人を傷つける「犯した罪」に対して悩み苦しんでいるクリスチャンたち | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

クリスチャンになっても、人を傷つけてしまったり、神様や人を裏切る行為をしてしまうことがあります。その「犯した罪」に対して悩み苦しむわけですが、その苦しみをインターネットなどのクリスチャングループや信仰者に相談しているのをよく見聞きします。

すると「泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12章15節)」から、いっしょに泣いてあげることによって、その苦しみが楽になればという信仰を行なう人たちや、

「神様は万事を益と変えてくださるんだよ」と優しく慰める人たち。

「神様はどのような苦しみの時も私たちを慰めてくださる。こうして私たちも自分自身が神様から受ける慰めによって、苦しんでいる人たちを慰めることが出来ると第二コリント1章4節に書いているでしょう。だから元気を出して!苦しむ人たちを慰めるために用いられるのだから、私たちも祈って支えているのを忘れないで、ファイト!」と励ます人たちもいて、

「犯した罪」に悩み苦しんでいるクリスチャンを慰め、励まして元気づけるのです。

しかし、傷つけられた立場の人たちが見聞きすると、その犯した罪に対する信仰に失望します。

「犯した罪」が「万事は益となる」
「犯した罪の苦しみ」が「どのような苦しみの人も慰めることが出来るように用いられる。だから元気を出そう」というキリストの教えなら失望するという声は多いです。
まだ世の中の教えの方が「犯した罪」に対して厳しいのでマシでしょう。

聖書の信仰者の中で「犯した罪」に対して悩み苦しんだのは「ダビデ王」が有名です。
ダビデ王は人妻バテシェバと不倫・姦淫をして、彼女が妊娠したので、罪を隠蔽するために夫のウリヤを殺しました。

預言者ナタンはその罪に対して諭すと、ダビデはナタンに言った「私は主に罪を犯しました」
ナタンはダビデに言った「主もまた、あなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行ないによって大いに主を侮ったので、あなたに生まれる子供は必ず死ぬでしょう」

その時、ダビデが神様へ祈ったのが詩篇51篇と詩篇32篇です。
「神よ、私を憐れんでください!御慈しみをもって!深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください!。。。神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ!あなたは侮られません!」とへりくだるだけでした。

「犯した罪」に対して、預言者ナタンや信仰者たちと一緒に泣いて、苦しみを楽にさせようとしませんでした。

この苦しみが益になるとか、苦しむ人を慰められるように用いられると考えませんでした。
ただ「神へのいけにえは打ち砕かれた霊、悔いた心」とへりくだりました。

「キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」第一ペテロ2章24節

神に犯した罪を告白し、打ち砕かれ悔いる心からへりくだり悔い改めると、神はすべての罪を赦してくださいます。

ダビデは「いかに幸いなことでしょう!背きの罪を赦され、罪を覆っていただいた者は!。。。
私は絶えまないうめきに骨まで朽ち果てました!。。。私は言いました「主に私の背きの罪を告白しよう」と、その時、主は私の罪と過ちを赦してくださいました」

このような信仰のダビデを神様は愛されました。

「犯した罪」に対して、慰めや励ましの御言葉をあてはめる信仰ではないのです。

「犯した罪」に対しては、ただ神様に告白して悔いた心から悔い改めるという「へりくだった信仰」の者を神様は憐れんでくださいます。

「私の子供たち。私がこれらの事を書送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯したなら、私たちには御父の御前で弁護してくださる方があります。それは義なるキリストです。この方こそ私たちの罪のための、全世界のための なだめの供え物なのです」第一ヨハネ2章1、2節