブメントと言った感じで盛りたてられております。

しかしまぎれもなくその技術および技術に対する洞察・思考プロセスは

少林寺拳法界の財産と言えると思います。


森先生はそれをすべて伝えきる前に病に倒れられたと伺っております。

森先生の高弟の方々が三角技法について引き続きの研鑽・研究を重ね、

森先生の技術に近づこうとしているのが現状であるという認識ですが、

そもそも聞きかじった話ですので実際は三角技法関連の現状すらもよく

わかっておりません。



その技術を、森先生の教え子でもなく、三角技術を修練したことのある方に

何がしか技をかけてもらったことがあるわけでもない僕に教えてくれと(笑)


誠実な対応の一つとしては「わからない」という解答のみで終わらすことが

考えられますが、そこをあえてその後輩と一緒に(見よう見まねではあるものの)

練習して行きたいなと思い至っています。


その理由の大枠は

①後輩の「知りたい」という気持ちに対して何がしか応えたい。

②森先生ご本人も「(高弟にとどまらず)広く三角技法を伝えたい」という思いで

 武道関係の一般誌にもその技術を公開したと聞いている。その気持ちを汲む

 対応としては「習ってないからわからない」ではなく「わからないけど、得られる

 情報をもとに一緒に考えよう」というものであると判断した。

③僕個人としてもその技法に興味関心がある。


ということです。


とはいえ、三角技法の勉強を通してそれなりに自分として理に適った動きで

相手を制御できるようになったとしても自己流に陥ることは火を見るよりも

明らかなので、この日記のタイトルも「三角技法」と大それた名前は避け、

記載の通りとさせていただいた次第です。


まだ暗中模索の段階ですが、普段の術科の練習と同様

『仮説構築→実験→失敗点の検証→修正仮説構築→・・・』の地道な作業は

変わりません。


一旦資料等を読み漁り、仮説はいくつか出来てはいます。ここから先がしんどい。

失敗失敗の毎日が続くはず。。。


なにはともあれ頑張らないと!



後輩と話をしている中で、自分の考えについてつらつらと伝えたことがあるので、備忘としてブログに残しておきたいと思います。


とはいえ、多分に独断と偏見が入ってますのでタイトルに【推察】と入れさせてもらいました。



まず、個人的に少林寺拳法の昇段試験は極めて基準が緩いものと考えています。


他武道を経験したことがないので、他との比較はできないのですが、初段昇段試験の時に、白帯で習うはずの型(単演)もろくに覚えていない人が合格していたりしていて、とても驚いた記憶があります。



大学の時分には、部全体に「昇段試験は受かって当たり前」という雰囲気がありましたし、正直な意見を言わせてもらえば、自分らはこんなに頑張っているのに、なんであんなにも出来ない人たち(技を覚えてすらない人たち)が同じように昇段を許されているのか、多少の憤りを覚えて試験から帰ってくる、といったものでした。



ではなぜそんなに基準が緩いのか、やっぱり考えずには居られません。


思うに、少林寺拳法の価値基準は客観的な強さであるとか、技術であるとか、知識であるとかにはおかれていない。


「成長」というものを重要視し、「誰でもできる」ことを謳った宗門の行であるからである。


ではそのような視点で見たときの「昇段」とはいかなるものか?


「今、何ができるか」「何を覚えているか」という現在の棚卸の良しあし(視点①)を求められるものではなく、「入門時からみてどのように変化したか」という入門時からの変化(視点②)こそが着目点となるはずである。

(転籍の場合はやや悩みどころですが)


ここで一つの矛盾が生じる。視点②を重視するのであれば、現在行っているような試験制度(試験会場に出向き、技を審査され、昇段可否を言い渡される)で、その成長度合いはわからないのではないか。


考えられることとしては、実は昇段試験を受けに言った時点で合格はすでにほぼ決まっているのではなかろうか。(試験官自体はほぼおとすことはない)


では、どこに「試験」としての意味があるのか。


それは入門から現在まで指導してきた道院長が、その成長の度合いを測り、十分に成長したと考えられるものには「昇段試験受験の許し」を出す。すなわち、これが事実上の合格ということになるのではないか。


試験会場にて、試験官が「これは・・・・あまりにも・・・・」というレアケースに関してのみ、おとされることはあろうが、全体的には上記のように決定しているのではあるまいか。。。




しかし、残念なことはいくつか見てきた道院・支部は往々にして、「受かるから受けろ」「受かってから、その段に見合った実力をつければいい」という意見が多いように思われることでしょうか。


試験官は道院長の判断に委ね、道院長は試験官の判断に委ね、結局何も審査されることなく昇段していく。

そんなことが多いような気がするのです。



そういう僕もそろそろ昇段。気を引き締めなければ。


※単なる僕の独断と偏見です。「正式な見解」とかとは全く関係ございません。あしからず。





悩んでおります。



柔法において、己の手と相手の手(と仮定します)が密着するように掛け手を行うことは、いわば基本と言えるでしょう。


しかし、接触面積と圧力の考えによると、これでは局所的圧力をかけられない。通常の柔法では『一点を攻める』というよりいわば『全体のバランスを調節する』ことで相手の重心を制御するものと考えています。



しかし、圧法併用になると、多少状況は変わるのではないか。


急所と言う局所を攻める必要性が発生する以上、圧の掛け方も自然と『点』のようになる。

点として圧をかけようと思うのであれば、少なくとも接触点において、『包み込むような』持ち方ではなくなるはず。

(そういう意味では『丁字』というのは実に工夫された技法だと思います)



圧法への移行方法としては、先日道場で学んだものが、現在僕の知りうる範囲で最も合理的だと思うので、それに従った方法で行おうと思うのですが、肝心の持ち方になるといろいろ悩んでしまいます。



そもそも圧法に求められる『圧』の程度にも悩みがあります。


①痛みを発し、その痛みにより制するという類なのか、

②痛みを発するもののあくまで補助的なもので、痛みにより相手の意識をその点に引きつける類なのか、

③痛みが発せず、しかし要所を押さえているがゆえに相手が気付かぬ間に重心を制御されている類なのか(うちの先生のはこの方法です)


その目的とする方法によっても持ち方は変わるよなぁ・・・とも思いつつ。




悩みは尽きないものです。

今日道場で面白い話を聞きました。



「教範は素人が読んでもわからないように書かれている」

↑そりゃあ『師事して会得のこと』ですからね。素人でも玄人でもわからない。。。


と思ってたら、そういう意味ではなく、


「教範には掛け手については説明が書かれていない。そして、掛け手にこそ虚実を含めた妙味がある」



ほほう。




それは初耳です!



で、送小手・逆小手・十字小手を教えてもらいました。


掛け手を工夫するのとそうでないのとでは、全然かかり方が違う。


掛け手を先生に教えてもらったように掛けると、抜き⇒逆技が流れるように、一体になる。

今までは抜いて、そして逆技をかける、という形になり、それがぶつぶつであるがゆえに、相手に耐えるチャンスを与えてしまっていました。


この方法だとそれがない。



しかも、圧法併用ときたもんだ。



掛け手、いろいろと研究してみる価値がありそうです。

最近大学の後輩に指導する機会が増えました。



技術の指導の上で、どのような指導をするか、自分の中でも定まらないままでの指導になってしまい、正直教えた後に「果たしてあれで良かったのか」と考える毎日です。



然るに、教える方法として、

①形を教え、おかしな形は矯正する

②その技の理論のみを教え、そこに合わせるように考えさせる

③人体構成の話をし、そこから技術すらも考えさせる。(すべての技に横断的に言える理論を教える)

④①・②・③それぞれにおいて、比喩にて教える(具体的には教えない)。

 言葉で伝わるものは少ないので、イメージの共有のみ図り、あとは個々人に任せる

⑤教えない。技のみかける(背中で語る)


そのほかにもあると思いますが、ざっくりこんなもんでしょうか。うまく分類で来てるかどうかは、まぁ置いておきまして。



少林寺拳法の技術は、逆小手・送小手など、難しい技を最初に習います。

これには「長いこと年数をかけて体得する」という意図のものだと理解していますが、指導に当たってはむずかしい。


①②のスタンスで言うのであれば、どの技から入ってもあまり大きな差異はないのですが、③のスタンスであるならば、何もあんなに難しいこと(自己の両手で相手の同じ個所(しかも体の末端)を持って相手の重心操作を行うこと)をしなくても良いということになる。



得てして、最初は①から入るでしょう。それはまぁ良いのです。


そこからの上達を思うとき、そして高頻度ですべての後輩に技を教えることができるわけではない立場にいるとき、②と③の間で葛藤が生じます。


②であれば、一つの技はそれなりにできるようになると思うけど、全体的な視野が狭くなる気がするし、③では、一つ一つの技が(細かい点で)崩れたり、教えてる内容がちょっと漠然としてしまい技にまで還元できずに終わったり。。。


最終的には受け取り手次第というところはあるので、あまりこちらが考えても仕方ないことではありますが。。。



教える側・教わる側の間でのロスをなくし、効率的な指導体系を実現できればいいんだけどなぁ。。。。


まずは密なコミュニケーションをとり、そこからニーズを聞き出すことが大事でしょうか。

いや、でもあまりかかわるとうざいOBと思われたり。。。うーん。