「日本におけるキリスト教 ⑮ イエス・キリストを信じない者たちについて ③」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 ⑮ イエス・キリストを信じない者たちについて」

 

プロテスタント福音派の教会では「人間は罪を犯しているために、生前にイエス・キリストを信じることがなければ地獄に行く」と教えられてきました。

 

人間が考える最も大きな罪は「殺人」になるでしょう。

 

聖書にもこのように書かれています。

「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。出エジプト21:12」

 

しかし、その続きには「ただし故意ではなく偶然、彼の手に神が渡された場合は、神は逃れる場所を定めている。出エジプト21:13」と教えています。

 

 

「人を死なせた者」について、このような事件を聞いたことがあります。

 

「男1」と「男2」は、町で女性を物色し、拉致して車に乗せ、山奥で乱暴した後で生き埋めにして殺すことを楽しんでいました。

 

その時に暴力で支配していた「男3」を生き埋めで殺す時に手伝わせています。

 

ある時「女性A」と「女性B」を拉致して、まず女性Aを乱暴してから生き埋めにして殺しました。その次に女性Bも乱暴されましたが殺される前に、すきを見て逃げ出しました。

 

しかし、男2に捕まって格闘となり、無我夢中で思い切り突き飛ばしたら、男2は崖から落ちて死んでしまいました。

 

そして、人を死なせた者たちの裁判がありましたが、男1は死刑判決、男3は懲役刑、女性Bは正当防衛で無罪判決になりました。

 

このように「殺人の罪」でも、まるで違います。聖書に書かれてある通りに、死刑に処せられる者と、逃れる者とに分かれるのです。

 

 

それは、あらゆる事に対しても同じです。

 

人は生きていく中で、様々な人との出会いがあります。

 

その中で「信じられる人」と「信じられない人」とがいます。「信じられる人」は、ごくわずかでしょう。

 

そして「信じられない人」の中でも大きく2つに分かれます。

 

1つは、信じられるまではいかないけれど、職場の同僚、クラスメート、趣味仲間などで「受け入れている人」です。

 

もう1つは「嫌いで憎んでいる人」です。

 

偶然に町のどこかで「受け入れている人」に出会うと、声をかけ、少し話をしてから「またね~」と笑顔で手を振ります。

 

ところが「嫌いで憎んでいる人」を偶然に町で見かけると、顔を合わさないようにして隠れます。そして「この時間帯のこの場所には二度と来ないようにしよう。」と思います。

 

このように「信じていない人」の中でも、「受け入れている人」と「嫌いで憎んでいる人」とは、まるで違います。

 

 

聖書の教えもまったく同じです。

 

牧師たちは、聖書で最も大きな罪は「イエス・キリストを信じないこと」だと教えています。

 

前々回①と前回②で書きましたが、「イエス・キリストを信じない人たち」の中でも、「イエス・キリスト(光)を憎んで行ないが悪い人たち」と「イエス・キリストを受け入れている人たち」と2つに分かれているのです。

 

 

イエス・キリスト(光)を憎み、光よりも闇(悪魔)を愛した行ないが悪い人たちは、律法学者とパリサイ派の人たちでした。

 

イエスさまはこのように教えておられます。

「忌まわしいものだ、偽善の律法学者、パリサイ派の人たち、おまえたち蛇ども、まむしの末ども、おまえたちは、ゲヘナ(火の池)の刑罰をどうして逃れることができよう。

 

わたしが預言者、知者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害していくのです。

 

それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなた方の上に来るためです。

 

まことに、あなた方に告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。マタイ23章33~36」

 

まさにヨハネ3章18~20と36節に書かれてある通りです。

 

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、既にさばかれている。

 

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行ないが悪かったからである。

 

悪いことをする者は、光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。ヨハネ3章18~20」

 

「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネ3章36」

 

 

そして「イエス・キリストを信じていない人たち」でも、イエス・キリストを受け入れている人たちは「わたしたちの味方です。」と教えられました。

 

また、クリスチャンに一杯の水でも飲ませる人たちは、決して報いにもれることはありません。と教えられ、

あなた方が、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。世の初めから、あなた方のために備えられた御国を継ぎなさい。と教えられました。

 

 

このように、聖書の主イエス・キリストの教えは「イエス・キリストを信じていない人たち」の中でも、まるで違うことを明確に教えられています。

 

 

そして、現在でも聖書の時代のパリサイ派の人たちのように、イエス・キリスト(光)を憎み、イエス・キリストを信じるキリスト教徒という理由で捕らえて殺す人たちがいます。

 

2015年には、IS(自称イスラム国)は、2月にエジプト人キリスト教徒21人を捕らえて殺害しました。

 

4月にはエチオピア人キリスト教徒約30人が捕らえられ、斬首して殺害する動画を公開して、全世界を震撼させました。

 

 

しかしながら、キリスト教徒たちを次々に惨殺していたISの戦闘員の中で、殺されるキリスト教徒から聖書を渡された戦闘員がいました。

 

その戦闘員は、聖書を渡したキリスト教徒を惨殺した後で、聖書を読んでみると、白い服を着た男が来て「あなたは私の民を殺している」と言われる夢を見たのです。

 

それから、その戦闘員は自分がしていることに気分を害するようになり、不安に襲われて、ついにキリスト教徒に改宗したのです。

 

 

聖書では、パウロがそうでした。

 

パウロはパリサイ派で、キリスト教徒を男も女も捕らえて牢に入れて、殺すことが使命でした。その頃の名前は「サウロ」です。

 

しかし、ダマスコ近くの道で、イエス・キリストが突然に現れて、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」と言われました。

 

その時のことをパウロはこのように言っています。

 

「私は以前は、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていない時に知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。第一テモテ1:13」

 

 

パウロは、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者であっても、イエス・キリストを信じていない時に知らないでしたことなので、神のあわれみを受けたと教えています。

 

まさに、主イエス・キリストが「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということが、どういう意味かを知っていたら、あなた方は、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」と教えられた通りです。

 

 

ところが、そのような聖書の教えを「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、既にさばかれている。」

 

「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」という箇所だけを切り取って、

 

「イエス・キリストを信じない者は、神の怒りがその上にとどまり、既にさばかれている。つまり、そのまま死ねば地獄へ行くのです!」というように、

 

イエス・キリストを信じていない人たちは全員が地獄行きというように教えていれば、イエス・キリストという神さまは理不尽で冷酷非道で、いけにえを超超超超絶に好まれる神さまだということをでっち上げて教えていることになります。

 

そのような、でっち上げの教えは非常にたちが悪く、聖霊を冒涜している感じがします。

 

 

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