29話:ハエ子ちゃんⅣ
カラヤンのように、傑出した楽団の前で指揮棒を振り回すのは、至上の娯楽かも知れない。だが、いつもレッスンをサボり、あまり練習もしないのに、自分には才能があると妄想を抱いている若い学生に古典音楽を教えるピアノ教師の人生は、果てしない苦難の道だ。そんな人生行路をいくうちに、教師たちの表現力が妙な方向に発達し続けて、学生に対する指導の言葉が皮肉になっていくのも無理はない。
学生が、楽譜を見ているのに何度も同じ場所で間違った音を弾いたら、教師はそのミスを次のような表現で指摘する。「何だお前は?楽譜の音符だけじゃなく、そこに散らばった蝿の糞まで見て弾いているのか?」
さらに、神経にさわるうるさい奴から一秒でも早く逃れたい場合、単に「うせやがれ!」ではなく「蝿になってしまえ!飛び去れ!」と怒鳴りつける。
また、こんなナンセンスな表現もある。「さぁ、皆で牛糞を食べよう!八百万の家蝿が味覚障害に悩んでいない限り、味は間違いない。保証つき!」
以上、蝿を主役にした2つの慣用語から、また蝿の排泄物の話に戻ろう。最後に結びの一番として、ヒトラー時代を舞台にした、ある男と役人の小話を紹介したい。
次のような場面を想像して欲しい。役所の狭い事務室、薄暗がりの中の古ぼけたデスクで、一人の公務員が居眠りをしている。白い壁に飾られた額の中から、写真のアドルフ・ヒトラーが厳しい顔つきで静かに公務員を監視している。突然、一人の男性がドアを開けて事務室に足を踏み入れ、この穏やかな雰囲気を乱す。彼が咳払いをすると公務員は目を覚まし、デスクから邪魔者を見上げて面倒くさそうに対応する。
公務員「なに?」
男性 「登録してある私の名前を変更したいんですけど…」
公務員「名前は?」
男性 「ハエクソ・アドルフと申します。」
公務員「なるほど。確かに、そんな名前では気の毒だ!」
男性 「変更出来ませんか?」
公務員「ちょっと難しいけど出来ると思う。で、どんな名前に変えたい?」
男性 「ハエクソ・ヘルムートです」
(つづく)