僕は変な外人である 「Ich der verrueckte Deutsche.」

●長年勉強している日本語で書いた回想録です。文法や漢字の間違いだけ、日本人が修正しました。

●日本語として不自然な表現や、習慣の違いから理解しにくい内容があるかもしれません。

●すべて現在のことではなく、昔々の出来事ですが、登場する日本人は一部仮名にしてあります。

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ごあいさつ

時々様子を見に来てくださって、本当にありがとうございます。

私、このブログを手伝っている怠惰な管理人です。

いずれ「新しい話」で再開する予定ですが…、いつになることやら。


でも、Trutz氏が日本語で書いた「古い話」なら大量にあるので、

ジャンルの違う内容で別ブログをつくりました。


こちらも、仕事の合い間にまったりペースで更新していますが、

よかったらぜひお立ち寄りくださいませ。

約半世紀前のドイツの田舎生活を綴った少年記です。


http://ameblo.jp/wallmerod/


35話:ハエ子ちゃんⅩ

心配そうな顔で僕を見つめているおばあさんから

「絶対に、家の中で蝿を放しちゃダメだよ!お母さんに怒られるからね!」

という忠告を受けて帰途についた。

手に提げた網の買物袋には、ブーンとうなる3本の瓶も入れてあった。

 

家に着くと、すぐに居間が家蝿の新しい分布領域となり、約3000匹の蝿たちが元気よく飛び回ったり、窓に飾った花や葉の上で日差しを浴びたりするようになった。しかし、この幸福は長く続かなかった。

両親は、気が遠くなるくらい僕を叱ると、すぐに悪魔の空軍に毒ガス戦を仕掛けた。

 

DDTという殺虫剤を利用する近代的戦略を立てた父母に、蝿たちは抵抗出来なかった。日も沈まないうちに一匹残らずガス中毒で死に、居間の床に散らばった死骸は、いつもお腹を空かせている真空掃除機に吸い込まれて、ゴミ箱の中で永眠についた。

 

ふたたび、より深い過去へと遡って、僕の旅も終わりに近づいた。

 

ある晴れた午前中、父は上半身裸になって日光浴をしながら、休診の日曜日をのんびり楽しんでいた。その時一匹の家蝿が、まだ若い父の密林のようにはびこった胸毛に引っ掛かった。いくらもがいても逃げられないという絶望的な状況だった。しばらくして蝿に気づいた父が、それを叩きつぶそうと手を振り上げて…、

突然、手で何かを叩いたような音で僕は目を覚まし、あっという間に現実に戻った。

 

バスの中。禿げ頭の男性も目を覚まして蝿を追い払うように手を振り回した。数匹の黒い蝿が禿げ頭の上を楽しそうに飛びながら、うっとうしい空気をかき回していた。個性のない数匹の蝿たちの中には、個性を持ったあのハエ子ちゃんがいるはずだ。

 

「個性のある可愛いハエ子ちゃん、生きているなら頑張れ!」と祈る僕をマジョルカ島のバスは目的地へと運んだ。

 

 

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34話:ハエ子ちゃんⅨ


ある日、パジャマ、歯磨き、歯ブラシ、石鹸等、一週間の生活に必要な物だけ網の買物袋に入れて、歩いて隣村に向かった。そこでは60歳のおばあちゃんが、首を長くして僕の到着を待っていた。目的地に近づくにつれて僕の足取りが速くなっていったのは、一刻も早く農家にいる家畜を見たかったからだ。

 

農家に着くと、そのまま挨拶もせずに豚小屋の中へ飛び込んで、生まれたばかりの小豚と遊んだ。僕にとって他の動物たちは存在しないも同然だった。

 

晩御飯の時、台所の天井を見上げた僕は、この世界の不公平をしみじみ感じた。昆虫に恵まれていない両親の家とは違って、農家の台所の元は白く塗られていたはずの天井は、家蝿の大郡で真っ黒になっていた。僕は、感動で胸がいっぱいだった。

 

だが、僕の気持ちを理解できない農家の人たちは、家中に蝿取りリボン等の武器を配置して、いつも蝿との勝ち目のない総力戦を繰り広げていた。天井から下がった数枚の蝿取りリボンの表面は蝿の死体で埋め尽くされ、もう受容力がなくなっている。悪魔の空軍ともいわれる蝿の軍隊は、最後の防衛線を突破して制空権を握っていた。

 

その時、まったく蝿がいない両親の新しい家を思い出した僕の中に、子供特有の正義心が湧き起こった。適当な入れ物を求めて農家の物置をくまなく捜索した結果、やっと3本の空き瓶を手に入れた。台所を狩り場にして、自分が猛獣ハンターになったような気になりながら馬鹿みたいに蝿を追いかけ、一匹も殺さないように注意深く瓶に入れた。中の蝿たちが逃げないように、ガーゼで瓶の口に蓋をした。

 

瓶の中でうごめく真っ黒な蝿を見た僕は、時間の旅人として、大人になってからの記憶も幼い頃の体験と同時に連想した。

 

それは、新宿から渋谷まで、混んだ山手線の電車に乗った時に何度も目にした光景だ。身長187cmの僕は、毎日うねる黒髪の波を見下ろしていた。そのうごめく黒い頭やとじ込められた人々の様子は、小さな瓶の中で起こった蝿の生存競争に似ている。

 

(つづく)

 

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33話:ハエ子ちゃんⅧ


それが個性を持っているハエ子ちゃんだったのか、それとも個性のない一般の蝿だったのか、僕には分からない。とても美しい蝿だった事はよく憶えている。その時に、蝿が食後三本の足を絡めて綺麗にした後で、あっという間にそのもつれを解き、また元の状態に戻ったのを生まれて初めて観察した。

 

サントリニの風景は消え、さらに深く過去に遡った。

 

拷問部屋のような所に、蝿叩き、糊の付いた蝿取りリボン、殺虫ガスを発生させる線香等、蝿の命をつけねらう道具が何種類も陳列されていた。全ての拷問用具がすぐに使える状態でそこにあった。まさに蝿狩りの真っ最中。僕も喜んで蝿の大量殺戮に参加し、一匹の蝿を窮地に追い込み、早く殺せる好機が到来しても止めを刺さず、翼や足を引き抜いた。その後、また放して死の苦しみを味わわせた。

 

それは単なる残忍性なのか?それとも世代を越える蝿に対する憎しみが、そのような子供の行動として現われるのか?

医師Heinrich Hoffmann (1809-1894) が書いた「ものぐさペーター(Struwwel Peter)という小学生向けの道徳小説が、色の混じり合った絵のように脳裏に浮かんだ。夢という毎夜睡眠中に催される無料の映画祭は本当に普通のドラマに優るか、という問題について考えながら、また目に見えない力によって過去をどんどん遡っていった。

 

次の行き先は、自宅と父の医院が一緒になった蝿もネズミもいない新しい家に引っ越した翌年だった。

 

いつもの夏と同じように、両親は僕の避暑の場所として、家から1キロしか離れていない隣村を選んだ。避暑という表現はちょっと大げさかも知れない。どちらの村も「牧場で草を食べている牛が凍死した」という噂が広まるほど冬の寒さで有名だ。

隣村は、農家、商店、居酒屋の上にそびえる伯爵の城を中心に、スレート屋根と藁葺き屋根の家が小さな山を覆っている。人口が少ないので城下町というより城下村といった方がいいかもしれない。

 

(つづく)

 

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32話:ハエ子ちゃんⅦ


決まった清潔儀式の手順を踏むように、最初に右の前足で左の目、それから左の前足で左の目を磨いて、まず周囲をはっきり見える状態にした。

次に、左の後足と腹部で左の翼を挟んで擦るように引き出し、翼についた食べ残しを取り去った。右側も同じ様に綺麗にした。全ての六本足を使って、頭、腹部、胸部から汚れを取り終えると、最後に掃除道具として使った足からホコリを取り除くために、細い前足二本、それに続いて後足二本を互いに擦った。

 

中足が問題になると思う人がいるかも知れないが、まったく問題にならない。右の中足も左の中足も、平気で前足や後足の擦り合いに参加する。複雑に絡み合ったハエ子ちゃんの足は、解きたくても解けない結び目のように見えた。そんな僕の心配など物ともせず、器用なハエ子ちゃんは瞬く間に足の結び目を解いた。

 

数分の間、体を綺麗にする作業に夢中だったハエ子ちゃんは「さっぱり蝿は美しい蝿だ」といいたげな表情で、僕をジロジロ見つめた。催眠術にかかりそうな視線だった。

やがて、僕の意識も外部からの刺激に対する感受性も、何となく変わってきた。道路の穴や古いエンジンのせいで振動するバスは揺りかごのように心地よくなり、運転手の病的な呼吸音や湿気は、乗客が発散する汗の悪臭と混ざり合って、波の音と海の香りに化けた。

 

突然、エーゲ海のブルーとサントリニ島の外輪山が、調和の取れた光景を呈して目の前に現われた。一年前に夏の旅行で訪れたサントリニ火山島の幻影だ。

 

ハエ子ちゃんはさっそく自分の個性を証明するために、僕をタイムトンネルへと送り出したようだ。時間軸を辿って目指したのは過去だった。

 

大きな果物カゴの中で、まだ切り分けていない西瓜が窓から差し込む日光で輝いていた。緑色の濃い西瓜で、その表面には露の玉がキラキラしている。そして、そこには小さな家蝿がいて一粒の露の新鮮な味を楽しんでいた。

 

(つづく)

 

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31話:ハエ子ちゃんⅥ


次に、国籍は?命名するためには、国籍も重要な要素に違いない。蝿の行動には、万国の国民性の要素が潜んでいる。たとえば、何度追い払っても同じ場所に停まる蝿の癖は、ドイツ女性の頑固な行動に似ていないか?

だが、そんな理由で名前をつけたと分かったら、女らしくないドイツ女性の反感を買うかもしれない。個性を持つことになる蝿に迷惑をかけたくなかったので、ドイツ女性の名前は断念した。

 

相変わらず禿げ頭の上に落ち着いている蝿の名前は、日本語で「ハエ子ちゃん」と決まった。「ハエ子」に加えた「ちゃん」は、可愛い蝿の名前の一部にあたる。テレパシーで命名の情報を得たのか、ハエ子ちゃんはプリマ・バレリーナにも劣らない踊りを始めた。そして数秒も経たないうちに舞踊を中止して、一粒の玉の汗へと近づいた。

 

玉の汗がハエ子ちゃんの注意を引いたのは明らかだった。六本足のチョコチョコ歩きで玉の汗にどんどん接近して、しずくの状態や味を前足、触角、吻で詳しく調べ始めた。どうやら検査に合格したようで、ハエ子ちゃんは口先をまるで空気ハンマーのように動かして、汗を喉へ流し込んだ。

 

そうとは知らず、ハエ子ちゃんに玉の汗一粒を御馳走することになった禿げ頭の持ち主は、依然として眠り続けている。ハエ子ちゃんの飲んでいる玉の汗が少しずつ小さくなるのを観測出来た、と僕は一人で思い込んだ。バスの動きに合わせて揺れる禿げ頭の上で、車に酔わないようにバランスをとりながら食事をして渇きいやすという芸当をこなすのは、きっと唯一無二の喜びだろう。

 

食欲旺盛な蝿の胃の容量にも限度があるので、ハエ子ちゃんはその後まもなく食事を終え、体を綺麗にする作業に着手(着足?)した。

小さな家蝿が、足、翼、頭、目、腹部、胸部等から汚れをとる光景を眺めていると、清潔好きな日本人も負けそうだ、という考えが浮かんでくる。

 

ハエ子ちゃんも綺麗好きな家蝿だった。

 

(つづく)

 

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30話:ハエ子ちゃんⅤ

僕の前では、玉の汗でキラキラ光っている禿げ頭も、その上でひと休みしている蝿も全く変わりのない光景を呈していた。差し当たり、その小さな蝿に触発された僕の空想は煙のように消えうせた。そして、僕は改めて意識を集中させて蝿を観察した。

 

絹糸より細い六本の足。血管と昆虫に特有の気管が、網のように織り込まれて透き通った翼。毛の衣に覆われた腹部。それから虫眼鏡でしか観察出来ない触角の微動。取るに足りない蝿の体に秘められた自然の美しさは、僕の心の奥底に侵入するほど印象深かった。

 

しかし蝿の目を見ると、体の美しさも色褪せてしまうかもしれない。六角形をした数百もの構成要素で組み立てられている複眼は、光の入射角によって色が変わる。目の前にいる蝿の複眼は真っ黒。丸くて大きな目だった。その目を見た時、虹の色にきらめく複眼の写真を思い出した。

 

突然、その蝿に個性を与えたいという気持ちが沸き起こった。

 

人間界では、個性という概念は人格を構成する才能、欠点、長所、外観等を表わす。人名はその個性を象徴しているのに、動物の名前はその生物の種類と特徴を示すものに過ぎない。

ちなみに動物の分類法では、ショウジョウバエはDrosophilaであり、皆に嫌われているキンバエはLuciliaという。誰の耳にも美しく聞こえる名前から、美人を連想する連中もいるだろう。蝿は抽象的に考える能力に恵まれていないので、お互いに名前をつける事が出来ない。それで僕はこの蝿に名前をつける事にした。

 

性別については全然迷わなかった。

僕は、卵から産まれたばかりのヒヨコの雄・雌を見分けるセックサーのような能力を持っていない。つまり、もともと性別とは関係のない判断基準を当てはめるしかない。そう決めた瞬間に「体が可愛くて動きが優雅だから、この蝿は雌だ」という、くつがえす事の出来ない結論に達した。

 

(つづく)

 

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29話:ハエ子ちゃんⅣ


カラヤンのように、傑出した楽団の前で指揮棒を振り回すのは、至上の娯楽かも知れない。だが、いつもレッスンをサボり、あまり練習もしないのに、自分には才能があると妄想を抱いている若い学生に古典音楽を教えるピアノ教師の人生は、果てしない苦難の道だ。そんな人生行路をいくうちに、教師たちの表現力が妙な方向に発達し続けて、学生に対する指導の言葉が皮肉になっていくのも無理はない。

学生が、楽譜を見ているのに何度も同じ場所で間違った音を弾いたら、教師はそのミスを次のような表現で指摘する。「何だお前は?楽譜の音符だけじゃなく、そこに散らばった蝿の糞まで見て弾いているのか?」

 

さらに、神経にさわるうるさい奴から一秒でも早く逃れたい場合、単に「うせやがれ!」ではなく「蝿になってしまえ!飛び去れ!」と怒鳴りつける。

また、こんなナンセンスな表現もある。「さぁ、皆で牛糞を食べよう!八百万の家蝿が味覚障害に悩んでいない限り、味は間違いない。保証つき!」

 

以上、蝿を主役にした2つの慣用語から、また蝿の排泄物の話に戻ろう。最後に結びの一番として、ヒトラー時代を舞台にした、ある男と役人の小話を紹介したい。

 

次のような場面を想像して欲しい。役所の狭い事務室、薄暗がりの中の古ぼけたデスクで、一人の公務員が居眠りをしている。白い壁に飾られた額の中から、写真のアドルフ・ヒトラーが厳しい顔つきで静かに公務員を監視している。突然、一人の男性がドアを開けて事務室に足を踏み入れ、この穏やかな雰囲気を乱す。彼が咳払いをすると公務員は目を覚まし、デスクから邪魔者を見上げて面倒くさそうに対応する。

 

公務員「なに?」

男性 「登録してある私の名前を変更したいんですけど…」

公務員「名前は?」

男性 「ハエクソ・アドルフと申します。」

公務員「なるほど。確かに、そんな名前では気の毒だ!」

男性 「変更出来ませんか?」

公務員「ちょっと難しいけど出来ると思う。で、どんな名前に変えたい?」

男性 「ハエクソ・ヘルムートです」

 

(つづく)

 

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28話:ハエ子ちゃんⅢ

その友人は、歪んだ精神の持ち主で、汚れそうになった日本のイメージを守るために途方もない嘘をついたという恐れもある。僕はそれを予知しながら、念のために図書館で昆虫学大辞典にある蝿科のページをめくって、家蝿の生理学を調べてみた。

 

「家蝿には、2つの複眼の他に、頭部に位置する明暗しか区別出来ない感覚器官があり、合わせて3つの目がある」という基本情報の他に、

「家蝿の仲間は、無期懲役の判決を受けた囚人と独房の中で切望に満ちた生活の苦しみを共にする唯一の生物だった、というテーマの文学作品も少なくない」など、面白い研究もあって、僕の昆虫学の知識を飛躍的に広げてくれた。

 

だが、この辞典には家蝿を「便所蝿」と「台所蝿」に、あるいは「糞食蝿」と「寿司食蝿」に分類出来るかどうかという事に関しては、何ひとつ書かれていなかった。僕は友人の新しい理論の判断に困った。彼は日本人としての意地と自然科学に必要な事実の板ばさみになってしまった、という判断を下さざるを得なかった。

 

  

禿げ頭に停まっている蝿は、依然として無感動に僕の方を見つめていた。

 

僕の視線と小さな蝿の複眼の視線が合った。その瞬間、蝿は日常会話に影響を及ぼすほど我々の生活に入り込んでいるという考えが頭に浮かんだ。

その例は無数に上げられるが、ドイツの日常会話では蝿そのものより蝿の排泄物を使った表現の方が一般的だ。つまらない物事を蝿の排泄物に例えることから、身体が小さくて弱い男を軽蔑して「蝿の糞」というあだ名を付けることもある。

 

また古典音楽で名高いドイツでは、蝿とその排泄物は音楽界にも入り込んでいる。蝿の糞に関する言葉がヘルベルト・フォン・カラヤンの口癖だったという話は、ベルリン交響楽団では常識だろう。

 

(つづく)

 
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27話:ハエ子ちゃんⅡ


実際、全人類の抱いている偏見は根拠がないとはいい切れない。感染病が広がる時には蝿が関係していることも少なくないのだ。

また、蝿は一日に何度も牛の糞と台所の間を往復しているが、食事の時間になると食卓を集会の場所に選ぶ。その間はトイレに蝿がいなくなる。この現象は、他の人が美味しい料理を楽しく食べている時にトイレで排泄している連中の不利とはならない。

 

日本に留学していた頃、友人たちは僕を喜ばせるために何度か御馳走してくれた。その時の雰囲気や話の内容、料理等はおぼろ気にしか憶えていないが、ある晩、40才の男性と一緒に食事した時のことは、絶対僕の記憶から消え去らない。

 

一匹の小さい家蝿が、皿に盛られた野菜の山に登ろうと気が遠くなるような努力をしていた。頂上まで六本足で這い上がるより飛んで行った方が早いかもしれないが、この家蝿はくたびれる山登りの方を選んだようだ。

 
この小さな蝿が、興味深い論争の種となった。
 

蝿が野菜の山に着陸(着菜?)するちょっと前に、その理由は完全に忘れたが、友だちは自慢気に「日本の清潔水準は世界最高だ!」という意見を主張していた。その話を聞いて、「清潔水準も高い」と評判のドイツが日本の影に置かれるのを恐れた僕は、ちょうど野菜の山頂にたどり着いた蝿を指して、

「いま僕らの野菜の味を楽しんでいるこの蝿の足に、小児麻痺又は肝臓炎の細菌がついていたら、どうする?」と反論した。

さらに、牛糞も人間の食卓も区別することなく分布地域に選んでいる蝿の生理学も、詳しく説明した。今や日本の清潔神話には汚点がついていた。


そして、予想外の破局を迎えそうになった友人は、日本の評判を守るために画期的な理論を打ち立てた。手短にいうと、次のような内容だ。

「トイレで細々と生計を立てている家蝿と、食卓で贅沢に暮らしている家蝿は、同じ種類ではない。」


創造的な問題解決だった。存在して欲しくない問題は実際に存在していない、という確信から生みだされたものに違いない。

(つづく)

 

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