教会の牧師は聖職者であるか? | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

前回、福音派の教会では「牧師=使徒の立場」ということを書きました。

つまり、牧師は教職者ではなく、「聖職者」ということです。

 

それは聖書に書かれていることに基づきます。

 

私自身が、いくつもの福音派の教会の礼拝メッセージで聞かされたことを要約しますと次のようになります。

「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師…と教えています。

 

さらに、イエスはペテロに『わたしの羊を飼いなさい。わたしの羊を牧しなさい。』と命じられました。

また、イエスさまは『わたしは良い牧者です』と言われています。

 

ですから、教会に、神は第一に使徒である牧師が立てられていて、牧会者として、羊である信徒たちを牧して、養わなければならないのです。」

 

 

つまり、福音派の教会の牧師は、福音派は聖書信仰ですので、聖書に明確に「神は、教会の中に第一に使徒をお立てになりました。第一コリント12章28節」と書いてあるのですから、教会の中で、牧師は使徒の立場になると信じています。

 

また、使徒ペテロと同じく「羊を牧する牧会者」ですから、使徒と同じ立場の聖職者という自覚を持つことが大切になります。

 

ですが、信徒との交わりの中では、「牧師はそんなに偉くないよ」と謙遜している牧師が多いです。

 

それから、聖書に明確に書かれていたとしても、牧師は使徒の立場にならないとする福音派の教会の牧師がいるかも知れません。

個人的には、何十人という福音派の教会の牧師を知っていますが、そういう牧師を知りません。

 

 

さて、キリスト新聞社が発行しているMinistryという雑誌に「牧師を辞めたクリスチャン」の特集記事が掲載されています。

内容を読むと、自分自身が福音派の教会の中で見聞きしたり体験したことと同じなので、すごく共鳴しました。

 

むしろ、自分自身が体験したことは特例で、実際はそんなに酷くはないとも思いたかったのですが、実際はその通りだったなと絶句した次第であります。

 

 

記事の内容は、

 

宣教旅行先で買春をする神学生、少年への性被害を隠蔽した神学校、教会の金を横領事件、セクハラ、ストーカー、暴力事件を起こしても牧師が教理でかばう。

 

牧師自身の不倫や買春。

 

牧師の「御心です」に従った結果に多額の借金を背負った教会。

 

教会の組織ぐるみで神学生を自殺に追いやった教団。

 

信徒さんの財産を奪った教派。

 

そして、牧師を辞めた理由として、見聞きするのは、お金・女性・名誉の問題が多いのですが、個人的には「聖職」でありつつ、「冠婚葬祭屋」というバランスが取れなくなったからだと言っています。

 

そして、神学校は「自動車教習所」と同じだと言います。

 

(個人的には神学校は、授業料を全額払い、授業と実習を真面目に受けてさえいれば資格を習得できる「介護の初任者研修」と同じだと思いました。)

 

さらに、牧師を辞めた最大の理由は「信徒を愛していない」と思ったこと。

 

また、「神の愛」「ゆるし」という麗しい言葉による不義の虚飾に耐えられなくなって辞めた。ということでした。

 

 

この牧師を辞めたクリスチャンは正直で純粋な方だと思いました。

 

私自身、ある無牧師教会に導かれました。

私は音楽制作とゴスペル教室を通して「福音を伝える働き」をしていたところ、その働きが何度もクリスチャン系新聞や世の中の新聞社の記事になったことがあります。

 

また、聖書の教えや教義などをよく知っているので、それで、「牧師」と勘違いされることがよくあります。

 

その無牧師教会の信徒さんたちも、私を牧師と思っていたらしく、すごく期待していたのです。

もし、神学校に行って資格を習得していれば、そこの牧師として、話が進んでいたでしょう。

 

けれど、自分自身のことは自分でよくわかります。

 

教会の牧師になれば、好きな信徒と嫌いな信徒が出来て、心の中で「えこひいき」するでしょう。

 

また「好きな信徒」というのは、性的に好きになる人を含みます。

 

それは結局、「信徒を愛してはいない」ということになり、葛藤することになります。

 

それから福音派の神学では「神の御子イエス・キリストを信じていないノンクリスチャン(未信者)は滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄に行ってしまう」という教えです。

 

ですが「神は愛です。」「ゆるし」「あなたは愛されて生まれた」という麗しい言葉を前面に出していくというのは、不義の虚飾に耐えられなくなっていきます。

 

そして、教会の中での牧師は使徒という立場だという第二コリント12:28の御言葉と自分自身を照らし合わされば幻滅します。

 

それにも関わらず「牧師」という立場で、教会の信徒たちや教会に来る人々に一目置かれる存在で尊敬されているのです。

 

自分の心の中、考えていることを知られれば、失望されるでしょう。

 

ですから、福音派の教会で牧師をするのは、誠実で正直であれば、無理な話です。

 

 

雑誌「Ministry」の記事の最後に「取材後記」があり、次のように書かれています。

 

「あまり公に語られることは少ないが、神学校の在学中に挫折を経験し、進路を変える学生や、牧師から転職し、一信徒として過ごす人も少なくない。

 

その意味で、牧師を辞めることは一概に『失敗』とも言えない。」

 

この取材後記を読んで、挫折したり、転職したりする人たちは、正直で純粋な人であり、そういう人が少なくないのは希望があると思いました。

 

それゆえに「無教会」というキリスト教の教えは安心しました。

 

無教会の矢内原忠雄先生は、こう教えます。

「キリストに救われるためには教会員にならなくてもよい。

 

キリスト者であるためには、キリストの福音を信じることだけが条件であって、それ以外の形式的資格は必要な条件ではないというのが、無教会主義の主張です。

 

私は専門の宗教家でも、聖書研究家でもなく、ただの平信徒であり、素人の聖書研究者であるに過ぎませんが、君たちが希望なら、ボツボツお話してもよい。」

 

無教会の教師というのは、平信徒であり、素人の聖書研究者が、ボツボツお話するものなのです。

 

それですと、個人的にも、こうして色々と発信していけるのです。

 

人間は「聖職者」にはならないほうがよい。

なれば「性職者」と言われるのがオチでしょう。

 

前回記事で書いたように聖書が教える「使徒」たちは、すべてを捨てた。

 

そしてイスカリオテのユダを除く12弟子と使徒パウロは、聖書に書かれている中で「不祥事」を起こしていないのです。

 

自分自身をわきまえた正直で純粋なクリスチャンたちと出会いたいものです。

 

そして、神ご自身が探し出し、養われます。

 

 

 

 

『しくじり』を教訓に」より Ministry 2016年冬・第28号

 

 現在、好評発売中のミニストリー第38号。特集「改めて〝和解〟を問う」では来日したアメリカの神学者S・ハワーワスにインタビュー。「説教道場」ではカリー主教による「あの」説教を分析。教会を離れた若者たちの手記「私が教会を離れた理由」も掲載中。

 

 今回は「手記 私が教会を離れた理由」にも通底する、「牧師を辞めたクリスチャン」についての過去記事を全文公開。全世界の教会で頻発する教役者/聖職者たちの不正とスキャンダル。慢性的な牧師不足と募る信徒の不満、経済的破綻、超高齢化、過疎化、辞めていく牧師たち――日本の教会に未来はあるのか。

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 後継者不足に悩む教会においても幸いなことに牧師志願者は存在する。しかし、同時に離職者もまた多い。何が問題なのか。見えない現実に光を当てた。都内某所。匿名厳守ということで仲介者を挟み、取材班は牧師経験者に話を聞いた。

――「失敗」というテーマで話をお聞きするのは気が引けますが……。

 

 まず牧師にとっての何が成功で何が「失敗」なのか、非常に難しいですね。信徒数が増えれば良いのか、会堂を建てることができれば「成功」なのか。ただ、私自身は牧師として全体的に失敗したと思いましたし、続けられないなと思って数年前に辞職しました。

 私が見聞きしてきた教会関係の「失敗」――「失態」とも言えるかもしれません――ならいろいろありますよ。たとえば、宣教旅行先で買春をした神学生、教授による少年への性加害を隠蔽した神学校、会堂建築の積立金を横領して蒸発した役員、セクハラ、ストーカー、暴力事件を起こした息子を教理でかばう牧師、または牧師自身の不倫や買春。

 他から聞いた話だと、「み心だ」と声高に叫んだ結果、とんでもない額の借金を背負った教会、あとは組織ぐるみで神学生を自殺に追いやった教団、信徒さんの財産を結果的に奪ってしまった教派の話。

 日本だけでなくアメリカで見聞きした話も入っています。全部、表に出ていない話ばかりです。表に出る分は、自浄作用もあるし裁判沙汰にもなりますが、出ないものはね……。

 

――どうして牧師になろうと思いましたか。

 よくある話かもしれませんが、中高生のころからぼんやりと考えていました。そして大学生になって明確に意識するようになり、数年働いた後、神学校へ行って牧師になり、二つの教会を経験しました。神様と教会にお仕えすることで、結果的に社会にも貢献できればと思っていました。

 

――具体的にはどんな「失敗」を経験されましたか?

 一般的に言われるのは、お金・女性・名誉の問題が大きいですが、個人的には、そのどれでもありません。神学校のときに、ある教授が「信徒さんたちは、あなたの頭が悪いこと、性格が悪いこと、顔が悪いこと、説教が眠いことは忍耐してくださる。でも、金と性と名誉欲での失敗は許されない。辞めるしかない」と言っていて、なるほどなぁと思いました。

 

 私の場合はまず、牧師という仕事と生き方を理解していませんでした。多くのプロテスタント教会において牧師というのは、教会的職務であると同時に、やはり世俗の仕事なわけです。ざっくり言えば、聖職でありつつ、「冠婚葬祭屋」でもあるわけです。そのあたりのバランスが取れなくなりました。

 

 牧師ですから、少ない時間を使って聖書も神学も学びます。学べば学ぶほど、牧師という職業に疑問が湧きました。積極的な理由はいくらでも挙げられますが、それでも、本当に牧師は必要なのかと考えてしまう。

 

 正教やカトリックのように使徒継承権があるわけではない。プロテスタントである以上は、最後は個人の聖書解釈と信仰の問題になる。そうなったとき、「どんな権威で偉そうに人前で話すことができるのか」と思ってしまいました。もちろん他にも理由はありますが、結果的には辞職したので、やはり「失敗」だったかなと。


 
――他の理由とは?

 たとえば経済的問題ですね。正直、生活保護を受けたほうがいいような待遇でした。牧師館があり、独身なので何とかやっていられましたが、月に1万円も謝儀がないこともありました。牧師になって3年目だったか、歯の治療に2万円かかると言われて、もちろん払えない。

 

でも、預かった委員会関係の封筒には2万円入っている。みじめで泣きたくなりました。でも「兼業は困る」と言われたこともありますから、本当に困りましたね(笑)。

 

 つまり、失敗は、自分の限界をわきまえていなかったことです。どれほど献身の覚悟があって体力があっても、やはり人間は弱いですから無理が続くと持ちません。自分が耐えられる生活の限度を知っておくことは重要です。それでも教会に行き倒れるようにして来る人には、風呂を沸かし、食事を与え、お金もあるときには与えましたよ。神様は与えてくださる方ですから。

 

――人間関係はいかがでしたか?

 これも一般的にですが、自分の年齢の前後15年世代が、その牧師の適切な牧会範囲だと言われています。そういう意味では、お年寄りへの牧会は難しいところがありました。たとえば、年に一度、総会にしか来ないし、来ても世相と教会批判の演説をしたいだけの方がいました。さすがに長いので15分待って、話を切り、議題を進めたら怒鳴り散らして暴れる。

 

 信徒さんも「宣教師時代から来ている人なので」と言って大目に見てしまう。いろいろありましたが、結果的に、その人は来なくなりました。

 

 または、ご本人も私も当時は気づいていませんでしたが、教会役員さんの痴呆が始まっていて、いきなりキレることがありました。礼拝前の祈りの時間に、突然怒鳴られ、祈ることもできず伝道メッセージをしたことがあります。でも、ご本人は覚えていないんです。誰も責めようがないですが、でもシコリが残ってしまいます。

 

 私の失敗は、そういうさまざまな人間関係の歪みを、真摯に神のみ前に祈るだけで処理できなかったことにあります。同労者がいなかったわけではありませんでした。でも、状況は各人によってずいぶん違いますから、やはり孤独でした。

 

――教団組織との関係は?

 これは人によると思いますが、教団・教派・教区との関係は良い場合は大きな助けであり励ましです。しかし、そうでない場合は、ただ労力を削られてしまうだけになる。たとえば、聖公会や改革派などの教派では牧師の役割が、割と明確です。しかし、合同教会である日本基督教団や「福音派」、単立教会などでは教憲教規があっても、良くも悪くも自由裁量の幅がある。

 

 つまり、組織として求められている牧師像と自分が求めている牧師像、さらに教会や一般社会が求めている牧師像というのは、それぞれに違うわけです。そのあたりをどう咀嚼し、教会的な組織運営の中でやっていくのか悩みました。私の失敗は、組織内政治をうまく立ち回れなかったことでしょう。

 

――そうした失敗を事前に回避することは、やはり難しいのでしょうか?

 牧師が聖書を学び続ける環境がないことが問題かもしれません。若いうちはいいんです。心も体も充実していて説得力がある。しかし、老化して、そういう説得力を失うときに、人間のことばが問われてくる。本当の意味で、神のことばが生きてくる。でも、聖書を学ぶことをやめた牧師は、結局、経験と権威だけに乗る喚く老人になってしまう。

 

 プロテスタントにとって原理的なこと、神と人のことばを真摯に汲み取ること、他者と正面から向き合うことがあれば、多くの問題は回避できるかもしれません。聖書は、神の創造と贖罪の原理、完成を目指すことばです。人間が人間であることを諦めなければ、違うのかもしれません。組織の変革は、やはり人間が変ることからしか始まりません。

 

――神学校の人事担当者が、牧師としての資質について悩みは尽きないとうかがったことがあります。

 そもそも神学校では必要最低限のことしか学べません。自動車教習所と同じです。

 

実践知は、現場に出て身につけるしかない。事故もあるでしょうが、教会は和解の福音の起点です。そういう意味で、教会が牧師を育てる態度は必要でしょうね。

 

 牧師という職業・生き方への向き不向きというのは、本当は誰にも言えない。牧師の生活も説教も、お仕えする教会に最適化されますから、教会の数だけ、そして今はまだ教会に来ていない人の数だけ、牧師の在りようがある。そういう意味では、傷ついた癒し人や変り者がいてよい。主イエスもそうでした。しかし、今は教会にも社会にも、そういう余裕がないのかもしれません。

 

――また牧師をしたいですか?

 いいえ、したくないですね。たいへんな仕事ですから。辞めた後、年齢が年齢ですので、派遣でも雇ってもらえず、今は深夜の工場と夕方の皿洗いをやっています。

 

ですから、夕方や早朝に礼拝をしているカトリック教会に出席しています。静かな信仰生活ですね。もう結婚も諦めています。きっと路上生活者になるでしょう。なんとか死ぬまで健康に働けたらと思っています。

 

 ただ、教会に来られない人たちや社会の「底辺」と呼ばれる人の気持ちが分かるようになったことは良かったですね。本当に神様に感謝しています。
 
――現役の牧師や、これから牧師になる人々へ伝えたいことはありますか?

 本来ならば、失敗し辞めた人間が言えることは何もありません。ただ、こちらへ行くと失敗するという事例にはなるかもしれません。


 私が牧師を辞めた最大の理由は、信徒を愛していないと思ったからです。神のみ前に言い訳できないなと。次に、経済的にも生活に限界が来ていたこと、それ故、自殺まで考えるようになったことです。

 

 あとは組織の問題です。「神の愛」「ゆるし」という麗しい言葉による不義の虚飾に耐えられなくなりました。ですから辞めた。10代のころから始まって約30年近く費やした仕事は失敗でした。ただ、これは私の場合です。

 

――話しにくい貴重なお話をありがとうございました。

 

【取材後記】
 あまり公に語られることは少ないが、神学校の在学中に挫折を経験し、進路を変える学生や、牧師から転職し、一信徒として過ごす人も少なくない。その意味で、牧師を辞めることは一概に「失敗」とも言えない。

 彼はひとしきり話し終えると、「今晩も仕事がありますので、そろそろ」と立ち上がり、力ない笑顔で雑踏の中に消えていった。国内と海外の神学校を出て、周囲からは将来を嘱望されたという。彼の場合は、来し方を冷静に振り返り、「失敗」として受け入れることができていたため、話を聞くことができた。しかし、この「失敗」の原因は本人だけの問題なのだろうか。取材班は、ただ黙って彼の背中を見送った。