「日本におけるキリスト教 ⑬ 御子イエスを信じていない人々」
無教会の内村鑑三先生は、聖書の教えに「愛」を身に着けなさいと言われています。
中村哲先生は福音派が教える「三位一体」などが理解できなかったのですが、内村先生は「愛」を身に着けて教えていたので理解ができたのです。
私が紹介している信仰者たちが一致していることは、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容であり、聖書の教えに「愛」を着けていることと、すべての人を「平和」にあずからせるということです。
それは、この聖書の御言葉通りです。
「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても赦し合いなさい。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。
愛は、すべてを完成させる絆です。
また、キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。
この平和にあずからせるために、あなた方は招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。コロサイ3:12~15」
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しかしながら、聖書には未信者(イエス・キリストを信じていない人)たちにとっては、非常に残酷非道と思える恐ろしい教えも書いています。
「御子を信じている人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネ3:36」
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は既にさばかれている。神のひとり子の名を信じていないからである。ヨハネ3:18」
この聖書箇所がプロテスタント福音派の「福音理解」の土台になっていることが、福音派の神学を学べばわかります。
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さて、前回記事でも「狭い門から入りなさい。」という聖書箇所の意味は、イエスさまが、にせキリストとにせ預言者たちが現われた時に、にせ預言者たちに惑わされる滅びの広い門から入って行く者が多く、いのちに至る門は狭くなり見い出す者はまれになることへの警告をされたということが、後の文脈から理解できました。
それと同じです。
ヨハネ3:18~20までを続けて読んでみます。
「信じない者は既にさばかれている。神のひとり子の名を信じていないからである。
光が世に来たのに、人々はその行ないが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。それが、もうさばきになっている。
悪を行なう者は皆、光を憎み、その行ないが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである。」
この教えは、地上で福音宣教を始められたイエスさまが、パリサイ派に属するニコデモに教えています。
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イエスさまの地上のイスラエルの地での福音宣教は、目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。というものでした。
その当時のイスラエルでは、目の見えない人たちは「本人か両親が罪を犯したために、神の御怒りによって、目が見えないようにされている呪われた罪人」というように決めつけられていました。
それゆえ、親からも見捨てられ、路上で物乞いをして暮らしていました。
イエスさまの弟子たちも初めは信仰が薄く、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見ると、こうイエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか?本人ですか、それとも両親ですか?」
イエスはお答えになりました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。ヨハネ9:1~3」
そう言われてイエスさまは、目を見えるようにしてくださったのです。
その後で、パリサイ派のユダヤ人たちは、目の見えるようになった人の証を聞いて激怒し、外に追い出しました。
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イエスさまの福音宣教は、人々から「神の怒りがその上にとどまっているような呪われた罪人」と言われ、疎外され、過酷な重荷を背負わされている小さき人たちを救う働きでした。
「あなたが罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神はあなたを怒ってなんかいない。愛しているのです。神の業があなたに現れることが神の御心です。」という福音宣教でした。
人々から「罪人」だと断言されている人々を解放することが「神の業」でした。
人々から「罪人」だと言われ、疎外されている小さき者たちが、イエスさまと出逢い、神の栄光が現わされて、神の御子であるイエスさまを信じたことが聖書に随所に書かれています。
その一つの聖書箇所です。
「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
しかし、中には、パリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
そこで、祭司長たちとパリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。
『この男(イエス・キリスト)は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。
このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。ヨハネ11:45~53」
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聖書が教えているのは、地上でイエスさまの地上での福音宣教が行われている時に、イスラエルの様々な地域において、多くの人々はイエスさまを信じました。
けれど、祭司長たちとパリサイ派の人々は、イエス・キリストを信じることはなく、イエス・キリストを憎んで殺そうと計画しました。
まさに「信じない者は既にさばかれている。神のひとり子の名を信じていないからである。
光(神の御子イエス・キリスト)が世に来たのに、人々はその行ないが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。それがもうさばきになっている。
悪を行なう者は皆、光を憎み、その行ないが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである。ヨハネ3:18~
~20」と書かれている通りです。
そのような、世に来られて神の業を行なっておられる「光である神の御子」を信じないで、憎んで殺そうという悪を行なおうとしている人々のうえに神の怒りがその上にとどまっていると聖書は教えているのです。
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ですから、聖書を読めば、聖書が具体的に教えているイエス・キリストを信じていない人々と、現在の日本において、イエス・キリストを信じていない人々とは、まるで違うことが明確にわかります。
聖書の教えを正直に教えることによって、神の愛を身に着けて、キリストの平和の教えの福音を伝えることで一致しているようになるのです。
つづく