(2005年に訪問した広島市です。この川は元安川、奥の橋は相生橋です)
おはようございます。
作っている作品が、広島市への原子爆弾投下による膨大な犠牲という史実をベースにしている以上、本日を無視することは到底出来ません。
日程はまだ決めておりませんが、今年は広島市を再訪することを考えております。
さて、今回の記事では僕が「ヨシノとミコト編(堕ちたテンシと太陽の物語)」を描くにあたって思っていることを少々記そうと思います。
(1)もちろん運命や現象ではありません。
作中では今のところは「ミコト」が「この世界は『現象』であり、全ては始まった時から決まっている『運命』である」と言っていますが、むろん本作のポリシーはそうではありません。
「ムジャ子」は本シリーズの別のシーンで「『運命』に逆らえヨ!」と言っていますし、また「ヨシノ編」の冒頭で、すでに「ミコト」も「『運命』を呪った」って言ってます。
原爆投下は「人間が人間に対して行った酷いこと」の一つとして作中で取り上げています。
「人間が行うことは現象や運命なのでしょうか?」、僕の考えてることはもちろん「否」です。
(2)地縁、血縁、それらとは関係なく
僕自身は広島との地縁はなく、また身内に話題性のある戦争体験者がいるわけでもありません。
そのような無縁の者が戦争を調べ話題にする、そして将来を考えるということは意義があると考えています。
つまり他人事だとは考えない!ってことです。
そして実際問題、将来を考えるということについては誰にとっても他人事じゃないのです。
僕個人としては、多くの人が歴史やイデオロギーを語ることを禁忌と思わず、思うことを話せる社会が普通に普遍的になること希望します。
禁忌とせず普通に語れるようにするには、「発言者の人格を非難することなく」、「意見を交わす」ことができる成熟した市民社会の一員となることを私達は意識する必要があると考えます。
キレイゴトだけが語られる社会ではないと思います(むしろキレイゴトが語られることはめっぽう減ると思います)。
しかしながら禁忌とせず語れる世の中にすることで、私たちは自らの選択肢を見つけることができるでしょう。
余談となりますが、以前に拙作の登場人物「ヨシノ」は「カナエ」の前世なのですか?という質問を頂いたことがあります。
その場でお答えしたように思いますが、この二人は顔こそ似ているんですけど、血縁もスピリチュアルな要素もなにも繋がりのない無関係な間柄です。
なぜ無関係なのか?は前述のポリシーの通りです。
「ヨシノ編」に登場する「松井中尉」が「松原中尉」という名前だったら物語としてセンセーショナルだよなあ?とか思ったこともあります(カナエの姓は「松原」なので)。
でも、そうはしませんでした。
以上、雑文ではありますが思うことを語らせて頂きました。
「ヨシノとミコト編(墜ちたテンシと太陽の物語)」を描いている者として原爆忌によせる所感と致します。
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